鈴木敬介さんのこと
葬儀の終わりのご挨拶で、奥様の嵯峨子(さがこ)さんがこうおっしゃった。
「趣味と言えば、お酒を飲みながら仲間と日本のオペラの将来について語ることくらい。オペラを愛し家族を愛し、不正に対してはどこまでも立ち向かい、何の私利私欲もない心のきれいな人でした」
何の隠し立ても出来ない一番近い人にここまで言わせることの出来る人って、世の中そんなに多くない!やっぱり凄い人だと思った。
同じ演出家の先輩に当たる栗山昌良(くりやま まさよし)氏は、弔辞の中で、
「あなたの演出に向かう態度、あなたの生き様。見事でした!」
とおっしゃった。栗山氏は、ベルリンの敬介さんの家で、いろいろオペラのことについて語り合った事をなつかしそうに話されていた。
鈴木敬介さんは、1963年の日生劇場開場記念ベルリン・ドイツオペラ公演の際に舞台監督を務め、本場ドイツのオペラ作りをつぶさに見て大きなショックを受けたという。その後、演出家ゼルナーに直訴して1969年よりベルリン・ドイツオペラ演出部に所属し、帰国後の活躍ぶりはみんなの知るところである。
僕も、ある時期日生劇場の仕事を連続してさせてもらっていた時があり、それからびわ湖ホールの仕事など、随分ご一緒させていただいた。特に印象に残っているのは、日生劇場の「トリスタンとイゾルデ」公演。1990年であったと記憶している。ガブリエル・シュナウトなどのバイロイト歌手を相手に演出をつけていく敬介さんは輝いていた。
敬介さんは、最後の「イゾルデの愛の死」の場面で、イゾルデの衣裳に風をあてて、イゾルデが天に羽ばたいていくイメージを表現したいと演出部や舞台監督に熱く語っていた。僕には敬介さんの頭の中にあるイメージが完全に理解出来た。ああ、演出家って素晴らしいなあと思った。
しかし現実は厳しい。扇風機で風を送るとなると、どうしても音がしてしまうので、舞台監督達は頭を悩ましていた。それにイゾルデの衣裳が風に舞い、本当に飛翔していくように表現するのも簡単ではない。この三次元の世界で、しかも舞台という制約のある空間で、イメージを具現化するって難しい。観客は、そこに呈示されたものを見て判断するしかないから、誤解されることもあるだろう。終幕はそれなりの効果を持った舞台に仕上がったが、恐らく敬介さんがイメージした映像は、敬介さんのビジョンの中にしかなかっただろうな。でもそのやり取りを見ていた僕は、この人って胸の内に“なにかを持っているんだ”と確信した。
僕は、現在新国立劇場チーフ・プロデュースになっている岡本和之君と一緒にペーター・シュナイダーの副指揮者を務め、シュナイダーにも歌手達にも、
「君たちの副指揮者としての働きは、そのままでもバイロイトで通用するよ」
と言われ、将来バイロイトに行けたらいいなあという希望を胸に抱いていた。それが岡本君も僕も共々10年も経たないうちに実現したのだ!今から考えると、あの時の経験がなかったらバイロイト行きもなかったような気がする。
また、松村禎三作曲「沈黙」の副指揮者としての仕事も印象深い。原作のカトリック作家遠藤周作の「沈黙」は、僕にはとても重いテーマで、とても自分で負いきれない気がするが、敬介さんの演出の終景の光の美しさに救われた気がした。
「人間の絶望の彼方に神の恩寵が歴然と存在するのだ!」
と、その演出は語っていた。
こんな風に、敬介さんの演出には光があった。その光は神聖であり、崇高であり、高い精神性を感じさせた。
敬介さんは、自宅を改造して、地下にオペラの練習場を作った。スタディオ・アマデウスである。出来上がったばかりの練習場に行って驚いた。控え室にビール・サーバーがあった。敬介さんはニコニコ笑って、
「いつでも好きな時にここから生ビールをついで飲んで良いんだ。いいだろう!これを作るのが夢だったんだ!」
と言う。ええっ?そんなあ。まさか練習中というわけにはいかないだろうなあ。それで練習が終わってから何度も飲んだ。
みんなが口を揃えて言うように、敬介さんはお酒が大好きだった。自宅に練習場を作ったのが良かったのか悪かったのか。よくお酒の匂いをさせて練習場に現れた。まあ、その後帰る心配がないからいい。
その敬介さんが、ある時僕にしみじみつぶやいた。
「俺も人のこといえないけどさあ、ピノ(若杉弘さん)の酒の飲み方は異常だね。あんな飲み方をしていたら長生き出来ないよ。この間一緒に飲んでびっくりしたんだ」
って、あんたが言うか、と思ったが黙っておいた。その若杉さんも今はいない。
敬介さんの死因が肝硬変と聞いて、みんな納得したと思う。これが風邪をこじらせたとか、交通事故だとか言ったら、誰も腑に落ちないからね。それでも77歳まで生きたのだから悔いはないか?いや、もっと生きていたら、もっといろんな仕事が出来たろう。でもねえ、お酒を飲まない敬介さんというのも、敬介さんらしくないや。
葬儀が終えて出棺前に、ご家族の方が焼酎の「いいちこ」を遺体に振りかけていたのには、不謹慎と思いながらも思わず笑ってしまった。良い意味で一本筋を貫いて、男気(おとこぎ)のある人生を全うしたのではないか。
敬介さん!僕があなたから学ばせていただいたことは計りしれません。この世であなたとお知り合いになれたことは本当に感謝です!あなたが今いらっしゃる所は、イゾルデの飛翔した至高なる世界であり、「沈黙」の終景で神の光の降り注ぐ世界に違いありません。その地で安らかにお過ごし下さい。合掌!
クールに気取って街角を闊歩
先週、「おかしなコンサート」の準備をガトーフェスタ・ハラダでしていた時、練習が終わったら団員のSさんが近づいてきて、残念そうに、
「三澤先生、気付きませんでしたあ?」
と訊いてきた。見ると彼女が着ているTシャツの模様が、なんと数あるジャズの名盤を作り出してきたブルーノートの「クール・ストラッティン」というレコードのジャケットだった。そばで娘のTちゃんが、
「ほら、やっぱり無理だったのよ。お母さんったら、見る人が見れば分かるのよなんて言ってたけど・・・・」
と抗議している。
「いいや、こうやってきちんと見れば分かるんだけどね」
僕は残念ながら、練習に入ってしまうと、自分の今やっている事以外は何も見えなくなってしまうので、Tシャツにも気付かなかった。でもSさんのTシャツを見て、あっ、いいな、僕も欲しいなと思った。
「どこで買ったの?」
「ユニクロなんですよ。安いんです」
「へえっ!」
娘のTちゃんは、小さい頃から新町歌劇団に一緒に連れられてきて、練習中に遊んでいて、それから「おにころ」などに子役でデビューし、現在では東京音楽大学声楽科に所属している。Sさんの家族はみんな趣味が広くて、お父さんは昔の蓄音機をいじったり、バンジョーを弾いたりするし、団員であるお母さんもジャズが好きなのだ。
でも、都内のユニクロでちょっと探したけどなかった。Tシャツはともかく、このアルバムはなつかしい。それでCDを買い直し、i-Podに入れて聴いている。
これはある時期日本で爆発的に人気が出たレコードである。人気の秘密のひとつに、このジャケットのセンスの良さが挙げられる。ちょっと見ると、若い語学教師のヴァレンティーナや娘の志保がはいているサブリナパンツを思わせるが、実はそうではなくてタイトスカートだ。当時はこれが一番粋だったんだね。アルバムのタイトルに使われているstrutという単語を辞書で引くと、「気取って歩く」という意味。つまりCOOL STRUTTIN'は「クールに気取って街角を闊歩して」というような意味だね。
タイトスカートのハイヒールの組み合わせ。その間から垣間見える白いふくらはぎが、キャリア・ウーマンの格好良さとほのかな色気を感じさせる。ジャズが都会と結びついて発展していた頃に、生まれるべくして生まれたジャケットだ。