尼崎から

三澤洋史 

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尼崎から
 昨日、すなわち10月23日日曜日から尼崎に来ている。もう4年目に突入したが、新国立劇場で制作したオペラを関西に持ってきて、アルカイック・ホールで高校生の鑑賞教室として見せる企画だ。
 昨年までの3年間は、プッチーニ作曲「蝶々夫人」を上演し、僕は指揮者として参加したが、今年からの3年間はドニゼッティ作曲「愛の妙薬」を上演する。指揮をするのは音楽ヘッド・コーチの石坂宏(いしざか ひろし)さん。僕は合唱指揮者として参加。でも、合唱の分量がかなりあるし、この演出の場合、役割的にも大活躍するので、やり甲斐がある。

 先週の一週間は、文化会館50周年記念行事の黛敏郎作曲「古事記」の立ち稽古と、「愛の妙薬」立ち稽古を掛け持ちしていたので、めちゃめちゃ忙しかった。今週はうって変わってゆとりの一週間。僕が東京を留守にするので、「古事記」の合唱立ち稽古はお休み。僕は尼崎で「愛の妙薬」に没頭すればいい。ホテルは会場の目の前なので、移動に費やす時間もない。
 それに今年は尼崎滞在が例年より長い。昨年までは東京フィルハーモニー交響楽団が東京から一緒に来たが、今年から大阪フィルハーモニー交響楽団がピットに入るので、オケ合わせを東京で済ませてから来るわけにはいかない。そこで、こちらでオケ合わせを行うために、合唱団の尼崎入りが1日早いのだ。
 加えて、ダブル・キャストの「蝶々夫人」と違って、「愛の妙薬」はシングル・キャストなので、歌手達の体調を考慮して、水曜日の第一回目の公演の後、一日オフの日があってから金曜日の二度目の公演を迎える。つまり木曜日は尼崎で完全に休日なのだ。バンザーイ!
 シングル・キャストということは、ピアノ付き舞台稽古やオケ付き舞台稽古も一組で済むので、夕方も早めに終わりそう。なんだか昨年までに比べて随分ゆったりとしているなあ。僕の時が一番大変だったぞ。オケ付きで、2時から9時までの間に「蝶々夫人」を二回も通さなければならなかったのだからね。


 さて、ゆったりといっても、勿論貧乏性僕のことだから、何も仕事の用意をしてこなかったということはないんだよな。実は今週末に浜松学芸高校で講演を行う。その準備をこの尼崎滞在中に行わなければならないのだ。CDやDVDなど様々な資料を携えて尼崎入りしたものの、まだ何も整理していない。
 学芸高校の方からは、オペラのこと、海外のこと、宗教曲のこと、なんでも話していいですと言われている。特にこの学校には電子音楽科というのがあって、その担当の先生は、僕が積極的にヤマハ・エレクトーンやシンセ・パーカッションなどを使ってオペラや自作のミュージカルなどを上演し、電子音楽シンポジウムの基調講演の講師なども担当しているのを知っているので、是非そちらのお話しをお願いします、などとも言ってきてくれている。
 でもねえ、自由に話して良いと言われたって、調子づいて原稿も作らないでしゃべり始めたら、もう僕の場合はおしまいですからね。何時間でもしゃべって、ひとつとして必要な話はなかった、なんてことになってしまいますからね。
 だから頑張って原稿を作り、音資料などを話す順番に沿って配置して一枚のCDに焼いたりするんだ。おお、それだけで自由時間がみんなつぶれてしまうじゃないか。やはりどこまでいっても貧乏暇なしです!  


古事記
 古事記は合唱の分量が多くて、しかもドイツ語なので、合唱団に暗譜させるのが本当に大変だった。これはもうとても覚え切れないのではと、途中でさじを投げたくなったが、みんなさすがにプロだね。立ち稽古が始まって何度も繰り返していく内に、かえってどんどん体に入ってきたみたいで、案外形になっているじゃないの。

 演出家の岩田達二(いわた たつじ)君は、昔からよく知っているけれど、実に素晴らしい演出家に成長したものだと感心している。彼が作りたいドラマは百パーセント理解出来るし、歌手達に伝えていくやり方も納得出来る。舞台は簡素ではあるが、中央に回り舞台があり、それがスロープになっていて、いろんな風景を作り出す。
 たとえば、八岐大蛇(やまたのおろち)なんかは、実際に舞台にキングギドラのようなものを出したりはしない。そうではなくて、彼の解釈では、八岐大蛇というものは、日本という脆弱な土地の上に荒れ狂う“自然災害”なのだ。実際、原典の古事記の中でも、そうしたものの象徴であったようだ。
 そうしたコンセプトの上に立って、彼はしかしながら単なる抽象化にとどめておかないで、一度抽象化することによって、逆に舞台上に具体性のあるリアリティを導き出そうとしている。

 何より僕が好きなのは、彼の演出では、立派な道具や電気仕掛けの装置でごまかしたりしないで、人間が動く時のエネルギーやダイナミズムを最も大切にしている点だ。だから合唱はコロスといいながら、ただ突っ立っているようなことは決してない。走ったりかがんだり寝転んだり大忙しだ。でも、こっちの方が動きと連動して覚えられるので、暗譜のためにもいいのだ。
 それにしても、日本の合唱団の人達って、本当によく動いてくれるし、舞台上で演技するのが心底好きなんだね。僕は本当に感動してしまう。スカラ座の合唱団の人達に見せてあげたい。もうドイツ語オペラだってイタリア語オペラだって、ネイティブに気後れする必要など全くないね。

 まだ始まったばかりだけれど、この「古事記」はね、日本のオペラ史上に残る、稀有なる公演になる可能性ありだよ。また報告します!

アフターダーク
 村上春樹の「アフターダーク」(講談社文庫)という小説を読んで、あらためてこの作家の独創性に驚いた。実は、この文庫本はミラノと日本を往復している。イタリア滞在の間に、きっと日本語の活字に飢えるだろうなと予想して持っていったのだが、ミラノの家具付きマンションappartamentoで、真夜中の「デニーズ」の店内から始まる冒頭を読んで放り出してしまった。なにもミラノまで来て「デニーズ」で始まる物語を読みたくはない。
 その後も、イタリア語の勉強に明け暮れたミラノ生活において、日本語の活字に飢えたことは一度もなかったし、仮にあったとしてもこの小説は開かなかったと思う。旅行ガイドの本は随分開いたのだけれどね。

 先週、そういえば読んでない小説があったなと思って電車の中で読み始めてみた。不思議だ。日本で読んだら「デニーズ」が全く気にならない。それどころか面白くてやめられない。それであっという間に読んでしまった。
 長い小説ではないので、構成は単純だろうと予想していたが、長編小説同様かなり複雑だ。村上氏の常で複数のストーリーが交差するのだ。その構成力が見事だとも思うし、逆にむしろ直感的に書いているのかなとも思う。バッハの二重、三重フーガだって、推敲に推敲を重ねて書いたようにも見えるが、案外、えいやっ!という感じで一気に書いているようにも見える。村上氏の文章も、バッハ同様、緻密さと即興性が同居している。

 真夜中の「デニーズ」で熱心に本を読んでいる少女に、ひとりの男性が近づいて来て声をかけるところから物語は始まる。少女が真夜中にひとりでいるという不可解さをのぞけば、ありきたりのラブストーリーの始まりの予感。まあ、このふたりに関して言えば、予想通りラブストーリー的展開をして、最後はちょっと素敵な余韻を残して終わる。
 でも、当然村上文学のこと。これだけで終わるはずがない。次の章では一転して、ベッドの中で眠り続ける少女浅井エリの描写に移る。彼女を見つめる視点は斬新だ。まるでテレビカメラのように著者の視点は自由自在に移動する。読者も一緒に付き合わされる。彼女の部屋にはテレビがあり、その画面に映し出される顔のない男などの描写は、暗示的であり、我々に様々な想像力を喚起する。浅井エリはひたすら眠り続ける。静寂があたりを支配している。こういうのがマジカルでいいんだよな。
 舞台は再び「デニーズ」に戻るが、急転直下、まるで三流小説のようなあまりにも俗っぽいストーリー展開に我々読者はとまどいを覚える。ラブホテルで暴行事件が起こる。ホテルに出張した売春婦が客に暴行され傷を負い、洋服からバッグから全て客に持ち去られてしまったのだ。ラブホテルの従業員達は防犯カメラを使って犯人捜しを行う。そして、そこから得た情報を、売春の元締めをやっている中国人組織に提供する。そして、組織は動き始める・・・・・。

 どうです、みなさん!この三つの場面描写には、どう考えたって共通性はないように思わないかい?村上春樹氏以外だったら、間違いなく支離滅裂な小説になるであろう。いや、村上氏も、これを最後に鮮やかなどんでん返しをして、全てつなげてみせようとも思ってはいない。
 読者は物語にのめり込み、謎が謎を呼ぶので結末に向かって一気に読むしか方法がなくなる。ところがその結末というのは・・・・予感した通り、結末らしい大団円などは望むべくもない。ほとんどは未解決のまま放り出され、
「えっ?それじゃ、あの人はどうなっちゃったの?」
と、読者は途方に暮れる結果となる。でも、村上文学では不思議と支離滅裂という感じがしないのだ。なにかが内的につながっているのだな。言葉では表現出来ないのだけれど・・・・。
 僕は思うんだけど、この小説はこの先、作者が書き続ける気になれば、いくらでも長い長編小説が書ける。なんといっても発展出来そうな素材に充ち満ちているのだ。いや、この小説だけではない。彼の小説はみんなそうだ。1Q84だって、そもそもBook1で終わったっていっこうに問題ないもんね。逆に、Book3まで読み進んだから、より何かが解決したかと言われれば疑問だ。それが村上春樹の世界。ま、人生もそんなものだからね。NHKの朝の連続テレビ小説の最終回のようなわけにはいくものか。
 それでも彼の小説では、登場人物があまりに生き生きと動いているので、読み終わってもまだしばらくは自分の中で勝手に動き回って、勝手に続編を作っている。でも、そうやって小説が突然終わって、登場人物がバラバラと空中に放り投げられると、その後の登場人物の足どりはしだいに遅くなり、あるいはぼんやりして来る。まさにその時が、村上氏の小説を読み終わった時なのだ。
 村上氏も、自分の小説を自分で書きながら、その中の登場人物が勝手に動き出してくると言っているから、その登場人物が存在感を失ってくる落とし処から逆算して、放り投げるタイミングを計っているのかも知れない。それが村上氏のエンディングだというならば、あの投げやりにも見える結末の謎も解けるのではないか。

 村上文学の大きな特徴に、“我々を脅かす存在”の描写というのがある。コオロギという偽名を持つラブホテル従業員の女性は、元はOLだったが、あるきっかけで転落し、仕事も捨て親も捨て、“ある人達”から逃げ続けているという。そんな、人に顔をさらしたくない人間にとって、最もふさわしい場所がラブホテルの従業員なのだ。でも彼女は、決して逃げ切れないのではと恐れている。
 彼女は夢を見る。どこまでもどこまでも追いかけられて、とうとう見つかって捕まえられて、冷蔵庫のようなところに押し込められて蓋を閉められたところで目が覚める・・・・。着ているものはみんな汗でぐしょぐしょになっているという。読んでいるだけでこっちも脂汗をかきそうだ。
 冒頭で「デニーズ」に現れて少女に話しかけた男、高橋は、コンビニでチーズの棚に置かれていた携帯電話を発見し手に取るが、その時その携帯電話が鳴る。仕方なく通話スイッチを押すと、男の声が出し抜けに聞こえる。
「逃げ切れないよ。逃げ切れない。どこまで逃げてもね、わたしたちはあんたをつかまえる」

 わずか300ページ足らずの小説に、よくもこれだけの内容を盛り込めたとあきれる。素敵なラブストーリーと、眠り続ける少女という暗示性と、我々の精神を脅かし蝕んでゆく巨大なる悪徳・・・・そうだ、もうひとつあるぞ・・・・冒頭で「デニーズ」に登場する少女と、例の眠り続ける少女とは、実は姉妹であり、その二人の関係というのが微妙なんだ。
 この小説の後半にとても美しい場面がある。妹の浅井マリは、眠り続けるエリのベッドにそっともぐり込んでいくのだ。かつて、自分と姉とが本当に分かり合えた、あの時のふたりの関係に戻りたいと願うマリは、とても自然な、大きな粒の涙を流しながら、エリの横に体を寄せ、彼女のぬくもりを感じながら眠ってゆく。

 読み終わって実に爽やかな余韻が残った。短いので気楽に読めたが、僕の中では、全ての村上文学の中でもかなり上位にランクインした。それに気を良くした僕は、再び書店で村上春樹コーナーの前に立った。するとあることに気付いた。
 村上氏は、自作と平行して随分アメリカ文学を翻訳しているのだ。どうやら、自分が訳したいと思う作家や小説を選んで訳しているようだ。そこで僕は、書店の本棚からあてずっぽうに手に取り、レジーに持って行った。もしかしたら村上文学のルーツが分かるのかなという期待もあったのだ。

 読んだのは「人生のちょっとした煩い」(文春文庫)という短編小説集。グレイス・ペイリーというニューヨーク生まれの女流作家だ。でも、正直言ってかなりがっかりした。というか、僕には一体この小説のどこが面白いのかちっとも分からない。一番落胆したのは、もしこれがアメリカ人の日常を描いているものだとすると、アメリカ人って、こんなモラルのない自己チューと自己チューの中で社会が営まれているのか、ということ。
 短編では、積極的な妹が、姉の彼氏を誘惑して奪った話とか、別れた妻と久し振りに再会して、いい雰囲気になってセックスしてみたら、妻にはすでに夫がいて・・・・つまり今の夫に対して不倫のセックスをしてみせることで、彼女はある意味かつての夫に仕返しをしたのだ・・・とか、これを読んで何になるのという話ばかりで、あまりにくだらないので放り出してしまった。
 これに比べれば、日本人の社会というのはまだ健全だなあ。もしかしたら、イマドキの若者達の社会は、むしろこれに近いのかもしれないが・・・・少なくとも、僕のようなおじさんが暮らしている世界から見た場合、何一つリアリティを感じられる描写はなかった。それでも村上氏は、「ペイリーさんの小説は、とにかくひとつ残らず自分の手で訳してみたい」と言っているらしい。うーん、またよく分からなくなってきてしまった。
 
 ひとつ分かったことは、村上氏の小説に見られる、すぐにセックスを許してしまう女の子や、様々な性的放縦さの表現は、彼がこんなアメリカ文学に親しんでいるからかも知れないということ。それにしても、村上氏自身の小説の方が百倍も優れているのは事実なので、僕は、こんな小説を訳す暇があったら、ひとつでも多くの自作をこの世に残して欲しいと強く願っている今日この頃である。



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