誕生日の遺言

三澤洋史 

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今年の3月3日
 3月3日土曜日。快晴。MDR太陽光発電所には春の太陽が燦々と降り注ぎ、朝8時半の時点で900Wに達した。その後雲がかかったりして増減するも、正午あたりでは1.7KWくらい発電していて嬉しくなった。だが、僕が家を離れて新国立劇場に向かい始める午後から雲が出始め、夜は小雨さえちらついたから、恐らくその後の発電は思わしくなかったに違いない。

 新国立劇場では「さまよえるオランダ人」のピアノ付き舞台稽古が進んでいる。今日は衣装付きで通し稽古。明日からオーケストラ付きの舞台稽古になる。演出家マティアス・フォン・シュテークマンにとっては、今日が実際に腕をふるうことの出来る最後の稽古となる。何故ならBOすなわちBühnenorchesterprobeと呼ばれるオケ付き舞台稽古になると、イニシアティブを持つのは指揮者になって、演出家といえども勝手に練習を止めたり歌手に指示を出すことは出来なくなるからだ。ヨーロッパの歌劇場におけるこうした役割分担は合理的で徹底している。

 子供の頃からバイロイト音楽祭の練習や本番を見て育ったマティアスの劇場感覚は素晴らしい。子供オペラ「ジークフリートの冒険」でもみられたオーガンジーの巨大な布は、ここではオランダ船の帆として使われていて、第3幕の幽霊の合唱の場面になると、舞台後方から大きく動いて絶大なる効果を発揮する。
 今回は再演なので、マティアスがじっくり演技の稽古をつける時間はなかったかも知れないけれど、それでもいくつかの変更を加えた部分は、みんなドラマの本質的な部分での改善となっている。時々、ソリストの立ち稽古を見に行った時には、いつも彼はソリスト達相手に、内面の心理や行動のモチベーションを熱く語っていた。その意味では、マティアスはキース・ウォーナーのやり方を踏襲している。
 今流行の「読み替え」とか奇をてらった「ドラマの深読み」はない正統的な演出。でもその分、聴衆は真っ直ぐにこの作品の持つドラマに向かい合うことができる。

 通し稽古が終わってカーテン・コールの練習になった時、舞台センターに立った僕の周りで女性の合唱団員達が、
「ハッピバースデー・・・・」
と歌い出したが、僕は、
「いいからいいから・・・・・」
というジェスチャーをしてやめさせた。こういうのはちょっと苦手だ。

 練習が早く終わったので、府中の生涯学習センターに立ち寄って1200メートルほど泳いで家に帰る。家では妻が誕生日の夕飯を作って待っていた。

57歳の心境
 今さら隠しても仕方ない。今日で57歳になった。昔、若かった頃、57歳の人を見たら、
「まだ生きるつもり?」
と思っていたような気がする。それに、それだけ歳を重ねた人は、一体どんなこと考えているんだろうと、心の中が計り知れなかった。ところが、いざ自分がなってみるとね、若い世代の皆さん!言っときますがね、おんなじだからね。今のみなさんのまんまだから。なんだ・・・・ちっとも変わっていないんだ。自分でもあっけにとられるくらいだ。

 ひとつ違うことはある。ある意味、人生を達観してくる。ところがこれもね、自分の人格が成長したからというわけでもないんだ。歳を取ってホルモンの出が悪くなってきて、若い女の子を見てもギラギラとした欲望を感じなくなってきたことによる。色眼鏡というけれど、性欲というものがどれだけ世界を見る眼をゆがめていたかよく分かるんだ。
 少し前までは、それを淋しく感じる自分がいた。でも今は違う。反対に、なんて若者はホルモンに左右されて無駄なことにエネルギーを費やし、お金と時間を使い、人生において道を誤り、無益な幻想の中で生きているのだろうと、むしろ気の毒に思う。
 これを悟りと見るか、単なる老いと見るかで意見が分かれるだろう。まあ、老いだな。“悟り”といった大それたものでないことは確かだ。歳を取れば、人間自然とこうなるのだ。

すべて色情をいだきて女を見るものは、すでに心のうち姦淫したるなり
(マタイによる福音書第5章28節)
 このイエスの言葉が、かつてはなんと恐ろしかったことか。でも、若者よ、心配ご無用!突き刺さるような色情は、歳と共に自然になくなって、代わりに父のような慈しみ包み込む愛情に変わってくるのだ。
 でも体は元気だ。強調しておきますが、ポテンシャルがなくなったわけではないのです!少なくとも、太っていた時よりもずっと元気だ。毎朝の散歩は欠かさず、週に少なくとも2回はプールに通い、脈拍が上がる運動をすることで血液が体全体に行き渡り、行動も発想もアクティヴである。
 歳をとってくると余計なことは考えないようになる。スキーをしたらスキーだけに集中出来る。スキー場で可愛い娘を引っ掛けようとも思わないし、人にどう見られているかなんて全く気にしない。だから行動が単純になる。
 とてつもないチャンスが迷い込んでくるなんて期待しないし、自分に出来ることと出来ないことがはっきりしてくる。興味を持っていることと持っていないことも分かれて、生活がスッキリしてくる。朝が来て太陽が昇り、夜が来て暗くなる。それの繰りかえし。でも、それでいいのだとごく普通に思う。

 いろいろな情報の飛び交う中、若い時はあれもこれも自分の中に取り入れようとしたが、たとえば合唱指揮者の場合、発声法にしても練習の進め方にしても、個々の場面での判断にしても、新しいものが何でもいいわけではない。自分にとってどんな情報が本当に必要かを見極め、本質的なところでブレないことこそ、今の自分に最も求められる事である。だから、情報を取り入れることよりも、必要でない情報をシャットアウトすることに同じくらいエネルギーを費やす。
 たとえば実際に合唱団に練習をつけるにあたって、どうしたらより良い結果になるか試行錯誤することもなくはないが、それは枝葉のことであって、“迷い”というほど振幅は大きくない。勿論、必要とあらば、これまでの価値観を全てひっくり返しても、真理の方に方向転換する勇気だけは失っていないが・・・・。

 恐らく、基本的にはこのまま自分は人生を歩み、このまま人生を終える。悔いはないし、何かをやり残しているという思いもない。名誉心も地位に対する執着も全て自分の中からそぎ落とされてしまったようだ。仕事が突然なくなってしまったり、明日暮らすお金がなくなってしまったら困るけれど、逆に、明日自分の命が終わると言われても、
「ああそうですか」
ですんなり受け容れられるような気がするのだ。

死ぬまでにやりたいこと
 だがそれを前提として、逆に、これから死ぬまでにやりたいと思うことは、多くはないが確実にある。まず、自分が作ったTBS(東京バロック・スコラーズ)を、もっとしっかり軌道に乗せて、自分でないと絶対に出来ない団体に仕上げること。これはね、自分にとっては神様からの至上命令のような気がする。
 カール・リヒター亡き後、バッハ演奏において古楽ブームの影に失われてしまった“精神性”を取り戻し、ピリオド奏法、モダン奏法といった壁を越えた次代のバッハ演奏のひとつのスタンダードを築きたい。

 次に、あとひとつでいいから、ミュージカルを書きたい。実は頭の中に気になっている題材がある。ハッピーエンドで終わるラブ・ストーリーなんだけどね。いろんなところで上演出来るような洒落ていて素敵なものを書きたい。舞台はイタリア。じっくり練って納得のいくまで時間をかけなければ出来ないな。初演は勿論新町歌劇団で新町文化ホール。でも、世界に向けて発信するんだ。出来たらイタリアで上演したい。

 新国立劇場合唱団は、手前味噌のようだけれど、客観的に見てもすでに世界的レベルになっていると思う。でも、それを我が国においても世界においても、もっと認知させたい。僕は合唱団員のひとりひとりを心から尊敬し愛している。特に女性達はみんな可愛くて仕方がない。仕事に対しては、本当にオペラにおけるエリート合唱団として育ってきたと思う。意欲に満ちていて責任感に溢れ、演技も自主的に考えてよく動く。世界中見渡しても、こんな雰囲気でやっている合唱団はない。
 バイロイト祝祭合唱団やミラノのスカラ座合唱団を経験している僕は、この新国立劇場合唱団が今世界中でどのくらいのレベルにあるか知っている。でも当事者が言ってみても仕方ないのだ。何かの機会にきちんと客観的な評価が与えられれば、合唱団員達のモチベーションも上がるし、今よりもっとプライドを持って働けるし、さらに有能な人材も投入出来ると思う。この合唱団を任されていることは、僕の人生最大の名誉であり誇りである。

 あとは、スキーがうまくなりたい。これは死ぬまでと言わず、体が思うように動く内に成し遂げないといけない。今更スキーがうまくなってどうするんだと自分でも不思議に思うんだけれど、何故かこれが今の自分にとってTBSと並ぶ神様からの至上命令なんだな。今は分からないけれど、きっといつかどこかに辿り着いて何かが眼前に見えてくるのだ。

 さて、これだけのことがやりたいこととしてあるんだけれど、それでも神様が、
「もういいから帰ってきなさい」
と言ったら、僕は即座に、
「はい」
と言って何の未練もなく全てを放り出して神様の身元に行くだろう。その時はみなさんごめんね。

誕生日の遺言
 さて、これからが本日の本題です。僕は、57歳の誕生日にあたって、遺言を残したいと思います。すぐの話ではありません。将来のことです。

 いつの日か、もし僕がみなさんよりも先に死んだら、お葬式はどんな形でやってもいいのだけれど(僕は自分の肉体には全く執着がないのです)、みんなが集まった時に歌って欲しい曲があります。
 それはバッハ作曲「ロ短調ミサ曲」のラストのDona Nobis Pacemです。僕はこれが大好きなのです。それに「我らに平和を与えたまえ」という言葉は、カトリック教会あるいはキリスト教だけでなく、人類共通の究極目的ではないですか。また、この曲だったら、集まったプロの人も初見で歌えるのではないかな。八分音符を急がないでね。
 死んでからもし本当にあの世があって、僕の魂が目覚めていたら、このDona Nobis Pacemの演奏の間に、僕からみなさんに何らかのサインを送ります。みなさんが怖がらないような方法でね。でも出来るかなあ。まあ、神様に頼んでみるからね。

 それと、もしみなさんに時間や労力の余裕があったら(なんて図々しい!)、出来る人達だけでやって欲しいカンタータがあります。それは、僕が生まれて初めて買ったバッハのカンタータのレコードの曲目だけれど、カンタータ第106番「神の時はいと良き時」です。
 リコーダーやヴィオラ・ダ・ガンバは使わなくてもいいです。伴奏は、先ほどのDona Nobis Pacemもそうだけれど、オルガン一台でもピアノでもなんでもいいし、カンタータのソリストは合唱団から出してもいいです。でも、その選定で喧嘩しないで下さいね。
 そして必ず字幕を出してもらいたい。会衆一同のみなさんに、その歌詞をよく味わっていただきたいのです。面倒だけれど、パソコンでパワーポイントとか出来る人、だれかお願いね。

 ところでさあ、レクィエムだけは演奏しないで欲しいんだ。自分が演奏するのは、モーツァルトもヴェルディもフォーレも大好きだけれど、あれって、なにか悲しくって陰気くさいじゃないか。「永遠の安息を」なんてさあ、いやだよそんな退屈な。
 みんなお願いだから僕に向かって「安らかにお眠り下さい」などと決して言わないで欲しい。そんなこと言う奴のところには、
「眠ってねえぞ!」
って化けて出てやろうか。きっと僕の場合、あの世でも眠っている暇はないのだ。やることは沢山ありそうなのだ。僕はどこにいても多忙なのである。

 僕は妻を深く愛し、家族を深く愛し、仕事を深く愛し、生涯に渡ってこんなにも平和でしあわせな生活を送れるなんて、本当に神様に感謝しています。世の中には不幸な人が沢山いるのに、申し訳ないくらいに思っているけれどね。
 でも、満たされた人も世の中にはいないといけない。僕が満たされた生活をしていて、平和な気持ちで人に接していることは、周りの人達にとっても良いことのような気がする。しあわせは連鎖するからね。世界中にしあわせの連鎖が広がって、戦争も抑圧も搾取もなくなって、この地球上の全ての人がしあわせになって欲しい。本当に本当にそれを願っている。

 妻は、僕が彼女より早く死んでしまったら生きていけないから、絶対に自分より遅く死んでねと言っている。だから僕は彼女より早くは死ねないんだ。でも、僕も、彼女が死んでしまったらとても生きていけないから、彼女よりも1日だけ遅く死ねたらいいと思っている。まあ、そんなうまい具合にはいかないんだろうなあ。

 こんなことを書いていると、まるで死期が近いみたいですが、ご心配なく!多分、まだまだ当分は死なないだろうと思います。神様が迎えに来る気配がないからね。ただ聖書に書いてあるように、刈り入れは突然やって来るのだ。その時のために、一度はこうして書いておきたいのである。

まあ、57歳の初老のおじさんのツブヤキだと思って読み飛ばしてくれて結構。




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