食いだおれ尼崎

 

三澤洋史 

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尼崎「蝶々夫人」無事終了
 尼崎「蝶々夫人」の公演が終わって東京に帰ってきた。手前味噌を許してもらいたい。予想していたようにこの公演はかなり完成度の高いものに仕上がったと思う。歌手達に音楽性の高い人たちが多かったせいで、オーケストラと歌手のコンビネーションが素晴らしかった。
 それぞれのアリアも秀逸だったが、特に重唱のクォリティが高かった。第一幕の蝶々さんとピンカートンの二重唱は、両組とも陶酔の極みだったし、第二幕の「花の二重唱」のめまぐるしく変わるテンポに難なく乗って見事な表現を繰り広げてくれた蝶々さんとスズキ、第三幕のシャープレス、ピンカートン、スズキの三重唱の充実感など、通常はなかなかこのレベルでは聴けないのではないか。
 しかもそれらを支えるオーケストラがよく歌ってくれた。東京フィルハーモニー交響楽団は両日に渡って実に感動的な演奏をしてくれた。ゴマをすって言っているのではないよ。本当にそう思っています。東フィルよ、誇りを持って下さい!あなたたちは我が国における真のオペラ・オーケストラです!

 で、僕自身のこともちょっと言わしてね。指揮していて昨年と全く違うことが一点だけあった。それは、イタリア語を集中して勉強しているお陰で、イタリア語に対する思い入れの深さが違った。オケの音はもとより全て頭に入っているが、それに加えてテキストもドラマも、今年は完全に単語レベルで自分のものにすることが出来た。
 以前から、たとえば「マタイ受難曲」のようなドイツ語作品を振る時には、すでに頭の中に日本語はなく、本当はドイツ語で練習もつけたいくらいドイツ語に自分を同化させていたが、今回初めてイタリア語でそれと近い境地になれたのが嬉しい。
 そして、それだからこそ、本番中の自分の内面がとても静かで、周囲に起こるどんな些細な変化も見落とさずに対処することが出来た。本番終了後はとても疲れたが、それは肉体的疲労ではなく、むしろドラマを一本演じ切った「役者」の疲れに似ていたかも知れない。

食いだおれ尼崎
 いつも尼崎では普段食べれないものを食べる。10月25日月曜日の夜は、僕のアシスタントの冨平恭平(とみひら きょうへい)君達を誘って、闇市という焼き肉屋に行く。ここの肉は安くてしかも極上。東京でも食べれないことはないけれど、もし同じものを食べようと思ったら、いったいいくらかかるだろう?
 26日火曜日も何人かで「てっちゃん鍋」の店に行く。ここは初めてだったけれど、なんとも強烈だった。小ぶりの中華鍋のようなものがコンロに乗っていて、そこに油を敷いて内臓系の肉やにんにくや野菜や豆腐などをゴチャッと乗せ、上から特製ソースをかける。この特製ソースは赤いとうがらし系のもので、これをかけると部屋中に「ぶははっ!」と辛い香りが漂い、思わず咳が出る。
 おにいさんがいきなり叫ぶ。
「今、いじらんといてな。いじったらあかんで!」
偶然同席した東フィルの管楽器の女性が、
「それでもさわったらどうするんですか?」
と聞くと、おにいさんは、
「まあ、怒らへんが・・・・いじったらあかん言うたのに、ふーん、いじるんやこの人と(軽蔑して)、思うだけですわ、あっはっはっは!」
何と面白い会話。東京では聞けないなあ、こういうやりとり。
 僕はこの店で韓国甘酒のマッコリ・デビューした。マッコリは甘くて飲みやすいけれど危険な飲み物だ。

 二日目の本番を長女の志保が観に来た。彼女は27日水曜日に、東京での午後の仕事が終わってから新幹線に乗り、午後9時頃尼崎に着いたので、僕は夕食を食べるのを待っていて、一緒にお好み焼きやの「みっちゃん」に行った。
 「みっちゃん」では定番のミックス焼きと、それから関西にしかない「牛すじねぎ焼き醤油味」を食べた。ねぎが死ぬほど乗っているねぎ焼きは一度食べたら決して忘れられない味だ。牛肉を関西ほど食べない東京では牛すじというのもあまりないから珍しい。面白いのは、ミックス焼きにもねぎ焼きにもこんにゃくが入っている点。これが不思議な食感を生み出すのだ。

 本番の日28日の昼食は、尼崎繁華街を奥まで行ったところにある讃岐うどんの店で食べた。ここで僕は大きな失敗をした。ここは、はなまるうどんのようにセルフ・サービス。自分でお盆を取ってまずめんを注文する。正面に1玉、2玉、3玉と書いてある。僕が躊躇していると志保はまず肉うどんを注文した。店員が、
「ひとたまでええですか?」
と聞いてくる。志保は、
「はい」
と言って、目の前にあるおにぎりをひとつ取った。
 次は僕の番。僕はこの1玉、2玉、3玉を、はなまるうどんの小、中、大のようなものだと疑いもなく思ってしまった。それで不用心にも、
「かけうどんのふたたま!」
と頼んでしまった。それから目の前にあるてんぷらを取った。いつもはてんぷらもひとつで済ますけれど、今日は本番。スタミナをつけなくっちゃ、と思ってかき揚げと竹輪天の二つを取って待っていた。
 そうこうしている内に志保の肉うどんが運ばれてきた。僕も志保も、
「ゲッ!」
とビビッた。うわあ、めっちゃ量があるやんけ!ということは・・・・まさか僕のふたたまって・・・・・うわああああああ!たすけてーーーー!

 いやあ、今思い出してもあの瞬間のショックたるや人生最大のピンチ!巨大などんぶりにめんもつゆも溢れんばかりに乗っている。つまりは、ふたたまとはひとたまの倍だったのだ。考えて見れば当たり前の話ですが・・・・この量をみんな当然の事のようにして食べてるのですかあ?尼崎のみなさん!
 そ・・・それに・・・・さ、さんたまってゆーのもあるんだよね。あのう・・・・すみませんが・・・・さんたまって、一体どんな人が食べるのですか?もうひとつ聞きたいんですけど・・・・女性向きのヘルシーうどんなどという概念はこの尼崎にはないんでしょうか?

 さて、志保の頼んだ肉うどんだが・・・・関西で肉と言ったら牛肉をさすという誰かの言葉は本当だったなあ。志保のうどんの上に乗っているのは、まぎれもなく牛肉!しかもかなりヤバイくらい多くて、またまたどうしようかと思う。肉自体は上等で、甘辛く煮てある。志保は僕の横で危機感をつのらせていった。
「パパ、食べきれないから肉もうどんも好きなだけ取ってね。おにぎり頼まなければよかった・・・・」
「言っとくけど、パパも無理だからね。駄目なら残しな・・・・パパも天ぷらふたつも頼んじゃったしな。でも、これで天ぷら頼まなかったら炭水化物のみ死ぬほど食べ続けなければならなくなるしな・・・・」
とは言いながら、僕も志保もなんとか無理して食べちゃった。
 僕の場合、食事制限を始めた一年半以来、こんなに腹一杯食べたことはありませんでした。もうパンパン・・・・喉元までうどんが来ていた。満腹感の幸福を久し振りに心ゆくまで味わえるなら、それは讃岐うどんなどであって欲しくなかった・・・あああ、人生ざんねーん!
 こうなったら、今日の本番で暴れてやる。暴れまくってやる。そうしないとどう見てもオーバーカロリー。

 志保はその後「蝶々夫人」を観ながら泣きまくったそうだ。でも近くの高校生達もとても真剣に観ていて、終景では結構泣いていたそうで、イマドキの高校生も結構純粋なのだなと思った。
 僕は、先ほどのオーバーカロリーを取り戻そうと本番で暴れたのだが無駄でした。東京に帰ってきて体重計に乗ったら、軽く一キロ近く増えてた・・・・グスン・・・・・せっかくその前に体重が元に戻ってきたのに・・・・。お好み焼きといい、うどんといい、大体においてよう、尼崎って炭水化物の採り過ぎなんだよ!恐るべし尼崎!

奥が深いイタリア語の時制
 新国立劇場合唱団指揮者としての僕のスケジュールは、かなり早い時期からはっきりしているので、空いているところにはプライベートな用事を入れることが出来る。だが公演指揮者となると契約の仕方が全然違う。その演目の練習期間に入るといわゆる全拘束となる。全拘束といっても別に身柄を拘束されるわけではない。一日の内の最大3コマ、すなわち午前練習、午後練習、夜練習と必要に応じて参加しなければならないという意味だ。その決定は前の日の午後練習が終わった時点で決定するわけなので、事前に午前中、プライベートな用事を入れておくわけにはいかない。

 尼崎「蝶々夫人」では、僕は合唱指揮者としての契約ではなく公演指揮者だったので、練習期間に入る前、イタリア語の先生に、
「来週、あるいは再来週、もしかしたら来られないかも知れません。その時には連絡しますね」
と言っておいた。でも立ち稽古はとてもスムーズに運んだので、練習はたいてい午後から。イタリア語のレッスンは一度も滞らずに済んだ。さらに、土曜日に東京を離れて木曜日に帰ってきたので、レッスン日にあたる金曜日にはちょうど引っ掛からずに済んだ。公演後、疲れていたらどうしようかなと思っていたけれど、大丈夫だったので、29日金曜日はいつも通りレッスンに行った。
「結局、毎週滞りなく来れましたね。あの時心配していましたけどね」
と僕がイタリア語で言い出した時である。
「その言い方、違います!」
といきなり先生に言われた。
「え?どうして違うんですか?」
つまりこうである。僕は、

Me l'ho preoccupato.
私はそれを心配していました。
と過去形で言った。これは英語的に言うと現在完了にあたる形だ。つまりhaveにあたるavereと動詞の過去分詞を組み合わせるやり方で、完了の意味もあるがイタリア語ではむしろ通常の過去形として使われる。
 ところが先生は、これでは駄目だと言うのだ。
彼女は、この場合は、英語風に言うならばhadを使う過去完了の形を使うべきだと主張する。avereを半過去にして過去分詞と組み合わせ、
Me l'avevo preoccupato.
と言うべきだという。僕が、
「でも、来れないかも知れないと話していた時に、その心配は現在だったわけだから、近過去(現在完了)でいいのではないですか?」
と反論すると、先生はこう答えた。
「その心配が今でも解決しないで続いているなら近過去でいいのですが、途中ですでに解決したなら、その時点で大過去(過去完了)になるのです」
なんだかよく分かんねえや。

 そういえば「蝶々夫人」第3幕の中で、過去の軽はずみな行動を悔いるピンカートンに向かってシャープレスがこう言うくだりがある。
Non ve l'avevo detto?
あなたにそう言ったでしょう?
Vel(Ve lo) dissi... vi ricorda?
あなたにそう言ったのです・・・覚えていますか?
この文章が常に頭に引っ掛かっていたのである。
 最初の文章と次の文章は同じことを言っている。二番目の文章は遠過去といって文章でしか使われない通常の過去形。時制としては近過去と同じなのだ。にもかかわらず、最初の文章は近過去(現在完了)ではなく大過去(過去完了)が使われている。
 おかしいな、何故なんだろうなと思っていた。その疑問が先ほどの会話で再燃したわけだ。先生とその件でしばらく議論をしていたが、らちがあかない。一方、先生は何故僕がそれを理解出来ないのかが理解出来ないようだ。

 結局未解決のまま家に戻ってずっと考えていた。そうしたら少しずつ分かってきた。どうやら僕たち日本人は、完了形というものを掴み切れていないようだ。完了形イコール過去と考える事が間違いなのかも知れない。というのは、完了形は確かに過去に関係しているのだが、同時に現在との関係なしには把握できない概念のようだ。

完了形とは一体何か?
 完了形というものは、話題に登っている時制に対して、すでに状態や動作が完了している場合と、逆に、(ここが難しいのであるが)その状態や動作が「まだ完了していないで現在まで継続している」場合の両方で用いられる。ここで僕が強調したい事は、状態や動作が完了しているにせよ、完了していないにせよ、“その結果が現在に影響を及ぼしている”のが完了形なのである。
分かり易く英語で説明しよう。

He went.
これは単純に「彼は行った」という文章だが、
He has gone.
となると、彼は行ってしまって、少なくともこの文章を発している現在、彼はここにはいない。すなわち、彼が行ったという行為は完了していて、その結果、彼の不在という状態が現在まで続いているのだ。He wentでは、本人がそれを語っている時に、話題の彼はまた戻ってきて隣の部屋に居てもいいのだが、He has goneの場合はここには居ないのだ。
Spring has come.
春が来た。
これは春が来るという状態が起こり、そしてその状態は現在まで続いている。

 話をイタリア語のレッスンに戻すと、僕がレッスンに来れないかも知れないという心配を抱いたのは、先生と話す前から始まっている。だからその時点で、
Me lo preoccupo.
私はそういう心配をしているんですよ。
と現在形で言うことも出来れば、
Me l'ho preoccupato. 
私はそういう心配をしていたんです(今も心配し続けています)。
と現在完了形で言うことも出来るのである。

 しかし、それから日が過ぎ去り、その問題は解決して心配する必要がなくなり、後日、その心配していた日々を振り返りながら、
「あの時心配していましたね。でも今はその心配は解決しています」
と語る時には、現在完了のままだとどうも西洋人には居心地が悪いらしい。だから先生は、
「問題が解決したら過去完了」
と思うのだ。

 僕はそんなに英語が得意ではないので確信は持てないが、英語でも、もし先ほどの文章で、彼がその後帰ってきて、あの行ってしまった日々を振り返って語るとしたら、
He had gone.
と言うのではないだろうか。また今は夏や秋となっていて、あの春が来て楽しかった日々を振り返って語る時は、
Spring had come.
と言うのだろう。
 日本人はそんな時、
「どっちみち現在から見れば過去なので、現在完了形でもいいや」
とファジーに思ってしまうが、どこまでも論理的に出来ている西洋人の時制観からすると、それは許されないようである。

もっと分かりにくい半過去
 イタリア語では、この完了形を単なる過去形として乱用してしまうが、それでも完了形としての意味はれっきとして残っている。さらに日本人に分かりにくいものとして半過去という活用形がある(フランス語にもある)。半過去とは、イタリア語でimperfettoというように、未完了の意味合いを持つことで完了形と一線を画す。
 半過去は、過去における状態や行為がある種の継続性を持っていたり、習慣的に行われて居たりする場合に使用される。大事なことは、その状態や行為の終わりがはっきりしない場合に使用する。そのことによってその状態や行為が“現在に影響を投げかけない”のだ。この半過去というものが、またまた日本人には難題なのである。

 たとえばこういう表現がある。

Quando mi sono alzato, pioveva.
私が起きた時、雨が降っていた。
この場合、反対に、
Quando mi alzavo, ha piovuto.
 とは言えないと先生に言われた。最初の形は、「私は起きた時」が現在完了形。「雨が降っていた」は半過去。半過去とは、過去の継続する状態、あるいはその現象や行為の終わりがはっきりしない時に用いる動詞のフォームだ。
 この場合、「私が起きる」という動作は瞬間的に完結しているので、完了形が望ましいし、一方雨は、私が起きる前から降っていたであろうし、起きた後もしばらくは降っていたであろう。そしてそれがいつ終わったかということについては不明である。
 日本語に訳されると、piovevaは「雨が降った」ではなく、「雨が降っていた」と、あたかも過去進行形のように表現されるが、別に進行形の意味は半過去にはない。ただ、私が「起きた」という一時的で瞬間的に完了する行為に対して、「雨が降る」という現象の継続性を日本語で表現するためには、過去進行形である「・・・ていた」を使うのが望ましいのであろう。でも、こうやって日本語に訳して考えている内は、語学の上達は望めないのだ。原語そのものの持つ言葉のニュアンスにそのまま肉薄しなければいけない。

 第二の文章で、何がふさわしくないというと、まず「起きた」を半過去にしてしまったことによって、本来の「起きる」行為の瞬間的完結性と半過去の持つ継続性が相容れなくなってしまったのだ。つまり日本語であえて言うと、
「私がよく起きていた時、雨は降ってしまっていた」
のようなちぐはぐな文章になるということだ。
 それは「始める」という意味のincominciareなども同じで、何かを始めた途端に、「始める」という動作自体は完了し、もう動き出しているわけであるから、この言葉を過去時制で表現する場合、ほぼ常に完了形と共に動くことを義務づけられており、incominciareに半過去は似合わないのである。僕はしょっちゅうincominciareのような動詞で半過去を使ってしまったりする間違いを犯して先生に注意される。言われてみると、
「あっ、そうか」
と思うのだが、恐らくこれからも間違い続けるであろうと予想される(笑)。とっさの会話でこれらを使い分けるのは、普段の日本語では使わない脳の部分をフル回転させなければいけないので、とても疲れるんだ。

奥が深い「蝶々夫人」台本の時制
 「蝶々夫人」には半過去、近過去、遠過去という三つの過去を表現するフォームが存在している。オペラの台本を読み解くには、現代の日常会話では馴染みが薄い遠過去に精通しなければならないのでちょっと大変だ。でも今回初めて、「蝶々夫人」のテキストを全文に渡ってくまなく文法的整合性をはかりながら訳し、理解し、覚えることが出来た。分からないところはイタリア語の先生に訊いたので、もう怖いものはない。でも、古い単語や文章表現が多くて、せっかく覚えても現在ではあまり役に立たないところも多いのだけれどね。
 イタリア語の先生は、現在においては、現在完了形である近過去と遠過去とは用法としては全く同じですと言っているが、この時代の台本を読む限り明らかに使い分けられている。

 先ほどのシャープレスのセリフも、日本語に訳してしまうと全く同じ事柄を言っているように見えるけれど、大過去(過去完了)と遠過去とをわざと並べたのには理由があるように思える。
 シャープレスは、第1幕で、ただの一度ではなく再三ピンカートンに、
「軽はずみな行動をしないように」
と注意を促していた。それを表現するのに、ただ、
「私はこう言ったのだ」
という過去形では不充分だったのだと思う。
 だからその前に、再三言い続けていただろうという意味を込めて、
「あなたが日本にいたあの時、私はあなたにこう言い続けていたのですよ。」
という過去完了形を使ったのではないか。
 そして次の文章の方は、
「(こうなってしまった今、あの時のことを)あなたは覚えていますか?」
という意味合いを現在形に込めて、その直前に、
「かつて私が言った事を」
のシンプルな遠過去の文章を並べたのであろう。遠過去は、現在から見て過去であることだけしか問題にされていないのであるから。

 イタリア人がどんなに気楽で調子ばかりよくていい加減に見える人たちであっても、言語に限って言うと、さすがラテン語のお膝元だけあって、僕にはヨーロッパのどの言語よりも厳密で完成度が高い言語だと思う。これを扱うに当たっては、ファジーな言語で日常生活を送っている日本人は相当心せねばならないと感じている今日この頃である。



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