母校の庭に立つ

三澤洋史 

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母校の庭に立つ
 僕は今、最高に良い気分である。この原稿を高崎から大宮へと向かう新幹線の中で書いている(著者注:仕上げは自宅で行った)。昼間なのにちょっと酔っ払っている。今朝(10月9日日曜日)僕は、自分の母校である高崎高校へ行ってきた。

 実家のある新町から、歌劇団事務局長の車で高崎方面に向かう。市街地を右に見ながら国道17号を走る。左手には、山と言いながらのんびりなだらかな丘に過ぎない観音山に、ぽつんと白衣観音が立っている。高崎公園を過ぎると、車は左折して烏川(からすがわ)を越える。
 この和田橋から見る景色。何もかもあの頃のままだ。ここを真冬の凍てつくような朝でさえ、裸足に下駄を履き自転車に乗って通っていたのだ。右前方にそびえる榛名山(はるなさん)の景色は雄大そのものだが、吹き付ける空っ風は容赦なかった。
 橋を過ぎて道が下り坂になると、正面に護国神社の鳥居が見えてくる。それを見るだけで、護国神社のこんもり繁った森のひんやりした空気が感じられる錯覚に陥った。
 でも校舎には、残念ながら在学中の面影は全くなかった。当然だ。卒業してなんと40年近く経っているのだ。あの頃はまだ、いつ倒壊してもおかしくない木造校舎だったが、今は鉄筋コンクリートである。その鉄筋建てだってすでに新しくはない。でも、まぎれもなくこの場所に、僕の青春時代の日々があったのだ。ああ、なつかしの母校!今僕はその庭に立つ。

 話を最初からしよう。今週末すなわち10月16日日曜日に、群馬県高崎市の新町文化ホールで「震災復興チャリティー・コンサート」がある。そこで我が新町歌劇団も出演するのだが、最後に高崎高校合唱部と合同で佐藤真作曲の「大地讃頌」をやることになった。この高崎高校合唱部との合同演奏の背景には、この合唱部の学生指揮者で音大の指揮科をめざして勉強中のM君との出遭いがあるのだ。

 かつて僕も在籍していて、僕の合唱人生の原点ともなっている高崎高校合唱部は、あの頃はとても盛んに活動し、音楽センター大ホールで定期演奏会を毎年行っていたが、その後男声合唱ブームが去ると同時に衰退の一途を辿り、とうとうつぶれてしまった。
 それを復活させたのがM君であった。M君は1年生の頃から積極的に活動し、同級生や下級生に対して部員の勧誘を続け、現在ではなんと部員が21人にまでになったのである。M君は、将来指揮者になることを目指しており、音大指揮科を受験する準備中である。ピアノも上手な彼には、なんというか、ある種のカリスマ性があるのだ。 
 合唱部がそうやって活動を再開したことを、OB会のメンバーが聞きつけた。OB達は奔走し、単独ではないが合唱団の演奏会が出来るところまで持っていってくれたのである。

 そのOB会員の中心メンバーであり、僕の一学年先輩のSさんは、M君が指揮者になりたいと思っている事を知り、僕とM君を結びつけようと、ある時僕の家に電話をかけてきた。
 電話が鳴って妻が出た時、ちょうど僕は出掛けるために準備していた。妻は、
「ちょっとお待ち下さい」
と取り継ごうとしたが、僕は電車に遅れるかどうかの瀬戸際だったので、
「ごめん、今は無理!話を聞いておいて!」
と断って家を後にした。そのやりとりをSさんは聞いていた。つまり、僕は電話口でSさんをすっぽかしたわけだ。妻は、僕に代わって、M君に僕を会わせたいというSさんの意向を聞き、僕に明日にでも折り返し電話させることを約束して電話を切った。
 しかし偶然にもその数日間、僕はとても忙しかった。次の日も朝から家を出なければならず、しかも様々な準備に追われていてとてもSさんに連絡する余裕がない。妻はそのことを気にして、僕に代わってSさんに電話してくれた。
「申し訳ございません。主人はいま忙しくていつ会えるかというお約束が出来ません。冷たい人かとお思いでしょう」
「三澤はそういう奴なんだな・・・・と思ってましたよ」
 Sさんと僕は、在学中は結構仲良くて、先輩だったのでタメ口こそきかなかったけれど、こんな会話は普通だったのだ。ところが、それに慣れていない妻は、「三澤はそういう奴」という言葉にすっかりびっくりしてしまって、お願いだから早くMさんに会ってあげてよ、そうしないとあなたOBの人達全員から人でなしのように思われるわよ、と再三僕に言っていたのである。
 それからいろいろあって、僕はとうとうM君と高崎の駅で会い、さらに新町歌劇団のSさんのはからいなどあって、M君は新町歌劇団の練習に来るようになった。さらに先日のガトーフェスタ・ハラダの演奏会にも出演したのだ。それからさらに事態は発展して、10月16日のチャリティ・コンサートでは、M君だけでなく高崎高校合唱部全体が、新町歌劇団との合同で大地讃頌を歌うところまで来たわけである。それで、合同練習の為に僕が高崎高校に行くことになったのだ。

 ハラダのコンサートの練習の時にM君が僕に言ってきた。
「あのう、先生!せっかく先生にタカタカ(高崎高校)に来ていただくのなら、もし出来ましたら今僕たちが練習している曲を見ていただくなんてことは出来ないでしょうか?」
「おう、いいよ。では最初に君たちの曲を見て、それから大地讃頌の練習をしよう」

 さて、練習場は高崎高校の中の翠巒会館(すいらんかいかん)というホールで行われた。うーん、昔はこんな素晴らしい練習場なんか望むべくもなかった。驚いたのは、OBが3人来ていたこと。僕がタカタカで合唱部の練習をつけると聞いて駆けつけてくれたのだ。その中には、例のSさんもいた。
「あの時はごめんなさい」
「でもこうやって来てくれたんだからいいよ・・・あのなあ・・・本当に嬉しいよ!」

 こういうOB達って本当に良い人達だな。Sさんにしたって、僕がM君とコンタクトを取ったって、タカタカに来たって何にも彼自身得になることはないんだよな。でも合唱部が復活したのが嬉しくて、なんとか僕とM君や合唱部を結びつけようとしてくれたし、練習をするっていう情報が流れたら、こうやってわざわざ来てくれるんだ。これはもうお人好し以外の何物でもないですな。素晴らしきOB達よ!

 久し振りのタカタカ合唱部員の歌は、プロの僕から見るとなんとも微笑ましい限りである。正直言って、あまりにヘタなのでガクッときた(笑)。僕は発声の根本的な事を彼等に教え、言葉を立てるテクニックやフレージングの事などを注意した。彼等は、この際僕から吸収できるものは全て吸収しようと、まるでエサをあげる時の愛犬タンタンのような黒目ばかりの真っ直ぐな視線を僕に向けていた。そのいちずさが僕にはまぶしかった。教えていく内にみるみる良くなっていったのには驚いた。若いっていいな。
 その後、新町歌劇団が入っての大地讃頌は、はっきり言って、これまで何回となくやったこの曲の演奏の中で最も感動的なものになるかも知れないという予感を感じさせた。この演奏を聴くためだけでも、みんなにこのチャリティー・コンサートに足を運んでもらいたい。大地への感謝。自然への愛。おおいなるものへの賛美。僕が音楽活動をしていく上で最も大切にしているものが、ここには歴然とあるのだ。


 練習後、高崎駅ビルの中のキリン・シティでOB達と一緒にビールを飲みながら昼食を食べた。M君も同行した。気が付いてみたら2時間半くらいいろんな話に花が咲き、本当に楽しかった。僕は、自分が何のために音楽をやっているのか、分かったような気がした。また自分探しの旅にひとつの答えを見つけた。それで、帰りの新幹線はこんなにしあわせなのである。  


ヴェルディが越えたかったもの
 先週あれだけヴェルディのオペラ台本の悪口を書いておいて、今更弁解するわけでもないのであるが、何故ヴェルディはああしたハチャメチャな台本に好んで音楽をつけたかということについて説明していなかったので、ヴェルディの名誉のために少し書いてみたい。

 ヨーロッパは、我々日本人が想像するよりはるかに階級社会である。特に昔はそれが強かった。レオナルド・ダ・ヴィンチの母親は、父親の家の使用人であった故に結婚出来なかった。母親は同じ平民の男と結婚し、父親は同じ貴族の女性と結婚する。結婚は家と家とが行うものであり、身分の違う者同士は、どんなに愛し合っても結ばれることは難しかったのだ。
 そうした常識を踏まえると、マンリーコの立場というものが理解出来るようになる。マンリーコは、最初は名もない吟遊詩人、それからジプシーの息子という身分を持つ。ジプシーの息子といったら平民以下の身分である。このマンリーコがレオノーラという貴族の娘と愛し合っているが、一方、ルーナ伯爵も彼女を横恋慕している。こうした場合、当時の社会的な常識からすると、もうそれだけでマンリーコの方には全く勝ち目はないのである。

 こうした常識を打ち破ろうとするのが愛の力である。愛は全ての束縛を越え、人間と人間とを何の先入観もなく結びつけるものである。ルーナ伯爵がどんなに自分の身分を武器にしてレオノーラを手に入れようとしても、愛の力の前にはなすすべも持たないのである。
 ヴェルディは言うまでもなく愛の力の味方だ。それに、彼は全てのマイノリティの味方でもあるのだ。マンリーコは頑張る。頑張って自らの幸福に向かって努力する。伯爵なんかには負けないし、自分は伯爵よりも優れた人間だという自負もある。
 にもかかわらずマンリーコの努力は報われない。不幸に生まれついた者には、所詮不幸しか訪れない。ヴェルディのオペラはいつもこんなやり切れない結末を迎える。何故か?何故ヴェルディは、愛の力の味方であり、社会常識を打ち破っていく方にあんなに思い入れをしているのに、不条理に押し流されていくばかりなのだ?
 いやいや、それがヴェルディなんだなあ・・・というか、それが世の中なんだ。だからこそヴェルディのドラマにはリアリティがあるのだ。さらに「イル・トロヴァトーレ」でのどんでん返しは、ヴェルディの猛烈な皮肉なのだ。「ジプシーの子と思われて」滅んでいくマンリーコは、本当はルーナ伯爵の弟だったのだ。つまりマイノリティとして抑圧を受けるマンリーコは、本来貴族だったのである。
 これは同和問題などもそうであるが、人はすぐレッテルを貼り、そのレッテルをもとに差別したがる。、なにかジプシーの子供が貴族よりも人間として劣っているというような錯覚をするのだ。ジプシーの子にも素晴らしい人間はいるし、貴族だってくだらない奴はいる。このオペラのように、ジプシーの子だと思って差別していたら、実は貴族の側の人間であったということだって起こり得るのだ。要するに個人の価値は全て個人に帰するということなのであり、人間にレッテルを貼る事自体が無意味なことなのである
 シェークスピアの原作に拠った台本以外は、ヴェルディのオペラは、ほとんど全てこれがテーマであると言っても過言ではない。人間の尊厳を妨げる要素との戦い。それを愛の力というものに託して歌い上げたものがヴェルディの世界だ。物語の上では、いつも愛の力が破れ悲劇的に終わるが、重要なのは結末ではないのだ。

 そう思って読み解いていくと、アズチェーナの子供を取り違えるという馬鹿馬鹿しい設定も、どんでん返しの伏線のためには必要だし、フィガロの結婚の伯爵と同じように、貴族であるルーナ伯爵の愚かさは際だった方がいいわけである。
 不自然で馬鹿馬鹿しい箇所は、その馬鹿馬鹿しい不自然さを作り出してしまってまでも強調したい何かがあるのだ。それを理解しているイタリア人は、ヴェルディをあれだけ愛するのだ。そして、あの一見単純なストーリー展開と主要三和音ばかりの音楽の向こうにある、とても奥深い世界を読み解くことこそ、ヴェルディの本当の楽しみであるのだ。

めくるめくラヴェルの世界
 いやあ、ラヴェルの音楽を堪能した!というか、ラヴェルの神髄を見た気がした。ジョナサン・ノットの作り上げる響きとフレージング、香り立つニュアンスは全く素晴らしいのひとことにつきる。

 10月7日木曜日は東京交響楽団の定期演奏会。合唱作品の場合は、いつもならば東響コーラスの合唱指揮者として参加するのだが、今回は珍しく新国立劇場合唱団の合唱指揮者として参加した。
 曲目はちょっと変わっていて、冒頭にドビュッシー作曲「ノクチュルヌ(夜想曲)」から第三楽章の「シレーヌ」だけ。それから小菅優(こすげ ゆう)のピアノ独奏でシェーンベルク作曲ピアノ協奏曲。休憩をはさんでラヴェル作曲バレエ曲「ダフニスとクロエ」全曲というものである。

 指揮者のジョナサン・ノットは、ピエール・ブーレーズが創立し初代の音楽監督を務めていたアンサンブル・アンテルコンテンポレーヌという現代音楽専門のオーケストラの音楽監督をしていた。ちなみに現在の音楽監督は、先日ミラノで僕が出遭った女性指揮者のスザンナ・メルッキである。 だからジョナサン・ノットは現代音楽を得意としていて、シェーンベルクのピアノ協奏曲の棒さばきなどにその手際の良さが見えるが、ラヴェルということになると、むしろバトン・テクニックを披露することは意図的に避けて、その色彩感とニュアンスを出すために、変拍子のところでさえたゆたうような指揮をする。
 そのせいか、実に棒が分かりにくい。というか縦の線を合わせづらい。でも彼は、
「ずれることを恐れないで!」
と言いながら、そうした指揮を変えるつもりはない。

 ああ、僕だったら・・・・と思う。僕だったら、こんな時、もっと図形を分かり易く振るのに・・・・と考えながら、こうも思う。だから僕は殻を越えられないのだとも・・・・。
 昔、小澤征爾さんがこの曲を振ったのを見て、そのバトン・テクニックの素晴らしさに度肝を抜かれたことがあった。ああいう風に振ってああいう風にオーケストラを操っていけば完璧なのだと思ったが、今この歳になって思うのは、むしろその考えこそが最も危険なものなのだということ。
 小澤さんは違うだろうが・・・こういった「指揮するだけでも難しい曲」の場合、逆に、あざやかなバトン・テクニックを駆使して明解に振れば、ピタッと合ってオーケストラも喜ぶし、自分もカッコ良さを披露出来て八方丸く収まる・・・・・という時点で自己完結してしまう危険性を孕んでいるのだ。
 小澤さんの完璧さは、後に続く者達にその自己完結性を与えてしまう可能性をもたらしてしまう・・・・・そもそも、オーケストラをドライブすることは、出発点であって目的地ではないのだ。大事なことは、どのようなソノリティを構築するかであり、どのような音的世界を作り上げることが出来るかなのである。ここを取り違えてはいけない。

 だから指揮者というものは、優れた指揮者になればなるほど、棒が明快になるわけでもないのだ。むしろ優れた指揮者と、ただの分かりにくい指揮者とが、紙一重になることの方が多い。何故かというと、自分が全部振ってしまい、オーケストラがただそれについてくるだけの関係を築いてしまうことは、本当に面白い音楽を作る妨げになるからである
 百人いようが音楽はアンサンブルなのだ。アンサンブルとは、楽員が自主的に作り上げるものであり、指揮者が作るものではないのである。指揮者とはそのアンサンブルをし易いように助ける存在に過ぎない。自分が完璧に振ってオーケストラに盲目的に追従させることで、彼等が自主的にアンサンブルする可能性を奪ってしまうことは絶対に避けなければいけないことであるが、残念ながらそういう指揮者は世の中に少なくないのである。
 また、オーケストラがとても優秀で、自分たちでアンサンブル出来る優れた能力を有しているならば、指揮者というものは、もう拍を刻んだりしてはいけない。そんな場合の指揮者のやるべきことは、どこにオーケストラを連れて行くかという目的地の掲示であり、作品の持つヴィジョンの呈示であり、作品の上に素敵な香辛料を振りかける行為なのである。カラヤンやクライバーがやっていたことは、まさにそうした行為なのであり、だからあのような動きになっていたのである。
 でもねえ、いざ自分が振る時になると、オーケストラが合わないってのは気持ちが悪いんですよ。だからついはっきり振ってしまうのだ。この辺が日本人なんだな。

 さて、ジョナサン・ノットと一緒に行ったサントリー・ホールでの「ダフニスとクロエ」は大変な名演となった。でも正直言って、本番になって棒がますます分かりにくくなったため、オーケストラも合唱も随所で落ちたりずれたりで、とても完璧とはいかなかった。
 では、マエストロが完璧に分かり易く振って、オーケストラがピシッと合ったら、間違いなくより良い本番になったかというとそういうわけでもない。マエストロが望んでいたのはむしろ、一回こっきりのかけがえのない演奏であるし、作品からほとばしる真実である。
「ずれることを恐れないでね」
と言った彼の発言は、彼の正直な本心に違いない。

 このギリギリのところのせめぎ合いこそ、名演を生み出す条件なのかも知れない。
この辺が音楽の曰く言い難しの部分ですなあ!



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