つれづれなるままに

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

妻と散歩
 僕は毎朝6時半に起きて準備をし、散歩に出る。最近は隣に妻がいる。
「健康のため今日から一緒に歩くわよ!」
と突然言われて驚いた。三日坊主に終わるに違いないと思っていたが、案外続いているのでまたまた驚いた。
 散歩コースは、家から出て南武線沿いの道を西府駅まで向かい、府中第5小学校を右に見ながら通り過ぎて、鎌倉街道のトンネル上にそびえるマンションを通り抜け、さらに分倍河原方面に向かって南武線に平行な道をひたすら歩く。ここは閑静な住宅街だが、電車が通るとかなりうるさい。それから折り返して、谷保の涌き水から立川断層に沿って流れている緑多き小川のほとりの散歩道を歩いて帰ってくる。
 実は、このコースは、かつて愛犬タンタンとのお気に入り散歩コースだった。でも最近、タンタンが歳を取ってきて長距離散歩に付き合ってくれない。そこで僕は、まず一人で40分から45分散歩し、一度家に帰ってタンタンを連れて残りの15分くらい散歩するという方法に切り替えた。
 かつてはリードを引っ張るようにして、どんな長距離でも喜んで走っていたタンタンにも老いが訪れてきたということを受け容れるのは辛かった。この道を一人で行くには思い出が多すぎて哀し過ぎる。だから僕は、このコースを自分の中で封印していて、ひとり散歩は全然別の道でしていたのである。
 それが妻の同行で、まあ二人ならこのコースでも哀しくないかなと思って封印を解いた。朝一緒に歩く時には二人とも無言の時も多いが、それでもぽつぽつといろんな話をする。娘達の事だとか、普段落ち着いて話せないようないろいろ細かい事。でも、夜お酒を飲みながら話す話題とは全然違う。朝は話題が建設的で、発想がポジティヴになるのがいい。だからみなさんにも薦めます。伴侶との朝の散歩!

 さて、その後のタンタンとの散歩も、時間が短くなった分だけ密度が濃くなった。以前は、ラジオで語学番組を聴いたりi-Podを聴いたりしながら散歩していたが、今はタンタンだけに意識を集中させるようになった。タンタンにとっても、その方が精神的に落ち着いている。それに家の近くのWAN LOVEというところでトレーニングしてもらってからは、大分おりこうになったので、充実した良い散歩をしている。

大自然が語ること
 散歩をしていると、それぞれの四季の移り変わりや、自然の様々な風景を身近に感じるようになる。最近感動したことがある。それは曼珠沙華(彼岸花)がいつも通りの時期に咲いていることだ。昔、この欄でも書いたことがある。どんなに夏が暑くても寒くても、自然は必ず時期を覚えていて、同じ頃に同じ花を咲かせる。どうして曼珠沙華は、彼岸の頃を覚えているのだろう・・・・と。
 ところが、昨年だけは違った。曼珠沙華が彼岸を過ぎても咲かなかったのだ。これにはかなりショックだった。昨年の曼珠沙華は9月の終わり頃になってやっと咲き始め、10月中旬になっても、まるで幽霊のような不気味な姿を晒しながら咲き残っていたのだ。僕は、その不気味さに身震いしながら、なにか背後で大自然にとてつもないことが起こっていることを感じたのだ。
 それと3.11の大震災を短絡的に結びつけるつもりはないが、今から思い返してみると、僕はあの時期にすでに大きな災害を予感していたような気がする。だから、今年はこう信じたい。曼珠沙華がきちんと時期通りに咲いたということは、逆に大自然が少しバランスを取り戻してきたという意味なのだろうか?だったらいいのにな。


大自然の残酷さ
 でも、谷保の田舎道をタンタンと歩いていると、悲しい風景に遭う。稲が軒並み倒れてほぼ全滅しているのだ。先日の台風のせいだ。お百姓さんって本当に大変だ。あんなに時間をかけて労力をかけて、大事に大事に育てて、稲の成長を喜び、収穫を楽しみにしていたのに、最後の最後であっけなくやられてしまうのだ。それが誰かのせいなら文句を言うことも弁償を請求することも出来ようが、相手は、陽の恵みや水の恵みや大地の恵みを与えてくれる大自然そのものなのだから、どうしようもない。
 我々は、大自然の前にどんなに謙虚になっても、やられる時は容赦なくやられるのだ。それが大自然の前のちっぽけな被造物の姿なのだ。


 大震災の直後に石原都知事が、
「天罰だ!」
と言ったことに僕はもの凄く腹を立てたが、それは言っている内容が間違っているからではない。そうではなくて、この事を述べるタイミングの悪さと、このタイミングでこれを言ったら、どういう反応が起きるかという事をイメージできないKYさについてだった。
 でも今、今年起きた様々なことを振り返ってみると、大自然が日本人に対して意図的に意地悪になっているような気がする。日本の場合、地震はいつだって起こる。台風だって毎年いくつもやってくる。でもこんな大規模な地震が起き、大津波がやって来た後で、こんな大きな台風がやってきて関東をも直撃し、東北にも、まるでダメ押しをするかのように被害の爪痕を残していくことはなかった。夏は夏で、死ぬほど暑くなったり、ゲリラ豪雨になったり、めちゃめちゃな天気だった。
 大自然は僕たち人間に、特に日本人に、その『あり方』について問うているような気がする。
「このままでいいのか?」
と僕たちは言われているような気がする。

デモと報道
 話はちょっと変わるが、「隠され続ける真実」という福島第一原発に関する記事を含む先週の「今日この頃」が更新された日、妻は脱原発のデモに出掛けていった。「さようなら原発5万人集会」というタイトルの集会だった。明治公園には、自分たちの手でこの国をなんとかしようと熱い想いを胸に抱くおびただしい人達が集まっていた。
 僕は仕事で残念ながら行けなかったが、妻が興奮して帰って来て話を聞いていく内に、日本ももしかしたら、その「あり方」として変われるのかなというかすかな望みが生まれてきた。

 ところが、それからテレビの報道番組を見てがっかりしてしまった。さすがに作家の大江健三郎氏や落合景子さんなど著名人が出ているのでデモの報道はされた。しないわけにはいかなかったのだろう。でもまさに、しないわけにはいかなかったので仕方なく報道したという雰囲気の取りあげ方で、実に通り一遍のあっさりしたものであった。
 集会に集まった人達の数は、主催者発表で6万人だが、警視庁発表では2万7千人ということだ。これだけ数が離れているということは、どちらかが嘘をついている、あるいはどちらも嘘をついているということだな。ちなみに、テレビでは2万7千人という数だけが強調されていた。でもね、仮に2万7千人だとしても、それだけの人が一堂に会するって凄いと思わないかい?

 そもそも、こうした市民運動に関するマスコミの冷淡さというものは、たとえばドイツなどでは考えられない。こんなことが起これば、ドイツではテレビで連日これを取りあげ、特集番組がただちに組まれ、いろんな知識人を集めた討論が行われる・・・・・と、失望感に沈んでいたら、9月25日日曜日の朝日新聞に、とうとう「うねる直接民主主義」という見出しで、第3面に先日の集会の記事が載った。よし、朝日新聞!これからも購読を継続するぞ!
 サブタイトルは、「原発のあり方、私たちで考え決めたい」とあり、「反対集会に6万人」と主催者発表の方を載せていた。国民が福島第一原発の事故を受けて、もう政治家には任せておけない、自分たちに決めさせて欲しいという「直接民主主義」の動きが広がりつつあるという内容がそこには書かれていた。つまり集会やデモ、署名運動や国民投票などを通して、国民が直接政治の決定に携わりたいと思うようになってきたということである。。

 その中に興味深い文章があった。

市民グループは先月、各党首あてに原発国民投票の賛否を問う質問状を送った。公明党は「検討することは有用」、共産党は「慎重な検討が必要」。自民党は「国権の最高機関たる国会の軽視につながるとの懸念がある」と回答した。
 この自民党の回答に、僕は気が抜けてしまった。この回答が、民主主義というものの本質から逸脱していることを、当事者は分かってコメントしているのだろうか。

民主主義と日本人
 考えて見ると、日本は、民主主義というものを「自分たちの手で勝ち取った」ことは一度もないのだ。明治維新のきっかけもペリーの浦賀来航で無理矢理開国させられたし、戦後民主主義も平和憲法もアメリカから与えられたものだ。
 一般の日本国民からしてみると、これまでの幕府というお上(かみ)や、天皇陛下というお上が、政治家という別のお上に取って代わっただけで、自分たちの上に君臨するお上には変わりはなく、ヘタに逆らったりするとひどい目に遭うので、ひたすら従順であるべきなのだ。
 だから戦前戦中もレジスタンスなどは起こり得るはずもなく、戦後も国民は、
「そう教育され、強制されていたから」
と言って何の反省もしないで済んでしまっているのだ。つまり誰も当事者という意識がないから、誰も責任を感じなくて済むのだ。日本人のこうした全てに対する受け身姿勢は、長い鎖国を経た江戸時代から続いているのだ。これはこれでいいのかも知れないが、このような国民が民主主義という概念を理解し、育てるというのは案外難しいのだ。

 国民がそんなだから、戦後の高度成長期の日本を引っ張ってきた自民党などは、すっかり勘違いして、現在でも自分たちがお上だと信じ込んでしまっている。
先ほどの、
「国権の最高機関たる国会の軽視につながるとの懸念がある」
というのを別の言葉で置き換えてみると・・・・、
「お前ら平民達が自分たちの手で何かを決めようなどとは実に生意気な考え方だ。お前らはつべこべ言わず、我々お上のやることにおとなしく従っていればいいのだ」
ということだ。

 でも民主主義は本来直接民主主義こそがその原点なのだ。フランスだって民衆がバスチーユ牢獄を襲撃して今日の民主主義の礎が始まった。政治は、「人民の、人民による、人民のための」ものなのだ。しかしながら、いちいち細かい事を全て国民投票で決めていてはらちがあかないので、議員達が代表で事に当たっているわけである。つまり、議員は我々の代弁者であり、主権は常に国民にあるのだ。
 国民が「国権の最高機関である国会を軽視」することを自民党は心配しているようだが、むしろ国会が民意から遊離する危険性があったり、国会の決定に対し国民が不満を持ったならば、その信を問うようなシステムとしての直接民主主義が時には必要なのだ。イタリアは実際その方法をとったわけで、そのことによって国会の権威が揺らぐわけでも何でもない。というより、そもそも国会の上に主権を持つ国民がいるのであり、国民の上に国会が君臨しているわけではない。ここを勘違いして欲しくないのだ。

 まあ、自民党にはもうひとつの懸念があるのだろう。それは、国民投票などやったら、イタリアと同じように「反原発」が圧勝して、ただちに原発を廃止しなければならない状態になりかねないから、絶対にやりたくないのだ。例の九州電力のやらせメール事件などと同じ発想だ。
 だがね、自民党がどう考えたって、もし国民の過半数が反原発を望んだとしたら、それが民意なのだから、その考えを止める権利は誰にもないのだ。多数決も民主主義の大原則だからね。いっそのことやってみようよ。原発の是非を問う国民投票!

 誤解して欲しくないのは、僕はこのホームページでみなさんに反原発を呼びかけているわけではない。そうではなくて、この国の大事なことは、僕たちの手で決定し、作り上げることが出来るのだという事実に、リアリティを感じて欲しいのだ。世界は僕たちの手で作れるのだ。
 僕は、もしみんながよく考えた末に、本当に原発があってもいいと思って、そうした結論を出したのだったら、その決定に従うつもりだよ。僕も日本国民のひとりなのだから。民主主義を信じている人間なのだから。

朝日新聞の記事では、先日の集会の雰囲気が、従来のものと違うことが強調されていた。

どうせ社会は変わらないという諦めや「悪いのはアイツだ」という責任追及にとどまらず、「私はこういう社会に生きたい」という主語のはっきりした言葉が路上にあふれていた。(記事から)
これを読んで、僕は、
「日本にもまだ希望はあるかも知れない」
と日本人として嬉しくなった。

でもね。この記事の最後の最後を読んでまた暗澹たる気持ちに逆行した。それは、先ほどの原発国民投票の賛否を問う質問状に関すること。
野田佳彦首相は所信表明演説で「一人ひとりの国民の声に、心の叫びに真摯に耳を澄まします」と訴えたが、民主党は質問状に回答しなかった。
うーん・・・・・・・回答した自民党の方がまだマシかも・・・・・。



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