東京バロック・スコラーズ演奏会無事終了

 

三澤洋史 

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理想のカルメン!
 新国立劇場では「影のない女」公演が進んでいる中で、「カルメン」と「鹿鳴館」の立ち稽古が同時進行している。この二つの演目は本当に同時に進行しているので、合唱団のメンバーは完全に二班に分かれている。でも合唱指揮者は僕一人なので、両方を行ったり来たりしている。なので・・・・つまり僕には休みが全然ない。
 今回の「カルメン」の中で特筆すべきは、カルメン役のキルスティン・シャベスだ。立ち稽古初日、合唱団とハバネラの場面の練習に入った途端、ただならぬ雰囲気を感じた。まさにシャベスはカルメンに成り切っていた。いや、演じるなんてものではない。頭のてっぺんから足の先まで、カルメンそのものになっていた。しかもそのカルメン像たるや、非の打ち所がない。声も歌唱も素晴らしい。僕は、わずか1、2秒の内にすっかり魅せられてしまった。そして彼女が作り出すであろうオペラ「カルメン」全体のドラマの流れが、一瞬にして僕の心の中に「見えた!」のだ。
 まだ稽古が始まって間もないので、今の内に断言するのも危険かとも思うが、僕の直感に従って恐れることなく言えば、彼女は僕がこれまで見た中で最も素晴らしいカルメンに属する。次の週のこのページで、もっと詳しい説明も出来るかも知れないが、カルメン歌手の決定版を見たいと思う人、今からチケットを購入しても決して後悔しないと思う。直感だけで言っているけれど、僕を信じてくださいね!僕がここまで言い切るのは稀なことだからね。こういう事があるから、オペラはやめられないなあ!

いくちゃん
 僕には二人の姉がいる。上の姉のみっちゃんとは4つ年が離れているので喧嘩することはほとんどなかったが、下の姉のいくちゃんは2つ上だけなので、小学校の頃はしょっちゅう喧嘩していた。喧嘩の原因は簡単だ。僕は男一人だったから、いつも特別扱いされていた。たとえば僕の祖母がよそで御菓子をもらってくると、
「これはシーだよ」
と言って、僕だけに内緒でくれる。でも、それを陰で食べようとすると、いくちゃんがそれを見つける。僕の態度がなんとなくおかしいことに気付いて密かにつけていたのだ。
「あれ?ひろふみ、なに一人でずるいことやってんのさ?」
と言って、いくちゃんは僕から御菓子を無造作にふんだくる。僕は取り戻そうと思ってかかっていくが、群馬県下でも優秀な陸上選手でもあったいくちゃんは運動神経が発達していて、とても太刀打ち出来ない。
「畜生!その内大きくなったら絶対にやっつけてやる!」
と悔しさを噛みしめながら僕は小学校時代を送った。

 ところがどういうわけか、中学校になったらいくちゃんととても仲良くなった。親にも話せないような事もよく話し合ったし、いろんな相談もした。僕が高校一年の時にはいくちゃんは3年生。共に高崎の学校だったので、帰りに駅で偶然会うと、よく二人で買い食いをしてお袋に怒られた。

オムライスの彼
 陸上部だったいくちゃんは、高校卒業後は体育系の学校に進むに違いないと思っていたのに、何故かお袋と同じ和裁をしたいと言い出した。そこで高崎の和裁専門学校に入ることになった。
 卒業した春休み、いくちゃんは高崎駅前にあるレストランでアルバイトした。そこに、ある日から毎日決まった時間にオムライスを食べに来る大学生が現れた。いくちゃんは僕に、
「また、あの人が来て、あたしの方をチラチラ見ていたんだよ」
と嬉しそうに言っていた。
「で、どうなんだい?そのオムライスの人。いい感じ?」
「まあまあね」
 予想した通り、そのミスター・オムライスはいくちゃん目当てで来ていた。間もなくいくちゃんと言葉を交わすようになり、あれよあれよという間に付き合いだした。
「どうすんの?」
「結婚するかも知れない」
「ええ?」
というので事態は急転していく。和裁専門学校に通っている間に彼氏との絆を深めていき、卒業するとせっかく学んだ和裁の成果を発揮することなく、いくちゃんはあっさりと結婚してしまった。
 いくちゃんが結婚した時、僕はまだ浪人中で家にいた。いくちゃんは、長女のみっちゃんを飛び越して我が家で最も早く家から出て行ったのだ。子供の頃からずっと一緒にいたので、いくちゃんが家から出て行ったのは結構淋しかった。でもその後僕もすぐ家を出た。国立音楽大学声楽科に入学し、玉川上水駅の近くに住み始めたのだ。

 いくちゃんの相手は久雄さんといって、高崎経済大学の学生だったが、東京の不動産関係の会社に就職した。その社宅が同じ西武新宿線沿線の花小金井にあったので、僕はしょっちゅういくちゃんの所に泊まりに行った。
「ちゃおちゃん(久雄義兄さんのことをいくちゃんはこう呼んでいた)が出張で今夜はいないから、あたしも淋しいので泊まりにおいで。ちゃおちゃんに今度出そうと思う新しい料理を、レシピに従って試しに作ってみるから、食べてくれない?」
「おお、いいね。ただでメシが食える!」
というので行った。
「サバのムニエルだよ」
「ムニエル?なんだそりゃ?」
出来上がった料理を見るととてもおいしそう。
「おお、いくちゃん!やるじゃん!」
でも一口食べた瞬間、
「いくちゃん、あのさあ・・・・・」
「何?」
「しょ・・・醤油・・・かけていいかな?」
「あたしもそう思っていたとこ」
「あははははは・・・・さ、魚はさあ・・・・やっぱ、醤油に限るね」
「だ、だめかなあ・・・・ムニエル・・・・・」
「駄目じゃないけどさあ・・・・やっぱ、久雄義兄さんも醤油かけると思うよ」

 久雄義兄さんは長男だったので、その後いくちゃん達夫婦は栃木県佐野市の実家に入り、そこで土地家屋調査士の事務所を構える。以前この欄でも紹介したことのある長女の貴子(つまり僕の姪)をはじめとして、次女の知美、長男の敦夫(僕の甥)が次々と生まれ、群馬の実家にも盆と正月には必ず遊びに来た。
 僕の父親が孫達をとても可愛がったので、彼等は大人になっても何かにつけてよく群馬の実家に集合した。さらに貴子や知美が結婚すると、その夫達も群馬に遊びに来て、僕は彼らとも仲良くなった。特に僕の父親が亡くなって、その通夜の晩、僕は父親の棺の前で彼らと夜を徹していろいろ語り合い、またひとつ仲良くなった。
 彼らの義父となる久雄義兄さんは、彼らとも仲良くやっていた。久雄義兄さんは、見かけは色黒でいかつい顔をしているが、性格は穏やかでとてもやさしい。子供達もみんな「ちゃおちゃん」と呼んで慕っていて、ずっと理想の父親でい続けた。
 僕の父親が亡くなった時、父親が貴子の夢の中ですでに名前を呼んでいた貴子のお腹の中の子供は、やがて生まれて虎太朗と名付けられた。ということは、久雄義兄さんはつまりおじいちゃんになったわけだ。虎太朗を見る時の久雄義兄さんは、目を細めて、もう可愛くて仕方がないという顔をしていたという。

あろうことか・・・・
 その久雄義兄さんが突然逝った。朝一度起きていくちゃんと話しをし、いくちゃんが朝食を作って呼びに行ったら、もうこときれていたという。急性心筋梗塞でほとんど苦しんだ跡はなく、検死の結果でも即死に近い状態だったという。
 月曜日の朝に連絡が入ったが、僕は仕事で身動きがとれない。妻はその日のうちに車を走らせて佐野まで行ってくれた。火曜日の通夜には妻と長女の志保が出席。僕は火曜日の「カルメン」の立ち稽古の後、群馬に帰り、水曜日の早朝にやっと一家4人揃って佐野に向かうことが出来た。

 何が辛いって、いくちゃんに会うのが最も辛かった。でも、いくちゃんは意外と平静を保っていた。といってもあまりり突然のことだもの、頭では分かったところで、とうてい現実を受け入れることは出来ないのだろう。心ここにあらずという感じだった。
 月曜日の朝に亡くなって、人が沢山来て、火曜日に通夜をして水曜日の午前中に火葬場に行って、それから午後一時から葬儀。悲しみに浸っている間もない。きっと、いろいろ立ち回っている自分自身を別の自分がまるで映画でも観るようにぼんやり見ている、そんな他人事のような感じなんだろうと思う。それを思うと本当に可哀想でならない。

 喪主はまだ29歳の長男の敦夫がつとめた。これがね、立派だったのだよ。それに貴子が知美を伴って「おとうさんに向けて」という挨拶をした。これも感動的だった。彼等にとって本当に非の打ち所のない父親だったというのがひしひしと伝わってきた。それに、なんといっても、子供達が口を揃えて言うのに、久雄義兄さんがいくちゃんのことを本当に愛していたということ。いつも、
「郁子と結婚して本当に良かったよ」
と子供達の前でもはばからずに口に出していたそうだ。
 それだけにね、「愛されているいくちゃん」が、ある時突然「愛されていたいくちゃん」という過去形に変わってしまうのはむごすぎる。いっぱい愛してもらったからいいというものではない。愛されない状態が考えられなくなってしまっているところに不意打ちとは卑怯な!
 愛を失う辛さに耐えられないからこそ、いっそ愛し愛されることなどない方がいいと思ってしまう人もいる。淡々と誰も愛さずに生きていけば苦悩も少ない。勿論、僕はそうは思わない。人間は愛し愛されるためにこの世に生まれてくるのだから。でも、こんな苦悩の中に放り出されてまで、人は人を愛さなければならないのかと思うと、神様ってひどいよって思ってしまう。

東京バロック・スコラース演奏会無事終了
 みんなには言わなかったけれど、実はこうした事が生々しく起こっていた中で、「ワイマールのバッハ」の準備をし、演奏会に臨んだ。音楽は不思議だ。同じ曲なのにその曲と関わる自分の境遇が変わる度に、自分の前に立ち現れてくる印象が変化する。久雄義兄さんの事が起こった後、今回の演目に対する僕の感じ方は、以前とはガラリと変わった。
 特にカンタータ第12番「泣くこと、嘆くこと、案ずること、怯えること」を勉強していながら、20代終わりのバッハが、世の中に満ちあふれている労苦、辛さや悲しみに、若い感受性をもって真摯に向かい合っていることにあらためて深い感銘を覚えた。

 たとえば、戦争や人間同士の争い、あるいはもっと個人単位での裏切りや中傷誹謗、いさかいや軋轢などといった人間が引き起こす不幸は、人間の努力で防ぐことが出来ようが、それらが全て解決したなら人間は必ず幸福になれるかというと、そう簡単にいかないところが、この世に産み落とされた我々の運命なのだ。
 久雄義兄さんのように身内が突然亡くなったり、病気や怪我など、人間の世界には努力してもどうにもならない事がある。そうした不可抗力の事柄に対しては、仮にどんなに深い信仰を持っていたとしても、すぐに、
「神のなさることは全て理にかなって正しい」
という風には受け入れられないものだ。
 
 今回カンタータ第12番を深く勉強しながら、僕があらためて確信したのは、バッハはこのような葛藤を知っていて、そして作品の中に表現していたのだということだ。
普段の自分だったなら、恐らく、
「ああ、いつものお決まりの結論に導くための道程だね」
と片付けてしまうかも知れないカンタータの内容が、今回はひとつひとつ心に染みこんできた。
例えば、第3曲目のアルトのレシタティーヴォ。

私たちは多くの苦しみを経なくてはなりません
神の国に入るには(使徒言行録第14章12節)
そしてアリアが続く。
キリスト者はあらゆる時に
苦しみと敵をもっています
でもその慰めとなるのが
キリストの傷なのです
第6曲目テノールのアリア。
雨の後には祝福の花が開く
どんな悪天も過ぎゆく
忠実であれ
そして最終コラール
神は私を
まことの父のように
腕に抱いてくださるのだろう
だから私は
神にのみ身を委ねるのだ
 様々な困難の中で、受け容れ難い運命を、努力しあるいは時間をかけて受け容れていくこと。そうしたことが簡単ではないからこそ、我々の人生という学習の場が与えられているのかも知れない。
 僕は確信した。バッハは、これらのカンタータの持つ内的流れを、決して小手先だけで書いているのではなく、実際に自分が体験していて、その中から学び取ったものとして作品の中に真摯な気持ちで表現しているのだということを・・・。

 演奏会が終わってから何人かの人に、
「12番の合唱曲、良かったですね!」
という言葉をいただいた。それには第1曲目の小林裕さんのオーボエ・ソロがとても表情豊かに演奏されたのに刺激されたこともあるのだろうが、合唱曲を振りながらWeinen, Klagen, Sorgen, Zagenという歌詞に、この一週間の間に感じた様々な想いがオーバーラップしていたことは事実だ。

 他の曲もみんな、単に「神様を讃えよう」だけではなくて、もっと深いものが宿っていることに、僕はあらためて気がついた。カンタータ第182番「天の王よ、あなたをお迎えします」も、エルサレム入城の喜びを歌ったカンタータだが、その後にくる受難を暗示している。
テノールのアリアの、
イエスよ、幸いの時にも災いの時にも
あなたといっしょに行かせてください
や、その後に来る受難コラールを通り過ぎてこそ、終曲の軽快な3拍子の合唱曲、「さあ喜びのサレム(エルサレム)へ行こう」に辿り着くのだ。

 だからバッハの喜びの音楽も薄っぺらいものではないのだ。若いバッハが、若いなりの苦悩や悲しみを体験した上で、
「神は人間の世界に苦悩があるのを全て分かっているのだ。だから我々も神を信頼し、神に委ねた人生を送ろう」
という風に悟っていったのだろうと思う。

 そんなバッハの一面に、特に深いシンパシーを感じながら指揮をした。もし、僕の作り出す音楽に、何かこれまでと違うものを感じる聴衆がいたら、それは作曲家に対する共感の種類と共感度の強さが、これまでと違っているせいだと思う。でもねえ、視点を変えて考えて見るとね、芸術家って恥知らずな人達かも知れない。
 久雄義兄さんのことでいろいろ感じたことを、こうして演奏会という自分を表現する場で早くも生かしているわけじゃないの。転んでもただで起きないっていうか、本当は自分の心の中だけに収めておくべきことを“表現”してしまうことに一種のはしたなさを覚えてしまうよ。
 それでもね、その事でもし僕の表現がプラスに働いて、聴衆が僕の個人的な体験を超えて、バッハの感じていた死生観などにより強い共感を持ってくれたとしたら、悪いことではないのかなとも思う。
 現に、これまで沢山の芸術家達が、自分自身の体験をきっかけとして様々な作品を残し、それが嘘偽りない気持ちに支えられているからこそ、そうやって残された芸術が僕たちの心を打つのだろうからね。

 演奏会自体は大成功に終わったと思う。独唱者達は、それぞれ心のこもった歌唱を繰り広げてくれたし、オーケストラのサウンドも美しく表情豊かに杉並公会堂に響き渡った。合唱も無理のない発声で、バッハのメッセージを確実に客席に届けてくれた。毎回、やる度に思うけれど、この団体を作って本当に良かった。これからも、心のこもったバッハを、僕は自分の生涯が終わるまで奏で続けていきたい。

苦しむ人々と共に苦しみ、喜ぶ人々と共に喜びながら・・・・・。



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© HIROFUMI MISAWA