ダンの指し示す手の向こうに・・・

三澤洋史 

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一年中スキーをしたい!
 スキーに行かなくなって、何となく張り合いがなくなってしまった。まだまだ気温の差が激しく、寒い日は冬そのものとも思えるが、桜のつぼみはほころびかけているし、もう世界は春モードに入っている。
 僕の自転車通勤も復活し始めた。国立の自宅から約25Km離れた初台まで往復すると50Km。1時間半の道のりの往復、すなわち3時間。なかなかの運動量だ。疲労感はスキーを正味4時間やるより大きい気がする。

 考えてみるとスキーというのは自転車と違って自分の筋肉で走るわけではないのだ。一番の労働量はリフトという機械が負っていて、実際に滑る原動力は重力のみ。それでいてあのスピードを体感できる。
「着陸とはコントロールされた墜落である」
と言ったのは、確か飛行機も操縦する作家のサンテグジュペリではなかったかと思うが、スキーもまさに「コントロールされた滑落」なのだ。だからコントロールする筋力や体力が要求されるのみで、しんどさを避け、楽しさのみを“いいとこ取り”しようとする、なかなかズルいスポーツというわけだ。まあ、だからリフトにお金がかかるわけだし、スキー場の経営者はそれで潤っているわけでもある。
 自転車はスキーよりもトレーニング性が強い。筋肉を動かす喜びというものはあるのだが、スキーのスピード感を知ってしまった後だと、自転車のスピードは中途半端でまだるっこい。いっそのことモーターをつけるか?つまりはバイクの免許でも取ったろかとも思うが、それでは何のために乗っているのか分からなくて本末転倒である。もともと血糖値を下げるために始めたのだから、運動しなければ意味ないのだ。

 ああ!それにしても、自分の家の後ろに裏山があって、それが雪山で、一年中すぐにスキーが出来ればいいのに・・・・そうすれば、もう金輪際血糖値の心配なんて無用になる。しかしそれはプール付きの自宅を手に入れるよりもはるかに難しいことだな。

ダンの指し示す手の向こうに・・・
 ダン・エッティンガーの「神々の黄昏」公演が続いている。平日は平穏だが、どうやら週末になるとダンに対してブーを叫ぼうとあらかじめ決めている一群が来るとみえて、3月21日の日曜日に引き続き、27日の土曜日も、ブーとブラヴォーの激しい応酬が見られた。
 ダンといろいろ話したが、彼もちょっとは気にしているようだ。僕が、
「でも僕は君の音楽を信じているからね」
と言うと、例の天真爛漫な笑顔を見せて、
「ありがとう!」
と微笑んだ。

 新国立劇場合唱団は、「神々の黄昏」公演と「愛の妙薬」の立ち稽古の合間を縫って、ダン・エッティンガーの東京フィルハーモニー交響楽団常任指揮者就任記念コンサートの曲目であるマーラー作曲交響曲第二番「復活」の練習をしている。
 マーラーの音楽は、一見ドイツ音楽の衣をまとっているように見え、ワーグナーの延長上にあり、リヒャルト・シュトラウスと兄弟のように感じられるが、その実、全く独自の音楽であり、僕の個人的感想から言えば、西洋音楽と呼んでいいか迷うほど“東洋的”だ。
 テーマがベートーヴェンやブラームスのような意味で論理的に展開されているかというと、そういうフリをしているだけであり、マーラーはそもそも論理的展開のむこうにあるものを信じてはいない。彼の音楽の中にあるのは悠久なる時であり、はてしない空間であり、何も事件が起こらなくてもいっこうに構わない絶対的なる静寂の世界だ。
 そして、それと全く同じものを僕はユダヤ人指揮者ダン・エッティンガーの感性の中に感じるのだ。よく分からないけれど、もしかしたらこれがユダヤ人の持つ時間の観念なのかもしれない。

 ダン・エッティンガーの「神々の黄昏」のテンポが遅くて気にくわないという意見を多く聞く。初演時の指揮者、準メルクルのさっぱり爽やかワーグナーに比べると確かにダンのワーグナーは重量級と言えよう。しかし、僕に言わせると、あの若さであの時間の観念を持っているということの特異性にむしろ目を向けて欲しい。遅くて我慢できないというのは、もしかしたら僕たちが日本人だからかも知れないのだ。
 勿論、ゆっくりだからいいと言っているわけではない。でも、自分が持ちこたえられないテンポは普通指揮者はとらない。そのテンポをとるということは、そういう世界を自分の中に持っているということであり、ダンの場合、決してブレないで完結している。それがワーグナーという作曲家の中で百パーセントプラスに働くのかということや、特に「ニーベルングの指環」という叙事的な要素の強い作品の中で常に成功しているかどうかということは、また別問題であるが・・・・。

 話をマーラーに戻すと、マーラーの「復活」で合唱が登場する直前に、ホルン、ティンパニーやトランペット、フルート、ピッコロなどが織りなすテンポ・フリーの部分がある。宇宙そのものが奏でる壮大なるシンフォニーという感じがするが、モチーフがいわゆるシンフォニック(交響楽的)な展開をしているわけでは全然ない。地平線まで見渡せる広大なる土地をあてどなくさまようようなスケール感は、時間を忘れるほど長く引き延ばされた音や、音の静止している沈黙性から来る。ここでは音より空間性の方が大切なのである。
 こうした音楽を書く感性は、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスのようなドイツ人作曲家の中には決してないものだ。ドイツ三大Bの巨匠にとって、音とは、生まれたら即座にある必然性をもって発展しなければならない運命を持っており、意志と論理によって堅固な建築物として完成されなければならないのだ。だから逆に言えば、彼等の音楽はその完成度の故に、演奏者の作品に対するアプローチが仮に浅くとも、とにかく譜面を読んで音を出しさえすれば何とか形にはなる。

 しかしマーラーは違う。先ほど述べたテンポ・フリーの部分などは、スコアだけでは何も完成されてはいない。いや、続く合唱の「復活するのだ」という部分も同じだ。譜面に書いてある音を出せばある効果を保証されているものでは全くない。演奏する側にとってみると、これはしんどい。それは“演奏される曲”というよりも、聴き手にとってそれを聴くことがある種の“体験”とならねば存在価値のない性質のものなのだ。まるで地の底から湧き上がってくるように歌い始め、いや、歌うという行為すら忘れるように、つぶやきとも何ともつかない、可聴ギリギリの状態・・・・。
 こうしたマーラーの音楽を演奏するという行為は、優れた“音楽家”だったら誰でもなし得るというものではない。音楽家である以前に、マーラーという音楽を受け入れる特別な素養が要るのだ。その特別な素養とは・・・・哲学者としての素養と言ったらいいのか・・・・宗教者としての素養と言ったらいいのか・・・・スピリチュアルな素養と言ったらいいのか・・・・・いやいや、もっと適切な言葉を探すならば・・・・自己の中に“永遠”を持っているか否かという問いかけなのだ。

 再び話がダンに戻る。僕がダン・エッティンガーを擁護する一番の原因は、(今彼の指揮で具体的に鳴っている音楽など僕にとって本当はどうでもいいのだ)彼の見つめている先に“永遠”が見えるからなのだ。作曲家マーラーの感性と血のつながりのようなものを感じる。それがユダヤ人同士だからなのか、もっと個別的なところでの相似性なのかは僕には分からない。でも、バーンスタインの演奏するマーラーに感じるものと一緒なところをみると、僕にはどうしてもユダヤ人という資質からくるもののように思えるのだ。

 さて、今この時点で僕はまだダンの「復活」は知らない。知らないけれど、ダンがどのような「復活」を奏でるのか想像は出来る。結論から言うと、ワーグナーで感じたであろうある種の違和感は、全てマーラーで払拭されるであろうし、恐らく彼は水を得た魚のようにマーラーを演奏するであろう。だが誤解しないで欲しい。それはダンのワーグナーの演奏が悪いということではないのだ。

 ワーグナーの音楽は、バッハやベートーヴェンよりずっと柔軟で、キャパシティが広い。ダンのワーグナーは、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュのような意味でオーセンティックなものではないかも知れないが、フランス人のブーレーズやイギリス人のショルティやイタリア人のシノポリのワーグナーが許容されているのなら、ダンのワーグナーだって当然アリでしょう。
 さっき「ある種の違和感」と言ったけれど、それを否定的にとらないで欲しい。違和感の何が悪い?そんなこといったら、僕にとってはメルクルの違和感の方が大きかった。あの村上春樹的ポップ・アートのキース・ウォーナー演出の舞台に、さっぱり系のメルクルの解釈が合わさった時の限りなく軽いワーグナーの印象。それが元祖トーキョー・リングの味なのだというならそれも認めるが、ダンの重量感でウォーナーの軽さを適当に補い合った新トーキョー・リングの方が、僕は個人的には好きだ。ウォーナーの一見軽薄に見える舞台の陰に、ワーグナーのドラマをあそこまで深く読み込んだ真摯なアプローチが垣間見えるではないか。そう考えると、世の中に真のミスマッチなんてないのだと思う。要は受け取り方だな。
 ワーグナーを演奏しながら悠久なる時を感じさせるダンのテンポ感だって、欠点だとも言えれば長所だとも言える。金管楽器のバランス感だって、実に新鮮ではないか。僕は、ダンの音楽にブーをもって答える人達を決して責めないし、ブーを言う権利は尊重するが、その一方で、ダンが手を挙げて指で“永遠”を指し示しているのに、その指の形が気にくわないと文句を言っているような気もする。その指の形は、たぶん部分的には事実美しくないのかも知れないが、ダンの指の先には“永遠”がある。それが僕にははっきり見える。

 ダンに対してブーを叫ぶ人に、是非今度の「復活」を聴いてもらいたい。そうすればダンの“永遠”が感じられるのではないかなと思う。まだ完全には磨かれていないけれど、原石の中に眠るダイヤモンドが見えるのではないかと期待する。それでも“永遠”が感じられなかったら・・・・ダイヤモンドが垣間見えなかったら・・・・・うーん・・・・僕とその人達のどちらかが間違っているのかも知れない。僕にだって百パーセント自分が正しいと断言は出来ないのだからね。いやダン本人にだって、自分が今どこに向かっていて、これからどこまで行くのか分かっていないだろう。
 
 「復活」はもうすぐマエストロ稽古となり、オケ合わせになり、演奏会は4月4日の日曜日オーチャード・ホールで開かれる。皆さん、進化するダン・エッティンガーから目を離さないようにしよう。
 すでに権威を得ているフルトヴェングラーやカラヤンを繰り返し聴くのもいいが、まだ安定した名声を確立していない人材を発掘し見守る楽しみも、我々クラシック・ファンの特権だろうと僕は思うのだ。

 

楽しい「愛の妙薬」の演出
 僕は自分がバリバリのワグネリアンであり、ドイツ音楽に傾倒していることは認めるが、さりとてイタリア・オペラ、特にベルカント・オペラを下に見ているわけではないことは強調しておきたい。さらに、自分のメンタリティは完全にラテン系であり、基本的には楽天的な人間で、イタリア大好きであることもつけ加えておきたい。
 
 現在ドニゼッティの「愛の妙薬」の立ち稽古が進んでいるが、今回のチェーザレ・リエヴィ演出の舞台美術の絵を見ると、なんだかキース・ウォーナーのトーキョー・リングと似ている。舞台上にElisirという字が掲げられていたり、色調やオブジェなどがカラフルでポップ調なのだ。

 いかさま薬売りのドゥルカマーラは、オリジナルでは金の馬車に乗ってくる設定だが、今回の演出ではなんと飛行機で現れるのだ。舞台上に実物大のセスナ機が登場する。助演の二人の美女が、ドゥルカマーラのアシスタントとして飛行機から飛び出してきて、色気たっぷりにビラを配ったりする。
 ドゥルカマーラ役のブルーノ・デ・シモーネは、「チェネレントラ」のイカれた父親ドン・マニフィコでも軽妙な演技で会場を沸かせたが、天性の役者で、うさん臭いドゥルカマーラにはピッタリだ。
 合唱団の立ち稽古は、演出家のリエヴィが1人1人に対して丁寧に演技をつけていくのでとても時間がかかる。でも出来上がってくるものはなかなかひらめきがあって楽しい。こういうオペラは粋でないとね。
 パオロ・オルミの軽妙な音楽作りも好印象。イタリア・オペラは重くなってはいけない。弾けるようなリズム感が必要。ちょっとせっかちな感じで、なんとなくマフィアの子分のような風貌のオルミだが、ツボは全て心得ていてさすがだ。僕の下手くそなイタリア語に、いつも丁寧に答えてくれる。陽気でありながら穏やかで、やさしい。

 「愛の妙薬」は、「トリスタンとイゾルデ」の物語をパロディにしている。愛するアディーナをものにできない気弱なネモリーノが、愛の媚薬の力を借りて・・・・という気になって・・・・最後に彼女と結ばれるハッピーエンドの物語である。
 ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」も、結局は媚薬の力を借りるのではなく、媚薬であると「信じ込んで」飲むことで理性という束縛を解き、相手と結ばれることを考えると、喜劇と悲劇の違いはあっても、この二つの作品には共通点を感じる。でも、時代的には勿論「愛の妙薬」の方がずっと昔の作品。

この先、どのように全体が仕上がるのか、とても楽しみだ。また報告するね。



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