コブこそ我が人生
僕の直感は間違っていなかった。だいたい僕はいつもそうである。ピアノを習う前もそう。これをお読みになっているみなさんには信じられないかも知れないが、僕は高校一年生の8月の終わりに生涯最初のピアノのレッスンを受けるまで、ドレミファソで5本の指を使ってしまった後どのようにしてラシドを弾くのかさえ知らなかった。にもかかわらず、独学で中学一年生から始めたギターのコードネームをピアノの鍵盤に置き換えて、ジャズバンドのアレンジをやったりして、中学時代から音楽を構造的に捉えることは出来ていたのだ。
なぜだか知らないけれど、いつもイメージからやってくる。和声は分かっても、バイエルすら弾けなかったのに、これからレッスンを始めて音大受験をめざすという時に、そう遠くない将来、両手を使って自由にピアノが弾けるようになるのが分かっていた。そういう自分がすでにイメージ出来ていたのである。そして実際にその通りになった。
勿論、その道は平坦ではなかった。大人になってから無理矢理体を従わせ、ふさわしい筋肉を植え付けながらの作業は、幼少の頃から英才教育をほどこされた人からは想像できない苦労を伴う。何度も腱鞘炎(けんしょうえん)になりかけながら、僕はピアノを練習して練習して練習しまくった。でもイメージが目的地を僕に明確に示し続けてくれたからこそ、それは達成されたのだと信じている。
人は、自分の頭の中で出来ると思ったことは必ず達成出来る。イメージを明確に持てるならば、いつかは必ずそのイメージ通りになる。二年前、上村愛子のモーグルを見ていた時、突然イメージがやってきた。自分はあれが出来るようになるというイメージだった。「モーグルをやる!還暦までにモーグルが出来るようになる!」
その時、誰がその言葉を本気で信じただろうか。僕自身不思議に思った。だって、何の根拠もなかったからだ。でも、それは、かつての高校一年生のあの時を思い出させた。
親友のスキーヤー角皆優人(つのかい まさひと)君との久々の再開と、クラシック・ジャーナルのカラヤンの対談の時に彼が言った謎の「ターン弧」という言葉など、考えて見るとその前から共時性の予兆はあった。でも、僕の背中を押してくれたのは、なんといってもイメージだった。
それで僕はひとりでスキー場に通い始めた。とはいえ、その頃の僕は、モーグルはおろか、普通の整地斜面さえ転倒の連続で、笑ってしまうくらい下手であった。それなのにどうしてイメージだけあるのか?自分にも分からなかった。
2月14日火曜日。東京は雨。新国立劇場では「沈黙」ゲネプロ(総練習)と初日の間のオフ日。ガーラ湯沢はくもりではあったが、雪は降っていないので視界は良好。僕は、まる一日コブ斜面で格闘した。もう、本当に格闘だった。あれれっ?僕ってどうしてこんなにムキになっているの?という感じ。何度も何度も激しく転び、何度も何度も起き上がり、休んでいるのはリフトに乗っている時だけ。気が付いてみると、午前中約3時間、午後約2時間、お昼をはさんでノンストップで練習しまくった。
今だからこっそり言えるが、よく骨折も捻挫もしないで無事帰れたものである。でも、もう大丈夫。最悪の時は過ぎて、ある程度スピードを出しても、下まで転ばずに行けるまでになった。自分で言うのもなんだが、普通の人が1週間くらいかかるところを1日でやってしまった感じ。
コブ滑走は恐怖との戦いである。はっきりいってコブは恐い。「誰でも出来る楽々コブ斜面攻略」なんていう本やDVDが出ているが全部嘘である。“コブ”と“楽々”という単語は全く正反対の言葉である。でも恐怖から出る行動に何も良いことはない。恐怖心を克服し、上体を起こして常に谷を「上から目線」で見つめること。ここに自己鍛錬がある。
気が付いてみると宙を飛んでいる。コブが僕をはじいて意図していないうちにジャンプしているのだ。これは、かなりヤバイ状態なのだが、僕って呑気なのかな・・・・あっ、空飛んでいる!気持ちいい!と思っている自分がいた。これも不思議。このままストレートのエアーだったら習ってもいいかなと思い始める自分がいた。ただ、飛んでしまった後は、いつもドシン、バタン、ズボッなんだけど・・・・。
コブでは、いつも気持ちを前向きにいった方がうまくいく。斜滑降のように横に逃げたいが、そっちもデコボコなので、むしろなるべく細かくターンして真下に降りていった方が安定するのだ。要するに不安定+不安定=安定というわけだな。だけど、ショート・ターンを繰り返すというのは腹筋とかメッチャ疲れるんだな・・・・。それに、足なんかもうパンパン!
その日は、そのまま帰らずに、いつも気になっていた「ガーラの湯」へ行ってみた。そこにはプールもあるというので、水着持参で来た。スキーって結局下半身の運動じゃないですか。だから、上半身の筋肉は余っているのだ。15分くらい楽にクロールと平泳ぎを交互に泳いだら、胸や腕の筋肉が喜んでいるのが感じられた。それからお風呂場に行く。湯船につかりながら、ふくらはぎや太股を揉む。おおっ、気持ちいい!筋肉君達、ご苦労様でした!
困った!僕はついにコブ滑走に目覚めてしまった!コブ滑走は、指揮をするのと同じくらい面白い。これは僕には画期的なことなのだ。これまで、人生でいろいろ楽しいものはあったけれど、僕の人生において、オーケストラやオペラ、あるいは「マタイ受難曲」のような合唱作品を指揮することよりも楽しいものはなかった。
逆に言うと、それだけ指揮をすることが難しいということでもある。確実なバトン・テクニックがないと話にならないし、そのベースの上に判断力、決断力が要求される。攻撃性と共に繊細性もないといけないし、その上、人を動かしていくオーラのようなものが必要だ。こんな風に大変で、こんな風にやり甲斐のあるものって、人生にそう沢山あるものではない。
スキーだって、整地を滑るだけなら、そんなに複雑でもない。楽しいには楽しいが、僕にとっては指揮のように「人生を賭ける」ほどのものではない。ところが生まれて初めて、指揮するのと同じくらい楽しい行為にお目にかかった。それがコブ滑走である。そして僕の頭の中ではイメージがますます鮮明になっている。僕は、もっと確実にもっと速くコブ斜面を滑り降りられるようになる!
よかった、その楽しみに目覚めたのが今で・・・・もっと若かったら、それこそ音楽家をやめて、そっちの方に命を賭けてしまったかも知れない。
新国オーディションと歌唱テクニック
コブ斜面と格闘した次の日、2月15日水曜日は、松村禎三作曲歌劇「沈黙」初日。その午後は新国立劇場合唱団の次期新入団員募集のオーディションだった。次の16日木曜日も同じように、昼オーディションで夜「沈黙」というハード・スケジュールだった。オーディションは、聴いているだけだから楽と思う人がいるかも知れないが、とんでもない!それぞれの受験者を公平に評価するのは、もの凄く神経の集中を必要とし、疲れるのである。
オーディションを聴き終わって毎年感じることは同じ。我が国の発声法のレベルの低さである。そもそも歌をテクニックで歌うということを分かっていない人が多すぎる。演歌やポップスならば、「歌は心で」というだけで済むかも知れない。だが、クラシック音楽においては、「心で」の前に、声楽もヴァイオリンやフルートなどと同じような楽器なのであり、バレリーナがバレーを踊るように、あるいはフィギュア・スケートのように“技”なのである。そして、技であるからこそ、コンクールやオーディションで点数をつけて評価が出来るのである。
特に問題なのはソプラノである。acutoアクートと呼ばれる、高音域のテクニックをきちんと持っている人は、全受験者の中でも数人しかいない。ということは、早い話、多くて数人しか受からないことを示している。僕の場合、acutoを持っていない人はソプラノとしては論外だからである。高音域が安定して出ないソプラノは、そもそもソプラノとしては要らないのである。
加えて、合唱では、ソプラノといえどもいつも高音だけ出しているわけではない。むしろ中音域は高音域よりも頻繁に求められるので、acutoの確実な人の中から、次は中音域の適切な声質と安定度を有している人が残っていく。
そしてさらに、中音域から高音域へと移行する際のチェンジの区域は、誰しもが音色のギャップが生まれてしまったり音程が不安定になってしまうので、そこをどうクリアするのかが、最後の決め手となる。
この3つのポイントは、girare(回す)というイタリア語のひとことに集約される。この言葉は、高音域になるにつれて?の字を下から書くように「息を回す」意識から来ている。つまりは音域による音色の統一と、それぞれの音域での安定度である。これは当然、ソプラノだけでなく、全ての声部に当てはまることだ。
もうひとつの基準は、appoggiareと呼ばれる。つまりは支えである。分かり易く言うと、肺から出た息が、どのようにして淀みなく流れて、声帯という筋肉の膜を通過し、喉から口蓋にかけてどのような共鳴空間を形作るか?それによって、声帯を通して生まれた“声”と呼ばれる音が、どのようにあたりの空間に響き渡るか?といった、一連の発声における操作である。
特にgirareと対比される概念としてのappoggiareでは、それが最終的にフレージング処理に対する評価までつながる。フレーズの最後まで、安定した息の供給が行われるかどうかという事が争点となる。
まあ、早い話、ひとつのメロディーを歌う時に、様々な音域で音色のばらつきがなく、メロディーの最初から最後まで安定して歌えればいいわけである。これがベルカントにおける純粋技術論である。この価値基準に沿って、僕だったら、かなり細かく点数をつけることが出来る。
それは、国際コンクールのような最高のレベルの評価基準でも全く同じである。そのレベルになると、レベルの高さを判断する決め手は、わずかな音色の差だ。支えの確実さが音色の差となって現れてくるのである。ちょうど、ワインやウイスキーのクォリティを評価する人達が、舌に残るわずかな味の違いで一流と二流とを選り分けるように、分かる人には分かるのである。
ところが、どうも受験する方が、こうした僕達審査員の価値基準を全く考えていないのではないかと思われてならない。みんな、持ち声の美しさのみで勝負していて、実際の歌唱においては情熱や勢いだけで乗りきろうとしている。中音域までは自分の持ち声でなんとかいけるのだが、判を押したようにチェンジのあたりで躓(つまず)き、そこから上は喉が開いてしまって響きが集まらなくなってしまったり、それを無理矢理押したりして平気で歌っている。とてもプロの歌とは思えない。
これは受験者だけのせいではないなあ。その人達を教える先生の問題が大きい。つまり、その辺のテクニックを何も教えられていないのである。何を教えているんだ!日本の声楽の先生達よ!
それでも、その中に混じって、きちんと発声法を理解し実践している人を見ると嬉しくなる。さらにフレージングなどがしっかりしていて、音楽的説得力を持ち、テキストの発音や表現が適切だったりしたら、もうそれだけでその人に恋してしまうくらいのシンパシーを感じる。玉石混淆の世の中にあって、よくここまで自分の声を磨いてきましたねと、祝福を送りたくなってくる。
みなさん!新国立劇場合唱団員になりたかったら、まずテクニックを磨いて下さい。ちなみに断言しますが、現在の契約団員や登録団員に歌唱のテクニックのない人はひとりもいません。間違って入ってしまった人もいません。僕の目は節穴ではありません。テクニックさえあれば、そこから先は、適切な合唱の響きや適切な音楽に仕上げさせていただきます。
独断と偏見に満ちた僕の芥川賞受賞作品評価
僕も人間であるから声質や歌い方の個人的好みというものはある。僕はどちらかというと、豊かで強い声を持っているけれど音楽的説得力の薄い人よりも、声は軽くて小さくてもきちんと音楽を聴かせてくれる人を好む。大きな声を持つ人は、それだけでひとつの資産を持っていると言えるのかも知れないが、リスクも大きい。大器だと言われながら完成されないで終わってしまう歌手のなんと多い事か。それよりか、もともと軽い声の人の方がフットワークが軽いので、テクニックも仕上がりやすい。
僕が審査する場合、天性の声質や声量はほとんど考慮に入れない。テクニックがしっかりあったら、体が自然に鳴ってくるので、その結果、声量も出てくるし美しい声も出てくるのである。でも、気をつけないと、即戦力を求めるあまり、仕上がりやすい軽い声の人ばかり集まってしまうということになってしまう。いつも考える事は、「常に客観的にならねばならぬ」ということである。
自分の専門分野の場合、かえって個人的好みをよりも客観的な価値基準を優先しなければならない場合が多い。自分の好きな声だけ集めて、自分の好きなように合唱を作り上げたっていいのかも知れないが、出来上がったものが客観的評価を得られなかったら、結局は自分に返ってきてしまい、自己満足の域に留まってしまう。また、自分の勝手な好みによって、受からせたり落としたりして、受験者の将来を左右してはいけないという配慮も働く。
ところが、音楽以外の分野になると、自分の好みで判断し、嫌いなものは嫌いと言い放していられるから、実にお気楽である。新進作家の登竜門である芥川賞受賞作品への評価などもそうである。
今年の芥川賞受賞作が決まった。二人の受賞者の内、田中慎弥(たなか しんや)氏は、いろいろ問題発言をして物議を醸し出しているが、僕はその点に関しては全く無関心である。音楽家にも変わった奴はいっぱいいるから。
でも、実際に受賞作品を読んで、僕は文学賞の審査員になどならなくて本当に良かったと思う。何故なら、自分の好きでない文学を我慢して読んで冷静に評価などしたくはないのだ。音楽だと我慢出来るんだけどね。何が違うのかなあ。それだけ音楽が好きってことか。
さて、田中慎弥氏の「共食い」は、はっきり言って僕にはつまらなかった。文章テクニックうんぬんは、この際僕にとってはどうでもいいのだが、そのテクニックが反対に鼻について困る。多分、田中氏には文章を作る才能はあるだろうし、これだけドロドロした内容をこれだけすっきり書き上げるのは稀有なことだろうとは思う。でも文章における才能というものが、たとえば次のような文章に表現されているとしたら、その才能って何なのだろうと思ってしまう。
時々見かける大きな猫が、虎毛の背を波打たせて声も足音も立てずに店の中に入ってき、仁子さんのいる座敷へ上がり、裏口へ歩いてゆく。あまりにも大きなうしろ姿だったので。魚屋の方が猫の体の中を通り抜けていった感じがした。家一軒が通るなら、川底のごみや川辺に滞っている時間も、猫の体を楽に通り抜けてゆきそうだった。単なる技巧である。無意味な技巧である。猫の後ろ姿が大きいからって、魚屋の方が猫の体を通り抜けていったという表現に、僕は全くリアリティを感じることが出来ないし、そこから自分なりのイメージを膨らますことも出来ない。猫ののらりとした雰囲気や、あたりの間延びした空間を表現したかったのだろうと想像がつくが・・・・。