マタイ受難曲キックオフ・パーティー

三澤洋史 

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夏の終わり
 8月31日水曜日。今日で8月が終わる。夏が終わる。いろいろが終わる。まず、今日で西府プールが終わる。西府プールは屋外プールだから8月31日までなのだ。南武線谷保駅と分倍河原駅との間に最近出来た西府駅のすぐ近くの高台にあり、二階からは、眼下にNEC、遠くは多摩川から聖蹟桜ヶ丘やその向こうの丘陵も眺めることが出来る。大人でも府中市内であれば100円、小学生はなんとわずか30円という料金で入れる。僕は国立市の住民なので市外だが、それでも200円だ。僕の家から自転車で5分もかからないので、仕事の合間にちょこっと行ってこられるから便利だった。
 次女の杏奈も僕と一緒に何度か行って、僕から平泳ぎのキックの仕方を教わり、だいぶ進むようになった。この娘は小学生でもないのに、お父さんと一緒にプールに行くのが恥ずかしくはないんだよね。むしろ、
「パパ、行こうよ!」
とせがんでくる。

 西府プールのお陰で、今年の夏もよく泳ぎに通ったが、曇っている日が多かったので、昨年ほどは日焼けしなかった。僕は平泳ぎの手の形を研究し、たぐり寄せた腕を胸のあたりで掻き込む時のツルリンとしたスカーリングの感覚をものにした。平泳ぎの推進力はなんといってもキックで得られるのだが、手でもかなり前に進むことが出来るんだ。
 このストロークのフォームは最近の研究のたまもの。昔のフォームとは随分違う。平泳ぎは随分進化しているのだ。北島康介の泳ぎをYou Tubeで見てごらん。あれこそ全く理想的なフォームだ。
 またクロールの腕とバタ足のタイミングを揃えた。右手の入水と左足のキックを合わせると、左足のキックは、左手をお腹のあたりで最も速く掻き込む時と一致する。その時、大きな瞬発力が得られるのだ。僕の場合、手と足のタイミングは最初から合っていたのだが、ストロークに気を取られると、バタ足がおざなりになってしまう。そこで最近では、ストロークをこぶしを握りながらわざと不真面目に行って手の推進力を奪い、バタ足を頑張ってその推進力だけで25メートル泳いだり、いろいろ工夫している。
 こんな工夫をしたって、別に競技に出るとかではないので、何か良い事が起きるわけではないのだが、ほんのちょっとでも速く泳げるようになるのは嬉しい。って、ゆーか、僕はこうしたトレーニングをするということ自体が楽しいのだ。音楽でも語学でも何でも、基本的に練習好きというか、工夫しながら自分を少しずつでも向上させていく事が好きなんだなあ。
 自分の筋肉が動き、他ならぬ自分自身のこの肉体が、ひとつひとつ水をかき分けていく喜び。苦しいなあと思いながら、我慢して泳ぎ切った時の、ほんの小さな達成感。なんでもないことのようだけれど、こうしたことを自分の生活の中に持っているのは大切なことのように思う。

 さて水泳の話ばかりになってしまったが、8月で終わってしまったものがあとふたつあった。家の近くのファミリー・マートと九州ラーメンの店が8月いっぱいで閉店してしまった。このファミマの閉店は痛い。ちょっと何かが足らない時に、もうひとつ向こうの店まで行かなければならなくなってしまったのだ。
 それに、すでに一度この欄で書いたと思うけれど、そのファミマの店長はマーラー好きだった。ある時、僕が角皆君からもらったマーラーTシャツを着て買い物に行ったら、レジーで何気に、
「マーラーですか、いいですね!」
と言うではないか。ベートーヴェンなどと違って、マーラーの肖像を見てすぐに分かる人って少ないじゃないですか。その店長は、一時マーラーにハマりまくったそうだが、会わない間に閉店してしまった。今どうしているんだろうなあ。
 一番不便なのは氷を買う時。僕は、自分の家の冷蔵庫で作った氷って臭くて嫌いなので、ファミマで買い足しながら決して切らしたことがない。それでヴァランタンのソーダ割りを作るのだ。ところが店が遠いと、買ってから家に持って来るまでに氷が溶けてしまうではないか。すると溶けた氷が袋の中でくっついてしまい、後で苦労するのだ。ということで、僕のハイボールを守るためにも、ファミマはつぶれないでいて欲しかった。

 もうひとつは博多長浜ラーメン九州一番という店。老マスターが健康上の理由で引退し、よそでラーメン修行をして来たという息子が、改装して別のスタイルのラーメン屋を開くという話だ。今度は何風ラーメン屋になるのかは聞いていないが、あのとんこつスープの味は捨てがたかった。九州ラーメンって東京人には馴染みが薄いから、探してもあまりないんだ。
 僕はその昔、小倉にある北九州聖楽研究会に通っていた時に、好んで九州ラーメンを食べた。店に近づくだけで臭いくらいの店がうまいんだ。ここも臭いしおいしくて、長女の志保なんかは、トラックの運転手達でごったがえすお昼時に、若い女の子なのにひとりで食べに行って、老マスターと顔見知りになっていたんだけどね。
 食べ納めだというので数日前に娘二人を連れて行った。頼むとにんにく片とそれをつぶす器具を持ってきてくれる。それをラーメンにどかんと入れ、さらに超辛い高菜漬けと紅ショウガと胡麻を死ぬほど入れて食べる。げーっ!辛い!でもうまい・・・・けど辛い・・・けどうまい!
「替え玉もう一杯!」
ちょっと調子づいてしまった。

 数時間後、下痢した。しかも・・・・辛ああああああああ!まてよ・・・・ということは・・・・これは、もしかするとダイエットに良いかも知れない。食あたりしたわけではないので、体に全くダメージはないもの。でもなあ、もう九州ラーメンではなくなってしまうので駄目じゃないの。あのう、なんでもいいですから、おいしく食べられて安全に下痢するラーメン屋作っていただけますか?

マタイ受難曲キックオフ・パーティー
 9月3日土曜日。今日は、東京バロック・スコラーズの特別集中練習。この練習にはふたつの大きな意味がある。ひとつは、「マタイ受難曲」の最初の音取り練習が一巡りし、全曲行き渡ったので、全曲通してみること。ふたつめは、来年7月1日の演奏会に備えて、新人オーディションを行ってきたが、先週で締め切り、今日は新人達が一堂に会してあらためて旧メンバーと一緒に歌ってみることである。
 新人はなんと25人も増えた。彼等の内、最近オーディションを受けて入ってきた人は、全曲通したってまだ知らない曲が沢山あったりするであろう。新メンバーも旧メンバーも、マタイ受難曲をすでに何度も歌ったことがある人もいれば、全く初めてで曲の内容もよく分かっていない人もいる。発声にしたって、いろんなところからやって来た新人達は、東京バロック・スコラーズがどういう発声の方向性をもって曲をまとめていくのか分かっていないから、通してみた印象では、響きは玉石混淆、支離滅裂。旧メンバーの中には、せっかく築いてきた響きが壊されてしまったと嘆いている人もいるであろう。

 ところがね、僕はそんなことを気にする人間ではない。何度でも壊し、何度でも築けばいいと思っているのだ。その度に、より良いものを構築すればいいのさ。それに、手前味噌ではないけれど、最近の新人のレベルは結構高いので、発声や歌い回しの方向性がバラバラでも、これからかなり料理し甲斐があると見た。磨けば、これまでにないレベルに仕上がる確信が生まれたのだ。これは面白くなってきたぞ!
 集中練習の後は場所を移して、新人を歓迎する意味も含めてパーティーを催した。これを僕は団長と相談して、ソリストやオケのメンバーも呼んで、マタイ受難曲キックオフ・パーティーとした。だから団員と僕の他に、ソプラノの國光ともこさんやバスの浦野智行さん、またヴァイオリン、ビオラ、コントラバスといったオケの人達も来てくれた。
 こんな風に本番の1年近くも前にソリスト達を呼んでパーティーをする団体なんてあまりないだろう。でも、僕はやってよかったなと思った。自分たちの今度の演奏会に賭ける意気込みをみんなで再確認する事が出来たのだ。また、招待したけれど出席出来なかったソリストやオケのプレイヤー達も、手紙で熱いメッセージを届けてくれた。
 うーん、もうこの演奏会が成功する予感がひしひしと漂ってきたぞ!それに、この東京バロック・スコラーズという団体が本当に自分の人生を賭けるにふさわしい団体に育ちつつあるのを感じて、僕はたまらなくしあわせになってしまった。

 パーティー会場にはお酒持ち込みOKだったので、いろんな人がいろんなお酒を持ち込んできた。僕は、最初のビールの乾杯の後、団員達が、
「先生、先生、飲みましょう!」
と言ってどんどん注いでくれる勝沼ワインの白赤、ブルゴーニュ・ワイン、コート・ド・ローヌなどを次々に飲んでいたら、すっかりいい気持ちになって酔っ払ってしまった。
 最後の挨拶をする頃にはかなりへべれけになってしまっていた。しゃべっている間に自分でも何をしゃべっているのかよく分からない。まわりの団員達がにやにやしているのが見えたが、話が止まらない。誰か止めてくれええええ!

 一夜明けて、冷静に思い返してみると、かなり恥ずかしくて冷や汗が出るが・・・えーと・・・みんなも僕があんな風に酔っ払うのを見たのは久し振りでしょう。ひさーしぶりにとっても嬉しかったし気持ちが良かったのですよ。だからこんなラテンな僕を笑って許してね。

「トロヴァトーレ」と「ロメオとジュリエット」
 先週のウィークデイは、新国立劇場で昼間が「トロヴァトーレ」、夜がベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」の合唱練習に明け暮れた。ヴェルディ中期の傑作「トロヴァトーレ」では、ミラノでの研修がかなり役に立った。団員達も、
「三澤さんの言うことが、前と全然違うのでとても楽しい。ああ、ミラノで良い勉強してきたんだな、と感じられる」
と口々に言ってくれる。僕自身、曲へのモチベーションやアプローチの仕方が以前とまるで違うのを感じる。
 しかしながら、あらためて思うに、日本人の合唱も悪くないなあ。曲の完成度に関して言えばスカラ座の比ではない。ひいき目ではなく客観的に見ても、音程、ハーモニー、バランス、テンポ感、どれをとっても新国立劇場合唱団の方が優れている。あとは声のマテリアルの問題だが、これも劣っているとか負けているとかいうほどではない。
 ここから先はいくら手前味噌で言っても仕方ないので、聴衆に判断してもらうしかないな。シーズン開始の「トロヴァトーレ」の合唱を楽しみにして下さい。しかし言っておくけれど、スカラ座の合唱団員は100名いるんだからね。新国立劇場では100人規模の合唱は「アイーダ」くらいなのだ。特に最近は予算削減で合唱の人数が減らされている。だから先日のスカラ座の100人の「トゥーランドット」や「アッティラ」と、新国立劇場の80名規模の「トゥーランドット」や「トロヴァトーレ」をそのまま比べて「弱い」とか「薄い」とか言われても困るんだけどね。

 さて、100人以上の大人数と言えば、ベルリオーズの劇的交響曲「ロメオとジュリエット」だ。これは作曲家の指定では、カプレット家の合唱70名にモンタギュー家の合唱70名、それにプチ・コーラスの12名を合わせて、152名で上演するように書かれているが、そうもいかないので、50名ずつの合唱とプチ・コーラスの12名で上演する。それでも112名のプロ合唱の声が練習場に響き渡るのは壮観だ。
 この曲は、前半はプチ・コーラスがレシタティーヴォのように物語を朗誦していくが、オラトリオのように絶えず歌が先導していくのではなく、むしろ交響詩のように、大事なところはオーケストラの音楽で描写されるという独創的な曲。それでも終曲の管弦楽と大合唱の迫力は圧巻だ。
 こちらはフランス語で苦労した。112名もいるとフランス語にあまり慣れていない人達も少なくない。最初の内は、ナザール(鼻母音)も曖昧母音もなかなか思うような響きになってこなかった。でもこれも、ミラノでフランス人ジェラールの言語指導のやり方を見ていたり、彼にいろいろ練習の合間に訊ねていたことが役に立った。イタリア人よりも日本人の方がずっと飲み込みが早いので、ジェラールがイタリア人相手に根気よくやっていた方法が、期待していた以上の成果を上げた。こうしたフランスものでもミラノでの経験が役に立ったのは嬉しかった。
 本番は9月12日月曜日サントリー・ホール。読売日本交響楽団第507回定期演奏会で、新しく常任指揮者になったシルヴァン・カンブルランが振る。マタイ受難曲のキックオフ・パーティーに来てくれたコントラバスの高山健児さんは読響のメンバーだが、とても良い指揮者だということなので楽しみで仕方ない。9日金曜日にカンブルラン氏は新国立劇場に現れ、マエストロ稽古を行う。

倍音について
 親友の角皆優人(つのかい まさひと)君がホームページなどでも薦めていた「倍音」中村明一(なかむら あきかず)著(春秋社)を読んだ。残念ながら、音楽を職業としている僕にとって、倍音そのものの情報にとくに目新しいものはなかった。
 ただこの本は、倍音についての本というよりも、倍音というものを軸にして放射線状に広がっていく日本文化論なのだと思った。その意味ではとても興味深く読んだし、なるほどなと発見するところも多かった。皆さんにもお薦めしたい。

 ある発音体から音が出る。我々はそれを“ひとつの音”として認識するが、自然界においてひとつだけの周波数を持つ音が発音される場合はまずあり得ない。つまり音というのは、複数の音の集合体なのである。音響学的には、ある音が鳴った場合、その中で最も周波数が低い音は基音と呼ばれる。そしてその上に鳴っている全ての音を倍音と呼ぶのであるから、結構テキトーな命名の仕方だ。
 この命名は、音楽で使う“楽音”を中心に規定された定義なのだ。何故ならば、楽音の場合は基音の響きでその音の高さを認識するのが一般的だからだ。

 楽音では基音が最も強く響き、その上に2倍の周波数を持つ1オクターヴ上の音が鳴り、3倍の1オクターヴと5度上の音が鳴り、4倍の2オクターヴ上の音が鳴り・・・・という風に整数倍の周波数を持つ音が鳴っていく。つまり、楽音を作り出すためには整数倍の周波数を持つ音を同時に響かせればいいわけだ。
 とはいっても、そんな科学的な方法で我々は楽音を作っているわけではない。器楽奏者は、いわゆる経験論的に「澄んだ美しい音」をめざして音色作りをするわけだが、それが結果的に、自分の出した音の中から、非整数次倍音を排除し、整数次倍音だけ取り出していくという膨大な作業をすることになるわけだ。
 下手なフルート奏者は息もれの音ばかりする。下手なオーボエ奏者はビーという詰まった音ばかりする。下手な弦楽器奏者はノコギリのような音がする。このように下手なプレイヤーの方が楽器の特徴がはっきり出るのは、それぞれの楽器が個別に持っている非整数次倍音の故である。それらは発音の瞬間に最も顕著に現れ、“楽音を邪魔する”。つまり、フルートで言えば息もれであり、リード楽器で言えばリードのすれる音であり、弦楽器は弦と弓の毛の擦れるこれらの音は、実はプレイヤーにとって望ましくない音なのである。だから彼等は、練習の過程でそれらの雑音を丁寧に除いて、美しい楽音のみを取り出していくわけだ。
 違った発音源を持っていても、倍音を純化していって整数次倍音のみに近づけていけばいくほど“全ての楽器の音色は似てくる”。昔、あるテレビ番組で、管楽器奏者のロングトーンの最初と最後を切って真ん中だけを取り出す実験をしていた。驚くべき事に、それがトランペットであれオーボエであれフルートであれ、僕には全く見分けが付かなかった。おそらくそれは上手なプレイヤーほど顕著だろう。
 それでは、
「全ての楽器は同じ音色をめざしている」
ということなのだろうか?ある意味では、答えは「イエス」だ。何故なら、それがフルートであろうともクラリネットであろうとも、西洋音楽にとっては、まず抽象化されたドやミが演奏されなければならないのだ。それが他の楽器と組み合わされ、なるべく溶けあい、ハーモニーを作り出さなければならない。その際に、あまり楽器の特徴が前面に出すぎると、決して溶けあわないのである。
 クラシック音楽では、サキソフォンやギターなどの楽器でさえ、その特徴を隠すような中性的な音を出す。これも同じような理由からで、まずは、その楽器から出る最も美しい楽音が追求され、その楽音を使って音楽が構築されるのである。

 ところが、この著者である中村明一氏の興味は、整数次倍音についてではなく、対極にある非整数次倍音の方にあり、楽器や歌と非整数次倍音との関わり方が徹底的に書かれている。楽器であれ歌であれ、音楽を奏でるためには楽音すなわち整数次倍音なしでは不可能であるが、確かにクラシック音楽以外では、非整数次倍音を様々な効果として演奏に取り入れている例が見られる。
 尺八という楽器は、整数次倍音を立てて演奏すると、まさにフルートのような輝かしい音がするが、日本人はこの楽器に、非整数次倍音の割合をコントロールする機能を与え、その変化を楽しむという風に楽器の奏法を導いた。琵琶でもなんでも、そういう風に変えてしまう日本人の感性について中村氏はいろいろな角度から言及していてとても興味深い。
 ただ、倍音という言葉を使うと、何でも最もらしく聞こえてしまうが、中村氏が言う非整数次倍音とは、早い話“雑音”のことである。要するに雑音をどこまで音楽として許容出来るかという話であり、それはジャンルによって許容範囲が異なるのは当然である。
 ちなみに僕は、特にクラシック音楽を聴く時に、美しくない音というものに我慢できない。クラシック音楽というのがそういう音楽だからである。僕の好きな演奏家はみな例外なく音が美しい。カラヤンの音色がきれいだからといって批難するのを許せないのも同じ理由からである。
 ところが、他のジャンルの音楽を聴く時には、全くそれにとらわれない。森進一の歌も好きだし、ルイ・アームストロングのだみ声も大好きだ。マイルス・デイビスの時折出すかすれた音色にもグッと来るし、ソニー・ロリンズのバリバリとしたサックスの音にもシビれる。要は、それぞれのジャンルの美学の問題だな。

 この本とは全く違う方向であるが、今の僕の倍音に対する特別な関心というのはこういう事である。合唱をする時、音像がピラミッド状になるのが理想的とされている。でもそれは、ただ単にバスが一番大きな声を出してソプラノが一番小さく歌うべしということではない。むしろバスが突っ張って基音ばかりが目立つような声で歌ったならば、ソプラノの声はバスに覆い隠されてしまう。
 そうではなくて、バスは整数次倍音の豊かな声で歌うべしなのである。すなわちそれは、しなやかさ、柔らかさが感じられるような音色だ。バスがそういう音色で歌ってテノールを輝かし、テノールがまたしなやかに歌ってアルトを輝かす。アルトは下から立ち上ってくる響きに乗りながら、またしなやかな音色で歌う。そうしてここに巨大な整数次倍音の響きの場が形成されるのである。そしてソプラノは、決して自ら先導して威圧的に歌うことなく、下から輝いてくる響きを感じながら、それに自分のメロディーを合わせていけばいいのである。これこそが理想的な合唱団の響きなのだ!合唱とは、整数次倍音の牙城なのだ!

 このように倍音の考え方は、様々な方向に生きている。僕も倍音と日常的に付き合って暮らしているのである。



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