新国立劇場のPA

三澤洋史 

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ひとりぽっちの日曜日
 3月17日土曜日の朝6時。妻は石巻に向けて出発した。一緒にボランティアをしてくれる人を自分の車に乗せて、3泊4日の被災地訪問をする。帰ってくるのは20日火曜日の夜。現地では、被災した方達と一緒に手芸品を作ったりするという。僕は眠い目をこすりながら、
「頑張ってね。気をつけてね」
と送り出す。
 震災以後、被災者支援に目覚めたと思ったら、もの凄い行動力を示した妻を僕は尊敬している。僕も自分の出来ることはしたいと思うが、何も出来ない無力感を感じている。音楽家ってこんな時実に情けない。せめて妻を精神的に支援することくらいしか出来ない。だから僕は喜んで彼女を送り出すのさ!

 ところが本当の事を言うと、普段家の中の何もかもを妻に任せっきりにしている僕のこと、妻がいないといろいろが実に不便である。バイロイトやミラノなど、ひとり暮らしには慣れている僕であるが、なにもかもそのままで妻だけいなくなるっていうのは随分勝手が違う。彼女が全部仕切っている我が家では、まず何が何処にあるかさっぱり分からない。それに、バイロイトやミラノではやることが決まっているけれど、日本では、新国立劇場の仕事の他にいろいろこまごました用があり、忙しさの種類が違う。
 家には長女の志保もいるが、二期会の仕事などで外出しなければならないので、2人でいろいろ考えて、食事をどうするかとか、互いの時間のやりくりを相談する。最も大きな問題は、愛犬タンタンをなるべく一人にしないことで、これがなかなか難しい。

 たとえば18日日曜日は、名古屋モーツァルト200合唱団の練習なので、僕は朝から外出しなければならない。一方、志保は夕方から外出する。タンタンは僕が名古屋から帰ってくるまでひとりぽっちなわけだ。だから僕は速攻で帰る。でも帰っても夕飯はない。志保は今日は外で食べてくると言う。
 名古屋駅で「味噌カツえびふりゃあ弁当」なるものを買って、新幹線の中で食べる。これはヤベエ!八丁味噌にしっぽり漬かったカツと巨大な海老。胃がもたれてしまい、胸焼けがする。

 家に着いたらタンタンがとても淋しそうな目をしていた。それを見るだけでウルウルとなる。お散歩をしてご飯をあげる。ひとりぽっちで心細かっただろうから、ドッグフードに挽肉を少し多めに混ぜてあげてサービス。
 僕はえびふりゃあで胃がもたれているので、今夜はお酒は控えることにした。すると夜が長い。

妻もいない・・・お酒も飲まない・・・なんて手持ち無沙汰。

タンタンだけが真っ黒な瞳をこちらに向けている。
「もう、どこにも行かないでね」
と言っているよう。

 テレビをつけたらN響アワーをやっていた。往年の巨匠ロブロ・フォン・マタチッチがブルックナーの交響曲第8番を指揮していた。かなりの名演だった。僕は、国立音楽大学声楽科の学生の時に、第九で合唱に乗っていてマタチッチの指揮で歌っている。でもその時は、棒を使わず手をくるくる回すだけのマタチッチの指揮のよさなんて何も分からなかった。今あらためて見ると、要するに手じゃないんだな。彼の全身から溢れ出る音楽の素晴らしさが初めて分かったよ。
 でも、N響アワーって終わっちゃうんだ。どうして?NHK交響楽団って放送局のオケで、こうやって放送するためにあるんじゃないの?民放ならともかく、みんなから受信料を取っているNHKなんだから視聴率なんか気にしないで続ければいいのに。地方にいて演奏会に行けない人なんか、結構楽しみにしていたと思うんだけど・・・・。なくなると思うとなんだか淋しいな。これまで何気なく見てただけなんだけど・・・・。

テレビを消す。しーん。妻のいない空間はガランとしている。

つまんねえな。

 妻って重要なんだな。普段空気のように思っていたけれど、空気がないと人間生きていけないもんな。やることは探せばいくらでもあるが、なんだかやる気が起きない。
「タンタン!起きててもつまんねえからもう寝るか・・・・」
11時にはもうタンタンと一緒にベッドに入っていた。

 後から志保が帰ってきた。
「あれっ、パパもう寝てるの?」
「うん、味噌カツえびふりゃあ弁当食べて、胃がもたれたからね」
早く寝たのはえびふりゃあのせいでもないんだけどね。タンタンと二人で体を寄せ合って寝る。

千春ちゃん、元気で無事に石巻から帰ってきてね!

新国立劇場のPA
 ごくたまに2チャンネルを見る。2チャンネルというのは誰でも勝手に書き込んで良い掲示板サイトなので、勝手な思い込みや独断と偏見に満ちた意見も少なくないし、時には不毛な感情的応酬がネット上でなされたりしている。
 だから覗いても仕方ないのであるが、それでも時には感心することもある。中には、新聞や音楽雑誌の批評でも言及しないことを注意深く見ていたり聴いていたりする人がいると、
「ほう、よく聴いているやんけ。いや、さすが!」
と思うことすらある。まあ、しがらみのないところで、一般の聴衆が赤裸々に何を感じているのかという事を知るひとつの方法ではある。

 新国立劇場「さまよえるオランダ人」の3月14日水曜日の公演では、ダーラント役のディオゲネス・ランデスが第1幕歌い終わった後で急に不調を訴えて降板、それに代わってカヴァーの長谷川顕(はせがわ あきら)さんが急遽出演したというハプニングが起こった。長谷川さんは落ち着いて堂々とダーラントを歌い切りました。こういうのは日本人として誇らしい。
 その晩は第3幕途中でやや大きい地震も起こった。ちょうど「水夫の合唱」の場面で、女声合唱がはけて、男声合唱団員達がオランダ船に向かってワインの瓶だの食べ物の籠だのを投げつけているところだったので、男声合唱団員達は、実は誰も気が付かなかった。
 後で、美談のようになっていて、
「地震をものともせずに演技している新国立劇場合唱団は偉い!」
といろんな人に言われて、僕たちは大いに照れたものである。かくいう僕も、客席後方の監督室で、彼等と同じように踊りながらペンライトで指揮していたので、全く気が付かなかった。てへへ・・・。

 このようなハプニングが続いた時、聴衆はどんな風に思っているのだろうか知りたくなった。ネット上でいろいろこの公演関係の記事を探してみたが、ついでに2チャンネルにも久し振りにアクセスしてみた。
 するとひとつ気になる記事があった。恐らくそれは、第3幕の水夫の合唱の後の幽霊船の合唱のシーンに関してであると思うが、PAがうるさいという記事であった。確かにその場面はまるで映画館のようになっていて、少なからず抵抗感を感じる聴衆がいても不思議はない。その点では納得したのだが、聞き捨てならないと思ったのは、話題がそこから発展して、新国立劇場では舞台上の歌手もオケも、みんなマイクで音を拾って拡声されているように語られていた事である。

 誓って言うが、少なくとも「さまよえるオランダ人」に関して、舞台上の全ての歌手及びオーケストラ・ピット内のオケの音は、決してマイクで拾って増幅させてはいない。「オペラは基本的に生の声と生音のオーケストラで演奏するもの」という大原則は、この劇場では徹底して貫かれている。

 ただ、裏コーラスの場合は例外である。特に第3幕「幽霊船の合唱」は、紛れもなくPA音である。しかも、舞台裏で誰かが歌っているのではなく、あらかじめ録音されたものを流しているのである。だって、「幽霊船の合唱」の陰コーラスのために、この作品の見せ場である「水夫の合唱」のメンバーを削るわけにはいかないのである。舞台上では、男声合唱団員50名が全員出演して、録音された同じ50名による「幽霊船の合唱」に反応しながら歌っている。
 だがこの録音との同時演奏は、端で見ているよりずっと難しい。まず、合唱部分を録音することからして大きな困難が伴う。オケのない無音状態でアカペラで「マエストロのテンポで」録音しなければならない。途中で転調もするので、ピッチの正しい維持も簡単ではない。
 さらに、録音された合唱にライブのオケを指揮して合わせる本番では、合唱に長い音の伸ばしや、何度か数小節の無音の間などがあるので、テンポを完璧に照合させていく事は不可能に近い。この場面の音楽は、8分の6拍子と4分の2拍子が交差するところで微妙にテンポが動くし、最後に向かってしだいにテンポアップしていかなければならないのだ。

 そこで我が劇場ではハイテクを使っている。まあ、録音スタジオなどでは当たり前の事なので、今更あらためてハイテクというのも恥ずかしいんだけどね。これを初演時にノヴォラツスキー元芸術監督に提案したのは、他でもないこの僕である。
 その時、芸術監督は途方に暮れていた。平日の昼公演などもあるこの劇場で、稽古スケジュールなども考慮すると、どう考えてもアマチュアの男声合唱を「幽霊船の合唱」として使う事を断念せざるを得なくなったのだ。その時に僕が思いついたのである。

 僕はまず、ピアノ伴奏譜を譜面作成ソフトで作る。そしてそれをMIDIファイルに変換する。録音のガイド用として使うためである。ただしそのMIDIファイルを完成させる為には、ある面倒くさい手順を踏まなければならない。
 それはこういうことである。MIDIファイルを一度WAVEファイルに録音してCDを作成する。それを指揮者に渡して聴いてもらう。指揮者の意図するテンポとの擦り合わせをするためである。つまり、その伴奏譜が完全に指揮者のやりたいテンポと一致するまで、細部に至るまで何度もテンポの変更を繰り返し、その都度MIDIからWAVEに変換し、CDに焼くという作業を繰り返すのである。公演毎に指揮者が違うので、今回の公演でもトマーシュ・ネトピル氏と、そのやり取りを繰りかえしたのである。
 さて、めでたくネトピル氏から最終OKが出たので、僕は彼の意向を反映したテンポのMIDIファイルを音響ミキサーに渡す。ミキサーは合唱団員の数だけヘッドフォンを用意する。彼らはMIDIファイルから流れるピアノ音のガイドに乗って「幽霊船の合唱」を歌う。ネトピル氏も同じようにクリック音付きのガイドに従って指揮をする。こうして滞りなく録音完了!

 かつてテープやDATを使って再生していた時代では、マルチ・チャンネルで録音したものをLR(左右)の2チャンネルにトラックダウンしなければならなかった。でも現代は、PCファイルで回して、マルチ・チャンネルのまま再生出来るそうである。
 ミキサーは、クリック信号を別チャンネルにして、光として出せるようにしておく。さらに別チャンネルに風と雨のSE(効果音)を入れておいて、この場面で同時に出せるようにしておく。チャンネルが違うので、効果音の大きさは合唱とは関係なく調節出来るのであるが、ひとつ回せば全部がシンクロして動くわけである。何とも便利になった!
 さて、指揮台の横には小さいモニター・スピーカーと光が出る装置が置かれている。二つ振りで振っている指揮者は、1小節に2回光るクリック信号に従って指揮をすれば、録音とライブのオケと合唱とを完全にシンクロしながら演奏することが出来る。勿論、光だけではなく、モニター・スピーカーから出ている録音された合唱を聴きながらであることは言うまでもない。このようにして「幽霊船の合唱」場面は、録音に合わせているとは思えないほどスムースに進んでいるのである。

 PAの音量に関しては、皆さんからのご指摘はもっともである。合唱指揮者の僕が最終決定したわけではないが、僕も関わった一人としてひとつだけ言い訳させていただくと、同時進行している生声やオケの音もかなり大きいのである。それが新国立劇場合唱団の生声の大きさであり、東京交響楽団の生音の大きさなのである。特に、東響の音は、予想をはるかに超えて大きい。それに対して、スピーカーから出る音というのは案外難しい。やかましいと思われてしまう割には、実際のバランスとしてはそれほど出ていないのである。

 ストーリーから言うと、オランダ船員達の亡霊の合唱は、ノルウエー船員達を圧倒し、ノルウエー船員達は、その声に驚いて腰を抜かして逃げ去らなければなければならない。音響的に言うと、録音された声は、あの巨大なオケの生音に対峙しなければならないわけである。だから中途半端な音量だと、明らかに生声や生音に負けてしまう。こうなるとどっちを取るかなんだ。
 あとは、音量の問題より音質の問題である。もっと具体的に言うと、どこにスピーカーを置いて、どのように鳴らすかという音響的コンセプトの問題である。オペラ劇場は映画館ではないから、TOHOシネマで映画を観ているような音響的ゆったり感はとても望めない。客席のどこを見渡してもスピーカーを置けるようなスペースはない。横の壁にもお客が入っているのだ。
 指揮者がオケを抑えさえすれば、全体のボリュームが下がり、PAに対する抵抗感も減る。でもねえ、こじんまりした「幽霊船の合唱」ねえ・・・・。

 ちなみに、バイロイト祝祭劇場の「さまよえるオランダ人」でも、僕はディーター・ドルンとクラウス・グートという2人の演出家のプロダクションを経験した。こちらは劇場から遠く離れた合唱練習室で、そのために雇ったエキストラ・コーラスの声をライブでマイクで拾って劇場空間に流していた。その際、使用していたマイクも旧式でひどかったし、劇場に響き渡っていた音響ときたら、劣悪そのものであった。
 バイロイト祝祭劇場は、生音こそ全てという世界だから、PAには全く注意が払われていないのだ。それでも新国立劇場のようにうるさく感じないのは、舞台の下に潜り込んでいるオケ・ピットから出てくるオケの音量が全然違うのだ。つまり、質感はあるが客観的音量はかなり小さいので、これとバランスを計ることは、新国立劇場よりはるかにたやすいのである。

 「さまよえるオランダ人」では、その他に、冒頭のノルウエー船員達のJoho he !
だのHallo ho !だけの「かけ声の合唱」でPAが使われている。演出家のマティアスの意向で、男声合唱がABCDの4つのグループに分けられ、ABCグループは舞台上に離れて配置されているが、Dグループの人達は上手舞台袖からカゲ・コーラスとして歌われているのだ。それがちょっと聞こえにくいので、PAで調節している。
 それから、これはどの公演でも定番になっているが、第1幕で最初にオランダ人が登場して絶望のアリアを歌う最後で、
Ew'ge Vernichtung, nimm uns auf !(永遠の破滅よ、我らを迎入れてくれ!)
とオランダ船員達が静かに歌う。これも舞台全体に神秘的に音を広げたPA音である。

 ただ、こうした処置を多用することは確かに危険である。合唱の響きがいつも「なんとなくPAっぽい音」と聴衆に印象付けられることになってしまう。それが、「新国立劇場では舞台上でもいつもPA」という誤解に発展してしまったからといって、誰も責められないと思う。
 また新国立劇場は、日本人的に言えば音響が良いということなのだろうが、世界中の一流オペラ劇場よりも残響時間が長い。普通に歌ってもPAを入れた音のように聞こえるという難点があるのだ。さらに、本当にPAを入れた時には、その自然残響の長さがPA音の輪郭をボカしてしまい、先ほどの「幽霊船の合唱」のように、音量を上げている割には聞こえないという悪循環を導き出しているのだ。

 加えて、舞台奥で歌っている歌手達にオケの音が聞こえにくいという配慮から、あるいは舞台袖で待機している歌手や舞台スタッフ達のために、至る所にオケの音を拾って流しているモニター・スピーカーがある。この響きが客席に漏れている可能性も否定出来ない。
 僕はその響きにかなり敏感で、少しでも大きすぎると音響スタッフに言って小さくしてもらっている。舞台袖のモニター・スピーカーは、使っていない時にはボリュームを絞るように音楽スタッフ達には言っている。でも、僕と同じように敏感なお客様が、その人工音の不自然さを感じ取っている可能性はゼロではない。

 バイロイト祝祭劇場では、このモニター音はほとんどない。この劇場では生音を美しく保つことには徹底した注意が施されており、歌手がどんなにオケが聞こえづらいと文句を言っても、
「これでやってください!」
と言うばかりだ。でも、実際問題、バイロイトの舞台上にいて聞こえてくるオケの音は本当に小さいので、歌いづらいことこの上ないと思う。バイロイトの音がそんなに良いのなら、どうして他の劇場は同じような構造で作れないのだと言う人がいるが、やはりあそこは特別であり、いろんな点で一般的ではないのである。それについての詳細は、またいつか別の機会に語ってみよう。

 一方、ミラノ・スカラ座のモニター音は、もの凄く大きい。特に舞台袖のモニター音の大きさはあきれるほどだ。というより、舞台袖で待機している人達のおしゃべりの声の大きさにはもっとあきれるのだが、その人達に聞こえるようにというので、あのように大きくなってしまうのだろう。基本的に、イタリアの劇場では舞台上でも舞台袖でもモニター音は大きいようだ。
 だから、特にイタリア人系の歌手に多いのだが、
「舞台上のモニター音が小さくて歌えやしない!」
と、音楽スタッフを通り越して音響スタッフに直接文句を言う歌手が少なくない。日本人は外国人のクレームに弱いから、
「はい!」
と聞いてしまう事が昔は起こっていた。最近では、劇場の音を保つことも音楽スタッフの責任という考え方があるから、僕達が知らない間に、歌手の要求のままにどんどん無制限にモニター音が上がっているということは起こっていない。

 ヴェルディは、初期の作品からカゲ・コーラスや舞台裏オーケストラを多用しており、その立体的な効果を気に入っていた。モニター・テレビもない時代に、どうやってオケ・ピットのオーケストラと合わせていたのだろうと思うが、そもそもオペラというものは、このように当時としてはハイテクなものを取り入れていたのである。だから、我々も、補って差し支えないものは補っていいとは思うが、失っていけないものは守らなければならない。

 劇場の音、それは生音を基本にすべしという僕達の美意識は、これからも決して変わらないであろう。



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