ヴォツェックの演出
この原稿がアップされる頃は、「ヴォツェック」のゲネプロが終わっている。立ち稽古の時から、今回の演出では「オテロ」の時と同様、舞台全体に水が張られているという話は聞いていたが、舞台稽古になって心底驚いた。
最初から最後までこのオペラは巨大な水槽の中で行われる。といっても水自体は約2,3センチの深さしかない。ソリストも合唱団も助演も長靴を履いてその水の中で演技をする。2,3センチとはいっても水の影響力は馬鹿に出来ない。歩く度に、あるいは演技する度に水が予想以上にジャブジャブあるいはピチャピチャいって結構うるさいし、はねも飛ぶ。水滴がオケピットに入らないかといつもハラハラする。
でも音に関しては、音楽と一緒だと不思議と水の音というのはあまり気にならないのだなこれが・・・・。自然音の強みか?これもいわゆる“ゆらぎ”のうちか?とにかく火も含めて自然素材というのは、舞台でも独特な存在感を持つものなのだ。
舞台上には前面だけが開いた巨大な箱が中空に浮いている。中に人が入ると部屋のように見える。ヴォツェックの家の中の場面はここで演じられる。家具のようなものは何もない。別の意味で無機的な空間。でもここだけは濡れないで済む。
加えて衣裳及びメイクが特徴的。かつらは男も女も禿頭に長い毛がチョビチョビっと生えている感じで、メイクは白塗り。灰色というか淡いベージュのコスチュームを着た人達のそれぞれの背中にコブが入って盛り上がっている。この異様な出で立ちに、女性の合唱団員達は、
「これでは公演に知り合いを呼べない。」
と嘆いている。
特筆すべきは照明。水底の床に仕込まれた照明器具から発せられ、水の中を通った光は、後ろの壁に、水が作り出す様々な波模様を映し出す。この効果は圧倒的だ。キャスト達は真っ暗な舞台後方からゆっくり登場してくることが多い。舞台後方を暗くしているのも意図的。なんだか幽霊が浮かび上がってくるようなこの効果も、照明だけでなく水の特性が助けている。
勿論「ヴォツェック」以外ではこんな水を張った舞台など決してやって欲しくないが、今回に限って言えば、この作品と水及び照明のコンビネーションは天才的アイデアだ。「ヴォツェック」は虚無的な内容のオペラだが、水を使用することによって、「殺伐たる」とか「荒廃した」とかいう乾いた感じのイメージではなく、その反対の「じめじめした」とか「うじうじした」とかいうイメージとなった。
錯乱したヴォツェックが水の中で溺れる。先週も触れた豊饒な音響に満ちたニ短調の間奏曲の中でヴォツェックの子供が現れる。そして亡くなったヴォツェックの遺骸の上に腰掛ける。しばらく放心状態。少年は一度去るが、ヴォツェックの遺骸は舞台上にそのまま残る。
それから他の子供達(NHK東京放送児童合唱団)がやって来て少年に丸めた新聞紙を投げつける。
「お前のかあちゃん死んじゃった!」
といじめるわけだ。子供達が去ると、少年はそれまで持っていた人形を投げ捨て、代わりに手に持ったナイフを見つめる。
この終幕で演出家は言いたいのだろう。こうした物語に終わりというものはなく、このような悲劇は人類にとって果てしなく続いていくのだ・・・。と。この少年が大きくなって第二のヴォツェックにならないと誰が断言出来ようか・・・と。
Ihr Fuhrt ins Lebens uns hinein,このゲーテの「涙とともにパンを食べたことのない者」という詩の後半が、これほど痛切に感じられた舞台はなかった。人間が人間である事が引き起こす悲劇。これを避けるためには、人間であることをやめるしかないのか。あの救世主をさえ十字架上の死へと追い込んでしまった深き人類の罪!
Ihr lasst den Armen schuldig werden,
Dann uberlasst ihr ihn der Pein,
Denn alle Schuld racht sich auf Erden.
あなた方は我らを生の中に送り込み
哀れな者が罪を犯すように仕向け
それから苦悩の中にほったらかしにしている
この地上では全ての罪は報いを受けなければならないのだから
(ゲーテ 堅琴弾きの歌より 訳 三澤洋史)
クリオラとメサイア
11月14日土曜日は、朝から東京バロック・スコラーズの練習。10時から13時までやって、その後新幹線に乗って浜松まで来た。17時から21時まで浜松バッハ研究会で「メサイア」のオケ付き合唱練習。最初日帰りで帰って来ようかと思っていたけれど、もう歳だからあまり無理をしないで浜松に一泊することにした。日曜日はすでに書いたように東京に帰って14時から「ヴォツェック」ゲネプロ。
東京バロック・スコラーズではクリスマス・オラトリオ、浜松バッハ研ではメサイアと、共にクリスマスにちなんだ曲を一日の内にやったが、同じ内容でも作曲家によって随分感じ方が違うものだな。特にルカによる福音書第2章8節からの、羊飼い達の前に天使が現れた有名な場面は、全く同じ内容だけにその違いが顕著に感じられる。
両方ともパストラーレ・シンフォニーから始まる。3拍子系の8分の12拍子で始まるのも一緒。でも、メサイアでは、バス声部がずっと長い音を伸ばしていて、いかにも牧歌的な感じがするのに対して、クリオラはバス声部も結構動きがあるため、パストラーレというよりバルカローレ(ゴンドラの舟歌)に近い感じがする。まあ、のどかという意味では大差ないか(笑)。
曲の構造はメサイアの方がずっとシンプルだが、どちらが曲として優れているかといったら、比較にならないほどクリオラの方がよく出来ている。というより。メサイアでは、ヘンデルはこの曲で別に勝負をかけようとは思ってはいないのだな。羊飼いの物語への単なる導入の意味しかないのだろう。まあ、パストラーレでこれほど凝る意味があるのかと問われると、返す言葉がない。それはつまり、バッハの作品全般についての問いでもある。やり過ぎってことかね。
物語を語るレシタティーヴォは、メサイアではこの場面はソプラノに全て割り振られている。一方、クリオラでは、福音史家のテノールが語るのだが、天使の言葉だけソプラノに歌わせている。おまけに受難曲のイエスのように弦楽器の伴奏がつく。天使のオーラを表現しているのだろう。
この部分だけソプラノでというのがかなりの違和感を聴衆に与える。何故なら、天使って女性だったの?と即座に感じさせるからだ。「フィガロの結婚」のケルビーノのように、成熟していない男性を女性に演じさせるというのは、オペラでも使う手だが、この場合は、天使には“性”というものはないというのが理由のようだ。
先日、12月の演奏会のソリストである藤崎美苗さんと合わせをしたが、この場面ねえ、彼女が歌うとマジヤバいよ。こんな天使が出てきて、
「恐れるな!」
と言ったら、恐れるどころか尻尾振ってどこにでもついて行ってしまいそう。だからあまり美しい声で歌わないでね。藤崎さん!って、ゆーか、みなさん、藤崎さんの天使を聴きに演奏会においで。
おい!どっちだよ!
「いと高きところには栄光、神にあれ」という天使の軍勢の合唱曲は、メサイアでは合唱部分がシンプルで、それを弦楽器の16分音符と二本のトランペットが天上的な彩りを添える。ところがクリオラでは、上行するバスの進行に乗って四角四面なフーガの主題が歌われる。天上的というよりゴツゴツしていて実にドイツ的な音楽だ。Ehre sei Gott in der Hoheというドイツ語の歌詞もドイツっぽいなあ。ビールが似合いそう!
ところで、この場面の言葉はカトリック教会によってミサに取り入れられ、有名なグローリアGLORIAの冒頭の文章となるわけだが、もともとラテン語の、
Gloria in excelsis deoという文章の意味はとても曖昧だ。このラテン語だけ読む限り、どうともとれるのだ。でもね、現代では原文のギリシャ語などの研究が進み、この文章の意味は、
et in terra pax
hominibus bonae voluntatis
いと高きところには栄光、神にあれ、ということで落ち着いているが、どうもバッハやヘンデルが生きていた当時は違っていたらしい。
地には平和、御心(みこころ)に適う人にあれ(新共同訳)
Glory to God in the highestクリオラはこう。
and peace on earth
goodwill toward men
Ehre sei Gott in der Hohe特にクリオラのマルティン・ルター訳のドイツ語では、三つ目のフレーズにundが入っていることとWohlgefallenという名詞が「満足、喜び」と訳せることから、「御心にかなう人に」と平和にかかる文章としては認識しにくいものとなっている。むしろFriede(平和)もWohlgefallenもsei(英語のbe動詞の接続法で、~であるようにという願望を表現する)にかかっているように訳されているので、
und Friede auf Erden
und den Menschen ein Wohlgefallen
いと高きところには栄光、神にあれという感じの三つの並列的な祈願として理解されていたようなのだ。その証拠にメサイアでもクリオラでも、言葉に従ってきっちり三つの楽想をもっているのだ。天の栄光を表現する堂々とした部分、それから平和をあらわす静かな部分、そして人の喜びを表現する部分である。つまりは“天地人”ということだな。
地には平和あれ
人には喜びあれ
Glory to God in the highest heaven現代独訳はこうです。
and peace on earth to those with whom he is pleased !
Alle Ehre gehort Gott im Himmel !バッハとヘンデル。どちらがより素晴らしいかなどということは安易には言えない。この二人は本当にタイプが違うから。でも癒し系という意味ではヘンデルに軍配が上がるかな。バッハもクリオラではかなり癒し系音楽を聴かせるが、癒しながらも聴いている人に考えさせ、謎解きをさせるのがバッハの悪い癖。ヘンデルは何も考えないで身を任せているだけで心底癒してくれる。
Sein Frieden kommt auf die Erde
zu den Menschen, weil er sie liebt !