これでいいのか?日本人?

三澤洋史 

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この一週間と年末
 文化庁のスクール・コンサートも終わり、先週は久し振りに新国立劇場内部の仕事に復帰した。来年早々の演目の練習が僕を待っていたのだ。遠藤周作原作、松村禎三作曲「沈黙」と、プッチーニ作曲「ラ・ボエーム」、それからワーグナーの初期の傑作「さまよえるオランダ人」などだ。それから、19日から始まる読売日本交響楽団の第九の練習もした。

 「沈黙」はなつかしかった。僕は、日生劇場で行われた初演時から、大阪公演を除いて全ての公演に関わってきたのだ。久し振りに接すると、この作品こそ日本オペラ最大の傑作であるどころか、日本オペラが行き着いた終着点でもあるという感を強くした。
 思い返してみると、作曲家の松村禎三氏を初めとして、初演時の指揮者である若杉弘氏も演出家である鈴木敬介氏もみな他界している。時の流れを感じる。ゆく川の流れは絶えずして・・・・諸行無常だ。

 初演というのはいつもそうだけれど、あの時も、作曲家も立ち会ってどんなものに仕上がるのか分からない中、手探りで作り上げていった。長い期間をかけたし、大変だったけど、クリエイティヴで楽しかった。
 (鈴木)敬介さんはカトリック信者である僕に、教会的な振るまいとかいろいろ訊ねてきたし、松村さんとはいろいろ宗教談義に華を咲かせた。松村さんは法華経の信仰者だと御自分で言っておられたけれど、キリスト教のことをもの凄く研究しておられた。そして、この「沈黙」のシビアな宗教的テーマとも、とても真摯に向かい合っていたのが印象的であった。
 そうしたもろもろの思い出が、練習をする度に蘇ってくる。モキチが水責めに遭い、死への恐怖の中で「まいろうやなあ、まいろう、ハライソの寺えとまいろう」と歌い出し、合唱団がそれに声を合わせていく箇所は実に感動的だ。自分も死ぬ時にあんな風に死にたいと思う。子どものように神に絶対信頼できて死ねれば最高だ!死んでみたら神がいなかったとしても、別に構わないのだ。宗教とは、生きる者がよりしあわせに生きられるためにあるものなのだから。
 今回は、新国立劇場演劇部門の芸術監督である宮田慶子さんの演出。一度打ち合わせをしたが、いろいろアイデアをお持ちのようだ。彼女がこの作品とどのように対峙し、どのように料理するのか、今から楽しみで仕方がない。

 「さまよえるオランダ人」は、ワーグナーとしては珍しく「オペラ的な」合唱の聴き所満載の楽しい作品。合唱団員達も、歌っていて楽しそう。思い返してみると、この作品は合唱指揮者として随分いろんな本番を手がけた。ホルスト・シュタイン指揮NHK交響楽団での演奏会形式。小澤征爾指揮のヘネシー・オペラ。この時は合唱指揮者ではなく小澤さんのアシスタントだったけれどね。あとは佐渡裕指揮の愛知文化事業団の公演などだ。
 でも、僕が頭に描いている合唱の理想のサウンドは、ヨーロッパの二つの合唱団なのだ。ひとつは1990年に、二期会がフィンランドのサヴォンリンナ音楽祭に「蝶々夫人」と「春琴抄」の二つの作品を持って参加した時、音楽祭の目玉公演として演奏されたフィンランド人達による合唱団だ。これは、ドイツとも全然違う、ちょうどスエーデン放送合唱団のような澄み切った響きを持っていて、ゼンタのバラードのアカペラ女性合唱など、その美しさに我を忘れた。
 それともうひとつは、言わずもがな、バイロイト祝祭合唱団の男声合唱の勇壮な響きだ。このバイロイト祝祭合唱団のドイツ語の処理の仕方は、伝統的に特殊なものがあり、僕は現在でもそれを採用した方がよいかどうかいつも迷う。今回も、その伝統を踏まえながらも、あえてオリジナルの楽譜に忠実にやろうと決断したところが何カ所もある。ともあれ、ひとつの解釈の模範を知っているということは、自分にとって大きい財産だ。

 読響第九は、19日のサントリー・ホールから演奏会が始まる。その間に、23日には日本キリスト教団荻窪教会のクリスマス・オラトリオ抜粋演奏会があり、24日にはまたクリスマス・イヴがやって来る。僕は昼間のオペラ・シティ第九演奏会の後、立川カトリック教会にミサに行く。その後の家族のクリスマス・パーティーが何よりも楽しみ。

 26日の第九演奏会が今年は仕事納め。僕は27日早朝から、志保と一緒に白馬にスキーに行く!もう親友の角皆君に個人レッスンを頼んでいて、今年はいよいよコブに挑戦する。還暦までにモーグルをという目標は立派に生きているのだ。例のペンション・ウルルに2泊して、ラウンジでジャズを聴き、マスター自家製のスモーク・チーズを食べながら語らい、最後の晩は志保ともども角皆君の家に泊まって、30日はそのまま長野に出て高崎市の実家に帰る。今年、角皆君は美穂さんと結婚したので、新婚宅へお邪魔虫というわけです。
 情報によると、いよいよ山に雪が本格的に降りだしたようで、いろいろなスキー場がオープンし始めた。角皆君のスキー・スクールも17日にオープンしたようだ。実は、ここのところ足繁く水泳に通っているのは、スキーへの体力作りが目的なのだ。スキーをすると、音楽的認識力が間違いなく上がる。だから最高の体力及び精神力で臨みたいのだ。もう今から楽しみで眠れなくなるほどだ。ああ、白馬が僕を呼んでいる!

これでいいのか?日本人?
 文藝春秋の1月号を読んだ。その中にあった「オリンパス外国人元社長の告白」と「清武英利独占手記ナベツネ栄え、野球は枯れる」の二つの記事を読んで、ちょっとした鬱状態になった。さらに、野田総理が福島第一原発の収束宣言をしたと聞いて、ちょっと立ち直れないくらい落ち込んだ。

 太平洋戦争の反省がいろんなところで語られている。日本はどこで間違ったのか?どこから道を誤ったのか?まことしやかに議論されているが、僕は断言する。今、あの時と同じような状態になったら、日本はまた同じように誤り、同じように戦争に突入して、そして、同じような愚かな作戦を沢山行って無意味な犠牲者を無数に出し、同じように負ける。
 つまり、日本人はあの時と何も変わっていないし、何も変わろうとしない。そして同じように傲慢で、愚かで、嘘つきで、秘密主義で、ムラ社会で、お上に従順で、長いものに巻かれ続けるのである。

 このままでいきたいというなら、いってもいい。でも、今や世界はこれだけグローバル化し、日本は国際社会の真っ只中にいる。現実に、オリンパスのように、外国人に社長を任せたりしているし、市場を海外に大きく広げてもいる。日本の企業の株を世界中の人が持っているし、情報もまたたく間に全世界に広がってゆく。もはや鎖国は不可能だ。なのに、日本人の相変わらずのこの精神的鎖国はなんだ!

 僕は野球のことには詳しくはないけれど、清武氏には同情する。かつて村上春樹がイスラエルで演説したように、「壁にぶつかって破れる卵の殻と壁があったならば」僕は、村上氏と同じように常に卵の側に立つ人間だ。
 誰だってみすみす自分の築いてきた地位や立場を失ったりはしたくない。清武氏自身、ああいう行動をとったならば、失うものはあっても得るものはないであろうことは百も承知であっただろう。でも、そうせざるを得なかったということだ。
 さらに清武氏の記事の後に載っている複数の職員の匿名記事を読むと、清武氏の行動が、単なるチームワークを欠いた非常識な人物のアクションではなかったことが明確に読み取れる。では、この先どうなるのだろうか?双方が訴訟を起こしているみたいだが、結局のところ清武氏はツブされてしまうのだろうか?政界財界に様々なつながりを持つ渡邉恒雄(わたなべ つねお)氏を相手にしては、とうてい勝ち目はないわけか。たとえ清武氏の主張がどんなに正しくても・・・・。

 いや、僕が問題にしたいことは、どっちが正しいかではないのだ。そうではなくて、ナベツネのような誰も異議を唱えられない存在が生まれ得る日本という風土だ。日本にいるといろんなところで「言論の不自由」を感じる。組織の中では、上司にさからってはいけないし、会社にとってマイナスになるような言動は一切とってはいけない。たとえ、上があきらかに道を誤っていたとしても、それに対してノーと言おうとしたら、はっきりいってその組織から追放されるのを覚悟しなければならない。
 これは日本では当たり前のことかも知れないけれど、グローバルな目から見たら、全然当たり前ではないのだ。この日本の常識は世界の非常識なのだ。この常識が各部門で日本的チームワークの良さを生んでいるのも事実だけれど、限界や弊害を生んでいるのも事実なのだ。ここが変わらないから、太平洋戦争時から日本は何も変わっていないと僕が言うのだ。

 日本から一歩外へ出ると、全然違う常識に出くわす。たとえばイタリアを見てみると、ストライキをやるって決めたのに、
「自分は運転するからね」
とトラムやバスを走らせるのをやめない運転手がいるのだ。そこまで個人主義なのだ。
 また、いろんなところでマニュアルからはずれた行動が見られる。たとえばバールに行ってバスなどの10枚綴りの回数券(カルネ)を買おうとしたが、そこのバールでは扱っていなかった。でも、お兄さんは、
「ちょっと待って、僕のを譲ってあげる」
と言って、自分のカルネを安く売ってくれた。こうしたことが旅を印象深く、時には忘れ得ぬものにしてくれる。僕達は随所で人の暖かい心に触れて感動したものだ。

 でも、このようなマニュアルからはずれた勝手な行動は、日本の社会では非難されるのだ。だから日本では、どこのお店に行ってもまるで判で押したようなマニュアル通りの行動しか見られない。店員の人間性は、そのマニュアルという仮面の下に見事に隠され、まるで魂のないロボットのようであるが、客に対する態度は一貫して気持ちが悪いくらい慇懃である。一方、客は店員やウエイトレスに対してはどんな横柄な態度をしてもいい。
 この日本の常識も世界の非常識である。海外に出たら、まずお店に入ったら店員の目を見て「こんにちは」というところから始めなければならない。人間対人間の付き合いをするのである。当たり前である。人間と人間が向かい合うのである。人間として当たり前である。この当たり前のことが日本の社会では行われていないのである。

 マイケル・ウッドフォード氏はオリンパスの菊川会長に対して、
「私に対して怒鳴りつけるな、私はあんたのプードルじゃないんだ!」
と言ったと聞くが、菊川会長は恐らくプードルだと思っていたに違いないのである。だからきっとそれを言われて菊川氏はびっくりしたに違いない。今でもきっとプードルだと思い続けているに違いない。さらに、我が国における全ての菊川氏は、全てのウッドフォード氏をプードルだと思っているに違いないのである。
 要するに日本の会社では、人間対人間の付き合いが出来ていないのである。上司は部下を人間として扱っていないのである。人間の基本的人権というものは、この国においては全く確立されていないということである。

 僕は限りない無力感を持っている。こうして僕が訴えても、恐らく日本は何も変わらない。だってそうでしょう、みなさん。明日から上司に逆らいますか?逆らわないでしょう。会社が何かを隠蔽するとしたら、あなたも一緒になって隠蔽するしかないでしょう。そして、それが明るみに出て、会社が糾弾されたら、あなたたちはこう言うのでしょう。
「だって、私たちはそれに逆らうことなんて出来なかったのです。従うしかなかったんです」
そうです。そうやって太平洋戦争が起きたのです。

 さて、この国では、冷水を送り込む事を片時も怠ったならば、再び炉心が溶融していく切迫した状態がこの先何年も続くというのに、いけしゃあしゃあと収束宣言などというものが出来る国です。
 まあ、収束という言葉の定義にもよろうが、収束という言葉は終息と発音は同じだから、イメージによるトリックがミエミエなのだ。いいですか、福島第一原発は、また大地震や津波が来て、冷水を送り込むシステムに何らかの異常が起こったら、ただちにメルトダウンや水素爆発や、さらなる大量放射能の飛散などが起こり得る状態にあります。そうでなくても、今現在でもおびただしい汚染水を吐いているし、この先もずっと吐き続けるのです。その汚染水の処理をどうしていいか未だに分からないのです。太平洋にばらまくとか言っています。

 みんな、悟り給え!今の日本の政府は、我々国民を守ろうなんてこれっぽっちも考えていない。彼らは、この先原発に対しては、つける嘘はどんな嘘もつくであろう。それでも国民のみんなは、原発がこの国に沢山あった方がいいと言うのかい?その方が便利だというのかい?今が便利ならば、先の事はどうでもいいと言うのかい?
 それでいながら、子どもの給食の材料の産地は、福島から遠く離れた九州とかではないと許せないと言うのかい?自分のためには関東の野菜は決して買わないのかい?そんなエゴイストなのかね、みんなは。それが今の日本人だというのかい?そんな日本人に、神様が恵みの手を差しのべてくれると、本気で思っているのかい?

 一方で、こんなに優秀で、こんなにやさしくて、こんなに思いやりがあって、こんなに思慮深い国民って、世界の何処にもいないのに・・・・。



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