1月13日(水)
山陰といえども中国地方は東京から来ると南の方に来ている感じがするのに、こんな吹雪のように舞い狂う雪や、日中でも零度以上になることがないこの気温は一体どういうことだ。これではまるで東北地方に行っているようだなあ。
島根から鹿野小学校に行く途中、あるいは鹿野小学校から米子まで行く途中で海岸線に出た。その衝撃!それは太平洋とは全く違う荒涼たる海の風景。荒々しい波が沖合からどんどん押し寄せてくる。そのうねりの高さもさることながら、それが岸壁にぶつかってダイナマイトの爆発のように砕け、飛び散る波のすさまじさ。ああ、日本海!演歌が似合う!
文化庁主催の「本物の舞台芸術体験事業」すなわち小学校のスクール・コンサート第一日目の鹿野小学校は楽しかった。新国立劇場合唱団のみんなは、初日なので緊張していたが、それだけに音楽はきちんとしていたし、オペラの部では演技も歌も適当にハジけてよかった。
「カルメン」の「終幕の合唱」では、子供達があらかじめ作っておいた旗を、合図に合わせて振ったり、紙の花をエスカミーリォ役の大森いちえいさんに撒いたりするのが楽しかった。撒くというより、どちらかというとぶつけていた感じだったけれど・・・。公演が終わって退場する時に、児童のひとりが僕に向かって、
「この旗を是非受け取って下さい。」
と言って旗を渡してくれた。その目があまりに真剣なので、ドキッとした。
終演後、校長先生や担当の先生方、それに子供達がバスの所まで見送ってくれた。嬉しかった。
鹿野小学校から米子までの道沿いに巨大な風車が何台も立っていた。風車といっても勿論ドンキホーテの時代のクラシック・スタイルのものではなくて、近代的な流線型のものだ。これは雪に埋もれた寒村や海辺の風景から妙に逸脱して、まるであってはいけないものがタイムスリップして突然現れたような、未来風でシュールな眺めだった。
米子に着いた。米子の街は降りしきる雪の中。ホテルは駅の横ですぐ前にSATYが見える。でも合唱団員達は冗談半分に言う。
「この吹雪ではサティに着く前に遭難してしまうかも知れないね。」
1月14日(木)
僕にとってはいつものことなのだが、7時にホテルを出て一時間の散歩をしようとして歩き出した。ところが雪が容赦なく降っている。気温も寒い。傘を差していてもほとんど役に立たない。米子城の城跡に行こうと思っていた。でも城跡のある丘を登り始めようとしたら、つるんとしたまっさらな処女雪で僕の前に誰も登っていない。歩き出してみたが、積もったまんまの雪は深く、靴の上まで迫ってきて中に入ってきそう。僕の靴はただのウォーキング・シューズであって長靴ではない。雪はますます激しく降りしきり、風も強くなってきて僕の全身を舐めるように背中といわず腰といわずまとわりついてくる。僕の全身はみるみる白くなってきた。こ、これは下手をすると冗談じゃなくて遭難するかも知れないと、オーバーに言うと生命の危機を感じた。
そこで城跡のある丘はやめて海の方に行こうと思った。ところが海の方に向かった途端、風が猛烈に吹き付けてくる。とても前に進めないし、ここでも生命の危機を感じた。そんなわけで、あっけなく45分コースに切り替えてそそくさとホテルに帰ってきた。いやあ、まいった。
でも、こんな時、Gore-Texゴアテックス素材はその威力を発揮するんだ。その防水性と防寒性は素晴らしい。僕の場合、上半身はゴアテックスのジャケットだが、下は普通のジーパン。ジーパンは雪がまとわりつくと、その時は分からないが、後で体温でその雪が溶けて全体が湿ってきて、それが熱を奪うようになるのだ。でもゴアテックスは完全に水分をはじくので濡れない。濡れないということはイコール体温を下げないということなのだ。
このThe North Face製ゴアテックス・ジャケットは、買って最初に着た時にはダウン・ジャケットなどと比べて特別暖かいとは感じなかったので、
「なんだい、値段ばかり高くて・・・・。」
と失望したのだが、寒いところで運動して初めて威力を発揮するものなのだということが分かった。どうやら運動によって体の内部から発散する水蒸気は外に出してくれるようなのだ。だから中で蒸れないで、外の寒さや水分からは守ってくれるという驚くべき素材なのだ。まあ、東京の街で普通に着ていては、その価値はよく分からないよね。
散歩から帰ってきて、ホテルの朝食バイキングで暖かいコーヒーを飲んであたたまる。気がつくと鼻水が知らず知らずの間に出ている。ふーっ、山陰の冬をなめたらあかん。
今日は八橋(やばせ)小学校。大型バスは、八橋駅から学校まで道が狭く急勾配に加えて雪のため入らない。そこで急遽八橋駅から学校までの間は先生方の車やタクシーでのピストン送迎となった。車を待っている間に合唱団員達がバスの外で雪合戦を始めた。全く元気な連中。究極のオプティミスト達。なんて愛らしいんだろう。僕はこういう人達大好きだよ!
八橋小学校の子供達もおとなしくよく聴いてくれた。というか、みんなどうやら新国立劇場合唱団の声にぶったまげている間に終わってしまったという感じかも知れない。
僕は、今回の九つの小学校の校歌を新国立劇場合唱団のために特別に編曲した。これを各公演の最初に演奏する。そのアレンジのために年末年始が全て使われた。考えてみると僕って空いている時間には年がら年中こんなことをやっているなあ。でもね、ハーモニーもちょっとだけ凝って、合唱団の声を披露するために高い調性に移調して、校歌が輝かしく響くとね、ちょっと誇らしい気持ちになるのだ。自分の書いた譜面から実際に音が出る瞬間の喜びは、作曲者や編曲者でなければ分からないだろうね。
夜はピアニストの小林万里子さんと合唱マネージャーのTさんを誘って松葉ガニを堪能。冬の山陰には焼酎がよく似合う。ああ、血糖値!
1月15日(金)
今は米子から岡山に向かう特急やくも号の中。僕は浜松に向かっている。みんなが二日間の休日を楽しむ週末、僕は浜松アクトシティ中ホールで「メサイア」演奏会を振る。今日は夕方までに浜松に着いて二泊する。明日は午後から練習なので、午前中は数日間分の洗濯をしたりいろいろ細かい用を済ませようと思う。
今日の午前中は皆生(かいけ)養護学校の公演。ここは知的障害だけでなく身体障害や運動障害の子供達もいて、車椅子のまま見ている子供達や、ベッドに横たわったまま器具をつけている子供達もいた。
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。うーん、この聖書の言葉はなかなかシビアですね。
(ルカによる福音書12章48節)
1月17日(日)
今は、新山口へと向かう「のぞみ」の中。浜松のバッハ研究会「メサイア」演奏会が無事終わり、京都風に言えば「ほっこり」した気分。演奏会が午後6時前に終わり、打ち上げにちょっとだけ出たが、食事やビールに口をつける間もなく、団員達から、
「一緒に写真を撮って下さい。」
と頼まれたり、サインを頼まれたり。それから、
「三澤先生からスピーチしてもらいましょう。」
となって、感想を述べさせられ、続いてソロの歌手達が話しているのを聞いている内に電車の時間が迫ってきてしまった。
こういうのは指揮者の運命だから、食事が出来なかったり飲めなかったりというのを取り立てて残念には思わないのだけれど、演奏会終わった後の打ち上げははずせないものなのに、演奏だけして「やり逃げ」するのは淋しいもんですな。ここのところ何かそんな展開が多い。
新幹線内で一杯飲んでもいいのだが、落ち着かないし酒もうまくないので、とりあえずお弁当だけ食べた。防府のアパホテルに着いてからちょびっと「ひとり打ち上げ」といこうかと思う。
いろんなところで書いているけれど、僕は「メサイア」を指揮していると本当にしあわせな気分になる。ヘンデルって、なんておおらかで寛容で温かい人なのだろう。それだけにバッハのような孤高の高さというものはない。でもこれはこれでいいのだ。サービス精神旺盛で、これ以上フーガを凝るとお客がついてこないだろうと思う頃にはさっさと和声音楽になっている。でも媚びているわけではない。お客に優しいこと。それがヘンデルの作風でありポリシーなのだ。
ソリスト達はみんな良かったけれど、特に國光とも子さんのソプラノは、本当にヘンデルという作曲家の癒し系キャラクターの神髄を表現した演奏だった。それを聴きながら、僕は音楽というものが持つ“癒しの効果”を感じていた。傷つく心を音楽が癒せるとしたら・・・閉じこもった心の殻を音楽が開かせるとしたら・・・音楽というものは神が人間に与えた最も偉大な贈り物かも知れない。
皆生養護学校の後で、いろいろなことを突き詰めて考えながら浜松に来ただけに、僕にとって指揮者となった原点ともいうべき宗教曲のコンサートをここで体験出来たのはタイムリーだった。
僕が神から呼ばれ与えられているのは音楽。それ以外にはない。僕は音楽の中で生き、音楽の中で人格形成をし、音楽の中で様々な学びをしてここまでやって来た。僕が人に何かを与えられるとすれば、それは音楽を離れてはあり得ないのだ。
だから、僕がこんなにも楽しい思いをしてヘンデルの音楽を指揮することが、きっと世界を少しだけ変えている。そう僕は信じる。あとは神に委ねるしか方法はない。それ以外のどの生き方をしようともがいても、僕にはこれしか残されていない。それが僕の人生! 悟ったのか開き直ったのかよく分からないが、なんとなく今出せる結論のようなものが、この「メサイア」を指揮しながら見えてきた。僕は音楽の力を信じてこれから生きていく。神が、
「もうお前は充分頑張ったから、そろそろわたしの元に帰ってきなさい!」
と言うまで、僕は走り続けることをやめない。
さて、さしあたっては、明日からの残り6校のスクール・コンサートを全力で頑張ろう!と言っている内にもうすぐ新山口。それにしても山陽新幹線はやたらトンネルが多いな。