OB六連演奏会無事終了

三澤洋史 

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OB六連演奏会無事終了
 男とは不思議な生き物だ。特に歌っている男は不思議だ。こんな年配のおじさんたちがこんな大勢集まって、みんなで合同で「見上げてごらん夜の星を」なんて歌って何が面白いのかとも思うが、実利主義の社会の中で企業戦士としてバリバリに働いている、あるいはかつては働いていた男達が、こんな、何の利益も生まないことで余暇をいっぱいに使って雄叫びのような歌声を張り上げているのを見ていると、聞いている僕の方もなんかおかしくなってきて、感動のようなものを覚えてしまう。僕も男だからなのだろうか?

 今、この原稿を書いているのは、7月3日土曜日の東京文化会館の控え室。今日は、東京六大学OB合唱連盟演奏会で、僕が指揮した東京大学音楽部OB合唱団アカデミカコールの出番が終わって一息ついたところ。モニターから流れているのは、田中信昭氏指揮で法政大学アリオンコールOB会・男声合唱オールアリオンが演奏する、間宮芳生作曲「合唱のためのコンポジションⅢ」。実になつかしい曲だ。ちなみに早稲田の指揮は松尾葉子さんだよ。みんな贅沢な音楽家を使っているねえ!
 以前、この欄でも触れたことがあるが、アカデミカコールの演奏した藤原義久氏作曲「四つの祈りの歌」は、とても演奏し甲斐のある名曲だ。演奏し甲斐があるとはどういうことかというと、練習の最中にいろんなアプローチをすると、その度にいろいろな表情や味わいが新たに出てくるのだ。サンスクリット語にラテン語、日本語、エスペラントと、それぞれの言語にもそれぞれの表情があり、いろいろな景色が見える。こうした曲は、演奏者のモチベーションを高め、チャレンジ精神を掻き立てる。

スコア
 いつも僕は暗譜して演奏する毎に、
「会場に作曲家の霊が・・・・」
なんて怪しいことを言っているが、今回は霊ではなくて作曲家本人が会場にいた。なあんだ生きているのか、なんて言ってはいけない。作曲家がそばにいるからインスピレーションが降りてこないというものでもない。
 指揮者がinterpretierenするということは、作曲家が、
「ほら見なさい!」
と指し示した月を、“自分の目”で見て“自分の心”で感じることなのだ。ここに演奏という再現行為の秘密があり、面白さがある。そして、その手がかりはスコアの中以外にはない。作曲家がそばにいるからといって、藤原さんと親しく話をしたらこの曲が分かるというものではない。音楽の生命はスコアの中から読み込む他方法がないのだ。
 スコアには作曲家の想いが込められている。これは抽象的な意味でではなく、スコアを眺めていると、そこから作曲家がひとつひとつ筆を落として音符にしていった一瞬一瞬の声にならない声が聞こえる。
 僕は、指揮者の勉強をしていた学生時代、よくスコアを丸々書き写したり、片っ端から暗譜した。アナリーゼも必要だけれど、そんな生っちょろいことを言っているより、丸ごと覚えてしまって体に入れた方が良いのだ。ざっと見て一見何も新しいことなどないなと思っても、一音一音書き写してみると意外なことが分かる。
 たとえばベートーヴェンは終止和音を書く時、よく五度を抜いてドとミだけで書いていた。
「あれっ?ソがないんだ。どうしてかな?」
そうしてあらためてレコードを聴いてみると、まさにそういう音がしている。理由はない。ベートーヴェンはそういう音が欲しかったのだ。

 この藤原さんの作品に対してもそう。今ではいちいち書き写したりはしないが、スコアを暗譜するためにひとつひとつの音のたたずまいを徹底的に吟味した。丁度、職人が同業者の仕事ぶりを細かく吟味するように。作曲家がたとえば構造的にどう考えてこのモチーフをここに持ってきたかとか、サウンド的にどう考えて、この楽器のこの音域を使ったかとか、この和音連結を考えついた時、きっと作曲家は狂喜しただろうなだろうとか、そういうことが見えてくると、作品が好きになってくる。で、今回もこの曲が大好きになった。二十代終わりでよくこんな曲が書けたなとつくづく感心するよ。

 終曲Cantate Dominoの変拍子も、何度も何度も練習したりイメージトレーニングをして、何も意識しなくても自然に手が動くところまで持って行った。この曲は実際、変拍子であることを忘れるほどのしなやかさを持っているが、そう思えるまで時間がかかった。 最初はやはり変拍子の曲だから間違えないようにしなければと思って、ぎこちなく振っていたのだ。スコアを頭にたたき込むのは僕の場合さほど困難ではないが、体に入れるのに時間と手間がかかる。体というものは精神に対して実に鈍感なので、繰り返し覚え込ませないといけないんだ。
 こんな風に努力しないとどの曲も自分のものにはならない。自分のものにならなければ人前で演奏してはいけない。良い演奏を生み出すために必要なことは、その作品と濃密な時間を過ごし、その作品の良さを誰よりも先に味わい尽くし、それを一人でも多くの人に伝えたいという情熱を持つこと。

 打ち上げで、それぞれの大学のOB合唱団が、それぞれの持ち歌を歌ったが、我等がアカデミカコールは、ヴェルディ作曲「リゴレット」から「静かに静かに」を歌った。これはマントヴァ公爵の廷臣達が道化のリゴレットをこらしめようと愛娘ジルダをさらっていく男声合唱曲で、あの真面目な東大卒のおじさま達がゴロツキの合唱を歌うのがおかしい。 でもアカデミカコールはこれを自分たちの持ち歌として定着させようとしている。つまり「チョイワルおやじ」として脱皮しようとしているわけだ。指揮していて途中崩壊しそうになったので、ヤベエと思ったが、こうした脱皮の意図は他の大学のOB達に伝わったとみえて、予想以上にウケた。こんなこともOB六連の楽しみ!六本木男声合唱団倶楽部もそうだけど、男声合唱に特別甘い僕のこうした関係はまだまだ続いていくのだな。

 しかし・・・・Cantate Dominoが頭の中にずっとエンドレスで響いていて止んでくれない。しかも瞼を閉じると譜面まで浮かんできて・・・ス・・スイッチが切れない。だれか止めてくれえ~!

寝不足と戦う日々
 僕にとって早朝の一時間の散歩は今や欠かせないので、前の晩にベッドに入るのが0時を越えると寝不足になってくる。ところが、ここのところFIFAワールドカップのお陰でヤバイ状態が続いている。
 OB六連演奏会の前日、7月2日金曜日の晩は、演奏会に備えて早く寝なければと思いつつ、FIFAワールドカップのブラジル-オランダ戦を見てしまった。まあ、六大学の演奏会というのは6団体も出場するので、ゲネプロから本番までの待ち時間が長く、控え室でお昼寝が充分出来たので問題は起きはしなかったけどね。
 この試合、最初はどこから見てもブラジルの方が強いと思われたし、早い時間に先取点を取ったので、これは楽勝かとも思われた。休憩時間に別のチャンネルを回したら、フルートのエマニュエル・パユやチェンバロのトレヴァー・ピノックらがバッハを演奏していた。パユのフルートの音が美しく、アーティキュレーションも爽やかで、もうサッカーなんかいいやとも思いかけたが、とりあえず後半戦が始まってオランダがぱっとしなかったら即座にチャンネルを戻そうと思い直してサッカーに切り替えた。ところがホイッスルが鳴って選手達が動き始めると、ボールがどんどんオランダの方に渡り、あれよあれよという間に二点も取ってしまったので、バッハどころではなくなってしまった。あれれれ・・・・・いざとなると三澤はサッカーのためにバッハを平気で裏切る音楽家らしいよ-!

 考えてみるとこのブラジルを破ったオランダを相手に日本チームは一点以上の得点を許さなかったのだから、あっぱれと言うべきだ。日本チームに関しては、先週「案外良いところまでいくのでは」と言った予言は見事にはずれたが、パラグアイ戦は、最後にすがすがしさの残る良い試合だった。
 それにしても、
「ああ、駒野がなあ・・・・」と、駒野選手はこの先ずっと言われそうで気の毒だな。本当は駒野がどうというより、あれだけ戦わせておいて、最後にPK戦で決めるというルール自体に問題があるのではないか?それって東大入試の合否を最後にジャンケンで決めるような、最高裁の死刑か否かの判決を、
「入ります!」
と言って半か丁で決めるような、今までの努力はなんだったの的な、とても投げやりな決定方法のような気がするのは僕だけでしょうか?勝ったって勝った気がしないし、負けたって実力が追いつかなかったという風にはあきらめきれないものね。
 決勝トーナメントなのだから、もうこうなったらデスマッチという感じで、どちらかが先に一点を入れるまでとことん戦わせればいいのに。もうみんな立ち上がれなくなって意識朦朧となって、ゴールの前にボールが転がっているのに誰も辿り着けないとかね。

 7月3日夜、OB六連演奏会の打ち上げに出てから、妻の車で家に辿り着いた。おお疲れた!演奏時間は短かったのだが、やはり演奏会というものは人とも会うし気も遣うわで疲れるものなのだ。次の日のんびり出来ればいいのだが、実はそういうわけにはいかない。翌日7月4日の日曜日の朝10時には、なんと名古屋の長久手にいなければいけない。8月29日のマーラー・プロジェクト名古屋管弦楽団演奏会のために、マーラー作曲交響曲第四番とワーグナー作曲楽劇「トリスタンとイゾルデ」抜粋の初回のオケ練をするためだ。

 家を6時前に出なければならないので、今晩こそは早くベッドに行かなくてはいけない。
ところが娘達が騒いでいる。
「パパあ、今晩はドイツ戦だよ、寝ている場合じゃないよ!」
この娘達、二人してバリバリ応援モードに入っている。
「だめだめ、今日はもう寝ないと明日名古屋に行けない!」
と頑強に拒否している内になんとドイツ-アルゼンチン戦が始まってしまった。
 やばい!これは本当にやばい!明日練習する演目がモーツァルトとかバッハならばまだしも、マーラーとワーグナーでしょう。スタミナが必要なんだ。寝不足などなったら一日もたないし・・・・あっ!ドイツの選手達、めっちゃ強ええ!どんどん前に進んでいって、ドリブル、パス、シュート、おお!チームワークも個人プレイも、どこをとっても非の打ち所がない。さすがドイツ。あっ!ウッソ!ゴール決まった!やったあ!先取点を取ったぞ!ところがその後はアルゼンチンの反撃もすさまじく、ドイツも結構追い詰められている。とても寝るどころではない。あっ!ゴールだ!やられたあ!え?なになに?オフサイドだって?おお、危なかった、ドキドキしちゃった・・・・なんてやっている内に・・・・前半戦が終了してしまったではねえの。ゲッ!もう本当に寝るんだ!
 というので決心してベッドに入った。でも演奏会の後というのはなんとなく興奮していてすぐには寝付けない。しばらくしてから娘達が寝室に押しかけてきた。
「パパあ、ドイツ勝ったよ。4対0だよ。もう、めっちゃ強かったよ!」
「おお!フランスもイタリアもいない今となっては、ドイツだけが頼り。ああ、ライブで観たかったな。こうなったら決勝が面白くなってきたぜ!」
なんだ、結局終わるまで起きていたも同然じゃん。

寝不足より強い天才のパワー
 ということでまたまた寝不足をかかえて名古屋へ行った。中央線や新幹線の中で眠りながらいけばよかったのだが、ここのところ「四つの祈りの歌」にかかりっきりになっていたので、ちょっとマーラーとワーグナーから遠ざかっていた。だからなんとなく心配でスコアを見ていたら名古屋に着いてしまった。
 ところが・・・・・ところがだよ・・・・・マーラーとワーグナーのパワーってもの凄いんだ。オケは、まだ初回の練習だから完成まで遠いが、どのセクションが中心となるモチーフで、どの楽器がそれを伴奏するべきだとか、どういうバランスで互いを感じるべきだとか教えながら作っていく内に、サウンドが決まった瞬間、作品からもの凄いエネルギーが放射しているのを体で感じた。な・・・なんだこれは?するとね・・・・寝不足なのに僕の体はみるみる元気になってくるのだよ。ええ?信じられないなあ。

 マーラーは昔から大好きな作曲家だが、交響曲第四番に今回向かい合って、昔には分からなかったことがいろいろ分かるようになってきた。何が一番違うかというと、特に第一楽章などを指揮していると、
「ああ、マーラーはオペラ指揮者だったんだなあ!」
と肌で感じる。
 ブルックナーなどと違うのは、マーラーは彼の日常で、テキストあるいは歌手のニュアンスに合わせて、細かいアゴーギクをかけて様々な表情を作り出すオペラ指揮者の仕事をしていたのだ。それが体に染みついているので、自分の作り出す曲の中にもそうした表情の繊細さが反映されているのだ。
 長年オペラに関わってきた内に、昔は分からなかったのだけれど、今や僕には、このモチーフはどうしてここで出てくるのかとか、このフレーズをどのように演奏したらよいのか、なんだか手に取るように理解できるのだ。もしかしたらあの人なつこい第一楽章の第一主題のアゴーギクは、ヨハン・シュトラウスやレハールのオペレッタから盗んだものかもしれないと今回初めて思ったしね。少なくともヴェルディが至る所に顔を出すことだけは間違いがない。

 一方、「トリスタンとイゾルデ」という作品は、自分で指揮してみると身が震えるくらい素晴らしい作品であることが分かる。どこをとっても独創的で、あれだけ長い作品なのに無駄がない。ストーリー展開は単純で、舞台上で人間が動かないので有名だし、テキストも「愛してる」ばかりの繰り返しのように思えるが、これがあの大管弦楽と共に奏でられると、この作品自体が、ロゴスの体現者である“言語”と、パトスの代表選手の“音楽”の融合における究極的な姿であり、聴覚とそして視覚によって享受される壮大な哲学書のような印象を受ける。その意味では徹頭徹尾劇場的な作品だとも言えるし、劇場というものの中で何が出来るのかという可能性が行き着いたひとつの終着点とも言える。
 特に今日感じたのは、第三幕第二場に入ったばかりの三拍子と四拍子とが交差する部分や五拍子というワーグナーには珍しい変拍子の独創性。しかも奇をてらったという感じは全くせず、全て表現への意欲が自然に導いた結果なのだ。

 恐れることなくはっきり結論づけてしまうと、僕は、この作品こそ「マタイ受難曲」と並んで、人類が作り出した最も素晴らしい音楽的世界遺産だと思う。昔、ザルツブルグ音楽祭でカラヤンが、あまりに作風の違う「トリスタンとイゾルデ」と「マタイ受難曲」を同時に公演して物議を醸し出したが、僕にはカラヤンが何を考えていたのかが分かるな。
 キリスト教的精神に支えられた道徳的に完璧な「マタイ受難曲」を、あんな愛欲に溺れた自堕落な「トリスタンとイゾルデ」と並べるのかと怒った人は少なくないだろう。でもね、そんな次元の話じゃないんだよ。人間として生まれて「マタイ受難曲」の素晴らしさを理解できるまでに辿り着いたその人の人生がラッキーならば、「トリスタンとイゾルデ」に出遭うことが出来た人の人生も、同じように祝福に値する。

 なにい?まだ出遭っていないって?それならば8月29日の16時に愛知県芸術劇場コンサートホールに来てみてください。トリスタンを歌うのは、我が国におけるトリスタン歌いナンバーワンの成田勝美(なりた かつみ)君だし、イゾルデの並河寿美(なみかわ ひさみ)さんの歌唱にはきっと心打たれるに違いない。彼女とは尼崎の「蝶々夫人」で僕の指揮のもとで歌ってくれたが、唖然とするような蝶々夫人を演じてくれたんだよ。
 この演奏会に来れば、何故僕がバッハに傾倒しているようにこれだけワーグナーにハマッているのか、あなたはきっと分かってくれるに違いないし、「トリスタンとイゾルデ」という作品のどこがそんなに凄いのか、自ずと理解してくれるに違いない。

モーツァルト協会の講演会
 さて、あと二週間足らずで僕は再びドイツの土を踏む。久し振りのバイロイト、それにアイゼナハをはじめとするバッハゆかりの地だ。ああ、もう楽しみでドキドキしてきたよ。

 でも、その前にやらなければならないことがひとつだけある。それは、7月13日18:30から東京文化会館4階大会議室で行われるモーツァルト協会主催の講演会「モーツァルト宗教曲の魅力」の準備だ。これから一週間かけて猛スピードで資料を引っ張り出し整理して原稿を作る。
 幸い僕は名古屋のモーツァルト200合唱団でかなりの数のミサ曲やその他の教会作品を演奏していて、すでにモーツァルトの宗教曲全体を鳥瞰出来る状態にある。いやあ、いろんな仕事をやっておくもんだね。ただね、僕は思うんだ。それらの宗教曲をただ時代順に紹介して未完成のレクィエムで終わりなんていうんじゃつまらない。そんな講演会は僕でなくても誰だって出来る。
 僕は、講演会といえども一種のエンターテイメントとして、あるいはパフォーマンスとして捉えているからね。来てくれたお客様の心の中に長く記憶に残るような、なにか面白い切り口から迫ってみたいのだ。モーツァルトと宗教曲というコンビネーションの意味・・・・・・そうそう、ひとつはあるんだよ。それはね、戴冠式ミサ曲の「神の子羊」のソプラノ・アリアのメロディーが「フィガロの結婚」の伯爵夫人のアリアに酷似しているじゃないの。さっきのマーラーとオペラの関係じゃないけれど、モーツァルトのもうひとつのライフワークであるオペラとの関係が無関係のわけはないのだ。
 バッハだって世俗曲と教会作品との間に境界線を引かなかったでしょう。ジャンルに捕らわれるのはむしろ聴衆の方。歌曲「春へのあこがれ」のメロディーをそのまま転用して第27番ピアノ協奏曲の終楽章を作るなど、モーツァルトでも、ある楽想が様々なジャンルにまたがっているという現象が起こり得るわけだ。
 と、これはまだ序の口。これからいろいろ調べていくうちに、そんな当たり前のことではなくてまだまだいろいろ出てくるような気がする。講演会に興味がある方は、事前の申し込みが必要らしいので、モーツァルト協会のホームページにアクセスしてみて下さい。トップページに案内が載っています。



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