アラベッラとウィーン

三澤洋史 

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杏奈とスカイプ
 次女の杏奈がパリに発って、我が家はちょっと淋しくなった。昨晩は、杏奈を相手に久し振りにパソコンを通したテレビ電話のスカイプSKYPEをした。スカイプは便利だ。なにより通話料がかからないので(光ファイバーの常時接続料金に含まれている)、話したいだけ話せるのだ。パソコンの画面には、昔ながらのリヨン駅近くのアパルトマンの風景が飛び込んできた。向こうは寒いらしくて杏奈もパーカーを着込んでいる。
 二年前、急に帰国することになった杏奈は、父親が急病だと(僕だ、僕のことだよ)大家に嘘を言って、友達を代わりに住ませ、家具をそっくり置いてそそくさと帰ってきた。その友達はそのまま住んでいるが、今は夏休みで日本に帰国していて十月初めまで帰って来ない。だから杏奈はそこを根拠地としてゆっくりと新しく住むアパルトマンを探せばいいのだ。
 画面の向こうの杏奈の表情は明るくて、新しい希望に燃えている様子が伝わってくる。こちらは妻と長女志保、それに愛犬タンタンを抱いた僕が代わりばんこにカメラの前に立つので、まるで押しくらまんじゅうをしているよう。窮屈で仕方がない。僕が時々タンタンをカメラに近づけると杏奈の声が急に盛り上がるが、タンタンは場面の向こうの杏奈の顔には全く無反応。犬というものはディスプレイを認識できないんだな。つまんねえの。杏奈に向かって吠えてくれれば可愛いのに・・・・。
 今日あたりパリのメイクの学校の説明会があるらしい。それからいよいよ新しくパリ・ライフが始まる。今志保は日本に住んでいるので、そのうちホームページをリメイクして、杏奈のコーナーとパリ通信を合わせて皆さんにお届けできればとも思っています。あっと、僕が思っていても杏奈がその気にならなければ駄目か・・・・。  


アラベッラとウィーン
 新国立劇場では「アラベッラ」の立ち稽古が進んでいる。演出家フィリップ・アルローは始終陽気で、舞台に子ネタを仕込んでゆく。ハンガリーの大富豪マンドリカにはヴェルコ、ジューラ、ヤンケルという従者がいる。これを演じているのは新国立劇場合唱団のメンバーからの三人。彼等をアルローは縦横に使い、ギャグとも言える動きをつけている。
 「アラベッラ」のストーリーは、マッテオが暗闇で抱いた女性をアラベッラと勘違いするなど、荒唐無稽な部分もあるが、最後にはちょっとホロッとさせるハッピー・エンドの恋物語で、僕はリヒャルト・シュトラウスのオペラの中でも、最も好きな作品だ。

 舞台は「薔薇の騎士」と同じでウィーン。ウィーンを題材にするとお決まりで登場するのはワルツですなあ。それとそこはかとなく漂う退廃的なムード。この退廃的なムードが都会を都会らしくしている。パリには現代でもそういうところがあるからなあ。だから僕はパリが好きなんだ。
 ウィーンといえば、グスタフ・マーラー作曲交響曲第4番も、ウィーン宮廷歌劇場の芸術監督になったばかりのマーラーの「ウィーンへの挨拶」という意味合いが強い作品だ。随所で聴かれるワルツは、他の作品では見られないウィーン風のアゴーギクに満ちていたね。
 ハプスブルグ家が栄えたウィーンという街は、昔から交易の中心地であり、インターナショナルな雰囲気をたたえていた。たとえば有名なウィーン風カツレツWiener Schnitzelは、元はミラノからもたらされたというし、フランス文化との交流も昔からさかんだった。そんなウィーンの雰囲気が「アラベッラ」には充ち満ちている。特に主人公アラベッラに表現される静かなメランコリーがたまりませんなあ。
 今週はいよいよ舞台稽古。初日は10月2日だから、まだまだあるが、少しづつ出来上がっていく新制作の舞台は楽しい。

村上春樹が走ることについて
 「走ることについて語るときに僕の語ること」という本は、本屋の村上春樹コーナーでよく見かけていた。でも僕は、村上春樹氏の小説には興味があっても、彼がジョギングすることには特別興味を持っていなかった。別に彼のファンというわけではないからね。
 ところが、何気なくページを開いたら、そこに書いてあることが、僕が考えていることとそっくりだったので、つい買ってしまった。

僕はどちらかというと一人でいることを好む性格である。(中略)誰かと一緒に何かをするよりは、一人で黙って本を読んだり、集中して音楽を聴いていたりする方が好きだった。一人でやることならいくらでも思いつけた。
 当たり前のことを語った当たり前の文章なのだけれど、僕は村上氏という人間をとてもよく理解できる。何故なら、僕もそういう人間だから。僕が何かをやる時には、基本的には独学である。というか、最初から他人に混じってみんなと何かをやるというのが好きではない。特に最近、毎朝欠かさず一時間歩いたり、自転車に乗ったり、水泳をしたりするのは、はっきり言って一人になりたいからなのだ。肉体に何か負荷を与えて、そのことをきっかけに自分自身の肉体と向かい合い対話したい。村上氏は走っているし、トライアスロンの大会などに出ているので、僕よりずっと進んでいるが、考えていることはかなり近いと思った。
「村上さんみたいに毎日、健康的な生活を送っていたら、そのうちに小説が書けなくなるんじゃありませんか?」みたいなことをときどき人に言われる。
この後、村上氏はそうした意見に対し、反論を試みているけれど、その反論がとても面白い。
つまり、芸術行為とは、そもそもの成り立ちからして、不健全な、反社会的要素を内包したものなのだ。
と認めておいて、
しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。(中略)真に不健康なものを扱うには、人はできるだけ健康でなくてはならない。それが僕のテーゼである。
と言ってのける。これは実に名言だと思う。だからあんな病んだ音楽を書くグスタフ・マーラーは、あんなに精力的で頑強な人間だったのだ。僕も村上氏に習って、「トリスタンとイゾルデ」のような真に不健康な作品を全曲指揮して平気でいられるような健康な肉体を持ち続けようと思うのだ。

アメリカとビジネス
 何気なく変えたテレビのチャンネル。飛び込んできたのはある女性歌手のライブの様子。「面白そうだな、ちょっと観てみよう」
と思ったら釘付けになってしまった。後で調べたら全米で大人気のビヨンセBeyoncé Knowlesというシンガー・ソングライターだった。この「今日この頃」を読んでいる人の中には、
「ええ?三澤さんってビヨンセも知らないの?」
と思う人はいるのだろうし、逆にクラシック音楽以外には全く興味のない人は、
「ビヨンセって誰?三澤さんって、そんなのも観るんだ」
と思うかも知れない。

 僕がどうして釘付けになってしまったかというと、実はビヨンセの歌にではない。いや、歌もうまいのだけれど、そのステージ全体の作り方に感心してしまったのだ。言ってみればトータル・コーディネートのあり方というところだな。たとえばバック・コーラスは、そのまま相撲の力士にしてもよい体型の女性達が集められている。バック・バンドも全て女性。こちらは力士体型ではないけれど、ヘアーからコスチュームからすべてピシッと揃っていて、素晴らしいアクション付きで演奏している。レーザー光線を使った照明も音楽の曲想やリズムにピッタリ合っている。
 要するに、全てが完璧にコーディネートされてステージが成り立ってるのだ。そしてその真ん中にビヨンセがいる。ここまで徹底的にやられると、もう魅せられるしかない。

 ところが不思議な事に、僕の内面ではかすかな違和感がある。これってとてもアメリカ的だなと思う。なにもいけないことはないのだが、少なくともヨーロッパ的ではないと感じるのだ。それは何か?考えながら僕は、先日BE-STAFFの合志知子さんが言った言葉を思い出していた。
「アメリカでは全てがビジネスになってしまうのです」
なるほどねえ・・・・ビジネスかあ・・・・広い会場を埋め尽くす聴衆が沸き返り、スタンディングオベーションをし、一緒に踊りまくっている。その興奮はテレビを通して全米に放映され、ますますビヨンセの人気は高まる。
 うーん、文句のつけようがない。でもね、その文句のつけようがないってのが、もしかしたら僕がヨーロッパ的でないと感じるところなのかも知れない。たとえば、ビヨンセの歌にも、バック・バンドやコーラスのサウンドにも、何も新しい要素や実験的要素や独創的な要素が感じられない。その代わり完璧に演奏されている。それが「大衆」を惹きつける。このビヨンセを取り巻く巨大産業がめざすところは「大衆」という数であり、トータル・コーディネートされたステージも数を獲得するための手段なのだ。数とはつまりはお金であり、お金とはビジネスなのだ。

 たとえばバック・バンドのメンバーやバック・コーラスのメンバーを選定する場合、ヨーロッパでは恐らく実力を最優先する。ヨーロッパというのは、もっと職人世界だしオタッキーなのだ。体型で選ばれなかったもっと上手な歌手が、ヨーロッパならば選ばれるだろう。勿論、最高の舞台なんだから上手でないと話にならないが、実力以外の微妙な経済原理がアメリカでは働いているのだ。

 たとえばニューヨークのメトロポリタン歌劇場で行われているオペラの演出は、とても伝統的なものであり、ヨーロッパの劇場のような実験的なものは皆無だ。そうでないと「大衆」に受け容れてもらえないのだ。とはいえ、僕もメトの演出は好きですよ。伝統的とはいえ、様々な工夫が施されており、決して凡庸ではない。ただ、聴衆より一歩は先んじていても、決して三歩はいかない。だからつまりオタッキーには向かない。
 これがアメリカ文化の姿なのだ。アメリカでは、より大勢を動かさないとビジネスとしては成立しない。大衆というものは、そんなにみんな見識が深くて知性に溢れているわけでないので、少しだけ分かり易く(場合によっては程度を落として)単純にしてあげないとついて来れない。だから、要するに、アメリカでは真に独創的なものは育ちにくい。

 ビヨンセの歌の内容についても、僕はアメリカ的なものを感じていた。彼女は、
「みなさんの中に、生まれてから一度も人から嘘をつかれたことのない人っていないでしょう」
と会場の聴衆に呼びかけ、それから嘘をつかれた悔しさや悲しさを歌い上げる。このようにテーマはとても身近で、まさに聴衆の等身大で理解できるものばかりだ。
 コスチュームも踊りもセクシーで、会場の聴衆と彼女との間に距離が生まれる要素は皆無。これは何だろうなと考えさせられるものもない。あるいは周到に排除されている。だからみんなが理解できる。当然一体感が得られる。でもそれだけ。恐らく、このコンサートが終わって、自分が少しだけ高まったとか、自分の意識が何かに目覚めたとか、感じる人はあまりいないじゃないか。

 まあ、クラシック・コンサートではないのだから、そもそも別に精神性どうのこうの問わなくていいのだけれど、僕はね、ここにアメリカ文化の限界というものを感じてしまったわけよ。これが、実は僕がハリウッド映画やディズニーの世界やショウ・ビジネス全体に感じていたかすかな違和感の正体だったのだ。

 でも、ことわっておきますが、ビヨンセはもの凄い才能を持った歌手であることは疑いの余地はありませんからね。この文章は、彼女への批判ではないからね。またアメリカ批判でもない。
 ただアメリカという国がどういう国であるかは、僕たち日本人は知っておいた方がいい。
バーンスタインだったけかな。こういう言葉を聞いたことがある。
「アメリカの聴衆は、もの凄く熱狂するか、寝てしまうか、どちらかなんだ」
ちょっと恐い国なんだ。アメリカは。この国に最後までついていかない方がいい。



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