感動の親鸞~激動篇

三澤洋史 

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パブロ君、新国立劇場に来る
 1月16日月曜日。先日、音楽の友で対談したドレスデン州立歌劇場(ゼンパー歌劇場)合唱指揮者のパブロ・アッサンテ君が、新国立劇場に遊びに来た。劇場では「ラ・ボエーム」のオケ付き舞台稽古をやっていて、合唱のある第2幕と第3幕を見学した。その後、僕は彼を練習場のあるB2や事務局のある5Fに案内した。迷路のような劇場に彼は驚いていた。

 まず楽屋に案内する。
「歌手とか指揮者ってどんな人?」
「指揮者はねえ、ドイツ人だよ。若いけど、なかなか優秀だ」
「なんて名前?」
「コンスタンティン・トリンクスって言うんだ」
「・・・・・・」
「どうした?」
「マジかよ・・・・まさか、こんなところで・・・・・」
「え?知り合い?」
「知り合いなんてもんじゃない。僕がザールブリュッケン・ザールランド州立歌劇場にいた時に一緒だった。実はあいつとは同じ年なんだ」
「へええ?偶然だね。ところで、君、いくつなんだ?」
「36歳。だから、コンスタンティンも36歳だ」
ほう、タメだったか。
「じゃあ、挨拶に行こう!」
「いや、やめとく。出来ればなるべく逢いたくない」
「なんで?」
「理由は後で飲みながら話そう。早く客席にいこうぜ。見つからないように」
なんだい、避けるのか?

 ところが、廊下を歩いているところをコンスタンティン君の奥さんに見つかってしまった。奥さんは、今回ムゼッタ役で出演しているロシア人のアレクサンドラ・プチャンスキーだ。彼女は僕達の背後から大きな声で叫んだ。
「あらあ、パブロじゃない!どうしたの?なつかしいわね!」
パブロ君はビクッとして、
「いや、あの、その・・・・」
「ねえ、いつまで日本にいるの?主人も交えて一緒にご飯を食べに行きましょうね。絶対よ!すぐ主人に言うからね!」

 客席に一緒に座る。僕に向かって彼がぽつりと言う。
「君さあ、なんか今楽しんでない?」
「いやいや・・・・逢いたくないのに、奥さんに見つかってしまって気の毒だと思っているよ」
「嘘つけ!」
「本当だよ」
「顔が笑っているよ」
「だからさ、なんで逢いたくなかったの?」

 舞台稽古が終了した後の新宿の居酒屋で、いろいろわけを聞いた。別に、そんな深刻なものじゃない。コンスタンティン君は、ザールブリュッケンでは音楽監督代行という立場にあり、パブロ君は、小さい劇場なので、合唱指揮者の他にカペルマイスターとして指揮もしていたそうだ。
 その指揮のシフトを決めていたのがコンスタンティン君で、パブロ君に言わせると、コンスタンティン君がおいしい本番の指揮をみんな取ってしまって、パブロ君にはどうでもいい本番しかくれなかったと言うのだ。
「それは気の毒だったなあ。コンスタンティン君も性格悪いね」
と話を合わせておいたが、まあ、これはどっちが悪いとかいうことよりも、同級生で立場がパブロ君の方が下だったということからくる感情のもつれだね。コンスタンティン君だって、僕から見る限りとてもいい奴で、僕は大好きだし、決して性格的に問題があるとも思えないからね。
「でもさあ、いいじゃないか。今や君は押しも押されぬゼンパー歌劇場合唱指揮者だぜ。今となっては何もコンスタンティン君に引け目を感じることはないじゃないか」
「まあ、そうかも知れない。それより、君の劇場の合唱団はうまいね。音色が均一でうらやましい。うちなんか、ソプラノとアルトや、テナーとバスの音色が違いすぎて混じらないで苦労しているんだ」
「ありがとう。いつかドレスデンに行ったら、あるいはゼンパー歌劇場が来日したら、君の合唱も聴かせてくれる?」
「勿論!」

 奥さんのアレクサンドラに見つかったパブロ君は、結局次の晩にコンスタンティン君夫婦と一緒に夕飯を食べに行ったそうだ。
「とってもなつかしかったわ。それに昨夜は、この日本で一緒に楽しいひとときを過ごしたのよ。あたしたち昔ね、小さい劇場だったけど、力を合わせていつも一緒に働いていたのよ」
第3幕冒頭。舞台裏で女声合唱を従えてムゼッタが歌う場面があるが、そのスタンバイの時に、アレクサンドラが嬉しそうに僕に語ってくれた。

 ほらほら、避けることなかったじゃないか。これでよかったんだ。それにしても、なんだか可愛いね。パブロ君!

スキーと美と覚醒
 またまたスキーの話です。ごめんなさい!1月18日水曜日。新国立劇場は「ラ・ボエーム」のゲネプロと本番の間でお休み。夜に六本木男声合唱団倶楽部の練習を入れていたが、昼間は空いている。そこで我慢の出来ない僕は、ガーラ湯沢に日帰りスキーに出掛けた。


 2日前にスキー板を宅配便でスキー場に送り、帰りも宅配便を使って板と靴を自宅に送り返し、いつものリュックだけを持って何気なくロクダン練習場に行く。僕のスキー・ウエアーは地味な色で、そのままジャケットとして仕えるので、誰も分からない。でも練習中、ついバラしてしまった。
「この歳になるとなかなか人から何か教わるということはないのですが、最近はミラノでイタリア語の学校に行ったり、スキーのレッスンを受けたりと、自分が習うという立場に立つことが増えてきました。それでいろんな事に気がついたんですよ。
素人の問題はね、技術が足りないだけじゃないんです。そもそも関心のポイントが、プロとは違うのです。たとえば、スキーですけど、素人は急斜面を滑れるだけで得意になったりします。でもね、滑り方にもいろいろあってね、ブレーキばかりかける滑り方をすれば、恐くないし安全だけれど、それで急斜面を滑ってもそんなに偉くはないんです。
プロが考える事は全然違っていて、急斜面を滑ることよりも、どのようなフォームでどのような美しいターンを描くかという事の方が大事なんです。歌でもピアノでもそうです。みなさん難しい曲ほど頑張って取り組みますが、反対に、そんなに難しくないけど美しい曲をどのように音楽的に歌うかという事に対して、あまり関心がないのです。
でも音楽の一番面白いところはむしろその点にあって、その鍵を握っているのは“フレージング”というものです。これはスキーで言えばターン弧を仕上げるという感覚です。ごめんなさいね、スキーの話ばかりして。実は、さっきまでスキーしていたんです。あっ、バラしてしまった!」
一同、
「えーっ!」
と驚いている。
 副指揮者の初谷敬史(はつがい たかし)君が、
「先生、それからここへ来たんですかあ?元気ですねえ!」
とあきれ顔で言う。

 ガーラ湯沢は、雪質では白馬には遠く及ばないし、ゲレンデも大きいとはいえないが、なんといっても日帰りスキーが出来るのが魅力だ。僕の場合、大宮を7:51発のMAXたにがわ号に乗れば、ガーラ湯沢駅には8:50には到着し、9時過ぎから滑り始められる。帰りは16:18発に乗ってギリギリにロクダンに行こうと思ったが、やはり用心して乗車変更し、15:03発に乗った。それでも2時半近くまで滑れた。
 南エリアには上級者用の非圧雪地帯がある。昨年ハマりこんでにっちもさっちもいかなくなって、這々の体で逃げ出してきたところだ。今年は整備されて、きれいにコブが作られている。そこで意を決して乗り込んでみたぜ・・・・・うーん、やはりまだまだコブ初心者には難しいね。理屈では分かっても体がついていかない。それに、端から見ているとどうってことないように見えるのだが、きちんとしたコブは、そのトップに立ってみると、腹の部分が断崖絶壁に見えて恐いんだ。モーグル選手は、よくこんなところを一気に駆け下りるよ。もう信じられないね。
 コブを滑る時に使う集中力や筋力は整地の比ではない。一度滑り降りるとめちゃめちゃ疲れる。今日は休日ではなくて、この後仕事するので、ほどほどにしようと思って、数回滑り降りた後は、また整地に戻った。今度休日に来て、一日ここで特訓するんだ。


 一方、整地では、白馬で角皆君にレッスンを受けてから、僕は、より美しく滑ることを心がけるようになった。以前は、ターンの初めで、谷足の荷重を解いてから反対の足に重心を乗せるまでの間が短かった。特に急斜面になると、すぐにスキーを回してしまって、カカト荷重でスキーをズラし減速するものだから、安全だがターン弧のシュプールが美しくない。
 荷重を解いたニュートラルの瞬間は、スキーも体も真下を向いて直滑降のようになるので、スピードが出てしまうから恐かったというのもある。心のどこかでは、
「シュプールなんていいやんけ。楽しく滑れれば・・・・」
と思う自分がいた。
 それに対して角皆君は、
「三澤君!すぐにズラそうと思わないで、我慢してターンの後半でズラしを利かした方がいいよ。ターンにはね、レベルの高いターンと低いターンがあるんだ」
といつも言っていた。

 こういうことは教わらないとなかなか分からないものだ。それで今日も気をつけてきれいなターンを形成するよう努めた。すると、スキーが音楽的になってくるのを感じる。たかがターン、されどターン。スキーはターンに始まりターンに終わる。ターンというのは実に奥が深いものなのだ。
 まず、行き当たりばったりにターンをしない。必ずこれから描くターンの大きさや深さをイメージする。それからターン弧の中心を定めながらストックを突き、最大荷重からリズミックに抜重を行い、体を谷に落とすようにしてニュートラルに入る。このフワッする浮遊感がたまらない。
「抜重の時、30度以上角度を回したら駄目!」
と角皆君は言う。無理矢理スキーを回し込むのではなく、板のカーヴィングが自然に弧を描くように気をつける。スピードが出て恐いが、ギリギリまでズラすのを我慢する。そしてターン弧を美しく仕上げて、また次のターンをイメージする。

 と、ここまで書いた時、この原稿を書いているとある喫茶店の店内に、ボサノヴァの名曲「イパネマの娘」が突然流れ始めた。僕の大好きな曲で、何種類かの演奏は家にCDがあるが、この演奏は初めてだ。アストラット・ジルベルトに似ているアンニュイな歌唱。でも別人だ。歌に引き続いてテナー・サックスがアドリブを取り始める。おっ、なかなかイカしたソロだ! 
 僕の頭の中には、この曲のコード進行が完全に入っている。若い時からピアノ弾きのアルバイトをした時には必ず暗譜で弾いた曲だからね。Fmajor7から始まり、G7Gm7Gbmajor7と進んでいく。サックス奏者は、コードの構成音の間を縫うように新たなメロディーを即興で演奏し、最後のフレーズを見事に締めくくって歌手に渡していた。この締めくくり方にプロのセンスを感じた。
 スキーのターンもこれと全く同じだと思った。背後に流れるコード進行はゲレンデの状態。その中で、即興的に美しいメロディーを作り、起承転結を構築し、最後の仕上げを鮮やかに行うのだ。最後に大事になるのは、構築性なのだ。おおっ!なんてスキーと音楽って似ているのだろう!

 ひとつ目覚めたことがある。僕はスキーをすると頭が冴えるのだ。それと、驚くべき事に、耳も良くなっている。いつもは聞こえない音を認識できるのだ。昨年の冬に、白馬に行った後名古屋でロ短調ミサ曲の演奏会を指揮したが、Cum Sancto Spirituなどで生まれて初めて“全部の音を聴き分ける”という体験をした。譜面はすでに暗譜しているし、それまでにも一応全ての音を聴いているつもりではいた。でも、あの覚醒感と認識力は尋常ではなかった。脳が音を受け容れるキャパシティを広げたのだ。
 
 その理由をいろいろ考えていたが、多分こういう事だろうと思う。スキーは恐怖心との戦いだ。その恐怖心はスピードが作り出す。でも、速いだけなら、自動車に乗ったり新幹線に乗ったり、いくらでも速いものを僕達は体感しているけれど、自分の身ひとつでこれだけのスピードを体感するということは日常生活ではあり得ない。一歩間違えば自分の命にも関わってくるスピードだ。
 その生命への危機感が、眠っている動物的本能を目覚めさせ、いつもは働いていない脳のある部分を覚醒させるのではないだろうか。脳は、一方では、恐怖心を起こさせることによって、その危機を避けさせようと促すが、僕たちがその恐怖心から逃げないで、むしろそれと戦い続ける内に、脳は結果的に記憶力や認識力のキャパシティを広げるのではないか。

 ただその日は、その後六本木男声合唱団倶楽部に行ったが、スキーで得られた認識力はあまり役に立たなかったようだ。かえって、聞きたくない音ばかりが聞こえてきて困った(笑)。聞こえてきてしまうものを聞かないように努力するのも案外疲れるものだ。うーん、贅沢な悩み!

感動の親鸞~激動篇
 そのスキーに行くのに僕は小説を携えていった。もうスキーと言えば読書である。このふたつは僕の中で常に一体である。思えば2年前の話。まだスキー熱が始まったばかりの頃、休日の前の晩に、仕事が終わると国立の自宅ではなく群馬のお袋の所に帰り、そこから次の朝早く湯沢中里スキー場に鈍行列車で出掛けていたが、その際に読んでいたのが、当時発刊されたばかりの五木寛之著の小説「親鸞」(講談社)であった。
 そして今回、ガーラ湯沢に行くのに前の日に買って、新幹線の中で読み始めたのが、その小説の続編である「親鸞 激動篇」(講談社)である。すでに前作の「親鸞」上下巻が文庫本になっている事に時の流れを感じる。

 五木寛之という作家に若い時から注目していたことは以前述べた。今、このパソコンから見える僕の本棚には、「親鸞」上下巻と共に、神道系宗教者である鎌田東二との対話集「霊の発見」(平凡社)と、カトリック司教である森一弘との対話集「神の発見」が並んでいる。
 でも今回の激動篇を読んでいると、あらためて、ここまで宗教的題材にのめり込んでいるのかと、五木氏の情熱に驚く。特に、親鸞という人物に寄せる想いの強さや、五木氏自身の人間存在を深く追求しようとする姿勢に強く打たれる。
 とはいえ、小説家としての五木寛之は健在そのもので、普通の小説として読んでも実に面白い。まさにエンターテイメントそのものと言ってもいい。様々なキャラクターを持った人物が登場し、様々な事件が起こり、危機一髪というところで思わぬ助けが入るなど、おきまりの俗っぽさに満ちている。この題材で、こんなに楽しくていいのだろうかと不安になるほどだ。恐らく、それほどに五木氏は、この小説を一人でも多くの人に読んでもらいたいに違いない。

 親鸞は悩む。悩む。彼の周りには、彼よりも強い法力を持つ者、神のお告げを預かる能力を持つ者などが集まり、人々の現世利益の望みに見事に答えているのを、彼は横目で見ている。また、人々は勝手に親鸞を買いかぶり、様々な問題を抱えて親鸞のものへやって来る。それに対して、親鸞は、
「いや、わたしの念仏には、病気を治したり、失せ者を探したり、雨乞いをするなどという力はないのだ」
と必死で否定するが、その本人も、
「では、何故人は念仏を唱えるのか?極楽浄土へ行くためというが、生きている者達の悩みや苦しみは、そのまま放っていていいのか?」
と、現実の生活の中での念仏の無力さを痛感しているのだ。

 念仏と聞くと、誰しも思う。南無阿弥陀仏さえ唱えれば極楽浄土に行けるなんて、釈迦の仏教をそんな単純なものにねじ曲げていいのかい?・・・・・と。でも、僕達が心配する以前に、それを説いている親鸞自身が、誰よりも先にその矛盾を痛感しているのだ。この激動篇では、その疑問がこれでもかというほど投げかけられる。それは、あたかも五木氏自身が、この小説の物語を進めながら、答えを必死になって探しているようにも感じられる。

 そうした疑問には、恐らく特効薬のような正解というものはないであろう。でも、下巻の中で感動して涙が出そうになった箇所がある。それは、常陸(ひたち)の国の道場にみんなが集まった時の話だ。人々は口々に親鸞にたずねる。念仏をすると痛い足は治るかとか、亭主の大酒と浮気は直るかとか、商売繁盛するのかとか・・・・。それに対して親鸞が否定すると、中年の太った女が言う。
「念仏は一体、なんのタシになんだっぺな」
「そだ、そだ」
 親鸞は静かに、自分が九歳の時に体験した話をし始める。寺のえらい坊さまから比叡山の横川(よかわ)の宿坊まで荷物をとどける役目をおおせつかった。横川といえば、昼なお暗き深山幽谷の地である比叡山の中でも最も奥深い修行地である。若き親鸞が山を登る内に夜になった。あたりは闇に閉ざされ、道に迷い、恐怖でもはや一歩も歩めぬ状態で途方に暮れた。と、その時、雲間から月が現れ、あたりを照らし始めた。親鸞はその光によって、自分が今どこにいるのかはっきり分かり、さらに光によって勇気を与えられて、無事目的地まで辿り着く事が出来たという。
 親鸞は一同に向かって言う。
「月の光があたりを照らしたからといって、そこまでの道のりが近くなったわけではない。荷の重さもかわらない。歩く道も近くはならない。だが、坐りこんでいたわたしはたちあがり、歩きだすことができた」
念仏とは、その月の光のようなものだと、親鸞は・・・・いや、五木寛之氏は声を上げていいたいのだろう。うーん、こう書いているだけで、僕自身ウルウルなってきてしまうよ。

 今、偶然にも僕の周りでは、遠藤周作原作のオペラ「沈黙」の立ち稽古や、バッハ作曲「マタイ受難曲」の練習が進んでいる。この二つの問題意識が、見事に親鸞の悩みとカブッてくるのだ。遠藤周作が、彼の文学の中でキリスト教を日本人に合うように変えたように、親鸞も釈迦仏教を日本人向けに作り変えたといってもいいだろう。そのキーワードは、どちらも「弱き者の救い」だ。
 「マタイ受難曲」もそうだ。救世主を葬り去るという、人類史最大の愚行を行ってしまった者達に対して、神は一体どのような視線を送っているのであろうか?宗教とは、強き者達のものなのか?弱き者は、神にすら門前払いされ、滅び行くしかないのか?どこまでも慈悲深い神と言われているのに、神はユダを拒絶するのか?

 今僕は、答えの出ない問題を日々考え続けている。でも、親鸞の月光の話は、僕の心の中に一条の光を投げかけたようだ。底知れぬ深い谷底のような僕達の人生だが、その上空にはまぎれもなく光がある。その光に到達することは決して出来ないが、少なくともその光を見つめて、それを頼りに歩き続けることは出来るのだ。僕達に出来ることは、それだけだ。

でも、それでいいではないか。



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