ケンプのベートーヴェン

三澤洋史 

写真 三澤洋史のプロフィール写真

身体性とサウンドとの関係
 秋晴れの自転車日和が続くが、僕は新国立劇場を飛び出して、「古事記」の立ち稽古を水天宮前という東京の東側の方で行っているため、自転車通勤の出る幕がない。その代わりよく水泳に行っている。今週は、「古事記」の練習が夜に集中しているので、朝9時から立川の柴崎体育館で1時間ばかり泳いでから1日を始めようと思っている。 
 僕の場合、水泳をすると、いつも左腕ばかり筋肉痛になる。正確に言うと、左の肩の下あたりの背筋。普段は使わない筋肉だが、クロールや平泳ぎではよく使う。ところが右腕に関して言うと、僕の右腕はどんなに動かしても、痛くもなんともないのだ。
 指揮をする時には、左手も補助として使うけれど、なんといっても指揮者の右手は、今振っている楽曲の全ての小節の中のビート数だけ叩いているから、やはりそれだけ筋肉が鍛えられているようだ。
 ミラノにいた時には、指揮をするという生活から完全に離れていた。練習を見学してイタリア語の勉強に明け暮れていたのだからね。そしたら、わずか80日間なのに体がなまってしまった。帰国して指揮したら、右腕が疲れるのを感じたのだ。筋肉って使わなくなるとすぐ落ちてしまうものなのだと気が付いて愕然とした。すぐ戻ったけれど。
 こんな風に若い時から右腕ばかり使っていた僕は、右腕に筋肉が偏っているようなので、水泳で左腕も均等に運動するのは体のバランスのためにはいいのだろう。だが、均等になったところでなにかいいことでもあるのだろうかと問われると、「別に・・・」と答えるしかないな。それでもバランスが良くなって悪いことはなかろう。

 水泳するのは楽ではない。正直、今日はおっくうだなと思いながらプールに向かう時もある。でも、泳ぎ終わるといつも間違いなく体が軽く爽やかになり、行って良かったなと思う。特に朝練から始まる1日は、なんだか得した気分になる。
 昔、太っていた時の方が、何をするにも面倒くさく、しかも1日の内に横になることが少なくなかった。今は、夜寝る時以外、横になろうとも思わない。体だけではない。水泳をしていると頭も明晰になるし、感性も冴えてくる。

 同じようなことは、僕の尊敬するトランペッターのマイルス・デイヴィスも言っている。最近読んだ「マイルス・オン・マイルス」(宝島社)というインタビュー集から~
(ATはインタービュアのアーサー・テイラー)
AT:どうしてそれほど頻繁にジムに通うんだ、マイルス?
MD:身体のコンディションをキープするためにジムに行くんだ。音が伸びるし、腹が引き締まり、見栄えがするようになるのさ。
AT:ボクシングには音楽と共通するものがあると思うかい?
MD:ああ。両方ともテンポの良さとリズムが必要だ。タイミングを合わせないとだめだからな。トレーニングをやると血の循環が良くなって頭が冴える。頭の働きが活発になって感性が強くなるんだ。

 気が付いてみると、僕が好んで聴く音楽家は、マイルスであれカラヤンであれみんな傑出したスポーツマンだ。何故だろうかとよく考えてみる・・・・何故カール・ベームには全く魅力を感じないのにカラヤンには惹かれるのか?それは・・・・・響きすなわちサウンドに対するセンスが違うからだ。僕は、カラヤンの作り出すビロードのようなサウンドを聴くと、目の前に彼が雪の上に描くであろうシュプールの美しさがありありと浮かぶ。 マイルスも同様だ。アドリブという個人プレーを基本とするジャズという音楽において、当初からトータルサウンドの構築にあれだけ重点を置き、名手揃いの各プレイヤーを自分の意図するサウンドに向けて意のままに操ることの出来たマイルスの才能は、彼の身体能力の高さと決して無関係ではない。とすると、音楽家の身体能力の高さは、サウンド・イメージに影響するのだろうか?
 加えてマイルスには、あの稀有なるリズム感がある。それは、誰も到達出来ないほどのもの凄く高度なリズム感だ。それを理解しエンジョイするためには、やはり同じようなリズム感を必要とするであろうが、フィギュア・スケートの選手だとか、レーサーとかボクサーとか、要するに百分の一秒の単位で自分の身体と向かい合っているような人間には、あらかじめ備わっているような気がする。では、彼等が即座にマイルスのリズム感を聴き取ることが出来るかといったら、それは、そちらの方に意識が開いているかという問題であって、また一概には言えないが、根っこは一緒だということだ。
 このように音楽家と身体能力との関係を突き詰めていったら面白いかも知れない。まあ、いずれにしても音楽を奏でる行為は、とても限定された局部的なスポーツであり、それぞれの楽器奏法における(あるいは指揮においても)理想的フォームといえるものは、合理的な筋肉の動きの集合に他ならない。
 また、その認識力においては、たとえばモーグルをしている選手が目の前に次々に現れてくるコブを瞬時に判断してさばいたり、サッカーの試合中の選手達の目の前にボールが飛んできた、さあ、どうする?といった状況と一緒なのだ。
 違うのは、ただ肉体をそんなに動かさないということと、失敗しても「痛くない」ということだけなのだ(笑)。でも、精神の中では、もの凄くアクティヴでエキサイティングな“行為”が営まれているのである。

 僕は、2年半前まで運動とは無縁に暮らしていたが、血糖値の高さを医師に指摘されてダイエットに踏み切ったことをきっかけに、自分の生活の中に運動を取り入れるようになってみたら、不思議と自分がスポーツに向いている体だということに気が付いた。元来自分のリズム感には自信があったが、それも体の中に潜在的に隠れていた運動性のたまものだったような気がする。そして、スポーツをすればするほど、自分の中の感性は磨かれ、サウンドのイメージがより鮮明になり、それによって自分の指揮の仕方も変わってきたのである。
 バロック音楽をやっていながら、何故オリジナル楽器で演奏せずにモダン楽器でやるのかという謎も最近解けてきた。僕の欲しいサウンドが、オリジナル楽器では表現出来ないという簡単な理由からなのだ。バロック音楽における僕のサウンド・イメージは、スポーツのお陰でより明瞭になってきた最も顕著な例である。

 平泳ぎで水の中を進む。手を掻き、胸の前でたぐり寄せ、一気に前方に腕を伸ばす。つるんと顔が水の上に出る。それから足を掻く。足が伸び切る。互いに離れた足の先を寄せる。足のつま先同士が触れる。この瞬間、体が真一文字になる。水の中で僕は一本の線になる。自分の身体を水が通り抜けていく。これこそ至福の時!そんな時、僕の頭の中にひとつのうたが鳴り響く。これこそ僕の欲しいサウンドの原風景なのだ!

角皆君の文章
 いつも気紛れに発刊する音楽雑誌クラシック・ジャーナル。今回は「特集は、ピアニスト」。編集長の中川右介(なかがわ ゆうすけ)氏が編集後記で自ら書いているように、「書き手の人達がそれぞれの方法論で、自分の好きな、あるいは興味のあるピアニストについて書き、書き手それぞれの対象との距離感がかなり異なる」仕上がりになった。
 なんといってもピアニストの数は膨大で、しかも様々なタイプがいるからね。オリンピックのアスリートのような超絶技巧のせめぎ合いがある一方で、「ベートーヴェンをどう精神的に演奏するか」などといった別のシビアさもあるピアニストの世界。全ての面においてひとり勝ちすることなど不可能だ。

 その数あるピアニスト達の中で、あれだけテクニックの不足を指摘されながら、亡くなって随分経つのに、今なお人気を失わない稀有なるピアニストであるヴィルヘルム・ケンプについて、僕の親友の角皆優人(つのかい まさひと)君がエッセイを載せた。
 夏に白馬に遊びに行った時、ちょうど彼はその原稿を執筆していた時で、僕達はケンプの演奏を聴きながら彼といろいろ話をした。演奏家によっては時に趣味が真っ向から対立し議論にもなる僕と角皆君ではあるが、ケンプに関しては、二人ともおおむね意見が一致している。

 角皆君のエッセイには、ところどころ厳しいアスリートとして歩んできた彼の魂の軌跡がちりばめられている。

たとえどんな天才であっても、テクニックを磨くためには、スポーツ選手と同様の修練が必要となる。長時間にわたる厳しい反復練習を、何年も、場合によっては一生続けなければならない。加えて、練習の開始時期が幼年期でない場合、神経系の発達に限界があり、最高峰の技術まで到達することは不可能となる。
 これは事実である。そのことは僕自身の指が証明している。僕も思春期になってから自分の意志でピアノを始めた。何時間も練習して練習して、腱鞘炎になるくらい練習したが、一日弾かないでいると惨めなくらい指の筋肉が戻ってしまう。どうも、そういう風に体が形成されていないのに無理矢理意志の力で従わせている感があるのだ。
 一方、小さい時からピアノを弾く生活を普通にしていた娘の志保なんかを見ていると、ごく自然に体の筋肉がピアノを弾くように形成されている。職業ピアニストになろうと思うなら、志保のようでなければ、やっていくのは限りなく難しいのが現実だ。
 幼少期から青年期にかけてむしろ作曲に没頭し、ピアニストとしてのテクニック練習を意図的に避けたケンプも、いざ並み居る強豪揃いであるピアニストの世界に参入していこうとした時に、基本的な筋肉及び神経の形成が充分でないために、とても苦労したに違いない。でも角皆君は、だからこそ、ケンプはケンプなのだと力説する。

 夏。白馬での僕と角皆君との会話。
「あのさあ、プールで泳いでいると、隣で小学生が水泳教室やっている時があるんだ。こんなちっちゃい子供が、バシャバシャともの凄い速さで泳いでいるのを見ると、嫌になっちまうよな」
「でも、そういう子達がみんな大きくなってオリンピック選手になるとは限らないんだよ。それに、そうやって大人になっていった連中は、話をしてもつまらないんだ」
「でもさあ、スポーツって所詮タイムだったり順位だったりするじゃないか。つまらなくても別にいいだろ」
「それがそうでもないんだよ。思春期になってからは自分の意志でモチベーションを保たなければならないんだ。自分が本当はどうしたいのか?一生これを続けていく気があるのか?必ず向かい合う時が来る。その時平気でやめちゃったりする」
強制的な厳しい練習を課しすぎると、ピアニストから瑞々しいロマンチシズムが削ぎ取られたり、奔放な創造力が奪われたりする場合もある。ちょうどアスリートにおける燃え尽き症候群のように。
 僕が、幼年期から青年期にかけてスポーツに対して苦手意識を持っていたのは、スポーツが嫌いというよりも、あの闘争的環境に抵抗感を覚えていたせいである。なんてったってみんな、すぐに勝ち負けや順位やタイムにこだわるじゃないか。だから水泳は水泳部にはかなわないし、弱い奴はやっても仕方がないだろう的な価値観が蔓延していただろう。全く闘争的な人間でない僕のような者が、
「自分のペースで好きに泳ぎたいんだ」
と言って受け容れてもらえる環境は、そこにはなかったのだ。
 音楽の世界も同じだ。みんながプロになりたがっているから無理もないのだが、誰が一番うまいかという競争社会の真っ只中に放り出されて、やれコンクールだオーディションだ、もっと速く弾け、もっと人の出来ないことをやれと目の前に人参をぶら下げられ続ける内に、音楽を好きでいる気持ちなんかどこかに飛んでいってしまうではないか。さて、望んだ通り1番になったけれど、ではこれから何を表現すればいいんだ、というんじゃ本末転倒だ。

 ケンプは、そういう世界の対極にいる。彼はそもそも勝負するためにピアノを弾くのではない。彼は、語るためにピアノに向かうのだ。そして、そのケンプを愛する角皆君も、勝負するためにスポーツをするのではない。もし勝負したとしても、それは自分自身との戦いである。彼は水泳をしても、順位よりも自己ベストにこだわっている。一位になっても自己ベストを更新できないとちっとも嬉しくないようだ。
 なんて不思議な人間!ちっともアスリートに見えない。彼は求道者のようにスポーツに向かい、芸術家のようにスポーツを奏でる。加えて角皆君の場合は、数々の怪我や挫折を経験し、それがまた彼をケンプの音楽に惹きつける。それが次のような文章を紡ぎ出すことになる。
彼ほど音の透明さで聴き手の心を奪ったピアニストもいないだろう。その音は明るさを基調としていたが、決してまばゆいほどに輝くことはなかった。いつも少しだけ控えめに聴き手の心を叩いた。実演に聴くケンプの音色は、透明さを基調にしてありとあらゆる色に変化したが、その音のどれもが、半透明な清らかさと、ある種の静穏さを運んでいた。
 うーん、まいりました!なんと美しい文章!僕も文章を書くけれど、ケンプのことをこんな風に描写出来ない。同じように感じてはいるのだけれどね。我が意を得た文章に嬉しくて、角皆君にメールを打とうと思ったら、これも共時性でしょうか、書く前に受信したメール・ソフトに角皆君からのメールが入っているではないか。それで早速僕の気持ちを書いた。親友っていうのは、なにか人知を超えたつながりのようなものがあるんだ。

ケンプのベートーヴェン
 さて、気が付いたら、僕はケンプのCDをほとんど持っていない。ベートーヴェンのステレオ録音のピアノ・ソナタ全集を始めとして、シューマンの「子供の情景」だの、みんなレコードばっかり。そこでピアノ・ソナタ全集をあらためてAMAZONで注文したら、なんと次の日にもう家に着いた。
 嬉しいんだけどね。逆に言うと、これであの大きくて重たいレコード全集が無用の長物になってしまった。学生時代になけなしのお金をはたいて買った全集だよ。こうしてCDを買い直す毎にレコード棚が本当に無価値になってきてしまう。

まあいいや。CDの方は早速i-Podに入れて聴こうっと。

 久し振りにあらためて聴いたケンプは、僕に衝撃を与えた。いや・・・・いい!・・・・って、ゆーか、めっちゃいい!凄くいい!ブラヴィッシモ!こんなに良かったんか、ケンプって・・・・・・。

 実はその前にポリーニのベートーヴェン初期ソナタがi-Podに入っていた。それなりに楽しめたのだけれど、時々聴いていて腹が立っていた。何故かというと、ポリーニって、結局ベートーヴェンに対しても「上から目線」なんだ。
 後期のソナタが案外良いのは、最大限にリスペクトを払っているからだと思うが、初期の場合、テクニックを誇示出来る所に関しては、それがベートーヴェンであるのを忘れてしまったかのように「弾き飛ばして」しまうのだ。鮮やかだけれど、ベートーヴェンの場合は、テクニックが片時も意識から離れて一人歩きしてはいけないんだ。だから、ポリーニに関しては、あろうことか初期の作品の方が後期ソナタより駄目なのだ。
 まだある。ベートーヴェンがわざとコントラストを強めていきなりフォルテを叩きつけることで一気に次の展開に持って行こうとするような個所で、ポリーニは、あまりにコントラストを立てすぎるので、それがベートーヴェンの独創性を際立たせるどころか、なんだか滑稽になってしまうんだ。本人そのつもりないのだろうが、それが結果的にポリーニがベートーヴェンをおちょくっているように感じられてしまう。

 そこへいくとケンプの演奏は、どの作品を聴いても同じように作品を大切に大切に扱っているのが分かる。コントラストの個所は案外ケンプもガツンガツン弾いているけれど、全てが適切で、まさにベートーヴェン以前の音楽には決して見られなかった天才的で大胆な切り込みが浮き彫りになってくるのだ。
 それに、こうやってあらためて聴いてみると、ケンプだって案外テクニックあるじゃないかと思う。少なくとも鑑賞の邪魔になるというような意味で、ケンプのベートーヴェンにテクニック不足を感じる瞬間はなかった。というか、ケンプが表現するために必要なテクニックを、彼は全て備えているのだ。
 もうそれでいいじゃないか。ポリーニのように過剰にあることで僕を腹立たせるくらいだったなら、余計なものはない方がいい。そうだ、そうなんだ!必要なだけあればいい。いや、もしかしたら、必要なだけあると感じさせることこそ、真のテクニックなのかも知れない。

 それにしても、ケンプのベートーヴェンから香り立ってくる、いいようのないほの暗いロマンチシズムはなんだ!もうとっくにこの世にはいないベートーヴェンなのに、かつて紛れもなく生きていて、悩み苦しみながら自らの魂の軌跡を作品に刻み込み、今こうして僕の魂に入り込んで心を激しく揺する。
 ケンプの弾くベートーヴェンは、ベートーヴェンの深い嘆きを伝え、僕達をやさしく慰め、夢幻的な世界に誘いながら、僕達に明日への希望を与えてくれる。凄いな、ベートーヴェンって!凄いな音楽って!凄いな芸術の力って!そして、そんなことを感じさせてくれるケンプも凄いのだ!

 ひとつだけ難点を言う。CDの音ってレコードと違うねえ。ケンプは時々、右手の高音の単音を、まるで将棋士が最後の詰めの駒をパッツーンと将棋盤に打ち込むように潔く叩く時がある。ああいう音でもレコードはもっと柔らかかった。CDだとただのカッチーンとなってしまう。やっぱりあれはパッツーンでないと絶対にいけない。音が勝負のケンプだけに、その点はとても残念。なんとかならないか?

とにかくみんな!秋の夜長にケンプのベートーヴェンを聴くべし!



Cafe MDR HOME


© HIROFUMI MISAWA