「ロメオとジュリエット」大成功

三澤洋史 

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「ロメオとジュリエット」大成功
 シルヴァン・カンブルランというのは良い指揮者だな。棒は分かり易い方ではないのだが、音楽の方向がはっきりしていて、読売日本交響楽団からとても美しい音を引き出すことが出来る。特に、サントリー・ホールに入ってから、読響の音がガラリと変わり、なんともいえない艶っぽい響きになったのは、いかなる魔法なのか。
 合唱に対する注意は、他の指揮者に比べて特に細かいわけではない。音程と言葉の発音やフランス語のニュアンスにはこだわるが、むしろ彼は僕のことを信頼してくれて、
「あとはよろしくね」
的なフリ方をする。そうなると、僕の方も彼の意図を汲んでより良くしようと努力するわけだ。
 読響の新しい常任指揮者と、初めてでとても良い信頼関係を築けたことは僕にとっても嬉しい。合唱指揮者として、良い指揮者と共演出来るのはそれだけでやり甲斐があるが、特に相手が自分を認めてくれて、自分が作り上げてきた合唱音楽を壊さずに、さらにその上に味付けを加えてもう一段上に持っていってくれた時には、まさに合唱指揮者冥利に尽きる。

 ベルリオーズ作曲、劇的交響曲「ロメオとジュリエット」終曲が終わった瞬間、サントリーホールに響き渡ったブラボーの嵐が、この演奏会の比類なき大成功を物語っていた。そう上演回数が多くない曲が名曲かそうでないかの評価は、演奏にかかっているのだ、という事実を今回ほど思い知らされた時はなかった。その意味で演奏家、とりわけ指揮者の使命は、今日においても大きいものがあるのだ。
 プチ・コーラスの12名のみなさん!「マブの女王の歌」など、よく頑張りましたね。冒頭のレシタティーヴォなど、ネイティヴのマエストロの要求するフランス語のニュアンスを具現化するのは楽ではなかったけれど、同時にメチャメチャ楽しかったね。それから100名の大合唱のみなさん!本番になって、マエストロの棒がいきなしカラヤンのような巨匠の棒になって分かりにくくなっても、躊躇することなく、ズレることもなく、走ることも逆に引きずることもなく、堂々と大人の音楽を奏でてくれましたね。本当にありがとう!

 読響と新国立劇場合唱団の甘い関係はこれからも続いてゆく。次は年末の第九だ。これも新たな気持ちで頑張るぞ!なにせ、ミラノでベルカントに目覚めてきたからね。昨年とまたひと味違うよ。

イタリア人と日本語について語る
 イタリアから帰ってきても、毎週イタリア語の個人レッスンに通っている。先生は国立市在住のイタリア女性R。もうあらためて文法のレッスンはしないで、1時間フリー・カンヴァセーションのみ。話題は特に決めないで行って、その時の流れで何でも話していい。でも、話題は泉のようにどんどん出てくる。
 このレッスンの良いところは、これをイタリア語で説明するのは難しいなあと思う時でも、先生が気長に待ってくれたり、助けてくれたり直してくれたりするので、なんとかあきらめないで自分の伝えたいことを言い切ることが出来ること。時には、わざと接続法を使った仮定文を作ったり、条件法を使ったり、未来完了や過去完了など、避けて通ってもいいところも、あえて言ってみる。考えるのにとても時間がかかって会話が止まってしまう事もあるが、出来た時に先生が喜んでくれるので、ただイタリア人とダベッているのとは明らかに違う。実に有意義だ。
 イタリア語やフランス語は、たとえばPenso che(私は・・・と思うのだけれど)の後は、接続法を使わないと間違いになる。ところがフランス語には逃げ道があって、規則動詞の場合、接続法は直説法と発音が同じなので、話すだけなら意識しなくても良い。ドイツ語に至っては、最初こそder des dem denと格変化が大変だけど、それを過ぎてしまうと案外ラフな言葉で、時制も適当ならば接続法は使いたくなければ使わなくてもいっこうに差し支えない。でもイタリア語の接続法の活用は直説法とは明らかに違うので誤魔化しようがない。
 時制も含めて、イタリア語は少しの曖昧さも許されないとても厳密な言葉だ。その厳密さに僕はヨーロッパ文明のエッセンスを感じる。僕にとって今や世界で一番好きな言語はイタリア語だ。

 さて、今週の話題は日本語の事だった。先生が言う。
「わたしは昔、日本語を習った時に、『・・・しなければならない』という表現を教わったのですが、誰も言っていないのですよ。むしろ『きゃ』って言うんです。それで自分も使ってみようと思うのですが、うまく使えないの。どういう法則なのですか?」
「ええと・・・『ければ』の部分を『きゃ』に置き換えればいいんだ。つまり『行かなければならない』は『行かなきゃならない』という風に」
「それは練習しなければならないですね。すぐには使えない」
「そうか、外国人は日本語をそうやって練習するのか・・・僕たちが文法の法則を習ってから実地で使えるように何度も反復練習するようにね。『行く』は『行かなければ』という仮定形に語尾変化した後で、『行かな』だけを採用して『きゃ』をつけるわけね。日本人は言葉をどんどん短くするね。『行かなければならない』は『行かなきゃなんない』にもなるね。避けるのは『ら行』ばかりだね。日本人にとっては、『ら』行は言いにくいんだ。だから『らぬき』言葉にもなるんだ」
「何ですか?そのRANUKIって?」
「『食べられない』を『食べれない』と言う言い方。つまり『ら』を抜くでしょ。だから『らぬき』」
「ああ、senza RA!『ら』を抜くから『らぬき』!」
「若者は、言葉をどんどん進化させていくんだ。それを嘆く言語学者もいるけれど、僕は別にいいと思う。イタリア語だってそうやってラテン語から進化してきたのだからね。そういえば、最近若者達が使っている表現を知っているかい?『痛っ!』とか『寒っ!』とかいうやつ」
「ああ、昨晩テレビでやってた。あたしは、あれ大歓迎ですよ!」
「はははは、大歓迎なの?」
「日本人は普段無表情で、喜怒哀楽を顔や態度に出さないじゃない。でも、あれイタリア人的でいい!」
「なるほどね。それを発音する時には、言葉に勢いがあるものね」
「あたしが日本に来た時から面倒見てくれているファミリーのジャパニーズ・パパは、あたしに『チョー』とか『マジ』とか絶対に言ってはいけないって言うのよ」
「いいじゃないか。Rさんがチョーとか言ったら可愛いじゃないか」
こんな事を話していると、1時間くらいはあっという間に過ぎてしまう。

隠され続ける真実
 日本という国は、これだけの大災害に遭っても、一番変えるべきところが何も変わっていない。それどころか、変えるべき事柄に触れるのを阻止しようとする力の強さと大きさに愕然とする思いだ。

 9月15日朝日新聞朝刊の社説余滴欄に載っていた大野博人(おおの ひろひと)氏の文章に、僕はとても共感を覚えた。本当は全文引用したいところだが、そうもいかない。タイトルは、
「何ともグロテスクな辞任騒ぎ」
で、鉢呂吉雄経済産業相の辞任に言及している。大野氏は、その辞任騒ぎに関して、
「政治が肝心な問題を後回しにしたくて、こんなことにエネルギーと時間を費やし、メディアがそれを助長したように見える」
と述べている。
 その肝心な問題とは、「事故原発の周辺地域にはもうずっと住めなくなるのか。住めるようになるにしてもいつからなのか」だ。
 再び大野氏の発言の引用から。
「4月、松本健一内閣参与が、周辺地域の見通しを菅直人首相の言葉として話し、騒ぎになった。『場合によっては周辺30キロ以上のところも当面住めないだろう』などという発言だ。政界やメディアはもっぱら、住民感情への配慮が足りない、あるいは官邸の情報管理が甘いといった視点から取りあげ、批判した。その結果、肝心な内容についての議論は進まなかった。」
 
 今回の鉢呂氏の問題を知って、僕は、「死のまち」発言に関しては、適切な言葉だったかどうかは分からないが、少なくともマスコミや野党が大騒ぎして辞任に追い込むほどのものだという印象は受けなかった。テレビの報道番組の福島県民への街頭インタビューでは、むしろアナウンサーの方が意図的に問題を大きくしたがっているように僕には見えた。確かに、マイクを向けられれば鉢呂氏の発言にネガティヴな意見は出たが、そもそも我慢強さから来るのか自分から怒りをあらわにした住民は、僕が見ていた番組ではいなかった。
 それなのに、「放射能つけちゃうぞ」発言ばかりが問題にされ、
「不謹慎だ!」
の大合唱となり、鉢呂氏の首が飛んで、この問題に触れることは無理矢理終息させられた。さらに野党は野田氏にその任命責任を問うて、あわよくば解散総選挙に追い込もうとするような勢いだ。

 この辞任騒ぎはなんか変だ。裏があるような気がする。その裏とは、
「この問題に触れたらいけないよ。首が飛びたくなければ、この問題から遠ざかっていろよ!」
という脅しに思えてならない。鉢呂氏の辞任の理由も、かつての菅さん発言と同じように“住民感情への配慮のなさ”ということであるが、これは巧妙なレトリックにすぎない。住民へ配慮するなら、僕はむしろ真実をきちんと告げ、現実を見つめる事が出来るようなはっきりとした情報を流してあげることだと思うのだ。

 そうでなくても、日本の情報統制の徹底ぶりに、3.11以来僕はずっと驚きっぱなしだ。その一方で、一歩日本を出るとまさに全ての情報が世界中に筒抜けなのにもっと驚いてしまう。いや、日本国内にいたって、英語が読めて、外国のホームページが少しでも読めれば、日本国内だけが何も知らされていないことにすぐ気が付くはずだ。
 勿論、外国の報道の仕方にはオーバーなものも少なからずあった。自分の国でないから、無責任にこれから起こり得るであろう被害の可能性を大きめに述べていたものもある。でも、日本国内にこんなにインテリの人が沢山いるのに、何故こんなにも見事に情報の鎖国が成功しているのは理解出来ない。
「場合によっては周辺30キロ以上のところも当面住めないだろう」
と言った菅さんの発言が出た時、僕は、
「やっと言ってくれたか。それにしても随分控えめに言ったな」
と思ったものだったが、それが痛烈な批判を浴びたことにもっと驚いた。

 いいですか、福島第一原発は、まだ終息などしていないどころか、終息の見通しも見えていないのです。原発自体をコンクリートで固めてしまえばという乱暴な意見を言う人がいるけれど、まだ中でグツグツ煮えたぎっているものをコンクリートで固めたりなんかしたら、それこそ大爆発が起きてしまって、またまた放射能が撒き散らされるのだ。
 仮に今終息していたとしても・・・我々は習ったよね・・・たとえば代表的な核分裂生成物、セシウム137の半減期は30年と言われているのだ。あの知識は一体どこにいってしまったのだろう。仮に放射能が規定値以下になったとして、住民は即座に元の家に戻って普通通りの日常生活がつつがなく送れるのだろうか?
 規定値以下と言っても、放射能の値が原発事故前の基準値にまで戻るのは30年どころではないのだ。つまり元の家に戻った住民は、規定値以下とはいえ、まだ放射能が残っている土地で“被爆しながら”暮らすことになる。その土地の水道水を飲み、その土地の店から買い物をして、その土地で子供を遊ばせ、育てるのだ。その日々が、明日にでも戻ってくると、みんな本気で思っているのだろうか?
 束の間、現地を訪れた鉢呂氏すら被爆している。その鉢呂氏が近づいてきた時、
「うわっ、放射能だ!」
と思って、密かに身を引いた記者はいなかっただろうか。その態度を感じて、半ば自嘲的に、
「放射能をつけちゃうぞ」
と鉢呂氏が言った可能性もなかっただろうか。
 僕がこう言うのは、将来現地に戻る住民やその子供達の被る風評被害の可能性が、鉢呂氏のコメントにあるからだ。これが彼等を将来待っている現実であり、ここから目を背けさせることが、僕にはどうしても住民感情へ配慮することだとは思えないからだ。
 さあ、これで、きちんとした情報を流さないことが、どれほど罪深いことか分かるだろう。誰か言ってくれ。僕の言うことは住民感情への配慮を欠いているふとどきな意見だろうか?

 僕は不思議に思う。菅さんも野田さんも攻撃されたとすると、一体誰が、この情報鎖国を作り出しているのだろう。いいかい、学者達はそんなに愚かではない。現在の原発の内部の状況から、付近の放射能の状態、また将来的な見通しに至るまで、誰も知らないはずがない。オプティミスティックな見解とペシミスティックな見解の両極端はあるかも知れないが、それも含めて情報の幅はそんなに広くはないはずだ。いや、かなり詳しいところまで、知っているはずだ。

では、情報を止めているのは一体誰だ!



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