浮遊感!
目の前は真っ白。空を見上げても真っ白。足元も真っ白。まるで空を飛んでいるよう。なにも見えず、どこに向かっているのかも分からず、4次元空間に迷い込んだかと錯覚する。ここまで八方純白の空間に包まれると、かえってその閉塞感が胎児のような安心感を導き出す。
2月21日火曜日の午後。ガーラ湯沢南エリアでコブと格闘する僕を、濃い霧が包み始めた。それはみるみる内に広がって、あたり一面を覆う。僕のウエアーには、雪ではなく小さな氷のツブがバラバラと降り注ぐ。視界は極端に悪くなって、もう危なくてコブどころではなくなる。滑るのをやめてセンターに帰って珈琲でも飲もうかと思ったけれど、とりあえず霧が通り過ぎるまで、ゆっくりと整地を滑りながら待とうと決心した。
ところがその整地も視界が悪くて何も見えない。平日の南エリアは、もともとほとんど他のスキーヤー達がいないので、人にぶつかる心配はあまりないが、結構傾斜がきつい整地であるイライザをあてずっぽうで滑るのは恐い。今どこにいるのか、果たして自分が降りているのか登っているのか、あるいはそもそも滑っているのかさえ分からなくなる。でも、突然自分の前に、ここから先には行ってはいけないという赤いポールや柵がニョキッと現れて驚く。おおっ!結構スピードが出ていたんだね。
この、恐ろしさと裏腹に目眩(めまい)のするような陶酔感!閉塞感と究極的な安らぎ!そしてはてしない浮遊感!幻想的なひととき!これは体験した人にしか分からないだろうなあ。
MDR太陽光発電所堂々オープン
曇りの日は憂鬱だ。雨の日は悲しくて涙が出そうになる。僕はいつも太陽を求めている。もっと光を!O Sole Mio!
何故なら、雨の日は発電量が少ないからだ。
そうなのだ。いよいよMDR太陽光発電所がオープンしたのだ。家にソーラー・パネルを設置したらその日から発電というわけにはいかなくて、検査やら確認やらで一ヶ月近くかかるんだね。で、やっとオープンしたわけだ。でも開店早々曇りや雨の日ばかりで、カラッと晴れた日が少ない。少しでも太陽が出ると発電量が飛躍的に上がって、3分の2くらい余って売電できるのだが、雨の日は残念ながら消費量の方が多くなってしまう。
家の中に設置されたメーターを見ているのは楽しい。今どのくらい発電していて、それに対して家の中でどのくらい電力消費しているのかが一目瞭然に分かるのだ。そうするとね、どの電気機器がどのくらい電力を消費するのかが分かって節電へのモチベーションがめちゃめちゃ上がる。今や我が家は節電ブーム。
冷蔵庫を開けた後は、自動的にサーモスタットが働いて冷却装置が動き出すだろう。そうするとグーンと消費量が上がる。だから、なるべく空ける時間を短くしようとする。案外消費電力が高いのは、トイレのウォッシュレット。僕はあれが大好きで、ウォッシュレットが暖かくて気持ちいいので、用もないのに一日に何度もトイレにこもるのだが、お湯を電気で瞬間的に温めるのにかなり電力が要るのですなあ。
またドライヤーや電気掃除機など、温めるものやモーターで回すものは、なんといっても電力消費量が大きい。でも、あまり神経質になり過ぎると、何をするにも落ち着かなくなってしまうんだよ。
早く春になって、太陽が燦々と降り注ぐ日々が訪れないかな。そうしたら発電三昧となり、周り中に電気を売って歩くのだ。
「へい、らっしゃい!うちの電気は他の所とクォリティが違いまっさあ!甘くておいしいよ。ほれ、買った買った!」
ってな感じでね。
音楽の友に載ってます
音楽の友3月号に、僕とドレスデン・ゼンパー歌劇場合唱指揮者パブロ・アッサンテ氏との対談の記事が載った。以前この欄でも書いたが、2時間以上にわたる膨大な対談から、ほんの一部分を抜き出したものだが、記事になった部分については、普段なかなか聞けない興味深い記事ではないかと思う。
詳しくは、書店でお求め下さい・・・・なんて、音楽之友社の回し者のようなことを言いますが、本当のことを言うと、見開き2ページなので、立ち読みで充分・・・・買うほどではないかも知れない(笑)。
先週のスケジュール
松村禎三作曲「沈黙」の公演が終わって、数日間気が抜けたようになっていたが、新国立劇場では、もう次の日に「さまよえるオランダ人」と「オテロ」の音楽稽古が始まって、休む間もない。先週のスケジュールをざっと書き出すと、
2月 | |
20日(月) | 12:00-12:15 新人オーディション(追加オーディション) |
14:00-17:00 「さまよえるオランダ人」合唱音楽練習 | |
18:00-21:00 「オテロ」合唱音楽練習 | |
21日(火) | オフ日 |
22日(水) | 14:00-17:00 「さまよえるオランダ人」合唱音楽練習 |
18:00-21:00 「オテロ」合唱音楽練習 | |
23日(木) | 14:00-21:00 「さまよえるオランダ人」立ち稽古 |
24日(金) | 10:00-11:00 イタリア語レッスン |
14:00-21:00 「さまよえるオランダ人」立ち稽古 | |
25日(土) | 11:00-17:00 新国立劇場合唱団員の次期契約継続のための試聴会 |
26日(日) | 11:00-18:30 試聴会及び審査会 |
悲しいけど、好きになってはいけない相手なのです
最初に書いたように、2月21日火曜日のオフ日も、またガーラ湯沢に出掛けてコブ斜面に行った。でも最初は全然調子が出なかった。コブが一週間の間に切り立ってかなり厳しい状態になっていたというのもあるけれど、勿論それだけではない。
2時間くらい滑ったところで中断。一度中央エリアのセンターであるチアーズに戻って、ポカリスエットを飲みながら考えた。何故、うまくいかないんだろう?
ひとつ分かったことがある。前回の僕は、何も失うところのない捨て身の状態だったので、何度転倒してもいっこうに構わなかった。ところが最後の方でだんだんコツが分かってきた僕は、転倒しないでバランスを取りながら滑り降りられるようになってきた。それで、この一週間の間に、僕の心の中では知らず知らずの内にプライドが育ってきていたのだ。
「もう僕はコブを滑れるんだ」
と勘違いしている自分がいた。それで、今週は最初から「転びたくない」自分になっていたのである。転んだりすると心が折れそうなのである。
そうなると、体が守りに入る。それで思い切ってコブに向かっていく意気込みに欠けていたのである。特に斜度が高いところでは、斜滑降で降りていきながら、軟弱にも気に入ったコブを探している自分がいた。でも、それではもう進歩は望めないのだ。やっぱりあれじゃないですか。モーグルみたいに真っ直ぐ下に降りていきたいじゃないですか。
「失敗したのではない。こうやったらうまくいかないというケースを一万回試したのである」
と言ったのは、かの発明王エジソンだったと思う。
失敗をするから、失敗をしない方法がひとつひとつ学べるのである。なにがいけなかったか考えるのである。思い切ってぶつかっていかなければ、自分の欠点も浮き彫りにならないし、欠点をあぶり出さなければ自分の枠(わく)は決して超えられないのである。一万回のうまくいかないケースを試す勇気を僕は失ってしまっていた。ここに僕の弱さが隠れていた。プライドという弱さが・・・・。
そこで僕はプライドを棄てようと決心して再びコブ斜面に向かった。もう逃げるのはやめた。転んだら心が折れるなんて思う軟弱な自分は葬り去るべきだ。むしろ喜んで転ぼうと思った。そして、どうせ転ぶなら、決して山側を向いて転ぶまい、あくまで谷を向いて前向きに転ぼうと心に決めた。そうしたら、逆に転ばないんだよね。道が開けてきた。
いろいろが分かってきた。まず僕は、コブと戦いすぎていた。というか、先制攻撃をかけすぎていた。コブの頂点でターンをしなければいけないのに、あせりがあるんだよね。そのちょっと前でターンをしてしまう。理由はないわけではない。滑っている側から見ると、頂点が手前に感じられるのである。ストックを突くのも、自分から見てコブを越えたと思ったくらいが頂点なのである。スキーのトップが落ち始めるくらいからターンを始めても全然問題ないのである。
休憩後、リラックスしたあまり、一度タイミングが遅れてしまったと思ったが、むしろそっちの方が正しかったことに気が付いた。だってなにもかも自然にうまくいくんだもの。物事ってみんなそうなんだけど、適切な位置になると、こちらから攻撃を仕掛けなくても、自然にコブが僕を回してくれるのである。また、高低による衝撃を和らげる「吸収動作」も、自分からしようと思わなくても、乗り上げたコブに体を逆らわずに合わせていけば、自然に出来るのである。要するに、こちらが無理矢理勝とうと思わなくても、相手が自分に道を譲ってくれるのである。これが、心にプライドやあせりがある内は、見えなくなっているのである。
スキーは人生に似ている。というか、僕の生き方や弱さや欠点が、全て僕の滑り方に現れる。コブに向かい合っている自分は、人生に向かい合っている。斜面に対する恐怖心は、人に対する恐怖心であり、転びたくないから守りに入っている自分は、無益なプライドから過剰防衛に入っている自分であり、コブの手前で無理矢理ターンしようとしている自分は、自分の意図に無理矢理人を従わせようとしている強引な自分なのである。
でも、自分が恐怖心を克服すれば、人に対して攻撃的になったりきつく当たったりする必要もなくなる。そうすると不思議な事に人は自然についてくるし、僕のために道を開けてくれるのである。うまくいった時は、あたかもそのライン取りが決まっていたかのように、スイスイいく。そんな時は、自分がかがもうと思わなくても自然にコブの起伏に従って吸収動作が行われ、ショート・ターンをしている時にたまたまコブがあったかのように、自然にターンとその後のズラし動作などが行われるのだ。そして恐怖心もなくなるのである。
ただね、音楽もそうだけれど、いつもそううまくいくわけではない。やはり、姿勢、重心移動、バランス操作などの、基本的実力をつけておく必要がある。基本的実力さえあれば、様々なケースに対応出来るキャパシティを持つことが出来るし、なにか起こっても、不安や恐怖心にさらされることはない。
では、その基本的実力はどうつけるのか?それは、どうどう巡りになるけれど、ひたすら練習でつけるしかない。まあ、早い話、ピアノがうまくなりたかったら、つべこべ言わずに毎日何時間も練習するしかないのだ。ピアノに触っている時間を長くして、ピアノに親しむ時間を確保するしかないのだ。ピアノを弾くという生活を日常に取り込むしかないのだ。だから、スキーがうまくなりたかったら、本当は毎日毎日ピアノのように何時間も滑るしかないのである。雪に親しんで、スキー板に親しむのである。そうすればいやでもうまくなるのである。当たり前のことである。
僕はね、ピアノでも声楽でも作曲でも語学でも何でも、何かをマスターする時はいつもそうやってきたんだ。僕の唯一の長所は集中力なのだ。この集中力はハンパじゃないのだ。僕は、夢中になったらいくらでも練習できるし、体なんか壊れたっていい・・・・というか、体はいつも僕の意志の後から追いついてくるのだ。筋肉だって後からだんだんついてくるのだ。そういう行動原理が僕のDNAの中に含まれているのだ。普通の人が、
「このへんでやめておこう」
と加減するようなことは僕の中ではないのだ。もう、どこまでもやっちゃうのである。
でも悲しい。音楽ではそれが出来ても、スキーにおいては、今の僕の環境がそれを許さない。本当は、ここまできたら、全てを忘れて雪山にこもってひと冬コブと向き合っていたい。そうすれば上手になるだろうね。でも、そんなことをして里に帰ったら、新国立劇場に僕のデスクは確実になくなっているだろう。
スカラ座に研修に行くということなら、僕を3ヶ月間喜んで送り出してくれた劇場も、同じように自分にとっては必要なんだといくら力説しても、雪山でスキーをするために3ヶ月間送り出してはくれないだろう(当たり前である)。
カラヤンはいいな。スキーをしたいがために、スイスのサン・モーリッツに別荘を持ち、毎日泳ぎたいために、ベルリンの定宿を、彼のためにプールを開放してくれるケンピンスキー・ホテルに変えた。要するに、あそこまでビッグになれば、自分の思い通りに環境を変えられるというわけだ。
あーあ、そんな実現不可能なことを夢見ても仕方がないなあ。それより、あと一回、春が来る前にスキー場に行きたいんだけど、これからは休日がないなあ。もう無理かなあ。コブへの情熱に火をつけたいんだけどつけられない。まるで、好きになってはいけない人をあきらめる心境。相思相愛を確認したのに、まだ何も始まっていないのに、想いを自分の中に閉じ込めて密かに相手から立ち去る心境。
まさに不完全燃焼の今日この頃です。