圧倒的なチョン・ミョンフンのマーラー

三澤洋史 

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圧倒的なチョン・ミョンフンのマーラー
 一般にはチョン・ミュンフンと呼ばれているが、NHKだけは何故かチョン・ミョンフンと表示している。どちらが本当の発音に近いのか、誰か韓国人に訊こうと思いつつ今日に至っている。
 天下のNHKだから間違いないだろうと思いたいところだが、ユーベル・スダーンという指揮者を意固地にスーダンと表記しているところなどを見ると、その信憑性はどうなのかなあと疑いたくなる。ちなみにHubert Soudantをフランス語風に読むと、最終シラブルにアクセントが来るフランス語としては、Hubertも本当はユベールの方がいいような気がするし、スダーンはまあどう見てもスーダンにはならないでしょう。
 かといってミュンフンの方が正しいと断言するほど韓国語には精通していない。だから今日のところはNHKに敬意を表してチョン・ミョンフンと呼ぶことにする。

 チョン・ミョンフンが良い指揮者であるところに今更疑問はないが、その指揮ぶりは時にあまりに省エネなため、指揮からエネルギーをもらって演奏しようと思うと拍子抜けしてしまう。前回東フィルで新国立劇場合唱団と共演した時は、ヴェルディ作曲「椿姫」演奏会形式だった。この時は、東フィルも新国立劇場合唱団も「椿姫」には精通していたので、どんな風に振られても自分たちで音楽が作れるという状態だった。そうなると、自主的に演奏する我々に対し、マエストロが振りかける香辛料が絶妙なのだ。結果として素晴らしい演奏会に仕上がったが、我々がマエストロから受けるオーラを全身に浴びて、「思わず乗せられてしまった」というような状態になることは期待出来なかった。その前のモーツァルト作曲ヴェスペレKV339をやった時もそうだった。その頃はマエストロの体調があまり良くなかったのかも知れない。

 ところが今回のNHK交響楽団定期演奏会のマーラー作曲交響曲第3番のチョン氏の指揮ぶりは全く違った。まさに目の覚めるような「エネルギー全開」の棒であったのだ!

練習は超省エネ
 とはいえ、練習ではいつも通り超省エネ。2月8日火曜日はピアノ伴奏のマエストロ練習。泉岳寺のN響練習場に行く。練習場ではすでに東京少年少女合唱隊がいた。合唱指揮者の長谷川久恵さんと挨拶をする。それからアルト歌手の藤村実穂子さんと久々の再会。昨年の夏にはバイロイトでフリッカを演じる彼女を遠くから見ていたし、年末のNHK FM「バイロイト2010」の解説をした時も声は聴いていたが、会うのは久し振りなのだ。いろいろ話がはずむ。

 さて、マエストロと事前に相談したいことがあるのだが出来ない。いつものことだ。チョン氏は、練習前や休憩時間には自分の部屋に決して誰も入れないで、ギリギリまで1人でいるため、事前の打ち合わせというものがほとんど不可能だ。何をしているのだろう。寝ているのか?瞑想しているのか?
 時間になってマエストロが現れる。僕の顔を見ると、
「ああ君か」
という顔をしながらニコニコ笑って挨拶してくれた。彼はいつ会っても決して気難しいとか不機嫌とかいうことはない。シャイな人間だが、とてもやさしい人だと思う。
 練習が始まる。まずあまりに指揮の運動が小さいため、ピアニストのEさんはテンポがつかめない。合唱団も同様。マエストロが、
「重い!もっと軽く!」
と言うので、横で見学していた僕もその時初めて、
「ああ、もっと速くやりたいのか」
と思ったくらいだ。だからといって練習自体は投げやりとかいうことは決してない。それどころか、結構厳しくしつこい。通すとわずか数分の曲だが、たっぷり1時間は練習した。
「合わない!」
とか言いながら、いっこうにはっきり振ってくれないので、みんなもの凄く神経を集中する。まあ、それを狙っているのかも知れない。
 2月10日木曜日。N響とのオケ合わせになっても、省エネの振り方を貫いている。時々オケの中でズレる。するとマエストロは、
「仕方ないからスーパー・クリアに振ります」
と言って振り始める。よりクリアではあるが、スーパーというほどでもない。普通の指揮者が分かりにくく振っている時くらい。

豹変!
 ところが本番になったら豹変した!動き自体は大きくはないのだが、まるで合気道か何かのように、凝縮されたもの凄い“気”がマエストロから出ている。まさに東洋的な精神性の世界。それにたとえば第2楽章のようなデリケートな曲でのニュアンスが絶品で、まさに稀有なる芸術家であることを思い知らされた。
 昨年のマリス・ヤンソンス指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏会の時は、むしろ各楽章の表題が蛇足ではないかと思って絶対音楽として聴いていたが、不思議と今回の演奏会ではそれぞれの楽章の表題のイメージが鮮やかに心に浮かんできた。それが演奏のせいなのか、自分自身の心境のせいなのかさだかではない。

 第2楽章の「野の花が私に語ること」では、かぐわしい香りがあたりにただよい、花の精が見えるほどだったし、第3楽章の「動物たちが私に語ること」では、我が愛犬タンタンがまっすぐ僕を見た時の、あの白目の全くないまん丸で真っ黒な瞳を思い出した。ポストホルン(今回はコルネットを使用)が遠くから聞こえてくる場所に来ると、はるかなる心の故郷をイメージした。このバランスはゲネプロでマエストロがかなりしつこく何回も繰り返して決めた。聞こえないギリギリの遠いところで吹かせる。でも、これは僕のマーラー第3交響曲体験の中でも最高のバランスだった!
 夕暮れになって、
「おうちへ帰ろう」
と誰かが言う。それは具体的などこかの「おうち」ではなく、僕たちの魂の本来の「おうち」。遠くに感じられるしあわせなしあわせな平和に満ちたなつかしいふるさと。
僕は思った。
「ああ、マーラーはこのなつかしさを心に持っていたんだ!」

 第4楽章。藤村さんのアルト独唱が歌い始める。
「おお、人間よ!よく聴くがいい!」
なんという深い表現!藤村さんの心のこもった歌唱に心を奪われた。この楽章の表題は「夜が私に語ること」。人類の嘆き。天国から分断された悲惨さと深淵。孤独。いろんな演奏を聴いたけれど、藤村さんのような切り込みは初めてだ。やはりただものではない!
 それが一転して「ビムー、バムー!」と朝になり、第5楽章では天使が大事なメッセージを告げる。少年合唱及び女声合唱の出番。70分も待ってたった数分の歌唱だけれど、極めて大事なんだ。
面白いのは、ここでの藤村さんの表情はまだ苦しんでいる。
「わたしは十戒を犯したのです。泣くほかありません」
この表情はマエストロから出たものではなく、藤村さん独自のもの。
それに対して合唱がノーテンキに語りかける。
「イエス様を通してみんなしあわせになるんだよ!」

 それから終楽章が来る。チョン氏のなんという素晴らしい愛の表現!彼は極度に集中している。途中から両手や肩がブルブルと震え出す。全身から放射状に強いオーラが広がる。オケが揺らぎ始める。アッチェレランドがかかるかと思うと、大きなブレーキ。しかしその全てが必然性を持ち、全ての解釈がマーラーの醍醐味を味合わせてくれる。金管楽器が咆哮し、ティンパニーが炸裂する。弦楽器は大きなうねりを持つ。凄い!こんなN響初めて聴いた!

 愛だ!愛なんだ!世界は愛に充ち満ちているんだ!宇宙は愛によって出来たのだ!そして、マーラーはそれを体感していたのだ。そのリアリティ!
この模様はN響アワーで部分的に放映され、4月には全曲ノーカット版で放映されるという。みなさん、時間があったら必ず見て下さい!考えられないくらい素晴らしい演奏です。繰り返し言いますが、世界は愛なのです!!!!!

マーラーにあってバッハにないもの
 バッハを演奏していると、世の中にバッハの音楽だけあればいいやという気になるが、マーラーを聴くと、
「ああ、自分は人類としてこの世に生まれて、マーラーの音楽が聴けて本当に良かった!」
と思う。

マーラーにあってバッハにないもの。それはスピリチュアリティの要素だ。

 バッハの音楽には深い宗教性があるが、宗教性とスピリチュアリティは微妙に違う。それは、宗教が好きな人と言っても、大きく分けて雑誌「大法輪」が好きな人と雑誌「ムー」が好きな人とに分かれるのと一緒だ。宗教性は人の生き方を問う大法輪の方、スピリチュアリティは超常現象大好きの「ムー」の方だ。

 キリスト教はある意味汎神論と対立する。キリスト教では、たとえば美しい花は被造物すなわち神によって作られたものであり、神ではない。それは人間同様神という存在から分断されている。それに人間は原罪という要素が加わり、ますます神から分断されている。こうした考えは、時に我々被造物という存在を矮小なるものとして卑下させる傾向がある。
 ところが一方で、我々は神の似姿であるという考えもある。そして、我々が大自然の花々や動物や全ての森羅万象を眺めれば、その至る所に神の創造の息吹が宿っていることを発見するのだというポジティブな考え方もキリスト教は包含している。この考え方とスピリチュアリティとが近いところにある。
 世界は神の息吹に満ちており、花にも木にも、そして人間にも神性は宿っている。奇蹟は実は日々起こっている。人間は罪の中に卑屈に埋もれていてはいけない。人間の中には神が住んでいるので、我々は自分を信じ、自分のことを好きにならなければならない。そして人類は悲惨さから抜け出し、しあわせにならなければいけない。しあわせになること。それは神からの至上命令なのだ!

 世界への認識に入っていく道は様々なのだ。バッハが誰よりも大好きな僕だけれど、マーラーの世界観もいい。自作ミュージカル「ナディーヌ」で花の精を舞台上で表現した自分としては、花の精が実際に存在していることを何の疑いもなく信じている。
 こうした認識がエコロジーをはじめとする様々な現代的な問題意識と結びついていく。地球は単なる被造物ではない。地球は生きており、意識を持っており、そして神の霊を宿している。マーラーの音楽に触れると、こうした宇宙意識が自己の中で目覚めるのだ。



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