希望の星
イエスがベタニアでらい病の人シモンの家におられたとき、一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子達はこれを見て、憤慨して言った。
「なぜ、こんな無駄使いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」
イエスはこれを知って言われた。
「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」
マタイによる福音書26章6節から11節
男の友情
マグダレーナを失って自暴自棄になっているパルジファルは、聖杯と槍の合体の儀式を薦めるアンフォルタスに向かってこういう。
「アンフォルタス。どうしてそこまで・・・・僕を追い払えば、あなたが王になれるのに・・・。あなたこそ王にふさわしいのに・・・・。」
アンフォルタスは答える。
「いや、わしはその器ではない。それは天が決める事なのだ」
その無私の態度に深く心打たれたパルジファルはこう言う。
「あなたは素晴らしい人だ。分かりました。あなたを信じましょう。そして、あなたのような人がそこまで信じている聖杯の力を、僕も信じましょう」
「誓ってくれるか?」
「誓います!」
そこで二人は互いの目を見つめ合いながら硬い握手をかわす。
はっきり言って、このシーンを描くために、僕は「パルジファルとふしぎな聖杯」の台本を構築したとも言える。ここで僕は男の友情を描きたかったわけであるが、ただの関係ではない。自分の限界を知りながら、自らの欲得ではなく天の理に従って生き、さらに他人の価値をも正当に判断していくアンフォルタスの人間像と、その素晴らしさに気付くパルジファルという二人が、とても高い次元で互いを認め合う瞬間を描きたかったのである
その前のシーンでは、アンフォルタスは、みんなの反対を押し切って、聖杯を持ってモン・ディアーヴォロに走り去っていく。その瞬間、他の騎士達は、彼が精神に異常をきたしたのではないかと思ったであろう。パルジファルという異端児を認めるために、アンフォルタスの常識も払拭される必要があったのだ。
このシーンはオリジナルのパルジファルにはない。僕の創作である。でもモデルはある。「マイスタージンガー」のハンス・ザックスだ。若い異端児ヴァルターを見つめるザックスのまなざしである。歳を取ってくると、ヴァルターよりもザックスに思い入れが深くなってくるものだ。また、そうでなければならないとも思う。
これから羽ばたいてゆく若い人材を発掘することは僕たちの世代の義務である。どんなに才能があっても、誰かが認めてくれなければ育たない。それを認める者は私見にとらわれず、公平に物事を見る冷静さを持たなければならない。才能のある者は時として尊大で傲慢かも知れない。また、自分の長所に酔い痴れ、短所に対して甘いかもしれない。それ故、他人の評価が厳しいものになってしまっているかも知れない。そんな若者を擁護する時には、それによって自分の立場が窮地に追い込まれることすら覚悟しなければならないかも知れない。だからこそ、自分の欲得を捨てて無私になり、自分の信じる価値観に従って判断し、自分を貫かなければならない。
パルジファルをして、
「どうしてそこまで・・・」
と言わせるほどに無私になること。それは、今の僕自身が目標とするべき人間像なのだと思う。このように、自分の作った作品から自分が学ぶことがあるのだ。何故なら、こうした真実は、自分で書いていながら自分で書いていないのだから。僕はただの道具であって、もっと高い世界から真実は世に出たがっているのだ。それを僕はただ手助けをしているだけなのだ。
子供達は、そのシーンを見てすぐには分からないだろうが、こうした男同士の関係が「カッコ良い」ということだけは学んで欲しいと思う。人生において価値のある生き方というのは、自分の欲望を満たすことではなく、自分の行うべき使命を悟り、その信念に従って生きることであり、本当の友情が芽生える時は、信念を持つ者同士が互いを認め合う時なのだ。
それにしても、こんな長いセリフなのに、子供達はよく静かに聞いていてくれた。やっぱり、カッコ良いと思っていてくれたのだろうか。
聖杯の力を信じなさい
パルジファルが「どうしてそこまで・・・」というセリフを発するきっかけとなったアンフォルタスの言葉はこうだ。
「お前自身が聖杯の力を信じなければ、なにも始まらない。聖杯の力を信じなさい!」
これを押川浩士さんは絶叫に近い声でパルジファルに迫って言うし、星野淳さんは、
「信じるのだ。聖杯の力を!」
とセリフを変えて内的な力を込めて言う。どちらも素晴らしい。
このセリフに僕は、祈りにも似た深いメッセージを込めている。
本当は、全世界に向けて発信したいのだ。
「今こそ、信じるのだ!聖杯の力を!」
なでしこジャパンだってそうだったと思うけれど、勝つと信じ切らなかったら決して試合には勝てなかった。同じように、世界は平和になるのだとみんなが信じ切らなかったら、世界に平和は決して訪れない。信じるということのパワーがどれだけ凄いか、まだ人類は理解していない。いや、現代においては、疑う文化が蔓延しており、それがマイナス波動で地上を満たしているのだ。キリストも言う。
はっきり言っておく。もしからし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。人はすぐ守りに入りたがる。信じておこなって、もし駄目だったら格好悪いとか、メンツが立たないとか思うから、駄目だった時のいいわけをすでに考えておく。でも、それは信じていない証拠だ。信じるということは、すなわち何のいいわけも出来ない事態に自分を追い込むことであり、プライドもメンツも捨て去ることなのだ。本当に信じ切るためには覚悟が要る。でも、そこまで信じれば奇蹟は起きる。山も動くし、死者も生き返る。あなたはこれを信じますか?
マタイによる福音書第17章20節