トゥーランドット初日前夜に

三澤洋史 

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何があっても驚かないイタリア
 毎日、何か小さなことが起こる。たとえば、トラムに乗っていて突然乗客が全員降ろされることにすでに二度遭遇した。どうやら、この車両はここまでで車庫に入るとかいうことなのだろう。降ろされた乗客は同じ路線の次のトラムが来るまで待たなければならない。 

 先日の朝は、劇場に行くために乗っていたら、急に停車場ではないところで止まって、運転手が何も言わずに降りてしまった。いつまで経っても戻ってこない。その内、
「何、いつまで止まってんのよ!」
と大声で叫び出す女性もいて、みんななんとなくゾロゾロと降り始める。僕も降りてみた。すると、僕たちが乗っていたトラムの前に何台ものトラムが数珠つなぎになって止まっている。 一番前まで行ったら、どうやら最前列のトラムが故障して動かなくなったようで、運転手達がみんな集まって肩をすくめている。

 ダメだコリャ。僕は見捨てて歩き始めた。ここはいくつかの路線がダブっているところだから、ひとつの線路を共有している。ということはひとつの車両が故障なんかしたら、この車両の後からもどんどん来て、果てしなく数珠つなぎになることだろう。さらに、いくら歩いたって、その先にはトラムが来るわけはない。
 それでも現場にいて状況を知っている僕たちはまだいい。問題は、その先の停留場で待っている人達だ。彼等は何も知らされることなく、いつまでも待っていなければならないのだろうな。僕は、時間に余裕を見て家を出てきたので、劇場にはかろうじて間に合ったが、この故障したトラムの先の停留場で待っている全ての乗客のことを考えて本当に気の毒に思った。

 こういうのに遭遇すると、いつ徒歩で行かなければならなくなっても大丈夫だけの時間を考慮して家を出るべきだとも思う。あーあ、心配すると気が重くなる。でも、全てのことに、
「ま、いっか」
と思えないとやっていけないなあ。
 もっと問題なのは、こういう生き方に慣れてしまった後で、日本に帰って果たしてマトモな社会生活に復帰出来るかといういうこと。これは案外深刻ですぞ!

 日本では当たり前のことでも、異国の地では何をやるにもひと苦労だ。たとえば、3ヶ月の市内交通の定期券を買おうと思った。3ヶ月で約一万二千円くらい。これで滞在中、ミラノ市内の全ての地下鉄でもトラムでもバスでもフリーパスとなるんだから安いだろう。
 さて、その為にはまず電子読み取りする写真付きのカードを作らなければならない。それにはまず証明写真が要る。日本にあるような自動の証明写真用器械がDuomoの駅にある。4ユーロかかるが、使えるのは1ユーロ、2ユーロなどのコインのみと書いてある。ヤバイ。札ばかりでコインがない。そこで、何か使ってお金をくずそうとするのだが、アイスクリームを食べても、カプチーノを飲んでも、5ユーロ札がお釣りとして入ってくるので、なかなか思うように1ユーロ玉や2ユーロ玉が集まらない。もっと細かいお金ばかりはどんどん増えるんだけどね。
 やっとの思いでコインをかき集め、写真を撮りに行く。それまでに約半日かかった。それから定期の申請に行く。ミラノの市営交通はATMというのだが、Duomo駅にそのセンターがある。しかし、たかが定期を買うために、申請書類に名前やら住所やらを書き込み、銀行のように番号札を取ってかなり長い間待っていなければならない。僕の場合は30分くらい待ったかな。ふうっ!ここでは全てがこんな調子だよ。だからこうしたことは、たっぷり時間がある時でなければ出来ないんだ。

 スカラ座のオケの中に日本人女性のヴァイオリニストがいるが、彼女がFさんに、
「この劇場のエレベーターって、毎日ひとつは故障しているわね」
と言っているのを聞いてしまって以来、この国では恐くてエレベーターは乗れない。ちょうど故障する瞬間に乗り合わせて、中に閉じ込められでもしたら大変だ。だから僕のアパートも3階だが、いつも階段を使う。
 その他、いろいろがよく壊れている。地下鉄の自動改札機は、3回に1回は故障しているのに当たる。エスカレーターが止まっているのは当たり前。とにかく、何かが起こったら、不運だと思ってあきらめるしかないと、村上春樹氏の「遠い太鼓」に書いてあったけれど、本当だね。

イタリアでは・・・
 フランスと違って、イタリアでは、ゆっくり座れるカフェが少ない。僕は次に来る演目のアッティラの勉強をどこかでしようと、オープンテラスのカフェを探すが、オープンテラスのところはむしろレストランばかり。その点ではパリはいいなあ。シャンゼリゼ通り界隈では、コーヒーが4ユーロもして驚くが、その代わり何時間でも粘れるからね。
 イタリアでは、コーヒーを飲むのはもっぱらバール。バールでは椅子もあるが、フランスのようにギャルソンが注文を取りに来るところは少なく、基本的にはカウンターで注文をしてセルフサービス。みんな立ってコーヒー飲んだりパニーニを食べたりしているので、とても落ち着いて勉強する雰囲気ではない。

 中心街のバールの内部はどこも人で溢れていて並んでいるので、カプチーノを注文するだけでもドキドキしてしまう。逆に、郊外の住宅地にあるバールは、まるで名古屋の路地裏の小さな喫茶店のようで、近所の常連客だけで成り立っているという感じ。
「よう、リッカルド。どうした?今日は浮かない顔しているじゃないか」
なんて客が入って来るなりマスターが挨拶しそう。僕などのよそ者が入ったら、みんな会話をストップしてジロジロ見るっていう雰囲気なので、とても入りにくいなあ。イタリアでのバール・デビューは、シャイな日本人にはなかなか敷居が高い。

 ドイツと違って、イタリアでは犬が結構おバカなので安心する。ドイツに行くと、あまりに犬がお行儀が良いので、こんなところにタンタンなど連れて来たら大変だなと、なんだか肩身の狭い思いをしていたが、ミラノの街角のあっちこっちで、ワンワンと大きな声で吠えたり相手に噛みついたりする犬たちを見ていると、ほっとする。ここだったら、タンタンを連れて来ても恥ずかしくないなあ。

 イタリアではジェラートがおいしい。これが僕にとっては最も危険なことかも知れない。若者も中年も年寄りもみんなみんなおいしそうに歩きながら食べているので、今日はやめておこうと思っても、つい店に足が向いてしまう。僕はいつも一番小さいコーンPiccolo conoを注文するのだが、それでも日本の尺度で言ったらかなり大きい。おまけにそれに生クリームPannna montataなんか乗せようものなら・・・・もう・・・・た、たまりませんなあ。

 ミラノで一番の人気のスーパー・マーケットはEsselungaというお店。家から歩いて3分くらいのところにある。スーパーなどをはじめとするお店の電気は、日本の節電モードくらいの明るさ。これで充分なんだよね。日本も、これからはこのくらいの明るさでいいよ。
 さて、Esselungaは何でも質が高くて安い。まずルッコラがおいしい。サラダ菜がおいしい。それから、僕の大好きなモッツァレッラがめっちゃ安くて牛乳の香りがしておいしい。ゴルゴンゾーラ・チーズがヤバイくらいおいしい。スパゲッティを茹でて、熱々の内にゴルゴンゾーラを混ぜて溶かし込んで食べるだけで衝撃的においしい。それだけでもう何も要らない。
 オリーブ油が安くておいしい。僕はオリーブ油を2種類買って使い分けている。エキストラ・ヴァージンはサラダなどに生でかける時だけ使い、料理用には普通のオリーブ油を使う。炒めたりする時にはこちらの方がアクがなくていい。
 それからバルサミーコ酢が安くておいしい。パスタは、乾燥よりも生パスタが人気のようだ。いろんな形や大きさのがあって驚く。生パスタは茹で時間が1分とか2分とかのが少なくない。でも、腰がなくアルデンテにならないのも多い。
 ワインはいわずもがな。5ユーロも出せば、かなり良質なワインが買える。特にトスカーナ産の赤ワインは最高。ヤバイ。毎晩飲んでる。

 それから、イタリアのビールは案外おいしい。ここはドイツに近いので、ドイツのビールも置いてあるのがフランスと違うところ。フランス人は、そもそもビールをあまり飲まないけれど、イタリアでは気候が暖かいせいか、よくビールを飲む。イタリア・ビールは、ドイツ・ビールほどコクがないので、日本のビールに近い。ビールはドイツと決めていた僕でさえ、ここではむしろさっぱり系のイタリア・ビールを好んで飲む。

 外食を頻繁になどしたら、どんなに運動をしようとカロリー・オーバーになってしまうので、基本的には自炊をしている。先日はリゾット用の米を買ってきて、お鍋でご飯を炊いてみた。バイロイト時代からよくやっていたが、すぐに記憶がよみがえってきて上手に炊けた。でも、まだこちらに来たばかりであまり日本食が恋しくないので、もっぱらパスタやパンとシンプルな料理を合わせただけの料理を作っている。
 家では、肉よりも魚をよく食べる。たとえば、鮭の切り身を買ってきて塩を振り、胡椒とバジリコを振りかけてオリーブ油で焼く。その残りの油で茹でたパスタをちょっと炒めて一緒のお皿に盛る。こうしたシンプルな料理が飽きないんだ。

 練習が午前中から始まり、午後にまたがっている時は、劇場のMENSA(食堂)に行く。自分の好きなものを取ってレジーに並ぶので、食べ過ぎなくていい。料理は、おばさんに「これ下さい」と言って取ってもらうのだが、全ての料理に対して僕はSolo un pocoとかpochissimo(要するにちょっとだけ)と言う。そうするとちょうど良い量になる。おばさんは、そんな少しでいいの?という顔をする。
 最初は魚料理(何の魚か分からん)を、Orecchietteという丸いパスタと茹でた人参を添えて食べた。昨日はウサギ料理を野菜スープと一緒にとった。こういう何気ないイタリア料理もなかなかいけるよ。ピザやスパゲティだけがイタリア料理ではないのだ。

4月4日月曜日
 ちょうどウィーン国立歌劇場管弦楽団とウィーン・フィルのように、ミラノ・スカラ座管弦楽団には、劇場とは独立した経営のスカラ・フィルハーモニーというものがある。今日はリッカルド・シャイイ指揮マーラーの交響曲第7番の演奏会の日。僕はFさんに、午前中のゲネプロのタダ券をもらった。座席を案内されて行ってみて驚いた。オーケストラ・ピットの真横の席で、指揮者がとてもよく見れる。
 リッカルド・シャイイには思い出がある。僕がベルリンに留学していた頃、彼はベルリン放送交響楽団の音楽監督をしていた。弱冠29歳。その頃、僕はすでに26歳になっていたから、彼とは3歳くらいしか違わないはず。こっちは留学に来たばかりで、まだ将来食えるのかどうかも分からないというのに、シャイイは29歳でこんな一流オケのシェフかよと思ってうらやましかった。
 ベルリンにはベルリン・フィルがあるから、ベルリン放送交響楽団はその影に隠れている感があるが、どうしてどうしてかなりハイクォリティなオケなんだ。そこで僕はシャイイのおっかけみたいになって足繁く通った。演奏会だけでなく練習も何度か見に行った。カラヤンみたいにシャット・アウトしていなかったからね。
 僕はシャイイをかなり高く買っていた。演奏会の仕上がりも良かったが、何より練習の仕方が要領良く、短期間の間にオケが見る見る変わっていくのが分かった。こいつは偉大な指揮者になるに違いないと僕は確信していた。ところがそれ以後の彼の足どりを見ると、まあ一流の所を渡り歩いてはいるが、本当に超一流と万人に認識されるまでには至っていないようなので、なんだか淋しく思っていた。

 でも、今日のシャイイを見て僕は嬉しかったね。あの頃の面影はそのままに歳だけはとっていて(僕も人のことは決して言えない)、棒はあの頃のように明快で、あの頃のようにエネルギッシュで熱い音楽を奏でる。やっぱり正真正銘の巨匠になっていたんじゃないか。
 スカラ・フィルハーモニーは、合唱団と同じでラテン的な明るさがある。マーラーを聴くと、ドイツのオケと随分違うなと感じる。これも合唱団と同様、良い悪いの問題ではない。ホルンのトップの人はとても上手なプレイヤーだけれど、最初に聴いた瞬間、ホルンの音色に聞こえなかった。ふくよかで、ユーホニウムかと思った。トランペットもそう。明るくてソリスティックで、ジャズのクリフォード・ブラウンのよう。クラリネットの音色はバリバリのフレンチだね。しかもかなり軽くて、ちょっとジャック・ランスロのよう。弦楽器は、重厚な音も出るが、ドイツのオケのようにねばらない。
 このオケでマーラーを演奏するとラテンなマーラーになる。神経質な精神分裂症というのとは対照的で、交響曲第7番の支離滅裂な万華鏡の世界が天真爛漫に表現される。
「そうだ!これこそマーラーの世界なんだ!」
と逆にマーラーの醍醐味に一気に引き込まれた。かえって、こっちの方が第7番に近づくのにはいいのかも知れない。ギターとマンドリンの意味を哲学的に考えても仕方なかったんだ。これは単なるお気楽な遊びの精神なんだ。

 マーラーの音楽って案外ラテン的なオケと合うんだね。というか、それが、いろんな演奏を包含し得るマーラーの音楽のキャパシティーの広さか。

4月5日火曜日
 やっとゲルギエフが来た。今日は午前中に第1幕のピアノ付き舞台稽古をやったが、ゲルギエフは、その午後のオケ付き舞台稽古に初めてピットに入ったのだ。ところが、彼がそれまでの指揮者と全然違うテンポで振るもんだから、合唱とオケはズレズレ。それにゲルギエフの指揮って、くにゃくにゃしていてよく分かんねー!さすがのカゾーニさんも、
Peccato ! 「残念だ!」
と嘆いている。
 でもゲルギエフは意に介さずどんどん通す。そうしてダブルキャストのために二回通して終わってしまった。みんなキツネに包まれたよう。こんなんでいいのかな?

4月6日水曜日
 今日は、午前中ピアノで第3幕をやり、午後にそれをオケ付きでやる。ゲルギエフはもうミラノにいるのに、午前中のピアノ付き舞台稽古は、相変わらずアシスタント・コンダクターが振った。彼はオケでしか振らないと決めているんだな。
 それにしても、ここでのピアノ付き舞台稽古は、音楽的には完全にナメられていて、合唱団は相変わらず抜き抜きの声で歌うし、裏コーラスは全く歌わないのだ。副指揮者がオケ・ピットの後ろで歌っている。ピアノ稽古の時に、せめて裏の位置決めをし、サウンドをチェックしておけば、オケ付き舞台稽古になった時に時間のロスが少ないのに。

 バイロイトでもそうだったけど、練習があまりうまく進行していない時には、初演前の外部への風評を恐れて、突然客席が完全シャット・アウトになることがある。今日の午後のオケ付き舞台稽古も、練習が始まる直前に恐そうなおじさんがいきなり来て、
「今日はcompletamente chiuso(完全シャット・アウト)です」
と言って、僕以外にも客席にいた人達全員を追い出してしまった。
 急いでバイラーティ氏のところに助けを求めに行き、一緒に今度はカゾーニ氏のところに行った。舞台裏にいたカゾーニ氏は、
「私と一緒にいれば問題ないよ。でも、私も裏で振ったり、逆に客席で裏コーラスのバランスを見たり、他のアシスタントの仕事を見ていなければならないから落ち着かないし・・・・そうだ、舞台袖でよければここにいたらいいよ」
「はい。舞台袖も興味があるので、それでは今日は基本的にここにいます」
それで、袖で合唱の裏コーラスや、オケのバンダを見学していた。

 昨日心配した通り、このオケ付き舞台稽古で、合唱団も少年合唱団もバンダも初めて裏の位置決めやバランス調整をいっぺんにやるので大変だ。せめて事前に、合唱指揮者と音楽ヘッド・コーチとの間で、どこにセッティングするかという相談くらいしていたらよかったのに。
 オケのステージマネージャーがものものしく椅子と譜面台を並べているところに、合唱団が裏コーラスを歌うために遠慮なく割り込んでくる。それがハンパな人数ではないので、バンダの椅子は蹴散らされ、退散を余儀なくさせられる。今度はバンダが演奏する番になると、おしゃべりしている合唱団員達をオケのメンバーや副指揮者達が蹴散らして位置をぶんどる。その都度、日本人的に言ったら喧嘩のような状態になって場所取り争い。
 少年合唱とテノール達の「夜明けの合唱」の位置を決めた。誰も一緒に吹くサキソフォン奏者の事など考慮してくれない。そしたら彼等の場所がなくなってしまった。サキソフォンは、合唱団のずっと後ろの陰に隠れた位置で情けない音を出している。これでは全く客席にはサックスの音は聞こえないだろう。次に返した時には、サックスの待遇はかなり改善されていたが、最初からきちんと場所を決めてあげれば、変なストレスを与えないで出来るのになあ。

 舞台袖にいる人達のおしゃべりがうるさすぎる。イタリア人ってどうしてこうなんだろう。みんな、しゃべらないと死んでしまうのか?ひっきりなしにしゃべる。しかも歌手達だからベルカントでとても声がよく響くのだ。もう、演奏中の舞台裏とは信じられないくらいの音量なので、頭がおかしくなりそうだ。
 舞台袖のモニターの音がすごく大きい。バイロイトなどでは、劇場の音響の純度を高めるために、ほとんどモニターの音を出していないのに、ここではこのような御歓談状態の人達に聞かせるんだもの、このくらい大きくないと今どこやっているのさえも分からないというわけか。
 そういえば、新国立劇場に来る歌手達の中で、イタリア人達だけが、よくモニターの音をもっと大きくするようにと要求して困るのだが、こういうことだったのか。日本では、舞台袖ではほとんど誰もしゃべらないので、大きくする必要なんかないのに・・・。大きくするとね、その音が舞台裏だけでなく、巡り巡って舞台上や客席までも飛んでしまうので、サウンドが電気的な音になってクォリティを保てなくなってしまうし、第一、舞台上で歌っている歌手の声も、そのモニターの音が覆ってしまって聞こえにくくなってしまうので、良いことは何もないのだ。
 子供達の合唱団も僕のそばで自分たちの出番を待っているが、やはりうるさい。
「アルプス一万尺!」
を平気でやってる子供達もいるのに誰も注意しない。東京少年少女合唱隊の長谷川先生あたりが来て渇を入れてくれないかな。
 いつも誰かが、
「シーッ!」
と言っている。時々思い出したように、
Signori, silenzio per favore!「みなさん、お静かにお願いします!」
と舞台袖全体に向かって歩きながら言う人がいるが、その声がまたベルカントの良い声で堂々と響き渡っている。これこそ客席に一番届きそうだ。どうなっているんだよう、この国は!まあ、こういうのを見るのも、また別の意味で興味がありますなあ。

 ゲルギエフの振り方に慣れてきたのか、合唱団もオケも、昨日よりはずっと合ってきた。といっても、「バラバラ状態」が「すごくズレてる」という状態に進歩したくらいなんだけど・・・・新国立劇場的に言ったら、こんな状態になったらもう人生終わりという感じ。それでもラスト・コーラスなんかを聴くと、合唱団の声のクォリティ自体は素晴らしいの一言につきる。うーん、素材的には文句なしに世界一だろうに・・・・Peccato残念!

4月7日木曜日
 第2幕のオケ付き舞台稽古を15:00-17:00でやってから、19:00から全幕オケ付き通し。すなわち新国立劇場風に言うとHaupt Probe 。凄いね、このスケジュール。全幕通しの前に、第2幕をほぼ2回通したよ。

 ゲルギエフはだんだん本領を発揮してくる。オケは、良く鳴るところは本当に素晴らしい音を出す。ただ、たとえば児童合唱などは、日本でもそうだけれど、ずっとアシスタント・コンダクターのテンポで立ち稽古までやってきているので、直前に別のテンポで振られても対応出来ない。
 本当は随所で大人の合唱団やオケもそうなんだけど、テンポの変わり目にゲルギエフが次のテンポを出しても、演技している彼等が対応出来ないので、あきらめてマエストロの方が彼等のテンポに合わせる。それに、次はもうゲネプロなので、本番まで止めてやり直すことが出来ない。
 ということは・・・・つまり、これはゲルギエフの音楽ではないのだ。これは、スカラ座のスタッフが作り上げた音楽にゲルギエフがただ乗っかっているだけ。ゲルギエフさん!それであなたは良心ある指揮者として満足なのですか?  


4月8日金曜日
 今日で、この劇場に初めて足を運んだ日から一週間が経った。時間の経つのがなんて早いのだろう。今日はまず16:00から16:45まで合唱練習場でグノー作曲「ロメオとジュリエット」の練習。4階にある合唱練習室で行われた。
 僕は、最初の練習からすでに「トゥーランドット」の舞台稽古で、客席から合唱団の歌と演技を見ていただけだったから、きちんと彼等にに紹介されていなかった。今日の練習前、カゾーニ氏が僕のことを初めてみんなに紹介してくれた。みんな、鳴り止まない拍手で僕を迎えてくれた。帰り際にはみんな僕にBenvenuto !(ウェルカム)と声をかけてくれた。

 さて、今日の「ロメオとジュリエット」の練習は、ほとんど導入のためのフランス語の発音練習。フランス語の指導者が先にゆっくり読んで、それから合唱団が追いかける。このフランス語に対する対応能力は、ちょうど新国立劇場合唱団と同じくらい。へえっ!イタリア人にとってフランス語って難しいんだね。
 特にfinなどのナザーレのある単語は、発音が難しくて何度も直されていた。普通の「ファン」となってしまう。
「だめだめ、もっと口を横に開いて鼻にかけて」
すると女声団員の一人がわざとつぶれた声で言う。他のみんながくすくす笑う。「シーッ!」と言う者がいる。あはははは、シンコク合唱団と一緒だな。わざと変な声を出したのはさしずめN野Y子というところか。
 カゾーニ氏が、
「それではリズム読みをするよ。Uno Due Tre 」
と言ってリズム読みさせるところなんかも日本と一緒。速くて難しいところになるとついていけなくてゴニョゴニョになっていくなり方も、シンコク合唱団とそっくり。

 これが16:40くらいに終わって、次は場所を移動して「トゥーランドット」のゲルギエフの音楽稽古が17:30まである。僕がマゴマゴしていると、合唱団のメンバーが何人も、
「マエストロ、一緒に行きましょう」
と言って僕をエレベーターに乗せてくれた。着いたのは7階のオーケストラ・リハーサル室。
 ここはでっかいな。スカラ座が改修工事をして、新しく作られた大練習場だそうだ。今、新作のQuartettoという作品のオケ練習をやっている最中と見えて、大編成のオケ用の椅子と譜面台、そしておびただしい打楽器がところ狭しと並んでいる。

 ゲルギエフが来て練習が始まった。こうして百人のスカラ座合唱団を練習場で目の当たりに聞くと、やはり凄い声だ。シンコク合唱団も頑張っているけれど、素材ではとてもかなわん。特にここではテノールの声がブリリアントで抜群だ。とにかくまっすぐで力強い。
 こうやって落ち着いてマエストロ音楽稽古を最初に出来ていたら、みんなあんなにストレスを感じないで済んだのに。ところが、こうした音楽稽古でもゲルギエフの棒は分かりにくい。特に入りと切りとテンポが分かりにくい。ということは、まあ、全部じゃねえか。棒を持たない彼が、手をあひるかそれとも蛙をねらうマムシのように曲げたままブルブルと震えた時は要注意。
 第2幕の何度か出てくるDiecimila anniという個所の切りが分からない。こんな時は、合唱団はわざと切らないでずっと伸ばしたままでいる。ゲルギエフはあわてて切る。それからすかさず誰かが、
「すみませーん!切りが分からないんですがー!」
と叫ぶ。あはははは!天下のゲルギエフに対してだって歯に衣着せぬ言葉を投げかける合唱団のたくましさよ。これはシンコクでは、さしずめソプラノ・パトリのKさんあたりだな。
 もともと45分しかない練習時間なので、第2幕が終わったところでタイムアウト。そんじゃ後よろしくって感じで、いきなし稽古終了。

 それでも夜のゲネプロでは、練習したところは合唱団も腰を入れて声が出せるようになってきたから、サウンド的にもタイミング的にもかなり良くなった。ただ残念なところは、稽古していない第3幕がズレズレのままだということ。言っておくけど、これはゲネプロ(最終総練習)だからね。もっとも、こういう状態だから、公開ゲネプロだったはずが、Chiusissimaになっているけどね。
(こういう時にchiusoクローズの最上級を使うのがウケる。ピアノに対してピアニッシモというように。chiusissimaとは、つまり超シャットアウト。Probaが女性形だから語尾を合わせてキューズィッシマとaで終わるわけだ。)
 
 トゥーランドット役のマリア・グレギーナや、カラフ役のマルコ・ベルティを初めとするソリスト達も充実しているし、オケも合唱も、第2幕終わりとか終幕とかになると大迫力だ。この劇場一杯に鳴り響く音圧の凄さは、世界広しといえどもスカラ座に敵うものはどこにもないだろう。その意味ではバイロイトよりも凄い。まさにベルカントの殿堂!ここまで来た甲斐があると思った。
 ただ、ひとつだけ難癖をつけるとすれば、オケも合唱も、ピアノの表現がいまひとつ。先日の「魔笛」を聴いても、合唱団はSotto Voceというものをあまり使わないで、良い声なんだけどいつもそのままの声でピアノも処理しようとする。オケもそう。みんなで聴き合ってピアノのデリケートなサウンドを構築しようという意欲はあまり見られない。これがイタリアのサウンドだと言われれば、なるほどそうかと答えるしかないな。
 ゲルギエフの事はいろいろ文句を言ったが、それでもこの短期間にここまで作り上げる事が出来るのも才能がある故。出来上がった音楽には確かに説得力がある。並の指揮者でないことは明白だ。でも、こういうのを見ていると、どんなに優秀でもあまり神経質な人はオペラには向かないのかも知れないと思う。周りがネガティヴな反応を示しても意に介さないだけの、ある意味「鈍感力」が必要ということか?それとも絶対的な自信というものが必要なのか?

さあ、4月10日の日曜日はいよいよ「トゥーランドット」の初日だ。観客の反応はどうかな?



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