尼崎にいます
今、この原稿を尼崎のホテルで書いている。この週末は忙しかった。10月23日の土曜日に東京を発ち、浜松バッハ研究会で午後から夜にかけて練習。そのまま浜松に泊まり、翌24日の日曜日は早朝より名古屋に移動。10時から14時30分までモーツァルト200合唱団でロ短調ミサ曲の練習。その後、15時15分ののぞみに飛び乗り、新大阪を経て尼崎に辿り着いた。
尼崎のアルカイック・ホールでは17時からピアノ付き舞台稽古。この原稿は日曜日の晩の内に仕上げようと思っていたが、練習後にお好み焼き屋に行って、おいしいミックス焼きと一緒にビールを飲んだら、もうどうでもよくなって早く寝てしまった。って、ゆーか、朝から一日中移動したり働いたりで疲れていたんだね。
今朝は6時45分に起きて、尼崎商店街を抜けて一時間の散歩をした後、ホテルに戻ってきて朝食を食べ、パソコンに向かっている。
クリスマス・メドレー
10月23日土曜日は浜松バッハ研究会の練習。13時からの合唱練習に引き続き、18時からはオーケストラが入ってオケ合わせ。今日は編曲者の都合で一ヶ月遅れたけれど、いよいよクリスマス・メドレーのスペシャル・ヴァージョンが初めて響き渡る。作曲や編曲をして何が楽しみといって、初めてオケで音を出すほどワクワクすることはない。すでに弦楽器とパイプ・オルガンの為に作ったクリスマス・メドレーを、今回はバッハのMagnificatの編成のために編曲し直した。
Magnificatの編成というのは、弦楽器に加えて、トランペット3本とティンパニ、フルート(リコーダー)2本とオーボエ2本、ファゴット、オルガンである。さらに、一緒に演奏するブランデンブルグ協奏曲第4番でチェンバロも使っているので、メドレーではチェンバロも加えた。
この編成で書いてみて、とても勉強になったことがある。それは、この編成はバロック音楽以外ではとてもやりにくいということだ。反対から言うと、だからオーケストラの楽器編成は発展してきたのである。
まず、この曲は、カトリック聖歌集の和声付けによる「まきびと羊を」「もろびとこぞりて」「あめのみつかいの」などの聖歌が中心になっている。これをバロック編成の楽器でサポートしようとすると、弦楽器はヴィオラがあるので問題ないのだが、管楽器はちょうどテノールの音域にあたるところを伴奏する楽器がない。フルートもオーボエも一点ハ音から上に音域が広がっているし、その下はバス楽器であるファゴットになってしまうのだ。考えてみると、バロック期においては、管楽器はいわゆるソロ楽器としての性格が強く、管楽器だけで和声を形作るというイメージがない。
そこで僕は気が付いた。マンハイム楽派あたりから用いられたクラリネットの発明というものは、オーケストラにとっては実に偉大なのだという事実を。クラリネットはオーボエなどのような高音域も出るが、なんといっても一点ハ音から下の音域が出ることが強みなのだ。しかも、この低音域のクラリネットの音色は魅力的で柔軟性に富んでいる。記譜上でミまで出るので、Bフラットの楽器で実音Dまで。A管でCisまで出る。まさにテノールの音域をしっかりカヴァーしているのだ。
もうひとつ気付いたことがある。それは、ホルンがオーケストラに組み込まれたことの重要さだ。ホルンは、ある意味コウモリのような楽器で、金管でありながら音が柔らかいので木管楽器と混じるし、一方でトランペットやトロンボーンなどと組めば、金管楽器としてのパワーをも発揮する。そして、ベートーヴェンやブラームスが使ったように、ソロで吹けばホルンでなければ決して出せないようなキャラクターを醸しだし、時に英雄的に、時に哲学的に素晴らしい表現力を持っている。まさに万能の楽器なのだ。さらに音域がとても広いのも長所。このホルンとクラリネットによって、オーケストラの管楽器の充実度は、それまでとは比べもののないものとなったのだ。
だからこの二つの楽器がないということは、管楽器を独立させて演奏させるのが難しいという困難が伴うのだ。そこで僕はどうしたかというと、バッハがカンタータ140番やクリスマス・オラトリオの第二カンタータで使っていたように、オーボエ奏者にオーボエ・ダ・カッチャ、すなわちイングリッシュ・ホルンをもってきてもらって、必要に応じて持ち替えてもらうことにした。F管のイングリッシュ・ホルンは、オーボエより完全五度下の音域が出る。そうすることによって弦楽器と対等に管楽器が使用出来るようになった。
また、トランペットは、超高音域での使用は最初からあきらめてin Dではなくin Cで書き、バルブを使って下の音域でもメロディーが吹けるようにした。こうしないとバロックの曲想以外では、音量的に場違いに飛び出てしまうのだ。
ティンパニーに関しては正直失敗した。あまり考えないでいろんな音を書いたら、奏者がバロック・ティンパニを持ってきてしまった。それで演奏中に楽器に耳を当ててトントンと調律している。うわあ、申し訳ないなあ。モダン楽器だとペダルひとつでどんな音でも変えられるんだけど、バロック楽器だとそういうわけにはいかないんだ。でもねえ、Magnificatと同じ調性だといったって、EsとBbだけでメドレーの全曲を書くわけにはいかないんだよね。どうやら次からは別の楽器を用意してくれるということ。お・・・お気の毒!
その他に使っている楽器はコンガ、サスペンディッド・シンバル、タムタム・・・・おいおい、それって全然バロックじゃねーじゃん。
はい、その通りです。メドレー冒頭の聖歌「ひさしくまちにし」なんかは、弦楽器がノンヴィブラートでバグパイプ風な空虚な五度を響かせ、チェンバロがシタールのようにアルペジオで弾くと、オーボエがアラビア風なメロディーを吹く。それからコンガがアジアンなタイコを叩き出すのだ。
僕はね、「キリスト教というとヨーロッパ」という先入観を追い払いたいわけ。だから始まりは思いっきりアジアン・テイストにしたかったのだ。これが結構楽しい。
オケ練習が始まった。結構想像していた通りの音が出ている。オーケストレーションというのは、慣れないと当てずっぽうの要素が多いのだけれど、僕は幸い自作のミュージカルや新国立劇場の子供オペラなどで、オーケストレーションをする機会に恵まれているから、最近はあまりギャップは感じない。それに指揮者としてスコアを見ながら実際の演奏に接する機会が多いというのもメリットが大きい。マーラーやリヒャルト・シュトラウスのように、オーケストレーションの優れた作曲家に指揮活動を兼ねていた人が少なくないのもよく分かる。
さあ、これで、だんだんクリスマス・コンサートが楽しみになってきたぞう!このクリスマス・メドレーは、ところどころちょっとバロックの雰囲気から離れているかも知れないけれど、思いっきりバッハ風の箇所もあるし、かなりダイナミックで楽しいよ。東海地区のみなさんは、なるべく演奏会に足を運んで下さいね。あ・・・・Magnificatもブランデンブルク協奏曲第4番もあるんだよ。本当はそっちの方が重要なんだ。
アリア「ある晴れた日」は本当に晴れた日か?
音楽之友社のオペラ対訳ライブラリーを読んでいたら、著者の戸口幸策氏が、第二幕の有名な「ある晴れた日」のアリアのところで、これを単に「或る日」と書き、さらに長い注釈をつけて、このun bel diというイタリア語は、かならずしも「晴れた」日である必要はないと強調されていた。そこで僕は早速イタリア語の先生の所に行って、ズバリ訊いてみた。
「これは日本では『ある晴れた日』というタイトルで知られているのですが、どう思いますか?」
すると先生はなんの迷いもなく極めてあっさりと、
「そのタイトルは間違いですね。un bel diに晴れた日という意味はないです」
と言うではないか。
イタリア人がun bel diと聞いたら、それは「自分にとってgioioso喜ばしい日」、あるいは「feliceしあわせな日」と理解するのが普通だという。天気とは関係ないそうだ。もし晴れた日としたいならば、同じbelloという言葉を使うにしてもuna bella giornataと言うべきだということだ。あるいは、「晴れた」ということをはっきり限定したいならば、una giornata serenaとかにするともう間違いようがない。まあ、その場合には晴れていることばかりが強調されてしまう。なあるほど。こういうのは、やはりネイティブに聞かないと分からないね。
このアリアは蝶々夫人の妄想の歌だ。蝶々夫人はスズキを相手にピンカートンが帰ってくる喜ばしい日を勝手にイメージし、描写をしている。水平線の彼方から一筋の煙が立ち上り、やがて船が姿を現す。船はやがて港に入り、礼砲を轟かす。この場合、常識的に考えて、水平線の彼方の一筋の煙が見えるような天気といったら、まあ、ザーザー降りの大雨とは考えにくいので、少なくとも蝶々夫人の妄想の中の情景は晴れてはいるんだろうな。 とはいえ、蝶々夫人にとっては、ピンカートンさえ帰ってくれば、その日は雪が降ろうが雹が降ろうがUFOが降ろうが火山が噴火しようが世の終わりが来ようがun bel diなのさ。
それより僕が気になっているのは、むしろ戸口氏の訳の方だ。確かに「晴れた」という意味はないものの、だからといって
「或る日、海の彼方にひと条の煙の上がるのが見えるでしょう」
とだけすると、あまりにもそっけないように思う。それではせっかくbelという言葉を使った意味がないのではないか。
蝶々夫人は、他の所でもピンカートンが帰ってくる日のことに言及した時には必ずなんらかの「喜ばしい」意味の言葉を添えている。たとえば、スズキに向かっては
「ピンカートンはこう言ったのよ!」
と主張する。
tornero colle roseまた、シャープレスに対しても、こう言っている。
alla stagion serena
quando fa la nidiata il pettirosso
戻ってくるとも、薔薇の花を持ってね
駒鳥が巣を作る
その晴れやかな季節に
(これ以降の訳はすべて三澤洋史訳)
Mio marito m'ha promessoここでは日diではなくstagionすなわちシーズンについて語っているが、前の文章は、先ほども出てきたまさに「晴れた」という意味のserenaという単語が使われているし、後の方は「しあわせな、至福の」という意味のbeataが使われている。つまり蝶々さんは、ピンカートンが帰ってくる時期について語った時、形容詞を伴わないで語ったことは一度もないのだ。そうであるならば、un bel diだって「或る日」だけではなくて、なんでもいいから蝶々夫人にとって「特別な」日であることの描写が欲しいな。晴れている必要がないことはよく分かったから、今度は蝶々夫人がbelという言葉に託した想いを汲み取ってあげることが必要だと思う。「或る日」だけでよければそもそもun diなのだけれど、そうは言ってないのだからね。
di ritornar nella stagion beata
che il pettirosso rifa la nidiata.
主人はあたしに約束しましたの
駒鳥が巣を作る
しあわせな季節に戻ってくると
美しい描写
「蝶々夫人」のテキストは、ジュゼッペ・ジャコーザとルイージ・イッリカの共作であるが、深く読み込めば読み込むほど、いろんなニュアンスが感じられて実に味わい深い。たとえば第一幕の蝶々夫人とピンカートンの二重唱。ピンカートンは、
「おいで、おいで!」
と蝶々さんを誘う。そして星のまたたく空を指さしてこう言う。
E notte serena!ところが蝶々さんは、同じ夜空を見ながら反対にこう語り始める。
Guarda dorme ogni cosa!
澄みきった夜だ!
見てごらん、すべてのものは眠っている!
Oh! quanti occhi fissi, attenti男性であるピンカートンが「すべてが眠っている」と感じている時に、女性の蝶々さんが「沢山のまなざしによって八方から見つめられている」と感じている。こうした男女の感性のすれ違いの描写は見事だと思う。考えてみると、同じ時を共有し愛し合っていながらも、男と女は互いの中に自分の見たいものだけを見て、本当は永久に交わることのないまま、互いに分かり合っているという幻想の中に生きているのではないか。だから世の中における恋人同士の数々の不幸は起きるわけだ。
d'ogni parte a riguardare!
ああ、なんて沢山の瞳が
あらゆるところからじっと注意深くみつめているのでしょう!
Pei firmamenti,
via pei lidi, via pel mare,
quanti sguardi!
大空にも、陸地にも、海にも、
なんて沢山のまなざしが・・・・
Tutto estatico d'amor
ride il ciel!
天が笑っている!
愛の陶酔のきわみに!
ベスト公演の予感
今回の尼崎公演は、3年間に渡る尼崎蝶々夫人の集大成ともいうべき素晴らしい公演になる予感がする。まず、岡崎他加子(おかざき たかこ)さんと並河寿美(なみかわ ひさみ)さんの二人の蝶々さんは、おそらく現在の日本でこれを超える蝶々さんを探すのは不可能ではないかと思うほど、歌唱、演技とも素晴らしいものがある。また、ピンカートンは、今をときめく村上敏明さんと、安定した歌唱で僕の好みにぴったりなテノール樋口達哉さんが演じる。
これまでケート役で競演したことのあるマキマキこと山下牧子さんは、昨年、二期会の「蝶々夫人」で初めてスズキを演じた。その時の演出家、栗山昌良(くりやま まさよし)氏から相当ハードな薫陶を受けたと聞いているが、その結果が見事に花開き、気さくで現代っ子っぽいマキマキの普段の姿から想像も出来ないほど素晴らしいスズキを演じている。
あと、ヤマドリの松本進さんが、持ち前の演技力で独特の人物描写を行っていて楽しい。ヤマドリには、なるべく「変なひと」というキャラクターを与えた方がいいのだな。これを特に高橋淳のゴローと一緒に演じると、ヤマドリが登場している間、これが悲劇であることを一瞬忘れてしまう。その他のキャスト達もみんなベスト・メンバーで無駄がない。
最も強調したいことは、東京フィルハーモニー交響楽団の素晴らしさだ。まあ、新国立劇場の高校生のための鑑賞教室ですでに12公演を指揮し、それから尼崎で毎年2公演ずつ指揮しているので、これまでにすでに16回僕の指揮で演奏していて、楽譜も僕の振り数やテンポのニュアンスなどが全部書き込まれているのだ。だから最初のオケ練習の時からとてもスムーズに練習が運んだ。
だって何も言わなくっても、みんな僕のテンポや表情のニュアンスを先取りするかのように演奏してくれるのだもの、止めたり説明したりする必要がないので、どんどん先に進む。練習は驚くほど早く終わるし、双方にストレスが発生する原因がない。
それに加えて、特に今回はそれぞれのセクションのメンバーが素晴らしい。東京バロック・スコラーズ(TBS)で共演してもらっているオーボエの小林裕(こばやし ゆう)さんが、今回は乗ってくれているし、前回のTBS演奏会で柔らかい音色で聴衆を魅了してくれたトランペットの辻本憲一(つじもと けんいち)さんがトップ奏者として入っていて、随所でパワフルだけれど決して威圧的でないしなやかな音を聴かせてくれる。手前味噌だけれど、この東フィルの演奏は、みなさん聞き物でっせ!
さあ、これからもう一度「蝶々夫人」のイタリア語をチェックするか。今日のピアノ付き舞台稽古練習は午後から。今日から合唱団が入る。オケは明日尼崎入りする。今晩は、この秋から僕のアシスタントとして劇場に入り、音楽練習でピアノを弾いてくれたり立ち稽古以降は多方面に渡ってサポートしてくれる冨平恭平(とみひら きょうへい)君などを誘って焼き肉を食べに行く予定。
なに?カロリーはだって?お願い!尼崎の間だけは見逃してね!