究極のオプティミスト

三澤洋史 

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究極のオプティミスト
 日本ワーグナー協会の講演会が終わって気持ちが楽になった。実際には準備した量ほど講演会で使わなかったが、そんなことはどうでもいい。講演会でも演奏会でもね、準備している時が一番楽しいのだよ。でもね、楽しいのと楽なのは同じ字を使うけれど全然違う。

 長女の志保が、僕がパニクって準備しているのを横目で見ながら言う。
「パパ、講演会さえ終わったらもう人生ハッピーって本気で思っているでしょう。」
「うん、そうだね。その通りだよ。」
「でも、終わってみると実際にはもう次の仕事が迫ってきていて、また追い立てられてパニックになるんだ。今度もそうだよ。」
「うん、そうかも知れない。でも、終わった後のことは考えないんだ。これが終わりさえすればハッピーなんだよ。」
「なんてお気楽!でも、そうやって本当は地獄のような毎日が果てしなく続いていくんだよ。パパの人生って。」
「うーん、そうは考えないんだ。それぞれ終わった時はハッピーなんだ。だからハッピーとハッピーの間に毎日がある。」
「うわっ、究極のオプティミスト!」

 確かに、ワーグナー協会の講演会が終わってその日はハッピーだったが、翌朝すなわち日曜日の朝、気がついてみたら、新国立劇場では火曜日から「愛の妙薬」の合唱音楽練習が始まることが判明!その準備は何もしていなかった。
 合唱練習はオケの練習とは違って、音楽的な準備さえすればいいというものではない。イタリア語を単語から調べ、それからそのフレーズでどの言葉を強調し、どの歌詞にどういうイタリア語的表現をつけていくべきかを吟味する。そこまでしないと最初の合唱練習に辿り着けない。だから結構時間がかかる。それを約二日間で行った。その最中はやはり死にものぐるいで、
「うわあ、間に合わない!」
とパニックになっている。やっぱり志保の言う通りだ。火曜日の午前中、
「今、パパに話しかけないでね。もうギリギリ生活だからね。」
と家族に宣言したら、志保が、
「駄目だコリャ。懲りない人生だ。」
と笑っていた。

 そんなにパニックになっていてもタンタンの朝の一時間のお散歩はきちんとして、10時半になると自分でコーヒーを挽いて淹れて家族にふるまう。偉いでしょ。タンタンは、この10時半のコーヒー・タイムに、おやつをついでに貰えるので楽しみにしている。不思議に思うのは、時々僕が勉強に夢中でコーヒー・タイムを忘れていると、10時半きっかりに、
「ワン!」
と吠えて催促する。時計も読めないのにどうして分かるんだろう?これは三澤家の中で最大の謎だ。犬の腹時計。誤差はわずか1、2分。

 ともあれ、「愛の妙薬」の練習はなんとか始まった。一方、「神々の黄昏」合唱練習は、暗譜のための最終音楽練習を経て、いよいよ立ち稽古に突入した。キース・ウォーナーのトーキョー・リングは、見かけは相当変だけど、中身はきっちり作ってある。ドラマの核心の部分を相当深くまで読み込んでいて、今流行の「置き換え」も、決して浅い次元で行ってはおらず、人間が人間を抑圧し陥れ、そうしながらお互いに破滅させ合っていく没落のドラマを冷徹に描いている。
 それぞれが流れに乗った今、ようやくパニックから離れた日々が戻ってきた。そこで僕は新しいことをいくつか始めた。

ひとりで盛り上がっているプロジェクトX
 まず始まったのは、残念ながら今ここで話すことが出来ないあるプロジェクト。仮にプロジェクトXと呼んでおこう。さる公的機関のさる公演のためのさる新作だ。それは、さる作曲家のさる作品を元にしながら、さる特定の年齢層の人達のために全く新しい作品として再構築するものだ。察しのついた読者は早くもニヤリと笑ったね。
 でも、まだ予算も何もついていないし、やれるかどうかも分からない。おまけにこれから作るんだから、まだ作品自体もないときている。見事に三拍子揃っている。つまりは何もないに等しい。でもね、作っている本人からしてみると、一人でめちゃめちゃテンション高く盛り上がっているわけよ。だから、
「今週は特に何もしていませんでした」
なんて、とても言えない。僕の頭の中は連日それで一杯なのだからね。

 「僕の前に道はない」という言葉のように、こうした創作活動は、取りかかってみるまでどんなものになるのか予想もつかない。とりあえずなんでもいいから何か作ってみる。これを「誘い水」という。つまらないと思えば、くしゃくしゃと丸めて捨てればいい。もっとも、今はパソコンで作っているから、丸めて捨てるわけにはいかない。
 で、何かその周辺でゴソゴソやってると、その内突然やって来るんだ・・・羊男が・・・・おっと、それは村上春樹の小説の話。本当は誘い水に誘われた“ひらめき”のこと。
さて、プロジェクトXでは・・・・来たよ来たよ!最初のひらめきがね。僕はちょっと有頂天になっている。これは結構イイかもよ。残念だなあ、今の時点ではこれ以上話せない。ううう・・・話したい・・・でも・・・話せない・・・・気になるでしょ・・・プロジェクトX。うふふふふ・・・・。

またまた村上春樹
 さて、ちょっとでも時間が出来るとすぐ取りかかる趣味は読書。読書は手軽でどこでも出来るからイイ。ここのところ村上春樹にハマッていることはすでにこの欄でも何度か触れたが、今回は比較的初期の「羊をめぐる冒険」という作品を読んでみた。いつも通りハジケていて、不思議な物語。

 読んでいて気がついたんだけど、村上春樹の作品には、いつもお決まりのシチュエーションや展開の仕方がある。それが村上作品を読む読者に、自己の内面へと沈潜していくきっかけを与えているのだ。たとえば、よく主人公は社会から隔離された場所に行って、そこである一定の期間ひっそりと過ごす。食料はたんまりあって生活に不自由しないが、下界とだけは完全に遮断されている。そしてたった一人になって自分を見つめる。こんな時、それを読んでいる読者も同じように自分を見つめるのだ。
 あるいは主人公は、これから何か行動を起こすのかなと思われる時に、よく寝てしまう。これもとても霊的インスピレーションを呼び起こす。ちょうどミヒャエル・エンデがモモで使った手法と同じだな。モモも一番切迫した時に一年間も眠ってしまうのだ。この眠るという行為がもたらすショックというか内面への効果は意外と大きい。
 小説のいろいろな要素がだんだん煮詰まってきて、飽和状態になった時に、羊男や幽霊などの不思議な存在が出現する。でも読者は、その出現に驚かないようにすでにうまく誘導されている。何が出てきても大丈夫という状態に読者を置いておくことは、見かけよりずっと難しい。だって、リアリティや整合性のない文章や物語の展開は、そもそも読者を惹きつけるはずがないのだけれど、そのリアリティと整合性が、今度は荒唐無稽なものの入り込む余地を奪うのだ。だから、あの変な羊男が出てきた瞬間に読者が、
「人を馬鹿にすんな!」
と怒って本を放り投げなかったとしたら、それはひとえに村上春樹の文章力の凄さ故なのだ。

 こうした様々なテクニックやアイテムによって、村上春樹の作品は読者を巧みに霊的世界に誘導している。本人はオカルトとかには全く興味がないと言っているが、嘘ばっかり・・・・。妻や友人の失踪・・・生活への軽い挫折感・・・旅・・・・ こうしたものを通して日常の硬い殻をやぶり、魂を自由にして飛翔させる。だから村上作品には、他の作家の作品には決してない魂の浮遊感を感じるのだ。

 ところで僕は最初に1Q84を読んだ時から感じているのだけれど、村上作品って児童文学になり得るテーマばっかり選んでいるよね。「モモ」が児童文学で「海辺のカフカ」がどうして児童文学でないのだろうと考えた時に、ははあと思った。村上作品に不必要とも思える性描写が執拗に出てくるのは、それを出さないと児童文学になっちゃうからなんだ。
というのは冗談です。でもちょっとは本質を突いているでしょう。

 しかしなんだねえ、村上作品ばかり読んでいると、魂の浮遊感はいいんだけど、トンでばっかりで疲れるねえ。だから次は少し離れて、もうちょっと地に足がついた文学を読みたい。今気になっているのはね、五木寛之の「親鸞」という本。本屋で見て、その内読んでみたいなあと思っている。「悪人がそのままで往生出来る」なんていう親鸞の思想は、とてもマトモとは思えないけれど、親鸞という人間にはとても興味があるんだ。何故なら親鸞はなんとなくパウロに似ているから。その話を書くと長くなるので、また次の機会に・・・・。

バルトークが好き!
 あとのマイブームとしては、i-Podで聴いているバルトークの「弦楽器、打楽器、チェレスタの音楽」。ピエール・ブーレーズ指揮のシカゴ交響楽団(Deutsche GrammophonPOCG-1942)。
 この曲は、バルトークの最高傑作のみならず、20世紀前半の最高傑作のひとつだ。冒頭のフーガがいい。このフーガ主題は、部分セリーと言って、12音を順番に巡るセリーではなく、ある区切った音域の中で全ての音を埋めていく音列の作り方だ。でも一度使ったらもうその音は使わないなどというのではなく、耳で音を選んで作られた格調高い主題。 前半の厳格な音楽のたたずまいが盛り上がって、その後チェレスタが入ってくると途端に情緒的になる。まるでバッハの中にいきなりラベルが舞い込んだよう。こうした対比がいい。曲全体を通して、バルトークの冷徹な論理性と自由なインスピレーションとの拮抗や、スマートな都会性と農民のエネルギーとの相克がたまりませんなあ。僕はバルトークが大好き!

パリの思い出に酔い痴れた三澤家!
 約一週間だけパリに旅行に行った次女の杏奈がおいしいワインや水牛のモッツァレラなどを買って帰ってきた。パリのおみやげそこで19日金曜日の夜は、三澤家ではプチ・パーティー。僕はどうもワインの味を口では言えない。Gevrey-Chambertinというブルゴーニュ・ワインは、舌にからまるタンニンの味がなんとも言えないのだが、まさになんとも言えないので、なんとも言えない。あはははは。

 杏奈はメイクの学校を物色しながら、かつて音楽学生として住んでいたパリを全然別の角度から眺めてきたという。いろいろ感慨深いものがあっただろうな。おびただしい数の写真を撮ってきたので、テーブルの上にノート・パソコンを広げて家族全員で見る。ああ、いつ見てもいいなあ、パリという街は・・・・。本当に街角のどこを何気なく撮っても絵になるよ。
 すると長女の志保がほろ酔い状態になりながら、
「ああ、行きたいなあ!すぐにでもそこに入れそう。パリは・・・・あたしの青春の全てが詰まっているのよね・・・・」
と夢うつつになっている。考えてみると志保は17歳になったばかりの時にパリに渡り、24歳まで住んでいたのだ。いろいろあっただろうな。その間僕も何度か行ったけど、僕の短い滞在期間でさえ、パリは様々な顔を見せてくれた。
 良い顔ばかりではなかったんだよ。ストライキにあってにっちもさっちもいかなくなったり、それに便乗してタクシー代をボラれたり・・・・本当に油断も隙もあったものじゃない連中がうようよしている怪しい街なんだ。パリという所は。無節操な若者達と、淫靡な中年達と、懲りない老人達がインモラルな体臭と口臭を毎日吐き気がするほど撒き散らしている街。本当にどうしようもない街。

 でも、それがいいんだよなあ。腐る一歩手前の果実の甘さなんだ。ドイツの街にはないんだな。このヤバイ魅力。その晩は、みんなで酔っ払ってパリの雰囲気に浸ったってわけよ。




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