絶好調ラン・ラン!

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

横須賀~ジェノヴァ
 ジェノヴァに行った話をする前に、ある昔話から始めたい。確か小学校2年生だったと思う。僕は母親に連れられて初めて横須賀に行った。母親の姉が結婚して横須賀に住んでいたのだ。横須賀の叔母さんには三人の娘と一人の息子がいたが、その長男が海水浴に行って水死してしまった。僕の母親はその葬儀には行けなかったようで、一段落してから僕と姉たちを連れてお悔やみに行ったのだと記憶している。
 高崎線で上野まで行き、山手線に乗り換え、品川駅から今度は京浜急行に乗って横須賀中央まで行く。小学校2年生にとっては果てしなく長く感じられる旅だった。横須賀中央からかなり急な坂道をどんどん登ったところに叔母さんの家はあった。叔母さんと一緒に義理の叔父さんも僕たちを歓迎して出迎えてくれた。
 この叔父さんは、僕のことを「ひろふみ」ではなく「ふみひろ」と呼ぶ。何度直してもそう呼ぶのをやめない。母親に聞いたら、亡くなってしまった長男の名前が「やすひろ」というので、どうしても叔父さんは「ふみひろ」と僕のことを呼びたいそうなのだ。まあ、別にいいさ。
 でもその点を除けば、叔父さんは僕のことを過剰なくらい可愛がってくれた。叔父さんは僕に亡くなった長男の面影を重ねていたようだった。僕は叔父さんが大好きになった。だからその後、毎年のように横須賀に遊びに行った。叔父さんに会いに行ったのだ。

最初の指揮の師匠
 母親に言わせると、叔父さんは稼ぎもないのに本ばかり読んでいて、お陰でちっともお金持ちになれないのだそうだ。そういえば家中本だらけだ。でも、叔父さんはいろんなことを知っている。今から考えると雑学の大家で、確かに母親の言うように、その知識を仕事のキャリアに完全に生かし切れなかったのかも知れない。でも、僕には叔父さんの膨大な知識がとてもまぶしく思われたし、叔父さんと話していると、そこに“知性と文化の香り”が感じられて、うっとりとしていたのだ。
 いつかみなさんにもスキャナーで撮って見せようかとも思うが、群馬の家に一枚の写真がある。運命的な写真である。何故ならそこに写っているのは、僕の初めての「指揮をしている」写真なのだ。なんと、叔父さんは僕に初めて指揮の仕方を教えてくれた人なのだ。右手は常に拍を刻み、左手は気持ちが乗った時だけいろいろな表情をする為に使う。ところが右手に神経が集中すると、左手も同じように動いてしまう。僕は右手と左手が独立して運動出来るよう夢中になって練習した。
 まだ小学校の僕にテネシー・ワルツというハイカラな曲を教えてくれたのも叔父さんだった。僕は自分で言うのもナンだけど、かなり音感が良かったので、叔父さんが教えると新しい曲はすぐに耳で聴いて覚えた。叔父さんも僕に何か教えるのは面白かったのだろう。回を重ねて横須賀に遊びに行く毎に、叔父さんの方も僕が来るためにいろんなものを用意してくれていて、僕が驚きながらそれらのものを吸収していくのを楽しそうに見ていた。 僕は本当に叔父さんを尊敬していたし、僕にとって横須賀の叔父さんは今でもかけがえのない人である。残念ながらもうとっくに亡くなってしまっている。

いつか海外に・・・
 横須賀に僕が惹かれるもうひとつの理由があった。この街では、ごく当たり前のように外国人が行き交っているし、街角に英語が飛び交っている。それに港町ということもあって独特の雰囲気を持っている。群馬の田舎町では考えられないことだ。外国人なんて見たことなかったし。
 僕は何故か子供の頃から、自分が大人になったら外国に行って、外国人達と何かを一緒にやる人間なのだと信じていたから、こうした環境は僕を大いにエキサイトさせた。横須賀に行く度に、僕は将来絶対に外国に行くんだという決心を新たにした。

 横須賀の家からさらに坂道を登っていくと、現在では横須賀市文化会館があり、その先には横須賀中央公園がある。中央公園は、今ではとてもきれいに整備されているが、当時はまだ防空壕の跡が半分損傷したまま痛ましい姿をさらしていた。叔母さん達はそれを「ほうだやま」と呼んでいたと記憶していたが、インターネットで調べてみたら、砲台があったので「ほうだいやま」だったようだ。小学生の聞き違いというのは結構あるもんだよね。
 この砲台山からの眺めが圧巻だった。海のない群馬県から来た僕は、この眺めに息をのみ、我を忘れ、夢中になって、1日の内に何度も何度もここに来て、ゆっくりと港から出て行く船や、沖に浮かぶ猿島という島や、紺碧の海の上を通り過ぎてゆく白雲を眺めて過ごした。そしていつも思うことは一緒だった。
「僕はいつか、あの青い海の向こうに行くんだ!」
でも、よく考えてみると、あの青い海の向こうには、恐らく千葉県があるのだよね。ここは東京湾だものね。でも、まあ、そんなことはどうでもいいんだよ。とにかく僕は眼下に広がる横須賀の町並みと、その向こうに見える海を眺めながら、外国へのあこがれをつのらせていたのだ。

デジャビュ
 さて、やっと本題に近づいてきたぞ。話は29年前に戻ります。先日ヴェネツィアの話をしたけれど、ベルリンに留学して二年目の春に、僕と妻の二人は出来るだけ切り詰めた学生旅行をする。行く先はイタリア。ミュンヘンからミラノに行き、ジェノヴァ、ローマ、ナポリ、アッシジ、ヴェネツィアとお金がないのになんとも欲張りな旅である。
 ミラノで中央駅やドゥオモの馬鹿でかいのにびっくらコイて、ダヴィンチの「最後の晩餐」を見た後、僕たちはジェノヴァに向かった。ジェノヴァで丘の上に登って眼下に広がる町並みと地中海を眺めた時、僕を襲ったデジャビュをみなさんは想像出来るだろうか。それは、僕がかつて砲台山に登りながら、いつか行ってみたいと夢見ていた外国の景色そのままだったのだ。何故かつてあれほど鮮やかにイメージを描けたのかも分からなかったけれど、何故それと全く同じ景色をここで見るのかも分からなかった。僕は驚いて声も出なかった。しばしの沈黙の後、僕は初めて口を開く。
「千春!ここに・・・オレ・・・昔・・・・来たことある!」
「ええ?何言ってんの?」
妻は僕が何を言っているのか分からない。
「自分はきっと前世ここに住んでいたんだ。この街を自分は知っているんだ」
「はあ?」
 一方、妻はこの街が嫌いだった。理由は二つある。ひとつは、港町だからなんとなく雰囲気がうらぶれていて良くないこと。もうひとつは泊まったホテルが最悪だったことである。たまたま飛び込んだ宿がすごく安かったので即決断したのだが、確か一部屋二千円くらいだったと思う。トイレもシャワーも共同で、部屋は今にもネズミが出そうに汚かった。今でも彼女は、
「あれは自分の生涯最低の宿だったわ」
と折ある毎に言う。
でも僕にとっては、そんなことはどうでもよかった。それ以来この街を僕は愛してしまったのだ。

ジェノヴァ2~横須賀の風景

魂の故郷
 さて、やっとのことで現代になります。なかなか長い道のりを経てきました。そのジェノヴァに日曜日に行ってきた。結論から言うと、かつてのように熱に浮かされたような興奮が僕を包みはしなかったけれど、やっぱり僕はこの街を知っている。そして、僕が(今世で)初めてジェノヴァを訪れる前に、横須賀という最もジェノヴァに近い地形と景観を持つ街に親しんでいたということに神のはからいと運命を感じる。
 さらに、僕がどうして人生の半ばを過ぎて、ドイツ音楽でそれなりに評価も受けているのに、わざわざイタリアに来て今さら一体何を学ぶのかという本当の理由も、このジェノヴァに来て分かったような気がした。
 信じない人は笑ってくれて結構であるが、僕は前世イタリア人であって、ジェノヴァもミラノもよく知っているのだ。これで、どうして自分がこのミラノに住んでいて、ほとんど何の違和感も感じずに自然に暮らせるのかという謎も解けるのだ。でも残念なのは、それだったらもっとスラスラとイタリア語がしゃべれてもいいのにね。まあ、そんな風に人生簡単にいくもんですか。

ケーブルカー
 ジェノヴァに着いた僕は、まずほとんどの観光客が行くように駅前のバルビ通りをずっと歩いたが、それから港の方に出たり旧市街に行ったりはしないで、ケーブルカーの駅に着いた。そしてRighiリーギという丘の頂(いただき)までケーブルカーで上がり、そこからのジェノヴァの街と海の風景を眺めた。リーギからの眺めは、素晴らしいものには違いないのだが、僕にはあまりに高過ぎ、かつ街から離れ過ぎていて、期待していたものと少し違っていた。
 でも、ここが今日のジェノヴァ旅行の出発点となることに異存はなかった。まだ朝の10時過ぎ。時間はたっぷりある。僕はゆっくりと下山し始めた。眼下の景色は降りてゆくにつれて様々に変化していった。それにしても道は思ったより遠く、ジェノヴァの坂は思ったよりずっと急だった。まるで草津かどこかの温泉街のような風情で、急斜面の間に沢山のアパートが建っている。どれももの凄く高い建物だ。バルコニーから主婦達が洗濯物を干しているのだが、下を見たら目を回しそうな高さだ。とても恐くてあんな所には住めない。洗濯物が落ちたら、取りに行くのも大変だし・・・・。
 ちょうど横須賀の砲台山の高さくらいになってくると、僕の感覚は研ぎ澄まされて、再び29年前のデジャビュが蘇ってきた。やっぱり、とてもなつかしい。僕という存在を形作っている体中の元素が疼いている。ずっとずっと昔の記憶が霧の中から立ち上がってくる・・・・・この港町は、昔はもっと薄暗く雰囲気が悪く、七つの海を渡り行く船乗りの男達の停泊地として、歓楽の宴が夜な夜な催され、ゆきずりの恋が生まれ、不実な男と愚かな女のありきたりの物語が果てしなく繰り返されてきたのだ・・・・。

ジェノヴァ1~丘を下る

旧市街地にて
 街に入る。ヴェネツィアほどではないけれど、細い路地が至る所にある。建物が高いので、その細い路地は一様に薄暗い。昼間でも女性が一人で入り込んだら恐いだろうなと思われる所ばかりだ。でも僕には何故かとてもなつかしいし、気持ちが落ち着く。不思議だ。普通だったら、こんな汚い街大嫌いなんだけどな。
 美術館とかいろいろあるのだが、どうも気乗りがしない。オペラ劇場の前でポスターを見ると、もうすぐ「蝶々夫人」のプリミエがある。面白そうだな、プリミエがオープンしたらまた来てみようかな。

 お昼はインターネットで推薦していたドゥカーレ宮殿Palazzo Ducaleの中のレストランに入ったが、全然たいしたことなかった。ビュッフェ形式だというので、食べ過ぎなくていいかなと思って入ったのだが、置いてあるものがショボい。せっかく海辺まで来たのに魚料理らしい魚料理がなかったし、それぞれが土地の名物料理なのかもしれないけれど、おいしくないと仕方がないわな。まあ、先週にヴェネツィアでいっぱいおいしいものを食べたからいいや。
 それにしても、娘の杏奈というのは、おいしいレストランを探し当てる嗅覚のようなものがあるなあ。僕はちなみにその点については全く駄目らしい。

戦場の写真家キャパ
 ドゥカーレ宮殿では、戦争の写真を撮って一世を風靡したロバート・キャパの写真展をやっていたので入ってみた。わざわざジェノヴァにまで来てキャパですか?でも、ノルマンジー上陸作戦のオマハ・ビーチの迫真に満ちた写真をはじめとして、心に残る写真が沢山あった。なんていったって実際に戦っている人を撮っているのですよ。銃弾が飛び交う中、戦場の兵士が必死で銃を撃っているだけだって生きるか死ぬかなのに、その姿を横から撮るって、一体どんな精神状態だったら出来るのだろうか?
 もし自分に弾が当たって死に、さらにカメラにも弾が当たって壊れてしまったら、この労力は全く報われることなく闇に葬られてしまう。そんな徒労と隣り合わせの末に撮られた写真には、さりとてそこからなんらかの教訓を引き出そうとしたり、ましてや意図的な反戦などのメッセージが織り込まれているわけではない。あるのはただ「戦争」というものを客観的に描写したものである。でも、だからこそ、彼の写真はゆるぎない普遍的な説得力をもって迫ってくるのだ。
「もしかしたら次の瞬間死ぬかもしれない」
と思いながら銃を構えている兵士の顔。そこには恐怖でもない、決意でもない、なんとも言えない張り詰めた表情が浮かんでいる。そして、その表情の向こうには、彼を愛し彼を心配しながら待っている全ての人達の思いが見え、彼がこれまで頑張って自分の足で踏みしめて生きてきた全ての彼の人生の軌跡が横たわっているのが感じられる。一人の人間は、実に沢山のものを背負って生きているのである。それが写真に表現されているって凄いと思いません?
 それにしても、これだけのリスクを犯してまで、どうしてキャパは「そこに」いたのであろうか?名誉心?使命感?芸術家魂?おそらくそのどれでもないのであろう。きっとキャパ自身に訊いてもはっきりした答えは返ってこないであろう。僕に誰かが、
「どうして音楽家になったのですか?」
と訊いても答えられないのと一緒かも知れない。唯一出来る答えは、
「これ以外のことをしようと思いつかなかったから」
ということくらいかも知れない。

水族館
 キャパの写真にいろいろ考えさせられながら、次に向かった先は・・・・なんと水族館であった。みなさん、馬鹿にしないで下さい!このジェノヴァの水族館はヨーロッパの中でも最も素晴らしい水族館の内のひとつで、いつも行列が出来ているのですよ。それに、魚座の僕は、昔から水族館が大好きなのだ。特に最近は水泳をしているので、魚の泳ぐ動きのメカニズムにとても興味がある。それぞれの魚が、それぞれに発達した器官を使って、いかに泳ぐのかということを観察していると全く飽きない。それにしても、世界には何と沢山の種類の魚があるのだろう。
 この水族館は、種類が豊富だけではなく、レイアウトがとても洒落ていて、「どう見せるか」あるいは「どう魅せるか」という事に命を賭けているように感じられた。水族館自体がひとつのパフォーマンスであり、ここを一回りして見るという行為は、ある芸術体験をするということなのだ。なかなかやるな、イタリア人!
 僕はその中で、いるかと一緒に泳ぎたいなと思ったり、ペンギンを家で飼いたいなと思ったり、クラゲのように優雅に水の中を漂うことが出来たらどんなにいいだろうかと思ったり・・・・・そうこうしている内に結局ジェノヴァに来て一番長くいたのはこの水族館ということになってしまった。

 それから、バールに入ってカプチーノを飲んだりしながら海岸べりをゆったりと歩いて駅に辿り着き、ちょうどあった電車に乗ってミラノに帰ってきた。行程だけ振り返ると、なんでもない旅であったが、ジェノヴァは僕に再び忘れ得ぬ印象を残した。このイタリア滞在の間にきっと僕はもう一度ジェノヴァを訪れるであろう。いや、ジェノヴァに帰るであろう。僕の魂の故郷なんだから。

ジェノヴァ3~港

ミラノで水泳
 5月2日月曜日。毎週月曜日は、スカラ座合唱団は定休日。なので、午前中の語学学校が終わった後、カドルナ駅界隈で軽く昼食をとってから、ミラノに来て初めてプールに行ってみた。インターネットで一番ゆったりしていそうな所を探したら、かなり郊外に良さそうなプールがあった。
 水泳帽が必須だとか、いろいろなことは日本と同じだ。4ユーロでカードをもらって自動改札から入る。でも唯一違うのは、鍵は自分で持って行くことだ。僕は鍵を持って行くとは思っていなかったので、鍵なしでロッカーに荷物を置いて盗まれないかとドキドキしていたら、何の事はない。みんなプールサイドまで自分の荷物を平気で持ってきて置いている。だから僕も後で持ってきた。
 でも、予想していたけれど、やっぱり深くて足が立たないじゃないか。それでも25メートル・プールだから恐怖感は感じないけどね。今日は様子見なので、ユルユルに泳いで帰ってきた。久し振りに気持ちが良かったが、後で妻から電話がかかってきた時に、
「やっぱり鼻声になっているわよ」
と言われた。  


真の職人
 5月4日水曜日。今日は嬉しいことが二つあった。両方とも音楽のこと。やっぱり僕は音楽家なのだ。自分の目の前で音楽が正しく演奏されると、それを聴いて単純に喜ぶのは勿論のことだが、同時に、自分がまるで裁判官か何かのようになって、ものが本来あるべきところに収められるのを見届ける満足感のような感情を持つのだ。

 「トゥーランドット」の公演は4月中に一度終わって、5月の公演から指揮者が替わった。ゲルギエフから交代した新しい指揮者は、新国立劇場でも2008年の「リゴレット」をはじめとして何度か登場しているダニエレ・カッレガーリだ。カッレガーリについては、不覚ながら「もの凄く素晴らしい指揮者」という認識は持っていなかったが、今回自分の過ちを正直に白状しよう。
 今日は16時から「トゥーランドット」のマエストロ稽古。練習を始めるなり、カッレガーリは合唱団員達の心をすっかりつかんでしまった。イタリア人の彼は、これまでおざなりにされてきたテキストやドラマから来る全てのニュアンスを丁寧に曲から引き出してゆく。ダイナミックも、ほとんど息と言葉だけのピアニッシモから、マルカートで硬いフォルテや、幅広いフォルテなど、容赦なく合唱に要求してゆく。これまで、この合唱団から本当のソット・ヴォーチェ(包み込むような柔らかい声)というのを聴いたことなかった僕は、初めて聴く彼等のビロードのような響きに鳥肌が立った。なあんだ、出来るんじゃないの。しかも、もの凄いレベルで!

 まさに、僕がわざわざイタリアまで来て聴きたかったニュアンスがここにあった。作曲者が本当は望んでいたけれど、音符に書きようがなくて、演奏者に委ねるしかなかった数々のアゴーギクや表情。それをカッレガーレは全て取り戻してくれた。やはりイタリア・オペラはイタリア人じゃなければね・・・・と、言い切ってしまうと、じゃあお前はどうなんだと言われそうだね。でも、まさにそこなんだよ、問題は。
 日本人の僕が日本人の合唱団と一緒にイタリア・オペラをやる時にどうすべきか?たとえばどんな発声を彼等に要求したらいいのか?言葉のニュアンスから始まって、どんな音楽的ニュアンスを作り上げたらいいのか?イタリアの合唱団にとっては、わざわざ言う必要もないほど当たり前のことを、僕たちは努力して一から構築しなければならない。
 同時に、僕は、現在イタリアで行われているやり方が百パーセント正しいとも思っていない。イタリア・オペラをやるならば、ただスカラ座がやっている事を盲信し、それに盲従すればいいとも思っていない。大事なことは、本場でやっていることをきちんと見届けながら、今度は実際に自分がやる時に、どのあたりで折り合いをつけて、自分達の座標軸を作り上げるかなのだ。そのためには、スカラ座合唱団が、自分たちのイタリア・オペラはこうだというモデルを提示してくれることが望まれたわけだが、これまで何となく消化不良の状態が続いてきたのだ。

「カッレガーレは職人である」
と言い切ってしまうのは間違いではない。確かに、彼はもの凄く独創的な解釈を行うわけではないし、「マジですか?」と驚くような事もない。彼の紡ぎ出す音楽は常に、あるべきところであるべき展開をしてゆく。あるべきテンポで、あるべき表情が見られる。
 でも、これって本当は凄いことなんだ。何も違和感を感じないということは、それだけ音楽が自然に進行しているということであるし、そのために行うテンポチェンジなどの操作が全て「気が付かれない」ということの証しなのだ。しかも、彼の棒の下で、合唱団はなんと豊富なニュアンスを醸し出していることだろう!
 カッレガーレが提供しているのは、演奏者が落ち着いて演奏出来る“フィールド”なのだ。さて、そうなると、そのフィールドの上で活動する者達の本当の資質が問われるのだ。これまでにも彼は、世界各地で同じやり方で練習し、指揮してきたであろう。新国立劇場でもそうだった。新国立劇場ではあるところまでしか到達出来なかった。でもそれはカッレガーレのせいではなかったのだ。残念ながら、僕も含めて新国立劇場合唱団がそのフィールドでスカラ座合唱団のように伸び伸びと自由に羽ばたくことが出来なかったのだ。これが、母国語ではないし、「自分たちのオペラ」という意識も持てない我々日本人の限界なのであろうか?
 さあこれで、どうして僕がかつてカッレガーリをそれほど素晴らしいと評価しなかった理由が分かっただろう。つまり僕は全く分かっていなかったわけだ。悔しいけど嬉しい。だって、ここに来ることがなかったならば、一生こうしたことに気が付かないで終わってしまったわけだし、まさにこのことに気付くために僕はここにいるのだから。
 日本に帰ってから、多分僕はもの凄く沢山の事を新国立劇場合唱団に要求するようになると思う。そしてオーセンティックなイタリア・オペラでありながら、同時に世界中のどこにもない特徴をもった世界一の合唱団を作り上げようと努力するだろう。きっと僕はやり遂げる!悔しいのだ。このままでは終われないのだ!

 カッレガーレの練習は、合唱団からの満場一致の大きな拍手に包まれて終わった。正直な彼等のことだ。彼等の反応や表情に嘘偽りはない。みんな大満足しているのだ。練習ギリギリに入ってきてすぐ練習を開始した彼は、僕が後ろにいるのに気付きもしなかったが、僕が行くとすぐに思い出して、
「ああ君かい、東京で一緒に仕事したね。どうしてここにいるんだい?」
と満面の笑みを浮かべて握手をしてくれた。僕は、自分がここにいる理由とマエストロの練習に感銘を受けたことなどをひとしきり話した。

 この公演は間違いなく素晴らしいものになるだろうと思う。でもなあ、一般の人達は彼の良さに気付いてくれるんだろうか?まさかここでも、人々が自分の耳で聴かないで「名声で聴く」ことをしたりするんじゃないでしょうね。さてさて、これは楽しみになってきたぞ。ミラノの聴衆の耳のレベルはどうかな?彼等のお手並み拝見といくか!

絶好調ラン・ラン!
 もうひとつの嬉しいことは、同じ日の夜のスカラ座フィルハーモニーの演奏会だった。プログラムは、ショパン作曲ピアノ協奏曲第一番と、マーラー作曲、交響曲第6番。指揮はセミヨン・ビシュコフ。ショパンのソリストはラン・ラン。

 まず、このラン・ランが絶好調だったのだ。いやあ、これまで聴いたこの曲の全ての演奏の中で間違いなく最高であった。感動して涙が出た。テクニックが揺るぎないのは勿論であるが、彼の演奏は、そんなことから全て解放されて天衣無縫、天真爛漫。それでいて細かいパッセージの最後はピシッと決まって爽快感そのもの!
 叙情的なところは、ピアノの音色が美しいだけでなく、フレーズの最後を消え入るようにボカしたり、大胆にも聞こえないくらいのピアニッシモでエコーのように演奏したり、うるんだ街灯のような独特の表情を醸し出したり・・・・まあ、こういう時になると、言葉って本当に役に立たないですな。ショパンの内面の苦悩や、つかの間の喜びや、はかない希望や、憧憬や・・・・と、またまた月並みな言葉が並ぶのみ・・・・。

 第3楽章のテンポの揺れも見事。でも僕が驚いたのは、こういう個所も含めて、ビシュコフのナイス・サポートぶりなのだ。オーケストラというのは、いろんな音色が出て面白いけれど、本当のところを言うと、あれだけの人数が同時に演奏しているのだもの、細かいニュアンスに関してはどこかで妥協しないとやっていけない。特に難しいのは協奏曲で、独奏者がアゴーギクを使って繊細に演奏している場合、なかなかそれに本当に寄り添って伴奏するのって難しいわけよ。先日のドヴォルザークのチェロ協奏曲なんかは全く悲惨だった。でも今日は、ビシュコフがとても用心深くラン・ランの感性に寄り添って、絶妙なニュアンスで一緒に音楽を作り上げた。こういう指揮者を僕は本当に尊敬するね。才能だけではなく、フレキシブルな感覚と他人への気配りがないと絶対に出来ないからね。

 曲が終わると、もの凄いブラボーの嵐が起きた。ラン・ランは何度も呼び出された末に、アンコールとして「黒鍵エチュード」をもの凄い速さで弾き始めた。これには会場の誰しもがド肝を抜かれた。最後の両手のオクターブなど、あんな速さでは聴いたことがなかった。まさにテクニックの独壇場!
 その後の、まるでサッカーのシュートが決まった時のような会場の歓声と興奮を、みなさんにも味わわせてあげたい。いやあ、ラン・ランは今やとどまるところを知らず、どこまでも突っ走る弾丸のようだぜ!

マーラーの甲斐なき戦い~第6番
 さて、あれだけ素晴らしいサポートをしながら、気の毒にもラン・ランの圧倒的な演奏の故に陰に隠れてしまったビシュコフだが、休憩後のマーラーでは見事に敗者復活戦を果たした。彼はフィルハーモニーと一体となって、これまた稀有な演奏を繰り広げてくれた。
 マーラーの第6番交響曲を好んで聴くようになったのはごく最近のことだ。かなりマーラー好きの僕であるが、6番はランク付けから言ったら結構下の方だった。それが、親友のスキーヤー角皆優人(つのかい まさひと)君との交友が再開してから、彼とマーラーの話を随分するようになって、角皆君にとってはむしろかなり上位にランク付けされている第6番に、僕も関心を持つようになったのだ。

 ビシュコフは、そのチリチリの髪の毛や、大きな目、分厚い唇など、一度見たら決して忘れない風貌をしている。その指揮する姿も、本人には失礼だが、どこかユーモラスでさえある。でも、彼の音楽はスコアに対してどこまでも誠実であり、作曲家が譜面にしたためた想いを出来るだけ忠実に再現しようと全力をつくしている。こう言うと、何か月並みな印象を与えそうであるが、先ほどのカッレガーリと同様彼も「職人」であり、大工の父親を持つ僕が「職人」と呼ぶ時には、それが僕の“最大限の賛辞”であることをみなさんは忘れないでいて欲しいのだ。

 この演奏を聴いていて、ひとつ分かったことがある。それは、あの随所に登場する謎のカウベルの正体である。これを言葉で説明するのは難しいが、ちょっと試みてみたい。

いつからか知らないが、常にあの音が聞こえていた。それも決まって何かがうまく行かない時に、まるで運命の告知のようにして心の奥底から響き渡ってきたのである。でも、あの音は不快ではなかった。むしろ逆である。あの音が聞こえると、僕はいつもうっとりとしていた。魅惑的であり、何かなつかしさを与える、不規則でテンポも音の高さも定まらない不思議な音。

一度だけ、努力の末にある頂点に上り詰めた時、歓喜の歌に交じってあの音が聞こえてきた時があった。僕にはその理由が分からなかった。何故なら、あの音は、本来、僕の勝利や歓喜とは決して相容れないものではなかったのか?

でも、その理由はすぐに分かった。人間は、ひとつの勝利にとどまることが出来ない生き物なのだ。昨日有頂天になった事は、今日にはもう普通になり、明日はすでにその状態に飽き足らなくなって、さらなる勝利をめざさずにはいられない。こうして勝利へのイタチごっこが開始する。それが僕の本当の悲劇の始まりだったのだ。

何も考えずに上だけを目指して挑戦していた日々と違って、今の自分には立ち止まることも振り返ることも許されなかった。いや、かつても、立ち止まることも振り返ることもしなかったので見かけは同じだ。でも、そこには将来への希望と喜びがあった。今の自分にあるのは、ただ果てしなく勝利し続ける義務感だけ。それはもはや勝利とは呼べない。表面だけ美しくて中身が腐っている果実のように、すでに自分は敗北している。

「さあ、次の戦いでいよいよお前は負ける」
あの音が告げている。この瞬間を待っていたのか?果てしない勝利の連鎖の末、真実の敗北が僕に訪れ、その暗黒の深淵から二度と這い上がれなくなるその瞬間を・・・・・。
 こんなことをこの交響曲を聴きながらずっと感じていた。そしてなんという深い苦悩と甲斐なき戦いの道をマーラーが歩んでいたのかと思ったら、胸が痛んで自分までが苦しくなってきた。このような痛みを与える音楽は、もしかしたら世の中にこの曲くらいしかないのかも知れない。この演奏会を通して、交響曲第6番は僕にとってかけがえのない曲になった。
 最後のピッツィカートが鳴って曲が終了しても、誰も拍手しなかった。いや、出来なかった。これで終わってしまうのがあまりにも切なくて、みんな次の行動を起こす気持ちが持てなかったのだと思う。そういう曲なのだ、第6番とは。要するに、気持ち的に終われないのだ。
 勿論、その次の瞬間に割れるような拍手が起こり、ブラボーが飛び交ったのは言うまでもない。でも僕には、この拍手のないほんのわずかな沈黙の空間が、今日の演奏会の最大の収穫だったと感じられた。この沈黙も“マーラーの音楽に含まれている”のだ。

 たかが音楽、されど音楽だ。ショパンもマーラーも、ここまで他人の心の奥底まで土足で上がり込んできて、その人格そのものを揺さぶり、一生涯忘れ得ぬ印象を残してゆく。素晴らしいな。神様が僕たちに音楽という贈り物をくれたことは・・・・・。それにしても、指揮者ってやっぱり偉大だな。僕、大きくなったら絶対に指揮者になるんだ・・・・あれえ、何を言ってるんだ???

ストライキ
5月6日金曜日。
「お手並み拝見!」
と、ミラノの聴衆の反応を期待していたのだけれど、イタリア全土に渡る大規模なストライキのお陰で、今日の「トゥーランドット」の公演が中止になってしまった!残念!指揮者のカッレガーリもとても残念がっているだろう。
 しかし、いつも思うんだけれど、ストライキという、他人に迷惑をかけて困らせることによって自分の思いを遂げようとする手段って、やっぱり卑怯ではないか?民主主義という理念の中に、人に迷惑をかけていいというのも含まれているのかって、誰かに食ってかかりたくなるよ。だって、ここに来てからもう二度目だぜ。
 って、ゆーか、要するにフランスやイタリアでは、こうした手段を多用することを国民が容認しているわけね。ドイツや日本とは違うわけだ。ああそうですか、分かりましたよ!

ヴァレンティーナ~5月の地下鉄
 今日で2週間に渡った語学学校はひとまず終わり。5月9日の月曜日には妻が来るので、一週間だけ中断することにした。妻と一緒にあちこち回ったりして、次の週からまた同じクラスに戻って、さらに4週間通う予定。妻は、僕が語学学校を再開してからもまだ数日いるので、最後の数日は彼女を放置して語学学校と劇場に通う・・・・というと、何か僕がとても冷たい人間に見えるが、彼女だってミラノを離れた後、一度パリの杏奈の所に寄って数日いてから東京に帰るので、まあどっちもどっちだね。僕の側に少しでも長くいたいというわけではないのか、妻よ?

 最初はパニックになりながら死にものぐるいだった語学学校だが、2週間目に入ってからはとても楽しくなってきた。テキストの本の問題の出し方もパターンがあるので、最初はイタリア語で書いてある問題の意味すら分からなかったが、今では何の困難もなく読める。1日に3時間ずつあるから、落ち着いてたっぷり勉強出来た。たとえば、近過去と半過去の違いといったら、もうそればっかり徹底的に繰り返してやるので、嫌でも頭にたたき込まれる。やっぱり語学は「学ぶより慣れろ」だね。
 先週も言ったと思うが、ここの教師はみな優秀だが、その中でも文法の授業の若い女性教師ヴァレンティーナを僕は特に気に入っている。その理由はまず可愛い(あれっ?)。彼女は、知的なイタリア女性の典型だと思う。キュートで凛としていて、頭の回転が速く、おしゃれでチャーミングで、そしてやさしい。案外こういうイタリア人女性は多いのだよ。
 ここでは先生をみんなファーストネームで呼ぶ。
「先生!」
なんていう感じではない。
「ねえ、ヴァレンティーナ。ここ分かんないんだけど・・・・」
「なあに?」
っていう感じだ。
 彼女は、よく分かっていない生徒がいると、なんとかして分かってもらおうと、何度も何度もいろんな例を引き出して説明する。全く、頭が下がるほどだ。僕だったらもうとっくにそんな奴は放っておいて次に進んでしまうだろう。

 そのヴァレンティーナが、5日木曜日の授業でANSAというイタリアの通信社の記事を持ってきて、QUALCUNO(誰か)と NESSUNO(誰も、何も)の練習に使おうとした。そのタイトルはこうであった。
QUALCUNO diffonde sul web notizie su possibili attacchi terroristici a Milano:
meglio non usare la metro'
「誰かがWEB上で、ミラノでテロ攻撃の可能性があるというニュースを広めた:地下鉄を使うのは避けた方がよい」
サブタイトルは次のよう。
Dopo l'uccisione di Bin Laden NESSUN paese sarebbe al sicuro
「オサマ・ビンラディンが殺されて以来、もう(この地球上に)安全な国などどこにもない」
さらに本文ではこんな内容が語られていた。
「オサマ・ビンラディンが殺されてから、インターネット上で大きな議論を呼んでいるのは、その報復としてミラノがテロの標的になるという話題だ。5月にミラノの地下鉄に乗るのは避けましょうnon prendere la metropolitana a maggioというスローガンもまことしやかに飛び交っている。こうしたpsicosi(集団ヒステリー、ノイローゼ、精神不安)は、かつての9.11以来である」(ANSA 5月4日)
 それをひとりずつ読んだ僕たち生徒は、もう文法どころではなくなってしまった。その後、授業時間が終わるまで、もうその話題だけになってしまって、授業が成り立たなくなってしまったのは言うまでもない。

 それにしても冗談じゃねえぜ。そんなこと言ったら、特に危険なのは、一番使いたい中央駅やドゥオモ広場近辺の地下鉄だろう。ここが使えないととても不便だ。でもまあ、まだ死にたくないので、5月に地下鉄を使うのは避けようと思っている。妻にも使わせない。これは迷信や自然現象ではないから、単純にデマだと笑い飛ばすわけにもいかない。なんとも物騒な世の中だ。



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