さむっ!
寒いねえ。誰だ!今年は暖冬かもなんてほざいていた奴は!朝、タンタンの散歩をしていると、体に寒さが突き刺さってくる。今年の寒さは攻撃的だ。
酒屋の前で自転車で空を飛んで着地に失敗し、たんこぶを作って以来、新国立劇場まで自転車で行くことを妻から禁じられていたが、その間にこの寒波が襲ってきて、すっかり意気地がなくなってしまった。それに、寒い中で長い間自転車に乗っていると、体の活動している部分は汗かいて熱くなっても、同時に風にさらされてかじかんでくる部分が出てきて、体が熱いのだか寒いのだかわけがわからない。いまにも風邪引きそうな状態になってくる。その後、家に帰ってケア出来るならばよいけれど、新国立劇場の場合はそのまま練習をつけたりするんだからねえ。これは、いかがなものかと・・・・。そこで、春になって暖かくなるまで、府中の駐輪場に行くとか、休みの日にサイクリングするとかをのぞいて、極端な遠乗りは避けようと思った。
その代わり、新国立劇場の練習が終わった帰り道に、よく初台から明大前まで歩くようになった。劇場の裏の水道道路を環七まで歩き、それから甲州街道に合流する。井の頭通りを越えるともう明大前だ。だいたい40分の道のり。i-Podを聴きながら楽しくお散歩。
杏奈の誕生日
今日(12月20日、日曜日)は、次女の杏奈の誕生日。同時に杏奈がアルバイトしているフランス料理のレストランle petit restaurant Epiの開店3周年記念日だそうで、僕たち家族はEpiでお誕生パーティーを行う。
うふふふ。楽しみだな。今日は特別にいつもは飲まないような上等なワインを杏奈に誕生日プレゼントすると言って・・・実は自分で飲んでみたいのだよ。おほほほほ。メインは何にしようかな・・・やっぱ、定番の鴨のコンフィConfit de Canardにしようかな。むひひひひ。その前にやっぱムール貝だな。へっへっへ。いや、今日はエスカルゴにしてみようか。ひゃっひゃっひゃ・・・・要するに娘をだしにして自分の欲望を満たそうとする親の卑劣な策略と言えなくもないな。
マイブーム~ベートーヴェン
演奏会が終わってi-Podからこれまで準備してきた曲目を消す瞬間というのがいいんだ。もう、バイバーイ!ざまあみろ!って感じ!それらの曲はけっして嫌いじゃないんだけど、その曲を暗譜するということはね、もう息をすればその曲が出てくるって感じで、本当にその音楽と自分自身が同化するのだ。だから、その曲を好きとかなんとかを通り越して、下手をすると「も~う、うんざり!あんたなんか二度とあたしの目の前に現れないでよ!」と言いたいくらいに昼も夜も寝ても覚めてもストーカーのようにつきまとうのだ。 それで演奏会が終わってファイルをi-Podから消してもね、しばらくは頭の中で鳴っていて困る。とっても困る。i-Podならばスイッチを切れば音楽は止むが、頭の中でひとりでに鳴る音楽はそもそもスイッチがない。だから他の曲をi-Podに無理矢理入れて、ガンガン聴いて、僕の頭から急いで追い出さなければいけない。こういうのって人には分からないよね。まるで他の誰にも見えない幽霊が目の前からなかなか消えてくれないという悩みと一緒だ。
「ドイツのクリスマス」演奏会が終わった時、僕のi-Podから数種類のクリスマス・オラトリオやブランデンブルグ協奏曲が全て消えて、全然違う音楽を入れた。でもね、僕の場合、例年だったらクリスマスが近いこの時期は、もっぱらクリオラがマイブームになっていたのだ。今年は聴けなくてさみしい。さみしいなんて言うくらいならば、聴けばよさそうなものだが・・・・いやいや・・・今年はもうクリオラだけはご勘弁を・・・。
最初はマイルス・ディビスやビル・エヴァンスを聴いてみたけれど、不思議と今はジャズを聴く気にはならない。何でだろうな?波があるね、こういうのは。特に理由は思いつかないのだが・・・・。ついでに入れておいたグリュミオーの弾くベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を何気なしに聴いたら、これが何故か良くて、気がついてみたら僕の元にベートーベンのマイブームが再び到来した。僕の場合、時々ベートーヴェンばかり無性に聴きたくなる時期が訪れる。今がその時らしい。
そのヴァイオリン協奏曲だけれど、コリン・デイビス指揮のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団がまた良い。トゥッティのジャン!と鳴らす和音が長過ぎる気がする他は、バランスも良く弦楽器も美しい。グリュミオーのヴァイオリンは、どの音も美しくしかも速いパッセージの刻み音が実に小気味良い。天真爛漫で歌心もとてもある。
ベートーヴェンは美しい音でなくてもよいとか、美しさはかえって邪魔になるとか、もっともらしく語る人がいるけれど、そんなことないぞお!音楽は楽音によって奏でるもの。その楽音は出来るだけ美しくないといけない。これ、原則!特にベートーヴェンは、あまり頑張って弾くと、どこまでもガリガリと汚い音になってしまうので要注意。
初台から明大前までの散歩の間にi-Podでベートーヴェンを聴く。先日はヴァイオリン協奏曲の第2楽章を聴いていたら、ベートーヴェンのこの曲に託した想いがひしひしと伝わってきて、思わず涙してしまいました。ひたむきで親密で敬虔で、何度聴いても飽きない。本当にいい曲だね。
で、ベートーヴェンがマイブームとなったわけだが、実は僕の家にあるベートーヴェンのCDの曲目はとても偏っている。いろんなジャンルがまんべんなく揃っているのはむしろ昔買ったレコード。CDでは第九ばっかりやたら多かったり、弦楽四重奏曲やマウリツィオ・ポリーニの弾くピアノ・ソナタなどはほぼ全曲揃っているのに、他のものは全然ないとかね。その中でたまたまあったオーケストラものをi-Podに入れた。
たとえば、ポリーニが弾いてカール・ベームが指揮するピアノ協奏曲第5番「皇帝」。オケはウィーン・フィル。この歳になってからあらためて気がつくのも変だけれど、ウィーン・フィルというのは本当に優れたオケだね。純粋なテクニックという意味では・・・うーん・・・どうなのかな・・・最高というわけでもないかも知れないけれど、団員全体にこういうフレーズはこういう風に弾くべしという文法があまねく行き渡っていて、音楽的な方向性がはっきりしている。弦楽器のサウンドはとびきり美しい。というか限りなく清楚なのだ。
フルートは、ピャアアアアと高速のヴィブラートをかけるベルリンフィルのツェラーなんかと違って、ソロの時でもヴィブラートは極端に抑えられ、和音を奏する時は完全にノン・ヴィブラート。ウィンナ・ホルンの響きもうっとりさせられる。ハンマーシュミット製のクラリネットの音も、クランポン製のような明るさの代わりに、ほの暗いロマンチシズムをたたえている。
まあ、オーボエはチャルメラみたいで好きではないのだけれど、これも「うちはこうです」と自信を持って吹かれると、「そうかな」と納得させられてしまうから不思議だ。何事もブレないで自信もってお出しするものには何かが宿るね。
ウィーン・フィルといえば、シュミット・イッセルシュテットの指揮する第2番と第4番の交響曲も素晴らしいぞ。特に第2番は、第1楽章のオケの推進力はまぶしいほど。第2楽章の内面からにじみ出てくる美しさはたとえようもない。第3楽章以降も生き生きとして溌剌。その中でも最大の長所は、あのちょっとしたニュアンスなのだ。
オケというのはあんなに沢山人数がいるだろう。感性って1人1人みんな違うから、インテンポで演奏している時は簡単なのだけれど、なにか表情やニュアンスをつけようとすると、まるでパンドラの箱を開けたように困難がのしかかってくる。みんなが全く同じように感じてくれることなんて不可能に近いから、長いだの短いだの速いだの遅いだのというはっきりしたものを離れて感性や趣味の領域に入った途端に混沌の大海原をさまよい始めるのだ。
で、だいたいはやり過ぎて野暮になってしまうか、どっちつかずの表現になってしまう。少なくとも、本当にセンスの良いニュアンスというものは指揮者がバトンテクニックで操ろうとしても絶対出来ない。指揮者のちょっとした目くばせのような動きに、楽員が自分の感性で反応し、それが何かの加減でたまたま一致した時に、まさに百年に一度の皆既日食のようにあっさりと出来ちゃったりする時があるが、そんなことは本当に稀なのだ。
それがこのCDで見られる。このほんのちょっとついている表情の趣味の良さが、ウィーン・フィルから出ているのか、イッセルシュテットから出ているのか分からないけれど、恐らく両方なのだ。こういうのがいいね。とどのつまりはやっぱりイッセルシュテットの功績だろう。こういうのを玄人好みという。
めくらやなぎと眠る女
村上春樹はノーベル文学賞をとってもいいと思う。
僕は日本文学の内容に飽き足らない。日本文学は一般的にテーマが浅く、人間存在の根源にまで迫っていない。だから昔から外国文学に傾倒している。特にキリスト教に興味を持ち、クリスチャンになってからは、自己と神という絶対的存在との対峙がもたらす緊張的関係を芸術一般にも求めるようになった。するとますます日本文学は取るに足らないように思われてきた。
でも外国文学にも不満はある。文章は翻訳になるので、作家本来の文章が味わえないのだ。ドイツ文学などは原書で読むが、やはりネイティブである日本語のようには、自在に“味わう”境地までにはいかない。文章を味わいつつ、内容的にも満足できる日本文学があればいいのになあとずっと思っていた。そこへ救世主のように現れたのが村上春樹の文学だ。
村上春樹の文学の面白さは、まず感性がとても西洋的。文章の作り方、運び方も西洋的。そしてテーマがこれまでの日本の作家のように、向こう三軒両隣といったチマチマとした日常の延長に留まっていないで飛翔している。とはいえ、ドストエフスキー文学のように大まじめに宗教的なテーマに取り組んでいるという感じではなく、もっとトンでいて、それでいて魂の深い領域を探り当てている。
本屋で、装丁がちょっと変わっていてセロファンのようなカヴァーがついている本を見かけたので、何だろうなと思って手に取ってみたら、村上春樹の「めくらやなぎと眠る女」という短編集だった。いつも通り変な題名だ。僕はそれを本屋で買い、京王線の電車の中で一区間にひとつづつ短編を読む。
あきれるような文章の才能だ。以前にもシュール・レアリズムという言葉を僕は使ったが、ダリの絵が驚くほど克明なレアリズムで描かれているように、ひとつひとつの場面の描写が精細画のよう。村上春樹の文章の共通する特徴は、一度読み出したら止まることが不可能なほど読者を惹きつける。そうして惹きつけておいて(その効果を知っていて)確信犯的に突然突き放すのだ。そこにダイナミズムが生まれる。
ストーリーは、まともに進んでいるフリをしながら、あり得ないような展開をしたり、断片的なまま放り出されたり、解決を見ることなく突然終わったりして、あらゆる方法を使って読者を煙に巻く。まるで読者を煙に巻くためにだけ文学を書いているかのように。
でも、その文学の中には、常にある種の深層心理をかき回す要素があって、それに触れている僕たちは、自分でも驚くほど表現されている世界に同化する。一緒に孤独感を感じたり、ほほえんだり、怒ったり、なつかしく思ったり、落胆したり、ほっとしたり・・・・・。
たとえば、「貧乏なおばさんの話」という短編。
けれどもあなただって誰かの結婚式で、貧乏な叔母さんの姿くらいは見かけたことがあるだろう。どんな本棚にも長いあいだ読み残された一冊の本があるように、どんな洋服ダンスにもほとんど袖をとおされたことのない一枚のシャツがあるように、どんな結婚式にも一人の貧乏な叔母さんがいる。いるいる、と僕たちは読みながら思う。そんな風に、知らず知らずの内に貧乏な叔母さんに感情移入をさせておきながら、読者がここまで来たなという頃合いを見計らって、一気にぐいぐいと無理とも思えるストーリー展開に僕たちを導いていくのだ。
彼女はほとんど誰にも紹介されないし、ほとんど誰からも話しかけられない。スピーチを求められることもない。彼女は古い牛乳瓶みたいにテーブルの前にきちんと腰を下ろしているだけだ。
そう、完璧さがまるで氷河に閉じこめられた死体のように、叔母さんの存在の核の上に腰を下ろしている。ステンレス・スティールで作ったみたいな立派な氷河だ。おそらく一万年の太陽にしかその氷河を溶かすことはできないだろう。しかしもちろん貧乏な叔母さんが一万年も生きるわけはないから、彼女はその完璧さとともに生き、その完璧さとともに死に、その完璧さとともに葬られることになる。上の文章をいきなり読んで誰がそこに感情移入出来るだろう?だが、先の文章で貧乏な叔母さんにすでにシンパシーを持ってしまっている読者は、こんなヘンチクリンな文章をも抵抗なく読めてしまうのだ。つまりは村上春樹は、読者を完璧にマインド・コントロールしているというわけだな。
土の下の完璧さと叔母さん。