1Q84第三巻ついに発売!

三澤洋史 

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1Q84第三巻ついに発売!
 4月16日、金曜日。1Q84第三巻の発売日。朝のテレビで人々が本屋の前に並んでいて、一斉に売り出している様子が映し出されていた。ゲッ!やばい!この調子だと、僕が仕事に出るお昼頃にはもうどこの本屋でも売り切れていて、また何ヶ月も待つなんていう状態になってしまうのか・・・・・?い・・急がなくては!
 ところが府中駅の啓文堂書店で何の苦労もなく買えて拍子抜けした。それどころか記念に消しゴムをもらった。ペンシル型の消しゴムで細長く、筆入れの中でゴロゴロしないのでとても便利。
 さらに啓文堂では、府中店ORIGINALということで自前の小冊子を出していて、これも一緒にくれた。表紙には、
「この冊子は1Q84BOOK1,2を既に読まれた方が素早く1Q84(BOOK3)の世界へ戻れるようにとの思いで当店スタッフが作成いたしました。」
と書いてある。
「ふーん・・・・。」
と思って何気なく読んでみたがとても役に立った。

 たいていの人は第一巻と二巻を半年以上前に読んでいるだろうから、覚えているつもりでも結構忘れているものだ。それを先取りして、前巻までの登場人物の情報やポイントになる事柄がまとめて書かれている。これを読んだお陰で、何のギャップを感じることなくスーッと内容に入り込んでいくことが出来た。
 まあ、うるさいとか蛇足だとか思う人も中にはいるだろうが、そういう人は別に読まなければいいんだからね。ちなみに僕はこうした気遣いにとても感謝しているし、府中店のスタッフの心意気に拍手を送りたい。こういう情熱って僕は大好きなんだ。やるじゃん!啓文堂府中店!頑張れえー!

 この原稿を書いている現在、僕は約4分の3くらいを読んでいる。この原稿がアップされる頃には、すでに読み終わっているかも知れないね。ネタバレはしませんよ。でも、今回読み始めていろんな思いが胸をよぎる。何故かというと、僕は1Q84を読むまで村上春樹の小説をひとつも読んだ事がなかったのだ。つまり1Q84第一巻が、僕の生涯における村上春樹デビューだったわけ。
 それからこの第三巻を手に取るまでに、「海辺のカフカ」や「ねじまき鳥クロニクル」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」などを経験し、短期間の間にすっかり村上春樹通になった。そして今、再び原点である1Q84に向かい合ったというわけだ。実に感慨深いものがある。

 小説1Q84そのものへの印象も、他の作品に触れたことで知らず知らず変わっている。今回一番思った事は、この作品は、村上作品の最新作にしては案外「おとなしい」ということ。これでも最初に第一巻を読んだ時は充分刺激的だったんだけどねえ。なにせリトル・ピープルのようなお伽噺的要素があるかと思うと、エロチックな性描写があり、ハードボイルドかと思うと、父親をお見舞いに行くような情景があり、あまりにもいろんな要素が全部混じり合っていて支離滅裂ギリギリのところでバランスを保っている事に開いた口がふさがらなかったんだからね。それでも「ハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ後だと「おとなしい」と感じるんだ。僕もかなり村上語法に慣れたっていうか、洗脳されたっていうか・・・・。

 村上春樹にとって、1Q84執筆のモチベーションとなったと言われるオウム真理教とか地下鉄サリン事件との関連性は、具体的なものとしては僕には相変わらず濃厚には感じられない。そもそも村上春樹の小説は、全て何らかの宗教性やスピリチュアルな要素とつながっていて、この作品だけ特別というわけではない。
 まあ、宗教ではなくて“宗教団体”を題材にしているという意味では、他の作品よりは関連性は深いのかも知れない。この小説でメインとなっている「さきがけ」という団体に関して言うと、天吾に仕事を与えた雑誌編集者の小松の場合は、かなりシビアかも知れないけど、その宗教のあり方自体に対してどう言っているわけではない。
 宗教と言えばむしろ主人公青豆の性格に投げかける証人会の方が興味深いし深刻だ。また、宗教ではないけれど、NHKの受信料集金人を父親に持つ天吾の、父親のとりたて方法に対する嫌悪感も、証人会と関わる青豆と共通する要素を持つ。
 要するに、宗教かどうかというより、それが組織になった時に、その組織が個人の魂になげかける影響力というか、それがある種の抑圧や強制力を帯びる事の方が問題なんだな。

 組織は、その組織を守るためには、時にあらゆる非人道的行為をも行う。その教えが、本来どんなに善意に満ちた目的を持とうと、その教祖がどんなに本来どんなに素朴で善良な人であったとしても、それが組織になった途端に変質する。そして人は組織に帰依させられ、行動を規定させられ、感情もコントロールされ、組織の発展や存続のために自らの人間性を破壊させられる。このパラドックスは、宗教の王様であるキリスト教とて逃れられなかったものだ。魔女狩りや数々の宗教弾圧の事実がそれを物語っている。

 しかし、地下鉄サリン事件の直後、人々が、
「だから宗教は危険なのだ」
と思って、宗教そのものから離れていったのだとしたら残念だ。それは、本来の人間の姿から見たら退化以外の何物でもないのだ。何故なら、それがどんなに歪曲され危険なものに変質する要素を持ったものであれ、あらゆる動物の中で、宗教を持っているのは人間だけであり、まさにそのことが、我々人類が人類である証なのだ。

人類には宗教は不可欠なのだ!

 人類は、自分のその時その時の欲望だけに従って生きるのではなく、それ以上の生き方に価値を見出し、その為には自己を律し、時には自己の刹那的欲望を断念してまでも、自己の理想に従って生きるべきなのだ。
「人はパンのみにて生きるにあらず」
というわけだ。
 動物にはその葛藤がない。良い人格をもった犬というのもいなければ、「人でなし」という猫もいない。
「俺はこんな生き方をしていていいんだろうか?」
という葛藤もない。そうした欲望の充足を越える価値観は、この世の弱肉強食的世界観からは決して生まれない。だから人間が動物を越えるためには宗教が必要なのだ。

 地下鉄サリン事件などをきっかけとして、人々が宗教に対するアレルギーを持ってしまい、
「宗教など毒にしかならないのだから、何も信じるのをやめましょう!」
となってしまう事に対して、村上春樹もこの小説の中では警告を発しているように思う。それが彼の真摯な強い強い願いとなっていることを僕はこの小説からひしひしと感じる。彼がオウム事件を経験して最も感じた事は、むしろその一点に絞られるのかも知れない。

 さて、1Q84の話に戻って・・・・今の段階でみなさんに言える事はね、第二巻までで中断するのはもったいないという事。あそこで青豆が拳銃の引き金を引いて・・・・・で終わりじゃ、何の事かさっぱり分からないものね。その????が第三巻ではやっぱり結構つながってきているのだよ。
 また第二巻まででは、別に取り立てて目立ってもいなかった牛河という人物が、第三巻では準主役のようになってきて、天吾と青豆の間に微妙に割り込んできて・・・・・おっとっとっと、このくらいにしておきましょうね。それでは皆さん1Q84第三巻を買って読みましょう!そして僕と感想を語り合いましょう!

 

プログラムのリエヴィの言葉
 「愛の妙薬」は、初日が大成功して、演出家のチェーザレ・リエヴィは大満足で帰って行った。ポップでカラフルでテンポがあって、お洒落な舞台。新国立劇場のこれまでのプロダクションの中でも指折りのレベルに仕上がった。

 プログラムを何気なく読んでいたら、リエヴィが新国立劇場合唱団のことをこんな風に書いてくれていた。

合唱団のレベルの高さには脱帽です。これまでメトロポリタン歌劇場の合唱団が世界一だと思っていましたが、それ以上です。今回は合唱団が物語をまわす重要な役割を担うのですが、歌唱力はもちろんですが行動も反応も速いし、「演出」能力もありますし、メンバーの自立性が高いことには感心してしまいました。
インタビュー・構成=加藤浩子
 僕はいつも、初日の開演前に合唱団を集めて最後のダメ出しをすることにしているが、そこによく演出助手もやって来て演技のダメ出しをする。時には指揮者や演出家本人が来る事も少なくない。今回はリエヴィが来た。合唱団に最大限の賛辞と感謝を述べてくれた後、彼はユーモアたっぷりにこう言った。
「今日から千秋楽まで、『魔の金曜日』の事は忘れてのびのびと演じて下さいね。」
みんなからクスクスという忍び笑いがもれた。

 魔の金曜日!これが何の事か分からない人は4月5日の「今日この頃」を読んで下さい。そこに、合唱団が自主的に演技をふくらませた事に対してリエヴィが突然怒り出した事件の詳細が載っている。その事件と上の文章(特に演出能力のくだり)とを合わせて考えるに、リエヴィはもしかしたら、あの時彼らの自主的演技を「自分に対する一種の意図的反抗」と受け取った可能性があるな。 実のところ、合唱団には反抗的なモチベーションは一切なく、演出家の意図(と彼らは思った)の範囲内でいつも通りに自由に演技をふくらませていただけなのだ。
 欧米では、劇場の合唱団はこんな風には自主的に動かない。彼らは言われたことだけをやるのであり、それを「やらない」時は、まず間違いなくその演出に対して不満を持っている時だ。加えて、昨今では欧米のどこの劇場も、予算問題のとばっちりを受けて合唱団の財政的待遇が劣悪になっており、彼らのモチベーションが極端に下がってきている。彼らはますます演技しない団体になってしまっており、何か特別な事をさせようとすると、すぐ特別料金を要求する。
 だからリエヴィにとってみると、こんな風にやる気に満ちてどんどん演技を作っていくことが信じられないのだ。反対から言うと、今はそういう意味で、新国立劇場合唱団員が世界的レベルにのし上がっていく絶好のチャンスというわけだ。
 
 さて、一方新国立劇場合唱団の団員にしてみると、演出家の許容範囲を越えた点に関しては、演出家から穏やかに、
「そこはやり過ぎ」
とか、
「それをしてしまうと僕の解釈からはずれる」
とか、
「これはいいけど、これはやらないでね」
と言ってもらえば、またみんな自分で考えて、いろいろアイデアを持ってくるのに、いきなり怒られたので面食らったわけだ。
 リエヴィは、恐らくそうしたことを後からだんだん理解してきたに違いない。自分が怒った後の合唱団の「演技をしない」能力の高さにも驚いたに違いない。そして、
「合唱団が演技をしないと、こんなにもオペラ全体がつまらなくなるのか・・・・ということは、合唱団がこれまでどれだけ自主的演技で自分の演出を助けてくれていたのか!」
と、嫌でも悟らざるを得なかったに違いない。
 それにしても、あの日の事を「魔の金曜日」と自ら呼んで、みんなの笑いを誘うとは、彼もなかなかの人物だ。

 ね、これで外国人と付き合う時には、日本人的に見ると「争い」と映るような状況を避けてはいけないということが分かったでしょう。
「対立の中から真の相互理解に至る」
というのが彼らの基本姿勢だから、対立を避けたり恐れても何も生まれない。気持ちを押し殺して言う事を聞いても、彼らはそれを「卑屈な行為」としてしか受け取らないから、対等な対話が成立しなくなるだけだ。時には、相手はますますいらだつだけになる。
 日本人にしてみると、
「こんなに言う事を聞いてあげているのに、何がまだ不満なのだろう?」
と思うのだが、相手はそもそも対話が成立しないことにいらだっているのだ。

 こんな経験を外国人相手にした方も読者の中にはいるでしょう。外国人が何か無理難題を言ってきた時には、我慢して言う事を聞いたりしない方がいい。彼らはそもそも全てを「ダメもと」で言っているし、僕たちがそれについてノーと言うと、
「じゃあ帰る!」
とか言うかも知れないけれど、あわててはいけない。それはフリだからね。だから毅然としていればいい。
 彼らは絶対に帰らない・・・というか、そうした駆け引きに慣れているのだ。ある意味ではゲームのように思っている。だから自分で振り上げた手の降ろし方は自分で知っている。日本人のように、
「誰か降ろしてくれ!」
などという甘ったれた考えを持っている者など誰もいない。
 それなのにこちらが大真面目で対応し、いいなりになってしまうと、そもそもゲームが成立しない。すると彼らは「ダッせー、こいつら!」と思ってゲームも出来ない我々を馬鹿にし始める。
 彼らの誰一人として悪気はないのだが、そういう風に教育されているのだ。その事で我々日本人が彼らの事を、
「いい人だと思っていたのに、ヤな奴」
と思ってしまったら我々にとっても不幸だし、彼らも可哀想だ。
 大切な事は、我々はまず彼らからリスペクトを勝ち得なければならない。そうして対等な土俵にお互い乗らなければならない。この道順さえ踏めば、外国人と付き合うのは決して難しいことではない。

 そんなわけで、新国立劇場合唱団が国際的に認知されていくためにも、僕は合唱団員を最大限に守ってあげたいし、そのために時には対立も厭わない・・・・とはいっても、僕は基本的には平和主義者だからね。

「愛の妙薬」はみんなに観てもらいたい新国立劇場の歴史に残る名プロダクションだと僕は断言する。今からでも遅くはない。みなさん!「愛の妙薬」を観ましょう!



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