魂の給油

三澤洋史 

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魂の給油

よくいるかホテルの夢を見る。
夢の中で僕はそこに含まれている。つまり、ある種の継続的状況として僕はそこに含まれている。夢は明らかにそういう継続性を提示している。夢の中ではいるかホテルの形は歪められている。とても細長いのだ。あまりに細長いので、それはホテルというよりは屋根のついた長い橋みたいにみえる。その橋は太古から宇宙の終局まで細長く延びている。そして僕はそこに含まれている。そこでは誰かが涙を流している。僕の為に涙を流しているのだ。
ホテルそのものが僕を含んでいる。僕はその鼓動や温もりをはっきりと感じることができる。僕は、夢の中では、そのホテルの一部である。
そういう夢だ。
 冒頭からかなり長い文章を引用したが、これは村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」という小説の書き出しだ。久し振りに村上春樹の小説を読んだ僕は、この最初の文章に圧倒されてしまった。その時の状況を簡単に説明したい。

 僕は、尼崎に行く前に、講談社文庫の上下に分かれている「ダンス・ダンス・ダンス」を買ってカバンの中に入れていた。旅行の前にたいてい僕は文庫本を買う。「蝶々夫人」の初日が終わるまでは、とても読む気にはならなかったけれど、初日の公演が終わった晩、長女の志保が尼崎に着くまで時間があったので、ふと思い出してこの小説を取り出し、ホテルの部屋で冒頭の文章を読んだ。そして、すぐ本を閉じてしまった。
「重い・・・・公演中の自分がこの世界を抱えるのはしんど過ぎる」
 それでイタリア語の勉強に切り替えて志保を待った。それからもう一度、二日目の公演が終わって、帰りの新幹線の中で開放感に浸りながらこの小説を開いた。でも、またこの文章を読むなりすぐ本を閉じてしまった。それからしばらく本は閉じられたままだった。そして二日ほど前、三度目に本が開かれ、やっとこの小説は僕によって読まれるようになったというわけだ。

 村上春樹の小説を読む時には、通常の小説に接するようにストーリーの流れを追っていくことが意味がないわけではないけれど、その追っていった先の結末といえるものは読者が期待していたようなものとは決してならないので要注意。はっきりいって、彼の小説はいつ終わってもいい。上巻が終わった時点でこれで終わりと言われてもいいし、上下巻を読み終わったあとで、その続編があるよと言われても驚かない。
 現に1Q84はBook2で終わってもいっこうに構わなかったし、Book3はとても面白かったけれど、それがなかったら作品全体の価値が下がるというものでもなかった。要するにBook3はあってもなくてもどっちでも良かった。
 そうは言っても、一方で、彼の小説は、まるで推理小説のように一度読み出したら止まらない。次どうなるのか楽しみで仕方がない。そして結末がどうなるのか気になって仕方がない。なに?言っていることが矛盾しているだって?それが村上小説の醍醐味であり稀有なところなんだよ。それでもって、1Q84のBook3は、やっぱりあって良かった。
 だからね、要するになにが言いたいかっていうと、村上小説はベートーヴェンの交響曲のように構造が大事というよりは、マーラーの交響曲のように、その途中で出遭う様々な風景が大事だと言いたいわけ。それで「ダンス・ダンス・ダンス」の場合、その素晴らしい風景が最初からバシーンとパノラマのように広がっているんだな。だからそのテーマの重さ故に、なかなかこの小説と対峙する勇気が持てなかったのだ。

 冒頭に掲げた文章のどこがそんなに重いのかということをちょっと説明しよう。主人公がいるかホテルの夢を見るというのは別に変わったことではないが、夢の中で自分がそこに含まれているというのが独創的だ。しかも継続的な状況として自分がホテルに含まれているという。さらに夢の中のいるかホテルは歪んでいて細長くなっている。太古から宇宙の終局までだそうだ。
 これらのひとつひとつの言葉を理屈で考えてはいけない。思考のフィルターにかけてはいけない。たとえばビールを飲む時に、まずかったら嫌だなと恐れて、喉まで直接流し込まずに下手に舌の上でころがしたりなんかしたらますます苦くてまずくなるだろう。それと一緒だ。途中で止めずに魂の奥まで直接流し込むのだ。つまり、心を無心にして何も考えずにズズーンと読んでみる。するとね、まるで忘れてしまっていた子供の頃のなつかしい風景のように、自分の中にイメージが広がってくる。
 子供の頃は、世界は魔法に充ち満ちていて、暗闇なんかは本当に怖かったし、自分を取り囲んでいる大自然は自分を含んでいたではないか。その大自然は、まさに太古から宇宙の破局までつながっていて、自分を圧倒していたけれど、大自然は同時に自分自身でもあったのだ。こんな魂の遠い記憶が、村上小説を読むと既視感(デジャビュ)となって自分の内面に広がるのだ。
 村上小説の全ての文章は、読者に自分探しの旅を誘う。太古から宇宙の破局まで引き延ばされた長いいるかホテルは、読者の人生における全ての記憶の集合すなわちアーカシック・レコードを連想させもする。
 スピリチュアルな想像力をかきたてる文章の羅列。そしてデジャビュを煽るストーリー展開。通常の小説のように物語が最重要というわけではないものの、ストーリー展開が僕たち読者にもたらす心象風景は心にさらなる高揚感をもたらし、それはさらなるスピリチュアルな旅に読者を誘うのだ。ちょうどワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の和音連結が我々聴く者を異次元世界に誘うように。村上小説を読むという行為は、僕にとってある種の宗教的イニシエーションの行為に近い。

 「ダンス・ダンス・ダンス」は、「羊をめぐる冒険」の続編として書かれた初期の作品。でも、初期だからといってあなどるなかれ。ワーグナーはある意味、「タンホイザー」の問題提起を一生涯超えられなかったし、ベルディは、「リゴレット」ほどの衝撃性に満ちた作品を、その後生涯に渡って書くことは出来なかった。「ダンス・ダンス・ダンス」にもそんな若いエネルギーのほとばしりを感じる。この作品には、その後の様々に展開、発展する村上氏ワールドのエッセンスが詰まっている。

 村上小説の主人公の男性は、どの小説でも無個性で受動的で、それでいながら怠惰ではなく、むしろサンドイッチをわざわざ自分で作ったり(案外普通の人は特別の機会でもないとサンドイッチを自分で作らない)、にんにくを焦げないように気を配りながらオリーブオイルでいためてスパゲッティをあえたり、ウィスキーを飲んだり、ジャズを聴いたりしてスマートに暮らしているシティ・ボーイだ。そして、なんとなく何人かの女性と寝るが、妻も含めてみんな自分の前を通り過ぎて行ってしまう。こうした典型的な主人公の典型をここでも見ることが出来る。
 でも僕は、他のどの小説よりも「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公に共感を覚える。何故なのだろう?ひとつはっきりしていることは、他の小説と違って、この主人公は意外と女の子と簡単には寝ない。寝そうなシチュエーションになっても寝ない。他の小説では、素敵な女の子がどんどん出てきて、本人なにも努力しないのに、どんどん相手が自分から進んで寝てくれたりすると、あったま来ちゃうんだな(笑)。
「あっ、この娘はもうひと押しすれば僕と寝てくれるだろう」
という予感を、たとえひとりよがりの勘違いであっても持っているということは、男として必要なことのようにも思えるが(だからといって僕が持っているというのではないよ)、かといって簡単に寝てしまってはいけない。寝てしまったらいろいろ実際的な面で面倒くさいことになる。村上小説の大部分の主人公は、そこの判断がゆるくて嫌いなのだが、「ダンス・ダンス・ダンス」の主人公は節度があるので好きだ。
 それより、僕は、この主人公を取り巻く諦念とも言える無力感にすっかり同情している。そして、誰も本当にこの世の中で自信に満ちている人間なんかいないのだ、と強く思う。僕が音楽家を続けていられるのも、たまたまかも知れないし、この主人公のように妻に逃げられたりはしないのも、たまたまかも知れないんだ。

「ねえ・・・・今までさあ、よく逃げないで一緒にいてくれたね」
と、ある日僕は妻に言ってみた。そしたら彼女は、
「はあ?何言ってんの?」
と聞く。
「いや、村上春樹の小説読んでてね、ふと思ったんだ。ある日突然妻が自分を捨てて家を出て行く。こういうことってさあ、あり得ることだよね。で、そういうことが重なってくると、人生って、指の間だから砂がさらさらっとこぼれていってしまうように、希薄ではかないものになってしまうんだろうね。この世の中で、自分はもしかしたら誰からもその存在を望まれていないんじゃないか。そう感じて、この村上小説のように世界はいきあたりばったりのゴールのないマラソンのようなものになってしまうんだろうね。だからね、自分は少なくとも妻にだけは見捨てられずに今日まで生きてこれたんだと思ったんだ。これって、それだけでも案外大変なことなのかも知れない・・・・」
 妻はなんだか宇宙人を見るような視線で僕を見た。そんなことをしみじみ感じさせてしまうほど、村上小説は僕にとってはエキサイティングなのだ。今現在、上巻を読み終わって下巻に入ったところ。僕の魂にとって村上小説の給油は時々必要なのだ。  


アンドレア・シェニエとフランス革命
 フランス革命を扱ったオペラ「アンドレア・シェニエ」の練習が佳境に入っている。フィリップ・アルローの演出は、メイン・キャスト以外の合唱団や助演、ダンサーなどの動きがめまぐるしいので、再演用の短い練習期間でさばいていくのが大変だ。
 特にこの演目では、回り舞台が大きな役目を果たす。それがまるでメリーゴーランドのようにぐるぐる回るが、こういうのは稽古場ではなかなかイメージをつかむことが出来ない。舞台後方から乗り込んだと思ったら、次の瞬間にはもう前方中央に来ていたりするし、どこで誰とどのようにしてすれ違うのかなどという事は、稽古場では皆目見当がつかない。だから通し稽古は大変だった。つまり通せないのだ。しばらく進むと一度中断して舞台を転換し、再開する。本当はその間、舞台は回って自然に転換しているわけだ。
 でもそうした稽古をやっていたお陰で、舞台稽古に突入して本当の回り舞台に乗り込んでも、みんながイメージがつかめていて混乱が起きなかった。これは舞台監督のチビタこと斉藤美穂さんの手際が抜群に良かったことと、手前味噌で思うのだが(最近手前味噌が多い)、新国立劇場合唱団の舞台感覚が最近特に研ぎ澄まされていることが作用していると僕は断言する。

 回り舞台は価値の転動の象徴。これまで良いと思っていたものが悪とされ、右にいたものはいつしか左に移され、権力を持っていたものは引きずり下ろされ、取るに足らないと思われていたものが成り上がる。このようなアナーキーな状態を回り舞台で表現したアルローのアイデアはさすが。フランス革命の混沌と挫折感が見事に視覚化されている。僕は大好きだな、この演出。
 第二幕冒頭では、革命の成功に浮かれてお祭り状態の市民の様子がカリカチュアされて映し出される。それがサ・イラという革命ソングが流れる頃になると、さらにエスカレートして異常な興奮状態になるが、前面には決して笑わないで両手を縛られてたたずむ貴族達の姿がある。この対比が素晴らしい。真っ白な壁に映し出されるフランス国旗の赤白青のトリコロールが、鮮やかなだけにことさら軽薄に見えるのは、フランス人であるアルローの自虐的な処置。
 第三幕になると一転して深刻な状況となる。革命は成功しても、ただちに夢のようなユートピアが誕生したわけではなかった。貴族の没落は、貴族社会で潤っていた経済の破綻を導き、革命はフランスという国の貧困と諸外国からの孤立をもたらした。最初は貴族を処刑することに浮かれていた市民達は、台頭してきたロベスピエールの恐怖政治の中で怯える毎日を送る。元貴族達の裁判シーンになると、
「ギロチンにかけろ!」
と叫ぶ群衆合唱に僕たちは戦慄を覚える。市民達はまるで、生け贄を捧げ続けなければ今度は自分が処刑されてしまうと信じているかのように、隠れている元貴族を捜し出し魔女裁判を続ける。誰でも良いから突き出せば処刑できてしまうという恐ろしい世界。これが、革命がもたらした苦い代償。
 特に第四幕ラストシーンは印象的。ちょっとトーキョー・リングの「神々の黄昏」のラストシーンに似ていなくもないのだが、舞台上の全ての大人達が倒れて死んでゆく。その中から子供達だけが立ち上がり、銃とフランス国旗などを持ちながら大人達の死体を踏み越えて後方へ歩いて行く。最後の音楽でポーズ。それを照明がシルエットで映し出す。
 要するにこれは、子供達に未来を託し、自らは次に来る者達の踏み石となって、革命の成就した新しい秩序の世界を見ることなく死んでいった全ての者達への挽歌というわけだ。このような無数の犠牲の上に、今日の民主主義の世の中があるとアルローは言いたかったのだ。
 「フランスが何故、ラ・マルセイエーズを国歌に定めているかというと、それはね、このような犠牲へのリスクを背負いながらも、それでもチェンジに踏み切った勇気を、フランス国民は讃えているからだよ」
と、かつてアルローは僕に熱っぽく語ってくれた。彼は陽気で、あきれるくらいお気楽な奴だけれど、内に秘めたものには熱いものがあるのだ。

 そういえば、フランス国旗の赤白青のトリコロールを見ている何人ものが、
「グテ・ド・ロアがいっぱいあるな」
と言って笑いながら僕の方を見る。みんなはこの赤白青の包装でよく知られたハラダのラスクの製造元が、僕の生まれ故郷である群馬県高崎市新町にあるのを知っているのだ。新宿の京王デパートなどではいつも長蛇の列が出来ているラスクであるが、新町に来れば並ばないで買えるからね。
 ハラダは、昔はただのパン屋だったのだ。僕の実家から歩いて五分もかからないところに旧店舗がある。ラスクは昔からあったが、特に売れているわけではなかった。味はあまり現在と変わっていないが、バケットは使っていなくて小ぶりの食パンの形をしていた。僕はむしろバターにマスタードが混じっていたハムサンドが大好きだった。旧店舗は今でもあって、ここが一番並ばないで買えるが、同時に線路際に工場、店舗、事務所がある大御殿が建っている。
 先日、群馬に帰った時にちょっと用があってその大御殿に行ってオーナーの奥さんに会ってきた。大御殿は成功の波動がバリバリ出ていて、まばゆいほどだった。なるほど、これは当たるわけだと妙に納得した。

 ええと、一体何の話をしていたんだっけ?あっ、そうそう「アンドレア・シェニエ」です。各幕のラストは緞帳の代わりに巨大なギロチンが上から降りてきて、シャキーンという音がして終わるのだよ。第一幕と第二幕の間では、ドラムの音に乗ってプロジェクターにギロチンが映し出される。それがだんだん増えてくるんだ。いろいろビジュアルな工夫がされている。

 新国立劇場「アンドレア・シェニエ」は、11月12日金曜日から24日まで五回公演。マッダレーナ役のノルマ・ファンティーニをはじめとするメイン歌手3人はみんな素晴らしいので、楽しみな公演だ。

日本料理には勝沼ワイン
 もう先週の話になってしまうけれど、10月31日の日曜日は久し振りのオフだった。僕は、自分のスケジュール管理にSasukeというJustsystemのスケジューリング・ソフトを使っている。これはソフトのせいではないのだけれど、たとえば月の最後の31日が日曜日の場合、マンスリー・ビューが次の月の方に組み込まれてしまい、10月の予定を書き込んでいく時に見落とされてしまった。
 気がついてみたら、この忙しい最中に、10月31日がぽっかりと10月あるいは11月のどちらからも予定が入らないで放置されたままオフになっていた。こういうケースが、1年に一日くらいあるのだ。もしこれにもっと早く気がついていたら、たとえばこの間のように、10月23日の土曜日に浜松に行って、24日に朝からモーツァルト200合唱団の練習して、そのまま尼崎入りして5時から舞台稽古などという無理なスケジューリングは組まないで、10月31日に浜松か名古屋のどちらかに行くことにして、2週に分けていただろう。
 でも、今となってみると、この天から降って湧いたような突発的オフはまさに神の恵み。尼崎の「蝶々夫人」の全力投球の後、このへんでちょっとだけ立ち止まって休息したかったのだ。

 こんな時、へたに家にいると、いつもの貧乏性の僕のこと、必ずなにか仕事に手をつけてしまう。休息をしたかったら外出するしかない。そこで、妻の車でドライブに出掛けることにした。妻は日曜日は通常朝から教会のミサに出掛けるのであまり乗り気ではなかったが、無理矢理誘った。いや、この場合、誘ったという言葉はふさわしくないな。彼女が運転するのだから説得しなければいけない。僕は自分の休息の大切さをオーバーに妻に訴えた。これからの仕事を精力的にするためにも、ここでドライブは必要不可欠なのだ!あなたも芸術家を支える妻ならば、そこんとこよーく分かってね・・・・etc
 で、まんまと説得成功。実は説得よりもむしろ、(先に書いたように)村上春樹の小説を読んで僕が彼女に言った「よく今まで逃げないで一緒に居てくれたね」という言葉が、案外効いていたのかも知れない。なんだかちょっと喜んでいたみたいだから。

 行く先は勝沼。まあ、いつものコースだ。ほうとうの専門店である皆吉(みなき)でお昼を食べ、勝沼ワインを買って帰ってくるのだ。でも、今回は少し順番が違った。いつもはワインの丘というところに行くのだが、今回は少し冒険してどこかのワイナリーに行ってみようという話になった。でも、どこがいいのかさっぱり見当がつかない。というか、小さいワイナリーにうっかり入ってしまったら、雰囲気的に買わないで出てくるわけにいかないじゃないですか。あれが気を遣って嫌なんだよね。
 と言っているそばから、妻は勝沼に着くなり、当てずっぽうに、道端にあった小さいワイナリーの前に車を止め、
「ここに入ってみよう!」
と言った。
「ええ?だからさ、こういうとこに入るとややこしいんだから、もっと大きいところに行こうよ・・・・」
「ここなんとなく気に入った!」
出た!妻の気紛れ。この気紛れに30年以上付き合わされている。
 すると、どこからともなくオーナーという感じのおじさんが現れ、まるで当然のような顔をして、僕たちを地下のワイン貯蔵庫(カーブ)へ案内してくれた。あまりに自然なので、僕たちが来るのを前の日から知っていたのかなと思ったくらいだった。この人、超能力者?それとも村上春樹を読んでいるので共時性を呼び起こした?

 オーナーはとても親切かつ丁寧に説明をしてくれた。これは実にためになった。案内されたカーブに沢山樽が並んでいる。この樽はフランスのボーヌのあたりから輸入しているという。オーク材で出来た樽の内側は炎で焼かれており、この焦げ目が香りを醸し出す。樽の中にワインを入れておくのは、白ワインで4ヶ月くらい。赤ワインはもっとずっと長く必要に応じて寝かすそうだ。
 樽の中の香りをかがせてもらった。ああ、なるほど・・・・この香りがワインについてくるのか。ウイスキーなどもそうだけど、要するに香りの正体はオーク材の焦げた匂いなんだ。でもいい匂い!その香りがちょうどよくついた時を見計らって、樽から出して瓶詰めするわけだね。

 次に僕たちは別の貯蔵庫へ案内された。ここではおびただしい数の瓶が寝かせられている。見ると、特定のお客さんが、たとえば自分の子供が生まれた年に買い取ったワインを、子供がある年齢になった時に開けるつもりで貯蔵していたり、あるいは企業が、何かあるごとにお客さんに振る舞うために貯蔵してもらっているリザーブの一画というのがあって、結構沢山の人たちがそれぞれの好みのワインをリザーブしている。
 僕もなにか頼もうかなと一瞬思ったけれど、熟成を楽しみにしている内に体の具合でも悪くなったら困るのでやめといた。こういうのは、もっと若い内にやっておくべきだったね。

 さて、その後お店に行ってワインの試飲をさせてもらった。もうここまで来たら、どう考えても何も買わないで、
「そんじゃ、さよなら!」
と帰るわけにはいかない感じだが、こちらの方もこれだけ丁寧に案内してもらったのだから、何か買って帰ろうという気になっている。僕たちはまんまと敵の作戦にハマッたというわけだ。
 お言葉に甘えてかなりいろんなワインを試飲した。それだけで少し酔っ払った。うーん、勝沼ワインの場合、赤はなかなか難しい。でもね、白は基本的にどれもいいね。ヨーロッパ・ワインとは明らかに味も風味も違うけれど、その辛口のすっきりしたうまさと香りのバランスは、クォリティの点では決してフランス・ワインにも劣らない。
 結局、赤ワインは樽の香りが濃厚についているカベルネ・ソーヴィニオンを一本だけ買い、あと白ワインを3種類買った。みんな辛口ワインばかりだ。高くなるにつれて味がニュアンスに富み、複雑になってくる。一番安くて飲みやすいワインは一升瓶で買ってきた。これは飽きないで何度でも飲めそうだ。

 僕は、あまり日本酒を飲まないので、日本食の時に飲むお酒に困っていた。ビールは何の料理でも問題ないし焼酎も悪くないけれど、ゴージャスな気分を味わいたい時にはふさわしくない。国立にある自然食の食料品店あひるの家では、魚の日というのがあって、新鮮でおいしい魚が入荷する。今日がちょうどその日。
 こんなちょっと華やぐ時に、奮発してヨーロッパ・ワインなど飲んだなら本当に後悔する。特に高めのブルゴーニュ・ワインなんかは、もう悲惨なくらい合わない。こういうワインは、ワインの方から生意気にも自分に合った料理を要求するんだよね。
 ところが、その日の夕食に飲んだフォーシーズンズという白ワインは、上品で華麗で辛口で、日本食との相性がぴったりだった。この日にあひるの家に入荷したのは、あさりとかますだったので、あさりは酒蒸しにし、かますは単純に塩をふって焼いた。かますの塩焼きに合う白ワインは、ありそうでなかなかないですぜ。魚を食べながら飲むとね、ワインはふっと自らの個性を消すんだ。それから魚の後味の中からワインの味わいが蘇ってくる。
 これから日本食の時には勝沼ワインを飲もうと心に決めた。ちなみに僕たちが訪れたワイナリーは山梨ワインという名前で、値段的に中くらいのクラスのフォーシーズンズ2008は、今年のロンドンのコンクールで銀賞を取ったということだ。



Cafe MDR HOME


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