頑張れ日本!

 

三澤洋史 

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若杉シーズン終了
 新国立劇場における若杉弘芸術監督の新制作は「鹿鳴館」で終わりを告げた。3年間を振り返ってみて、若杉氏自身が指揮したのが「黒船」「軍人たち」「ペレアスとメリザンド」のみというのはいかにも淋しいが、プロデューサーとしては、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」「ヴォツェック」「影のない女」と、若杉氏ならではの卓越した手腕を発揮した。そしてとどめをさしたのが、この「鹿鳴館」であった。

 ラストシーン。政界に生きる景山とその妻朝子は、互いに不信感を抱きながら回り舞台の壇上でゆるやかな「欺瞞の踊り」を踊る。下では合唱団とダンサーとが馬鹿馬鹿しいほど哄笑しながら激しく踊り狂う。それは原作の華麗なるデコルテでのダンスとは似ても似つかぬ「猿の踊り」である。これは、劇中で語られる言葉の視覚化だ。反体制派清原はこう言っていたのだ。
「鹿鳴館に招かれている外国人は、みんな腹の中で笑っている。貴婦人達を芸妓同様に思い、あのダンスを猿の踊りと見ています」
悲壮なほど滑稽な踊りを踊る彼らがかぶっているのはおかめひょっとこのお面。
 その時聞こえる銃声。一瞬の沈黙の後、また彼らは現実を忘れた笑い踊りを始める。しかししだいに力を失い倒れこんでゆく。演出家の鵜山仁さんは、銃弾に倒れる群衆をイメージしているのだが、ゆるやかなためむしろ猛毒が体に回ってきて倒れるように見える。まあそう見えるならそれでもいい。
 舞台裏から聞こえるワルツの音楽にピット内のオーケストラの不気味な持続音が加わり、タムタムなどを伴ってワルツを圧倒する。倒れこんだ群衆は、一度床に顔をつけてから、もう一度頭を起こし、客席を恐ろしい視線で凝視する。幕が降り音楽が終わる。この終幕は、それを観る者に強烈なる印象を残す。

 カーテンコールが一通り終わると、後ろに若杉氏の顔がプロジェクターで映し出される。
「ありがとう、若杉さん!安らかに」
と拍手を送る。本当は手を合わせたかったのだけれど、あまり辛気くさくなってもいけないしね。

もし若杉氏が元気だったら・・・・
 もし若杉氏が元気で、自分で最後までしっかり関わっていたらどうだったのだろうか?もっと池辺晋一郎さんにいろいろ注文をつけたかも知れないし、もっと鵜山仁さんの台本や演出に首を突っ込んだかも知れないし・・・・もっと練習中に直しが入ったかもしれないし・・・・もっと、もっと・・・・・と仮定を積み重ねてみても仕方がない。でも、間違いなく言えることは、練習中にウンチクを聞けただろうなということ。
 若杉氏が指揮していたら、最終的に今とどう違っていたのだろうかと思うことは少しも罪ではあるまい。沼尻竜典さん、鵜山さんを始めとするチームが、若杉氏なしでこれだけ頑張ったのを大前提に言っているのだからね。でも聴いてみたかったなあ。一度だけ。
 ともあれ、三島由紀夫文学に傾倒し、文学にも演劇にも造詣が深い若杉氏らしいこの演目でシーズンが終わったのは象徴的だった。

 さて、次の尾高芸術監督シーズンは「アラベッラ」で始まる。今度はどんな時代が幕を開くのだろう?

サッカーを見ながら思うこと
 FIFAワールドカップの日本チーム、頑張っているじゃないの。オランダ戦では負けたものの、優勝候補の相手に一点しか許さなかったのはあっぱれだし、なんといってもデンマーク戦は素晴らしかったよ。これで決勝トーナメント進出か。なんだか日本中が湧き上がっていて、このまま景気も良くなるような気がしてきた。たかがスポーツとあなどるなかれ。たかがスポーツで、案外日本という国全体が立ち直れるきっかけになるかも知れないのだから。心理的効果、経済的効果、両方の面から影響力は無視できない。

フランスが負けたわけ
 それより前回の優勝を争ったイタリアとフランスの二つの国がまさかの敗退だな。特に目も当てられなかったのはフランス。選手の退場とそれに伴う練習のボイコットなど、内部での不調和がそのまま試合に現れていてチームワークがバラバラ。見ていると一人一人の実力はあるのだが、それが試合展開に全く貢献していないのが歯がゆくて、見ていて気持ちの良くない試合ぶりだった。
 こういうのを見ていると、音楽でも全く同じなので、反面教師としてとても役に立つ。最高の音楽をするためには、サッカーと同じで、個人の能力とチームワークとが必要とされるのだが、この二つが結びつくのを妨げる要素について深く考える人は少ない。

 「ローマ人の物語」を書いた塩野七生さんは「日本人へ~国家と歴史篇」(文春新書)の中で、
「亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起るのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起るのだ」
と述べているが、まさに人材を使いこなすメカニズムが何故機能しなくなるのかという原因を追及しなければ、どの分野でも高みは望めない。追求してみると、その原因は案外自分たち内部のプライドにあることが少なくないのである。

マイナス波動
 人間の中のマイナス波動というものは恐ろしいものだ。ほんのちっぽけな嫉妬心や不信感が、人々の間で知らず知らずの内に増殖していく。それは水面下で大きなマイナスのエネルギーとなっていく。それは人々から健全なモチベーションを奪い、互いの能力を消し合おうとする暗い情熱へと発展してゆく。
 これは選手同士の間だけで起こっていることではない。選手と監督とか、監督とその上の立場の人だとかの間に不信感や対立があると、その下の人達の中に無意識だがとても大きい「破滅願望」が生まれる。その願望がある時顕在化し、事実破滅してゆく。それが、今回フランスが敗退した本当の理由のような気がする。彼らは自分達自身に負けた。僕はそう思っている。

 多分、僕がただの指揮者だったら、その「破滅願望」の生成過程の研究にこれほど熱心になることはなかっただろう。何故なら指揮者はいつも人の頂点に立っているので、自分に降りかかってくる批判に対しては、
「自分さえもっと頑張ればいいのだ」
と、自己反省をすることで問題をお終いにしてしまう傾向がある。
 ところが僕は、新国立劇場合唱指揮者という立場から、指揮者、演出家、歌手、合唱団、オーケストラなど様々な部署の内部あるいは部署同士の接合の部分で様々なことが起こり、それが様々な結果を引き起こす現場を第三者的に眺められるのだ。
 オペラでは、これだけ多くの人達が関わっているのだから、関わる全ての人材が最高ということもないし、全てが駄目ということもない。たいていは、ここが良いけれど、ここは弱いという感じだ。だけど、仲間同士というのはその弱いところを見過ごすことは出来ないようで、悪口は絶えることがないし、反対に良ければ良いで、ライバル意識や嫉妬やねたみや・・・・・数え上げればきりがない。ある意味、その渦中にいるのが僕たち音楽家の日常だ。音楽とは、かくも美しい芸術なのに、その現場はまさに呪いの巣窟のようだ。

成功の秘密
 ところがね、そんなことには関係なく、公演がヒョイッと大成功する時がある。そんな時は、何か不思議な力が働いて、みんなの気持ちが自然にひとつになっていく。その不思議な力とは何なのか?それはどこから来るのか?何故この公演は成功し、この公演はうまくいかないのか?僕はこれまでずっと考えながら見てきた。

 ひとつだけはっきり分かっていることがある。それは、公演が成功する時というのは、そのどこかの部署の要の部分に強烈なプラス波動を持つ人材がいる時か、さもなければ全体的にプラス波動を持つ人が多い時なのだ。そうすると、そのプラス波動がしだいにプロダクション全体をポジティブな気分で支配するようになるのだ。
 外国人キャストが多い新国立劇場では、たいていは指揮者の資質がその鍵を握っている。外国人キャストは、日本人よりずっと自己チューで、チームワークどころかそのままではみんな「あっち向いてホイ」になってしまうからだ。ネッロ・サンティなど、オペラの世界において特に巨匠として有名な指揮者は、たいていおおらかで親分肌で、この人と一緒にやればうまくいくという雰囲気を醸し出しているものだ。誰かがワガママを言っても、
「まあまあ、落ち着いて」
となんとなく丸め込まれてしまう。こういう人は強烈なプラス波動を周囲に放射している。

 いちどポジティブな雰囲気が生まれてしまうと、どこかで、
「やってられねえな、全く!」
と思うような事態が生まれても、それが主流にはならずにその場だけで収まる。そうしてしだいに、
「今回の公演、うまくいくんじゃないか?」
という「成功へのイメージ」が支配するようになる。こうなるとしめたものだ。成功イメージはしだいに顕在化してきて、もう成功するしか道がないという感じになる。そして、ごく当たり前のように成功を手にすることが出来る。まあ、なかなかそうすんなりとはいかないのだけれどね。

 そのことが分かってから僕は、少なくとも自分から決してマイナス波動を出すまいと努力している。稽古場の中や劇場内でなるべくそのプロダクションの良い面を見て評価しようとし、つとめてそれを口に出す。みんなが悪い面に対してコメントする前に、
「あれ良いよね」
とポジティブな意見を述べる。するとみんな、
「あれ?」
という顔をする。こういうことは、実はとても大事なことなんだ。

日本人が成功するには
 一方、日本人が集まって何かする時は、外国人よりずっとまとまりやすい。でも、気をつけないと、みんな仲良くやっているのだけれど、全体のレベルが低いという時が少なくない。自分たちの中だけで自己完結してしまうのだろう。究極目標を見失いがちなのだ。これでは、何のためにやっているのか分からなくなるし、結局大きな成功には結びつかない。
 サッカーでもそう。日本チームもこれまではチームワークは良かったが勝てなかった。それは一見プラス波動は出ていたのに勝てなかったように思えるだろう。ところが僕は違うと見ている。これまでの日本チームにあった最大のマイナス波動とは、「失敗を恐れる」という強烈な波動だったのだ。それが選手達全員に波及していた。
 つまりこうだ。スタープレイをしようとしてパスを渡さず、ドリブルやロングシュートで失敗するよりは、みんでパスを渡し合って勝った方が良いと思っていたから勝てなかったのだ。彼らは勝つことよりも「負けないこと」の方を重視していた。
 もしかしたらそれが「島国」に住む日本人のDNAなのかも知れない。国境が接近していないから、わざわざ勝たなくてもむしろ「負けなければいい」と思っていれば充分であるし安泰であったのだ。これでは勝てるわけがない。秀でた者はもぐらたたきのように頭を叩かれ、飛び出ようとするものは足を引っ張られ、これまで日本では「一億総中庸」という世界観が蔓延していたというわけだ。

頑張れ日本!
 でも今回、日本サッカーはその殻を見事に脱いだ。これまでと何が違うかというと、徹底的に勝つための試合をし始めたことだ。今や、選手達は勝つための失敗を恐れてはいないし、ロングシュートが失敗しても誰も批判しない。いや、もとから誰も批判しなかったのさ。何も恐れる必要はなかったんだ!
 それに加えて、先日のオランダ戦のように守備に関しては元来強いので、今回は案外いいところまで勢いに乗って行っちゃうのではないかと僕は楽観的に見ている・・・・・まあ、そうならなかったとしても誰も僕を責めないでね。
プラス指向、プラス指向!

Viva Italia!
 今年は新国立劇場で子供オペラがないので、「鹿鳴館」が27日の日曜日で終わると、あとは高校生のための鑑賞教室を残すのみ。しかもその演目は、先日まで上演していた「カルメン」だし、合唱団のメンバーは全員同じだから、一度だけ音楽練習をすれば事足りる。来シーズン開幕の「アラベッラ」もよく知っているし、しばらくは新たに勉強しなければならない演目はない。
 通常だとこんな時期は読書に明け暮れる。まだ村上春樹も手をつけていない小説が沢山あるし、本屋をぶらぶら歩くと買いたい本が沢山ある。でも今は読書はしていない。今夢中でしているものはイタリア語の勉強だ。これが実に楽しい。

 僕は何でも大事なものは独学でやる。語学を勉強する時も、たとえば動詞ひとつにしても直説法の現在形、過去形、完了形、未来形、受動態、それから接続法や条件法など一通りの活用は、独りで勉強するのが早いに決まっている。どっちみちこれを覚えない事には先に進みようがないし、学校などに行っていては、これだけで1年もかかってしまう。そんな時間のムダはしたくないのだ。それから人に教わりに行く。それは個人教授に決まっている。
 ということで今は国立市内に住むイタリア人女性のところに週一回通っている。最初は教科書を使っていたが、僕が文法を一通り知っていることに気がついて、彼女は一時間の授業の全てをフリートーキングにするようになった。さあ、そうなると大変だ。フリートーキングとなると何が飛び出すか分からないから予習のしようもないのだが、難しかったポイントを後でじっくり復習が出来るからもの凄く役に立つ。僕が間違えると即座に直す。知らない単語があると教えてくれ、すぐにそれを使う練習をする。
 話題は僕の仕事のオペラの話から始まり、イタリア旅行やイタリア料理の話や、日本とイタリアの違いや、サッカーの話やありとあらゆる分野に及ぶ。このイタリア語のみの一時間を週一度過ごすだけで、かなりしゃべれるようになってきた。
 彼女はナポリ近くの地中海に浮かぶイスキア島生まれで、僕たち家族がナポリからソレントまで足を伸ばしたことにとても喜んでいた。食はなんといってもローマから南ですよね、特にピッツァはナポリですよね、モッツァレッラが違いますもの、ソレントなど海辺の街の魚料理は絶品ですよね、なんて言った日には目を細めて喜んで、その日はずっと食べ物の話で終わったっけ。あっ、そうそう、実は僕だけでなく、別の時間帯で妻と長女の志保も彼女の所に通っている。こちらは初心者コースだが、志保はフランス語が出来るだけあって進歩が早いらしい。妻があせっている。

 通っている内に面白いことに気がついてきた。ある事柄を説明しようとして知らない単語があると、英語かフランス語の知っている単語を当てずっぽうにイタリア語風に言ってみる。するとこれが大抵大当たりする。時には全然はずれることもあるのだが、たとえばinternationalインターナショナルはinternazionaleインテルナツィオナーレだし、appointmentアポイントメントはappuntamentoアップンタメントだし、軽い軽い!それと、ものぐさなイタリア人はXを使ったりクスというのが面倒くさいとみえて、exactイグザクトはesattoエザットになるし、accentアクセントはaccentoアッチェントになるし、expressエクスプレスはespressoエスプレッソになる。こうした法則を知っていると、新しく単語を覚えなくてもすでにかなりボキャブラリーの蓄積があるのだ。
 しかしドイツ語の単語だけは全然役に立たない。ドイツ語が外来語として使っているラテン語オリジンの単語は別にして、ゲルマンの言葉とラテンの言葉とは本当に共通項を持たないのだ。だからフランス語を勉強していた時もそうなのだが、イタリア語を勉強しているとドイツ語が出来なくなるし、その逆も成り立つ。これって結構困る!
 
 バイロイトには何人かのイタリア人の知り合いがいた。今もいるのか分からないが、今度行った時会ったらイタリア語で話して驚かせてやろうと楽しみにしている。祝祭合唱団でアルトを歌っていたガブリエラ・ブランカッチョはまだいるのかな?彼女は僕がバイロイトで次のシーズンのイタリア・オペラの勉強をしていると、よく助けてくれた。イタリア語のeの母音の開口か閉口かを教えてくれたし、テキストを読んでくれてそのニュアンスを僕に伝えてくれた。
 ガブリエラはフリーメーソンの会員だというので、興味津々の僕はいろんなことを訊いたが、やはり肝心なことは教えてくれなかったな。バイロイトは、実はドイツの中で最も大事なフリーメーソンのロッジのひとつなのだそうだ。彼女とも今度はイタリア語で会話してみたい。こんなことを考えながらやっているから、勉強にも熱が入るわけだ。

楽しいよ。イタリア語。僕って前世イタリア人だったに違いないと確信している今日この頃です。



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