哀しすぎる「ふるさと」

三澤洋史 

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群馬の散歩~おにころ~オテロ
 3月25日日曜日午前6時50分。群馬の空は抜けるような快晴。僕は実家の玄関を出る。まず西に向かって歩く。高崎市新町と藤岡市の境にある弁天様の横の橋を渡り、立石新田とも砂原とも言われている地域に入る。角の崩れ落ちた誰のものとも知れない古いお墓や、苔むした石碑がある薄暗い木陰、古い蔵造りの家、それに庭の広い農家の間をどんどん通っていく。庭師によって丸や四角にきれいに刈り取られた生け垣の葉の見事さに目を奪われる。梅の花の清楚な白さにはっとする。
 それから関越道路の側道に沿って烏川(からすがわ)を渡る。佐波郡玉村町に入る。そして東に方向転換。今度は太陽に向かってずっと歩く。まぶしくて目を開けていられないほどだが、春の朝の陽ざしを全身に浴びるのはすがすがしく気持ちがよい。
 畑の間を通って岩倉橋まで辿り着き、再び烏川を渡って新町に戻る。それから土手の上をずっと歩く。菜の花がいちめんに咲いていて、その淡い緑と黄色が水彩画のようなやわらかさをあたりに醸し出している。のどかな風景だ。まだ8時前なのに陽はすでに僕の背中に燦々と降り注いでいる。

 この土手の上からの眺望は圧巻だ。遠くに浅間山が、頭を雲に包まれて青空にその純白の姿を輝かしている。上毛(じょうもう)の三山すなわち、赤城山、榛名山、妙義山のそれぞれ性格を異にしている勇壮な姿が胸を打つ。榛名山と赤城山の間には、僕の上の姉が住んでいる子持村を見下ろす子持山があり、その向こうに真っ白い谷川岳が見える。
 僕は物心ついた時からこの景色を見慣れていた。僕の幼年時代はずっとこの群馬の大自然に包まれていた。これがどんなに素晴らしいことだったか、今になってしみじみ分かる。

 土手の上を散歩しながらいろいろな思い出が頭の中を駆け巡る。小学校の頃、いつものように友達とこの土手に遊びに来た。すると土手が燃えている。野火だ!でも、誰もいない。火はどんどん広がってくる。
「危ない!なんとか消さなくては!」
僕は勇敢にもジャンバーを脱ぎ、それで燃えている地面を叩く。
「えいっ!えいっ!」
夢中で野火を消す。友達も僕につられて一緒に上着を脱いでバタンバタンと火を叩いて消す。
「ふうっ、消えた!やったぜ!」
使命を果たしたその誇らしい気持ちを今でも覚えている。僕たちは土手を後にし、胸を張って家に帰ってきた。
「あれ!お前、どうしたんだい?」
お袋が目をまんまるに見開いている。僕は得意になって、
「野火を消してきたんだ!」
と言う。お袋はわなわなと震えながら、消え入るような声で、
「ジャンバーが・・・・」
とつぶやいた。驚いて着ているジャンバーを見ると、色は真っ黒に煤けて穴ぼこだらけになっている。
「買ったばかりで今日おろしたのに・・・・・」
僕はお袋にそう言われるまで、ジャンバーのことなどちっとも気にしていなかったのだ。「うわっ、やべえ!」
僕は身を低くする。その直後、いつものお袋のカミナリが落ちる・・・はずであった。ところが不思議とお袋は怒らなかった。ええ?どうしてだろう?

「あんときゃ、ふんとに情けなかったねえ。一張羅(いっちょうら)のジャンバーをその日の内にダメにしてくるんだからね。あきれて怒る気力も起きなかったよ」
もう50年くらい前のことなのに、今でも時々お袋は笑いながら僕に言うんだ。

 不思議だ。風が吹いているので花粉が沢山飛んでいるはずなのに、鼻が通っている。鼻水も出なければ目も痒くならない。そういえば先日ガーラ湯沢に行った時も、滑っている間は全く花粉症が出なかった。大宮で新幹線を降りた途端にドワーッと花粉症が押し寄せてきたのだ。やっぱり花粉だけのせいではないんだな。花粉と都会の煤煙とのコンビネーションなのだろうか。
 花粉症と言えば、最近とても恥ずかしい思いをした。3月20日火曜日の「さまよえるオランダ人」千秋楽のこと。終演間近にカーテン・コールをするために舞台袖に入った僕を待ち構えていたのは、空気中に飛び交う無数の塵。そのために鼻水がいきなり溢れてきた。
 千秋楽の終幕近くでは、すでに使わなくなってしまった第1幕や2幕の舞台道具をどんどん片付けているので、舞台袖には普段出ない微細な塵が舞っているのである。僕は舞台袖においてあったティッシュペーパーを取って鼻をかむ。そしてカーテンコールのために舞台上に出て行った。
 並んでいる合唱団のメンバーを両手を広げて示しながらお辞儀する。ところがあろうことか、両手を広げた瞬間、僕の鼻の穴からツツツーと水のような鼻水が出た。
「ゲッ、なんてこった!」
 しかし、しかしですよ。合唱団を紹介するために両手を広げている瞬間だもの。どうにも出来ないじゃない。ティッシュを出すわけにもいかないのだ。だけどさあ、なにもこの瞬間に出なくてもいいだろう!もう流しっぱなしにしておくしかないのさ。水のような鼻水だからすすっても何してもなしのつぶて。トホホ・・・・。
 お辞儀をして女声合唱の真ん中に入る。その後、ソリスト達が出てくるが、僕はど真ん中にいるから、やっぱりティッシュはポケットから出せない。このまま誰にもバレませんようにと祈った。
 ところが楽屋に帰ってきたら、プロンプター(歌手が歌い始める前に歌詞を教える人。舞台センターのプロンプター・ボックスに入っている)をやっていた副指揮者の城谷正博(じょうや まさひろ)君が、
「三澤さん、鼻が大変でしたね」
と言うではないか。ゲゲッ、しっかりバレてたか。ということはオペラグラスなんかしている聴衆にはバレバレということだね。
「やーい、ハナッたれ合唱指揮者!」
と小学生ならこの先死ぬまで言われるな。

 ええと、なんの話をしていたんだっけ?話を散歩に戻そうね。たっぷり1時間以上かかるこの群馬の散歩コースでは、信号がほとんどないので、一度も歩みを止めることなく有酸素運動が滞りなく出来る。しかも、太陽の光を浴び、雄大な自然の景色を眺めることが出来るので、群馬に帰郷した時のひそかな楽しみとなっている。花粉症もないしね。
 ここには、昨日から新町歌劇団のミュージカル「おにころ」の練習で来ている。土曜日の夜の通常練習と日曜の9時半から午後にかけての特別練習を組み合わせ、そこに僕と振り付け師の佐藤ひろみさんが参加した。ただし僕は、日曜日は午前中だけ参加。その後、新国立劇場の「オテロ」の舞台稽古に行かなければならないため、あとは佐藤ひろみさんが引き継いで、ダンスやステージングを丁寧に指導してくれることになっている。

 さて、朝9時半になった。新町歌劇団の練習が始まった。ひろみさんのウォーミングアップ体操から始まる。驚いたのは、僕がスキーでコブを滑るために必要な動きが全てこのウォーミングアップに入っていることだ。重心移動、バランス運動、片足ずつのスクワッド・ポジション。僕は誰よりも真面目にやっちゃった。スキーの運動に一番近いのはダンスなんだね。これから自分の家でもこのウォーミングアップ体操をやろうっと!
 ミュージカル「おにころ」の練習は楽しい。最近になって、僕がどうして自分の劇場作品をオペラと名付けなかったのか良く分かってきた。それは、自分がダイエットのために自転車や水泳やスキーなどをやり始め、意外にスポーツに向いている自分を再発見した時期と重なる。考えて見たら、音楽と身体表現との関係に関しては、昔からとても関心があったのだ。そして、オペラでは失われてしまった“音楽の肉体性”を取り戻したいと思っているのだ。
 神秘家のルドルフ・シュタイナーは、音楽をする人のオーラが舞踊しているように見えることから音楽オイリュトミーを始めたが、僕も、歌と踊りとは本当は内的に決して切り離せないものだと信じている。歌うだけでも楽しいが、その歌に合った踊りを踊りながら歌うことのなんと楽しいことか。それを、歌は歌、舞踊は舞踊と切り離してしまったところに“音楽の肉体性”の喪失があると思うのである。それを僕は自分の作品で取り戻したいわけだ。

 本当言うと、僕はバッハの音楽にも、もの凄い運動性を感じるのだ。でもバッハの音楽に関連づけようと思ってバロック・ダンスに触れてみて思った事は、バロック・ダンスは、必ずしもバッハの音楽の内的運動性を表現するものではないということ。
 それだったら、バッハの音楽でオイリュトミーをやった方がいいのだろうなと思う。いつかどこかで、バッハの音楽、特に声楽作品とオイリュトミーを合わせてみる試みをしてみたい。いや、すでにオイリュトミーの分野では、普通にバッハの音楽でオイリュトミーを踊るということはやっているのだよ。でも、僕のやりたいことはそういうことではなくて・・・・うーん、なかなか説明するのは難しい・・・・自分でもよく分かっていない。
 オイリュトミーは未だパブリシティを獲得しているとは言い難いし、オイリュトミーだけでなく、バッハの音楽を視覚化する試みにはリスクが伴う。全体がやたら前衛芸術のように出来上がってしまう可能性がある。それでもって聴衆を煙に巻いてしまったら、僕の意図は分かってもらえないだろうな。僕は、別に前衛芸術をやりたいわけではない。“音楽の肉体性”をバッハの音楽においても獲得したいだけだ。

 まあいいや。バッハを語るつもりではなかった。どうも今日は話が横道にそれるなあ。僕はシュタイナーのようにはオーラを目で見ることは出来ないが、音楽における魂のダイナミズムは感じるのだ。そんな僕のミュージカルにおいて、踊りが音楽と合っていないという瞬間はあってはならない。
 僕にとって音楽は“聴覚化された舞踊”でないといけないし、ダンスは“視覚化された音楽”でないといけないんだ。その意味では、僕のワガママを全面的に取り入れて振り付けをしてくれる佐藤ひろみさんを、僕は全面的に信頼しているし、感謝している。

 さて、本番は8月なのに、この時期に一番大変なナンバーである「That's exciting鬼祭り」の新しい振り付けが仕上がって、僕は大いに満足している。いつも大道具小道具を作ってくれる団員のYさんのお陰で、今回は大きな鬼のオブジェが2点に加えて、小さい鬼のオブジェが4点も増え、それらが舞台を所狭しと飛び回る。実にパワーアップしたこのナンバーである。

 僕は12時まで練習をつけ、あとは振付師の佐藤ひろみさんに任せて練習場を後にし、湘南新宿ラインに飛び乗った。行く先は新国立劇場。

 「オテロ」の指揮者であるジャン・レイサム=ケーニック氏Jan Latham-Koenigは、これまで僕が出会った沢山の指揮者の中でも、最も頭の回転が速い人物に属する。まず語学力が凄い。ネイティブである英語は勿論のこと、ドイツ語、イタリア語、フランス語、スペイン語、ロシア語となんでもござれだ。彼の母親はアイルランド人とフランス人との混血で、父親はデンマーク人とポーランド人との混血。そして彼自身はロンドンで生まれているというから、生まれながらにしてグローバルに生きることを運命付けられていたようだ。
 僕とはドイツ語で会話している。オテロ役のヴァルテル・フラッカーロWalter Fraccaroと3人で話す時なんか、わざわざ同じことを、僕に向かってはドイツ語、ヴァルテルに向かってはイタリア語で話している。僕がヴァルテルとイタリア語で会話しているのを聞いているのだからそのままイタリア語で話してもいいのに・・・・。
 練習場では、再演演出の江尻裕彦(えじり ひろひこ)さんが英語を話すため、英語で立ち稽古が進められているが、ケーニック氏は英語で話した後、すぐ続けてドイツ語で同時通訳している。
 音楽もとてもヴァイタリティに溢れ、速めのテンポでキビキビと進んでいく。僕とは休憩時間にいろんなことを話す。彼は新国立劇場合唱団のことをとても気に入ってくれて、こんなクオリティが高く、音楽に対しても演技に対しても意欲に満ちた合唱団は他にないと絶賛してくれている。

 「さまよえるオランダ人」と「ローエングリン」という二つの大きなワーグナー作品にはさまれてドイツ語の発音やニュアンスで苦労している新国立劇場合唱団員だが、それだけにイタリア語によるヴェルディとなると自然体で声が出せるから、合唱指揮者の僕が言うのもなんだけれど、「オテロ」ではみんなほれぼれするような良い声で伸び伸び歌っている。
 ミラノへ行ってからもう1年経つけれど、僕は確信持って言いたい。この合唱はお世辞抜きでスカラ座合唱団にも負けないぜ!

哀しすぎる「ふるさと」
 話はさかのぼるが、3月20日火曜日。妻はいろんなお土産物を持って石巻から帰ってきた。
「地域に貢献よ!」
と言っていたけれど、日本酒を4本も買ってくるべきであったのかどうかよく分からない。僕は普段あまり日本酒を飲まないので興味がないのだ。でも、その内の辛口の1本は僕にとってもおいしかったので、東京にいては絶対に食べられない茎ワカメやかまぼこなどと一緒に味わっている。妻の苦労の部分は共有しないで、こんなお楽しみの部分だけ共有していいんだろうかとは思う。
 彼女はいろんな手芸品の作り方などを地域の人達に教え、それから一緒に作ったという。仮設住宅の集会所にみんなが集まっていろんな話をしたりして、本当に楽しかったと言って眼をキラキラとさせていた。みんな、なかなか帰らなくて、一緒に持ち寄った食事を分けて食べたり、海女(あま)さんだった人達の歌をきかせてもらったり、踊りを見せてもらったりしたそうだ。それを説明している彼女の姿を見て僕も嬉しくなった。

 でも辛い話も聞いた。
「みんなここに来て歌ってくれるのだけれど、本当は『ふるさと』は聴きたくないのです」
と語った人がいたという。哀し過ぎるのだそうである。

夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと
 でもそのふるさとは、波にさらわれて跡形もないのだ。ふるさとを遠く離れていて帰りたいというノスタルジーはまだ甘っちょろいのだ。帰ったところで、自分が生まれ育った家も、近所の街角も、見慣れた景色も永久に失われてしまった絶望感に比べれば・・・・。

 被災地慰問のチャリティ・コンサートに来た人達は、「ふるさと」をみんなで歌ってジーンとなって、自分たちはここに来て役に立ったと満足して帰るかも知れないが、被災地の人達が泣くのは、本当に辛くて耐えられないからだということは分かっていないといけない。
 このへんが、慈善的なことをやる人の陥りやすい点なのかも知れない。良かれと思って行ったことが、相手の神経を逆なでしてしまったとしたら悲しいことだ。どこまでも相手の目線に立って考えるイマジネーションが必要なのだろうが、なかなかこういうことは実際に現地に行ってその空気を感じないと分からないものだ。

 今、被災地の人達は、現実的にも精神的にも復興に向けて本気になっている。前向きになっている人達に未来を示してあげることが我々に出来る最上の事ではないだろうか。その意味では、妻達のやっていることは今一番求められている事のような気がする。
 妻がいなくて不便していたし淋しかった僕ではあるが、それでも僕はいつでもまた喜んで彼女を送り出すつもりだ。



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