東京バロック・スコラーズ演奏会間近
モーツァルト200合唱団のロ短調ミサ曲はエキサイティングで楽しかったけれど、やはり東京バロック・スコラーズに戻ってくると、ここが自分のバッハをやるホームグラウンドだなと思う。やはり時間かけて手塩にかけてきただけのことはあって、たとえばオーケストラは、何も言わなくてもバロックっぽい弓使いをして弾いてくれるし、僕のする注意やアドヴァイスに対しても、
「ああ、このことね」
と飲み込みが早い。
チェロの西沢央子(にしざわ なかこ)さん、コントラバスの高山健児(たかやま けんじ)さん、それとオルガンの花井淑(はない とし)さんの通奏低音奏者達の凄いところは、僕が指揮をして示すテンポを間違いなく把握して、常に僕の一番出したいところで音を出してくれる。これは出来そうでなかなか出来ないことなのだ。
僕はいつも合唱団に言うのだが、一回目のオケ合わせでは、あまり細かい事は考えないで、まずオケからどんな音が聞こえてくるのか耳を澄まし、そのサウンドに自らの声を溶け込ませることが大切。その点も、バロック・スコラーズの合唱団は心得ている。
オケ合わせでやってはいけないこと。それは、いつものピアノなどの音と違う音が違う音量で出ているため、興奮してあるいは不安になって、いつもの練習と違う歌い方をしてしまうこと。大抵はバランスを壊した発声で怒鳴ってしまうのだ。
それと、日本には間違った常識がまかり通っている。それは、合唱は(ソロもそうだけど)オケを突き抜けなければいけないという考え。良い歌手はオケを突き抜けてなんかいない。オケと溶けあい、オケの響きと争うことなく響きを客席後方まで届かせるのが理想。 その為にはキツイ響きではいけない。あくまでまろやかでないといけない。料理でもなんでもそうだけど、一流と二流とを分ける決定的要因は、しなやかさとまろやかさなのだ。また、情熱的であることは必要かも知れないが、同時に常にクールであらねばならない。
カンタータ140番と78番では、コラールのメロディーをなぞる楽器の表記はCorno(ホルン)となっているが、これを現代のF管のフレンチ・ホルンでやることに抵抗を覚えていた。そこで今回はトランペット奏者の辻本憲一さんにお願いしてフリューゲルホーンを持ってきて試しに吹いてもらった。これがとてもまろやかで良い。一方、147番の「主よ、人の望みの喜びよ」では、表記通りトランペットを使用。
こうしたこだわりは案外大切なのだ。表記そのものよりも、バッハが何を意図し、それを具体的に現代において実現するためにはどうしたら一番良いのかということだ。大事なことは、今出ている音であり、それが当時に生きていたバッハとどうつながっているかという点なのだ。そういう意味で、オリジナル楽器さえ使っていれば安心という安易な考えとは一線を画すが、僕自身はピリオド奏法を決して否定する者ではないことは、強調しておきたい。
このように「具体的な音がバッハの意図にどう結びついてゆくか?」あるいは「鳴っている音楽が“いま”にどういう意味を持つか?」という問題意識に対して、どの団体よりもはっきり答えを出せる団体として、僕は東京バロック・スコラースをとても大切に思っている。僕が出したいサウンドは、しなやかな音。その為にモダン楽器が必要なのだ。
さて、ソリスト達も秀逸。特に藤崎美苗(ふじさき みなえ)さんのソプラノと、渡辺玲美(わたなべ れみ)さんのアルトによるカンタータ第78番の2重唱は、二人ともコロラトゥーラが面白いように転がるので、最初に予定していたよりもかなりテンポが速くなって、実に楽しいものとなっている。
それとカンタータ第140番の、ソプラノとバス(大森いちえいさん)による二つの2重唱も楽しい。最初の曲は近藤薫(こんどう かおる)君のヴァイオリン・オブリガートが聞き物だし、次の2重唱は小林裕(こばやし ゆう)さんのオーボエを伴って、快適なテンポで曲が進んでいく。それにしても、バッハの重唱って何故こんなに楽しいのだろう!
さて、みなさん!演奏会に是非出掛けて下さい。曲は傑作揃い。僕のトークも交えて、バッハの楽しさ満載のコンサートになります。
カンタータ第78番に見る巨匠の高み
今回のテーマである「バッハとコラール」について、演奏会に先立ってちょっと説明してみたい。たとえばカンタータ第78番を見てみよう。このカンタータは1641年に作られたと言われるヨハン・リスト作曲のコラールJesu,
der du meine Seele「イエスよ、あなたは私の魂を」の内容に沿って作られている。コラールのメロディーは次の通り 。
スキーのリズムと音楽のリズム
ああ、スキーに行きたい!毎日でも滑りたい。でも忙しくて行けない。今年は特に白馬でレッスンを受けてから、いろんなことがつながってきて、僕の音楽にも様々な変化が生まれてきている。
一番大きな変化は、スキーのリズムが体に入り込み、音楽にも活かせるようになったこと。特にバッハの音楽を演奏する時、音符をベタッと同じ大きさで演奏してしまうと台無しになってしまう。だからといってただ強拍を強く弱拍を弱く演奏するだけでも不充分なんだな。その音型の持つ性格によって、歌でいえば息の送る量やタイミングや送り方そのものを変えて表情を作らなければならない。その際には、あるセンスが求められる。
そのセンスに関しては、言葉で表現するのは難しいが、それと共通するのが、スキーで荷重を解く瞬間の、あのフワッとした「抜き感覚」なのだ。音楽家では、この感覚を先天的に持っている人と、(全くない人はおそらくプロにはなれないが)その感覚が希薄な人とがいる。
分かり易く言えば、いつも大きな音でカキコキと弾こうとするピアニストや、いつもフォルテでアリアを歌い、フレーズの終わりをなるべく伸ばすことしか考えない歌手などは、希薄な人。シューマンの小曲を粋に仕上げるピアニストや、ドイツ・リートをニュアンスに富んで表現できる歌手はセンスのある人というわけだ。
でも合唱やオーケストラのようにマスの団体を相手にする時、その「抜き感覚」を、僕がたとえば腕だけでなく足も使ってあたかも抜重の瞬間のような仕草をすると、かなり効果があることに気付いた。
といっても、まさか本当にスキーでターンをするような仕草をするわけにはいかないから、一応バレないようにはやってますけどね(・・・と自分で思っているだけで、もしかしたらバレバレかも知れない)。
親友の角皆優人(つのかい まさひと)君からストック・ワークの仕方を教わってから、何が一番変わったかというと、スキーの自分の滑りにはっきりとしたリズムが生まれたことだ。先ほどの話しの「抜き感覚」が僕の滑りに生まれ、スキーが音楽的になった。
腕を落とさないようにしてストックを突く。これがどういう意味を持つのかということをよく考えて見た。つまりそのためには、身をかがめないと雪面に届かないわけだな。それによってもう一度谷足に荷重がはっきりかかる。それから抜重に入るわけだが、その直前に身をかがめるお陰でスキー板がしなり、抜重の瞬間にその反動が足に感じられる。それがターンの開始を容易にそしてリズミックにするのだ。
斜面が急になってくると、その板の反動を利用してテール・ジャンプをすることも可能。そうするとさらに生き生きとしたリズムが生まれる。スキーってなんて音楽的なスポーツなんだ!
お忍びガーラ
実は、先日の月曜日に、堪えきれずにまた半日だけガーラ湯沢に行った。前と同じように7:51大宮発の新幹線に乗り、8:50にガーラ湯沢着。9時過ぎから滑り始めた。その日は晴天で、しかもゲレンデは圧雪して整備したばかり。これまで何度も行った中で最も良い条件だった。
そのお陰で、一日で随分上達した。頂上の急斜面に何度も行って結構攻撃的に滑ったけれど、一日を通して一度も転ばなかった。って、ゆーか、もう整地であれば全く心配がいらなくなった。
繰り返し練習したのは、上記のようにいかにリズミックに音楽的に滑るかという事と、いかに美しいシュプールを描くかということ。急斜面になると、カカトに重心をかけてスキー板をズラしてスピード・コントロールする割合が高くなるが、それだとシュプール自体はズラしたところが美しくない。
そこでシュプールを美しくするために、ズラしを最小限に抑えるが、そうするとスピードとのせめぎ合いとなる。どの時点で自分的に折り合いをつけるかということだが、折り合いをつけるのは自分自身であり、何も決まりがあるわけではない。恐いと思ったら安全運転すればいいし、物足りなくなったら攻撃的にいけばいい。こういうところがスキーの自由なところ。それだけに性格が出るね。僕の場合、最初は安全性優位から始まり、次第に攻撃的になっていった。
屈伸抜重?
何食わぬ顔で・・・
さて、その日はスキー板と靴を、スキー・センターであるカワバンガから宅配便で送り、15:03発の新幹線に乗って、もう5時前には新宿に着いていた。それから高島屋の向こうの紀伊國屋書店に寄ってイタリア語の本を買ったりしながら、何食わぬ顔して新国立劇場に入り、「椿姫」公演初日に出た。うふふ、誰も僕がスキー場から来たなんて思ってもいない。
ところが驚くことが起こった。夜になったら公演中に雪が降り出した。みんなが騒いでいる。
「雪だ、雪だ!雪が降っている!」
そこで僕はうっかり口を滑らせてしまう。
「まあ、僕にとっては珍しくないよ。今雪のあるところから帰ってきたばかりだから」
アシスタントの冨平恭平(とみひら きょうへい)君が口をあんぐり開けていた。
「え?まさか・・・・」
いっけねえ、余計なことを言ってしまった。
まあ、別に仕事には支障はないので、その前に何していたって僕の勝手だが、あまり周りに心配かけてもいけない。とりわけ心配性な人間がひとりいる。それは僕の妻だ。実は彼女は小学校の時にスキーで実際に骨折しているので、それがトラウマになって自分ではしたがらないだけか、僕がスキーに行くというだけで、毎回今度は骨折するのではと心配している。なので毎回帰りの新幹線から、
「今回も無事でした」
というメールを送らなければならない。
それにしても、都会では雪ごときで大騒ぎするのだなあ。「椿姫」初日公演の帰りは、電車は遅れるし、府中駅でのタクシーは長い行列になるし、なかなか家に辿り着くのに大変だったよ。
角皆君からのメール
その後、屈伸抜重のことがあまりに気になったので、角皆君にメールをして訊いてみた。以下は実際のメールのやりとりを角皆君の許可を得て本文そのまま掲載する。
(まず僕の質問)
> 急斜面でスピードを出して滑る時は屈伸抜重の方がやり易いのですが、
> これってコブを滑る時以外はあまり使ってはいけないのですか?
(角皆君の返事)
すごいところを突いてきたね。実はスピード次元が上がってくると、すべてのターンで屈伸抜重を使うようになります。どのくらいのスピード次元かというと、重力と同じくらい遠心力が強くなるスピードです。ターン弧が小さければ35キロくらいで、ターン弧が大きければ60キロくらいでしょうか。
屈伸抜重を使うと、遠心力をエネルギーとして使って、ターン弧のすべての部分でスキーに圧力をかけられるのです。スキーに圧力をかけられるということは、コントロールを保てるということ。弧のすべてで圧力をかけられるなら、ターン全体を支配できるということになります。
伸身抜重は伸び上がった時、雪とのコンタクトが薄くなるので、コントロールを失う瞬間が生まれます。しばらく待って重力による雪とのコンタクトを待たなければなりません。ちょうど打楽器を打ったら、その後の音をコントロールするのが難しいようなものでしょうか。その点、屈伸抜重なら弦楽器の弓が弦に着いたままの状態で、微妙な音量・音色コントロールが可能になります。
たぶん屈伸が楽だと感じるところまでスピードが上がって来たのでしょうね。楽しみです。
いつでも可能になったら、来て下さい。一週間でも二週間でも、泊まってくださいね。
それにしても、三澤君のバッハを聴きたかったな。スキーでも、ほんとうに良い滑りをするときは、故意の意識が消えるものです。つまり、テクニックにこだわったり、意識的な改善を試みているうちは本物でなく、すべてが自分のなかから流れ出て、生まれ出るように滑らないといけないのです。
音楽に例えたら、暗譜をするだけではダメで、暗譜が体の深いところに染みこんで、
自分のなかから新たに生まれ出るようにしないといけないのです。そんな三澤君の演奏をいつか聴かせて下さい。
それからチョン・ミュンフンですが、一度ショスタコーヴィッチ4番を聴いてみて。凄い演奏です。ショスタコーヴィッチ4番はラトルとミュンフンが、ずば抜けているように感じています。
それではまた…。
角皆優人
という具合に、僕はすぐそばにアドヴァイスをしてくれるこんな素晴らしい親友がいるんだ。そのことだけはちょっとみんなに自慢したいんだ!