「ドイツのクリスマス」講演会無事終了

三澤洋史 

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角皆君に久し振りに会いました
 11月3日の「魔笛」千秋楽公演の後、僕は久し振りに高校時代の親友、角皆優人(つのかい まさひと)君と会った。
 彼のことは以前この欄でも紹介したが、日本におけるフリースタイル・スキーの草分け的存在だ。彼はスポーツマンには珍しく、文学、音楽にとても造詣が深い。僕たちは高校時代からそうした芸術を通して深い関わりを持っていたのだ。

 今回の集まりで角皆君が一番望んでいたことは、僕をクラシック・ジャーナルという雑誌の編集長である中川右介(なかがわ ゆうすけ)氏に会わせることだった。僕は中川氏のことは、彼の著書である「カラヤン帝国興亡史」(幻冬舎新書)や、「巨匠たちのラストコンサート」(文春新書)などで知っていた。特に「カラヤン帝国興亡史」では、よくここまでいろいろ調べ上げたなと感心していたし、何よりカラヤンに惹かれてベルリンにまで行った僕としては、中川氏もカラヤンに興味を感じていることに注目していた。だから今回、直接お会いしていろいろお話しすることはまさに願ってもないことだった。
 ところが角皆君はそこにさらに興味深い人物を二人ほど呼んでいた。ひとりは遠山さんという武道家。もうひとりは天山(てんざん)さんというヒーリング音楽の作曲家。詳しいことは門外漢なのでよく分からないが、なんでも角皆君は自分のスポーツマンとしての体調管理の必要性から運動学を学び、さらに合気道などの古武道に興味を持っていったという。その時点で彼の人生の舞台に遠山さんや天山さんなどが登場するわけだ。
 そんな人達の間を飛び交うお話しはとても面白かったのだが、あまりにいろいろな分野の人達がいるので、こっちへいったと思ったら、今度はあちらに話が飛び、最後にはごちゃごちゃになって終わった。でも久し振りにめちゃめちゃエキサイティングな体験をした。
 そうした中で中川さんと話してみたが、とても集中できる状態ではない。中川さんは、僕や角皆君より(僕たちは同級生だからね)5歳くらい若いが、物心ついた時に最も影響を受けたカラヤンをはじめとするアーティスト達が共通だ。

 帰り際、僕は中川さんに、
「もっとカラヤンの話を集中してしたかったですね。」
と言って別れた。
 そうしたら中川さんもいろいろ思うところあったのか、後日角皆君を通して、カラヤンの話題で僕と角皆君と中川さんの三人で対談をやり、うまくいったらそれをクラシック・ジャーナルに掲載したいと言ってきてくれた。
 ヤッホー!カラヤンに関してだったら、僕もいくらでもしゃべれる。でもあまりしゃべりすぎてボツとかなるかも知れないので、今の時点ではオフレコということにしておいてね。

「魔笛」
 新国立劇場では「魔笛」公演が無事終わり、「ヴォツェック」の立ち稽古が進んでいる。「魔笛」では外人キャスト達に混じって日本人キャスト達が大活躍だった。その中でベスト2は、夜の女王の安井陽子(やすい ようこ)さんと、ザラストロの松位浩(まつい ひろし)さん。安井さんはオケ付き舞台稽古までは無理しないで軽めに声を使ってコロラトゥーラを自由自在に歌っていたが、本番になったら豹変した。コ、コワイよ、この夜の女王!これも計算済み。う~ん、さすが!
 一方、松位さんの声の素晴らしさには唸ったね。こういうのを日本人離れというのだな。彼は関西の人で、テノール歌手の畑儀文(はた よしふみ)さんと仲が良いそうで、たまたま僕のホームページを読んでいて僕が関西で畑さんと一緒に食事したことを知り、とても喜んでくれた。体も大きいが人間的にもやさしくて大きい人だ。
 また、脇役ということになってしまうのだろうが、弁者をつとめた萩原潤(はぎわら じゅん)さんは重要な役所。血気盛んなタミーノをいさめるアコンパニャートのレシタティーヴォは秀逸だった。弁者は、第二幕冒頭では、ザラストロの方針に疑問を抱くキャラクターを演出家ハンペ氏から要求されている。
 三人の侍女、安藤赴美子(あんどう ふみこ)さん、池田香織(いけだ かおり)さん、清水華澄(しみず かすみ)さんのアクの強いコンビネーションや、手前味噌になるけれど、全員合唱団のメンバーである前川依子(まえかわ よりこ)さん、直野容子(なおの ようこ)さん、松浦麗(まつうら れい)さんの三人の童子の水も漏らさないアンサンブルなど、新国立劇場の内部とも言える歌手達の成長ぶりが嬉しい。ちなみに安藤さんと清水さんはオペラ研修所の卒業生。
 1998年に初演されたこのミヒャエル・ハンペ演出の舞台は宇宙的で夢があっていいな。また何度もやりたい作品だ。僕も初日の前に紹介記事を書ければよかったのだけれど、なかなかそうもいかなかった。というのは、合唱団が尼崎「蝶々夫人」公演や午後のコンサート、あるいは読響定期の出演などでバタバタしていた間に、劇場では平行してソリスト達の立ち稽古が進んでいたわけだ。
 「魔笛」は、合唱団にしてみると独立した出番や裏コーラスばかりなので、音楽稽古さえきちっと出来て暗譜を完了さえしていれば、本番直前でみんなに合体すればいいのだ。だから直前までソロ歌手達と密に交われなかったので、全体像もよく見えなかった。とはいえ、心配ご無用。合体してから本番までの間に、全体像の中に溶け込む努力は最大限しているのだ。こういうところもオペラ劇場のノウハウのひとつ。

「ヴォツェック」
 さて、「ヴォツェック」だが、僕は不思議と「軍人たち」の時のようなマイナス波動を「ヴォツェック」からは受けない。それどころかかなり楽しい。言っておくが、僕が現代音楽嫌いと思う読者がいたらそれは大きな誤解だからね。もともと無調音楽に抵抗感があるわけではない。ただね、無調音楽にマッチする題材というと、愛と勇気の物語という風にはあんまりならなくて、どうしても殺伐とした内容になり易いのだ。いや、殺伐でもいいのだよ。大切なことは、その作品を通して何を言いたいのか?作者はどうしてこの作品を世に出したのかというモチベーションの問題。ここに必然性が感じられないと、僕はそんな芸術は人類にとっていらないとさえ思ってしまうんだな。

 「ヴォツェック」という作品にはアルバン・ベルクの魂の波動が感じられる。それがマイナス波動でないことが、僕がこの作品を評価する第一の原因。それと、僕が好きなのは、ベルクはきちんと自分の書いた音楽を耳で聴いている点だ。そして「良い音」を選び出している。
 考えてもごらんよ。調性音楽においてだって、1オクターヴの中の12の構成音の内、どれを使っても可能だけれど、きれいな順列組み合わせとそうでないものがあるだろう。作曲家はその中から美しいメロディーや素敵な和音連結や、何かを聴衆に想起させるモチーフを選び出すわけだ。そうしたことの集合が作品あるいは作曲家の価値を決めていく。
 でも無調音楽になって、「良い」「良くない」という音楽にとって最も大切な価値観を放棄したような作品に沢山出くわすのだ。それは僕には、音楽の自殺のように思われたし、現実問題、シェーンベルクがいくら十二音技法を編み出した時に、
「これでこの先百年のドイツ音楽の優位が保証された。」
とうそぶいたって、その後の歴史が証明している通り、人々が現代音楽から離れ、現代音楽は孤立し、所詮コップの中の嵐という感じになってしまったではないか。

 ベルクの音楽は、無調という手法を使っていながら、マーラーなどの後期ロマン派の爛熟した表現法とつながっている。たとえば第2幕第4場の酒場の場面で聴かれるワルツは、リヒャルト・シュトラウス「薔薇の騎士」のワルツのパロディーのようだが、それを彩る無調っぽい和声が淫靡な感じを出していてとてもいいな。ベルクのこうしたキッチュなロマン主義は独自の世界を持っている。彼の歌曲を聴くと、そうした特性は充分に発揮されているのだ。ここが禁欲的なウェーベルンなどと完全に袂を分かつところ。
 第3幕第1場。マリーが罪の意識と自らの死の予感を感じながら聖書のマグダラのマリアの物語を読んでいるシーンも美しい。彼女が聖句を読む時のフーガのモチーフは、「マイスタージンガー」第3幕冒頭ハンス・ザックスの独白を想起させる。聖句の朗読とマリーの独白が交互に出てくるが、独白には無調音楽があてがわれ、その対比が素晴らしい。
 また、ヴォツェックが池で溺れ死んでから終景までの長いオーケストラの間奏は圧倒的な表現力を持っている。ここはニ短調というはっきりとした調性を持つが、和声感は独創的だ。

 こうした随所の魅力的な音楽に身を任せていると、妻の浮気に耐えきれず、彼女を殺し精神錯乱の中自らも命を絶つという凄惨な物語も、神からstreng geteilt激しく切り離されて(第九の歌詞)荒野に放り出された“人間存在の根本的悲劇”として納得できる。
さらに終幕で取り残された子供を見る時、最も弱いところに悲劇のしわ寄せは集まるのだという真実も胸に迫ってくる。
「子供と動物には勝てない」
とはよくいわれる言葉だが、「蝶々夫人」と同様、こうした悲劇に子供を登場させるのは、ズルいと思えるほど、舞台では効果的だ。

 アンドレアス・クリーゲンブルク氏の演出もなかなか面白い。一昔前に流行った演劇的に色づけされた手法によっているが、変な読み替えをして音楽を壊したりするやり方ではなく、作品に真っ正面から向かっている感じがする。
 なにより合唱団や助演の動かし方がよい。リアルな人々ではなく、ヴォツェックの目に映った非現実的な群衆の姿が表現される。ヴォツェックがマリーに殺意を抱くところでは、舞台上に動かずに立っている助演達が手にそれぞれナイフを持っていて、代わりばんこにヴォツェックに近づいてきてナイフを渡す。それを投げ捨てるヴォツェック。しかしまた次の男がナイフを渡す。このように男達はヴォツェックの心の中の殺意を表現する。

 ヴォツェック役のトーマス・ヨハネス・マイヤーの演技が体当たりで圧倒的。
「マリー!マリー!」
と叫ぶところなどは、そんなに叫んだら発声に影響するじゃないのとこっちが心配するほど演技にのめり込む。クリーゲンブルク氏の演出では、ヴォツェックは徹底的に社会から抑圧された人間として表現される。フォルカー・フォーゲル氏の演ずる大尉や妻屋秀和(つまや ひでかず)さんの医師なども、ヴォツェックの上に君臨し、彼を抑圧する“権威”としての象徴的意味を持っている。

「ヴォツェック」の初日は11月18日水曜日。この作品は20世紀の代表的オペラとして知っていた方がいいような気がします。

「ドイツのクリスマス」講演会無事終了
 代々木の国立オリンピック記念青少年総合センターは、決して行き易いところではない。参宮橋から正門まで辿り着くのが一苦労だし、正門から国際交流棟を探していく間に一度は迷う。でも建物を探し当てて国際会議場に入ると、設備が抜群でプロジェクターも前方だけではなく、サイドにいくつもあるし、講演会をするには最良の環境を提供してくれる。

 講師の加藤浩子さんと対談形式で行う講演会も今回で二度目。対談だからひとりでやるのと違って予想不可能のところもあるのだが、同時にそこが面白いともいえる。内容に関しては、時間がある時に予稿集にまとめられればと思っている。
 結論として僕が言いたかったことは、ドイツの人達が、彼らの信仰生活の中でごく自然にクリスマス・オラトリオという作品に触れあっているように、日本人にもこうした生活に密着した関わり合い方をして欲しいということだ。
 一方加藤さんは、
「バッハの中には根本的に歓びがある。」
ということを強調しておられた。

 質疑応答も、それぞれの方達が、
「私の質問は的外れかもしれませんが・・・・。」
と遠慮がちに質問しながらも、どの質問も的外れどころか、とても良い質問ばかりだった。出席していた方達は、おそらくクリスマス・オラトリオという作品をより身近に感じながら帰ってくれたのではないかと信じている。こうした作品に対する多角的なアプローチは、地味だけれどやはりとても本質的で大切なものなのだ。

 僕は今後もテーマのある演奏会とそれに関連した知的アプローチの二段構えのプロジェクトを続けていこうと強く思った。二十一世紀のバッハというモットーを掲げ、東京バロック・スコラーズという団体を作ったのは、やはり僕の使命なのだと神様に言われているような気がした。

 さあ、12月6日の池袋東京芸術劇場での「ドイツのクリスマス」演奏会も、一ヶ月を割った。これから練習も最後のラスト・スパートに入る。僕も何度もやっている作品だけれど、新たな気持ちでこの作品に取り組み、これからある意味、禊ぎの時期に入る。この演奏会に賭ける僕自身の想いを演奏会に来てくれたみんなが感じてもらえるよう頑張りたい。

でも、音楽はそんなガチガチの決心など感じさせないようなしなやかな“癒し系”でいきたいと思います。




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