「マタイ受難曲」の調性

三澤洋史 

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ドン・ジョヴァンニ
 なんとなく書き損なっている内に初日が開いてしまったが、新国立劇場では「ドン・ジョヴァンニ」が快調に進んでいる。指揮者のエンリケ・マッツォーラEnrique Mazzolaは、バルセローナ生まれだがイタリア人。マエストロとイタリア語で会話出来るって嬉しい。キビキビしたテンポ感で軽快なモーツァルトを紡ぎ出す。棒も明快。かなり良い指揮者だと思う。赤い眼鏡に赤いワイシャツで指揮をしている。こういうちょっとトッポい(もうとっくに死語)ギリギリでのおしゃれをするのもイタリア人ならでは。
 ドン・ジョヴァンニ役のマリウシュ・クヴィエチェンMriusz Kwiecienの自然体の音楽と演技には舌を巻く。もっと肉食系のマッチョなドン・ジョヴァンニに慣れている人には物足りないかも知れないが、女性が警戒心なく引っ掛かるのは、むしろこんな優男(やさおとこ)かも知れないとも思う。これはこれで完成された境地。ドンナ・アンナのアガ・ミコライAga Mikolajは、実に音楽的かつ知的な歌唱。こうしたキャストたちが絶妙なアンサンブルを繰り広げ、全体的にかなりハイ・レベルな公演となった。
 それにしても、モーツァルトのドラマティカーとしての手腕には驚くばかりだ。古典派という枠組みで、あれだけの音であんな劇的な効果を出せるなんて、まさに天才のみが成し得る業だな。公演は4月29日日曜日まで。

セレブ的禁酒?
 アレルギー性鼻炎がなかなか治らない。最初は花粉症だと思っていたが、どうも花粉の量とは関係なく出るような気がする。ここのところ急にひどくなって、鼻が通じなくなってしまった。薬を飲むと治るが、なんとなくボーッとなるのが嫌であまり飲みたくない。点鼻薬もつけ過ぎると粘膜を痛める。
 先週の月曜日、意を決してお酒をやめてみた。すると次の日には薬を飲まなくても鼻が通じた。そのまま4晩も禁酒した。僕にとっては画期的な事である。水曜日くらいになったら、何でもない時は鼻炎に悩まされていたことすら忘れるほどすっきりしている。お酒と鼻炎の関係が明らかになったが、僕とすると、お酒を永久にやめた方がよいという結論には辿り着きたくない。
 幸か不幸か、完治したわけではない。時々、思い出したように鼻水が出る。よかった、お酒だけのせいではないのだ・・・・って、何を喜んでいるのだ?

 とにかく4晩禁酒をしたら体調は快調そのもの!肝臓も他の臓器もきっと充分に静養したことだろう。そこで5日目に解禁した。しかも4日間も禁酒したのだもの。その間に飲んでいたことを考えると、その分の酒代が浮いているわけである。それでね・・・・うふふふふふ・・・・・買ってしまったのだ。えっ?何をって?決まってるだろ。ちょっと高いワインです!
 やっぱり、あれだね。こんな時はブルゴーニュ・ワインのジュヴレ・シャンベルタンGevrey Chambertinに限るね。ワイン自体は濃厚ではないのだが、色とりどりの果実の香りが夢のように広がって、シ・ア・ワ・セ!もっと濃厚なタイプだと、充実感を得るのはある意味たやすいかも知れない。でもブルゴーニュ・ワインのような軽口タイプでは、中途半端な安いワインは薄くて飲めたもんじゃない。この充実感を得られるクラスのものを求めることによって、初めて軽さは優雅さや上品さに変わる。食事の前にコルクを抜いて置いておくことが必要。すると刻一刻と味わいが変化してくる。その時その時のかけがえのない瞬間の味と香りを楽しむのである。

 さて、鼻炎は?というと・・・・うーん、次の日ちょっと後戻りしたかな。だから決心したんだ。これから禁酒日を増やしていくんだ。最近血糖値を計っていないけれど、どう考えてもちょっとお酒飲みすぎていたものな。
 その決心を聞いて、解禁Chambertinに便乗して一緒に味わった娘の志保は大喜びしている。
「パパ、我慢した日数に応じた値段のワインを解禁日に買うことにしようよ。それが励みになるんじゃない?安いお酒を毎日なんとなく飲むよりも、一週間に一度だけ良いお酒をそれにふさわしい料理で飲む方が、パパくらいの年齢にふさわしくて素敵じゃない!」
おおっ!励みねえ・・・・それに熟年のセレブ的飲み方ねえ・・・・なかなか良いこと言うじゃないか!さあすが、我が娘!パパ頑張っちゃおうかなあ!
 でもよく話を聞いてみると、どうも志保は僕と一緒に禁酒に付き合う気はないらしい。つまり志保にしてみれば、普段も飲めて、さらに一週間に一度上等のお酒が味わえそうなので、パパをうまくけしかけているようだ。なかなか抜け目のない娘だ。どういう育て方をしているんだ?親の顔が見たい。

 そういえば昨年ミラノに行く前、やはり鼻炎がひどくて、飛行機の中でも鼻が詰まって気圧の変化に対応出来なくて頭は痛いし息苦しいし・・・・それで、現地に着いてスーパーでしこたまティッシュを買い込んで備えたのに、2日後には全く治ってしまって、ティッシュが大量に余ってしまった。
 イタリアにいる間は鼻炎とは完全に無縁であったなあ。それに誰も花粉症なんて騒いでいないぞ。日本だけだ、こんな現象は。なんでだ?そうだ!イタリアにいればいいのだ・・・・あーあ、なに言ってんだ・・・・バーカ!

「マタイ受難曲」の調性
 4月21日土曜日。東京バロック・スコラーズ主催の、礒山雅(いそやま ただし)氏による4回に渡る「マタイ受難曲」講演会の第4回目が行われ、この企画が完結した。手前味噌であるが、大変実りのあるシリーズであった。今回は、「マタイ受難曲」第2部に関する講義。最も興味深かったのは調性に関するお話しである。
 音楽作品は、一般的にはかなり長い作品でも冒頭の調性と全曲の終始和音の調性とは一致している。モーツァルトのオペラを例に取ってみると、「フィガロの結婚」はニ長調で始まり、途中いろんな調に行くが、最後はニ長調で終わる。「ドン・ジョヴァンニ」はニ短調で始まり、全く同じ調ではないものの同主調であるニ長調で終わる。
 ロマン派以降にになると、少し離れる作品も出てくる。たとえば「トリスタンとイゾルデ」の冒頭はイ短調のように始まるが、前奏曲のメイン調性はホ長調である。一方、終幕の「イゾルデの愛の死」はロ長調。同じ調性ではないが5度上の調性。このように、たとえ離れたとしても、必ず意図的になんらかの関連性を持つのである。
 ところが「マタイ受難曲」はホ短調というシャープひとつの調で始まり、フラット3つのハ短調という調性(旋法の考え方があるため、バッハの記譜ではフラット2つだが)で終わるのだ。ここまで無関係な作品は、音楽史全体を見渡しても珍しい。特にバロック期においてはあり得ない。その理由を、僕は前回の講演会の質疑応答で、礒山先生に向けて質問した。

 今回は、その質問を受ける形で、冒頭から「マタイ受難曲」全体の調性構成のお話しをなされた。礒山氏によると、受難物語の緊張感は基本的にシャープ系の調性で表現されるが、イエスが十字架にかかり、救世主イエスの使命が成就されると、解放と救済を表現するフラット系の調性に移行して行くということである。バッハは、全体の構想として、調性の統一感よりもシャープ系からフラット系への“移行”に意味を持たせたかったということである。
 その移行のきっかけとなった言葉は、十字架を見つめるユダヤ人たちの群衆合唱「他の者は救えても自分は救えないのか」の最後の言葉「彼は『わたしは神の子だ』と言っていた」だという。このich bin Gottes Sohn「わたしは神の子だ」という言葉は、ユダヤ人たちが嘲笑のために引用した言葉ではあるが、いみじくも真実を語っており、これをキーワードとしてバッハは調性の大きな転換を図るわけである。

 礒山氏は、フラット系に変わった直後のアルトの合唱を伴ったアリアについて、こう述べておられる。
「このアリアが本当に重要なのだと気が付いてから、いろんな演奏を聴いたが、なかなかこれといった演奏に辿り着けない」
たしかに、受難の悲劇の最中にあって、この曲の持つ長調の妙な明るさをどう捉えたらいいのか、とまどいを覚えることも事実だ。こういう曲の場合、オペラなどのように単にエモーショナルな面だけからアプローチしていくと理解しがたい。その結果、通り一遍の表現をして、解釈を薄っぺらいものにする危険性を孕むわけだ。礒山氏は、この曲の中で救済の鐘が鳴り続けるのだ、と述べておられる。
 このように、「マタイ受難曲」の演奏にあたっては、“悲劇を超えた救済の喜び”や、“死を超えた永遠の生命”といった神学的な視点や信仰者としてのアプローチが不可欠なのである。僕も演奏にあたっては心してかからなければいけないと思い、背筋を正した。

 ただ、どんなに僕が礒山氏を尊敬していたとしても、僕は礒山氏ではないので、なんでもかんでも礒山氏の言うことを鵜呑みにして演奏するわけにもいかない。たとえば、
「コラールは、当時民衆が一緒に参加して歌っていたものなので、あまりテンポやダイナミックを変えて表情を誇張して演奏するのはいかがなものでしょうか」
という意見に関しては、それも理解出来るけれども、僕はあえて様々な表情で描き分けている。 
 理由は、今度の演奏会が、教会で礼拝の一環として演奏されるものではなく、バッハの芸術性を純粋に味わうべくホールで演奏されることによる。そもそも、当時の演奏環境がそうであったからといって、その通り演奏することは、宗教的意味合いは分かるが、純粋芸術的な見地からバッハにとって“演奏における理想像”かどうかは、はなはだ疑問ではないか。
 もし、あるプロの演奏家が、
「聖歌の歌い方は、カトリック立川教会のミサの中で一般会衆が飾り気なく自然に歌っているものを理想とするべきです。信仰の曲なのですから」
と思って、それを録音してコンサートで真似しようとしたら、僕はあわててこう言うだろう。
「いやいや、プロがわざとレベルを落とすなんてことはお願いだからしないでちょうだいね。フレーズ毎に音楽が止まってしまうのも、それが理想というよりは、自然にそうなってしまうのであって、真似するものでもないんだけど・・・」
「でも、立川教会の信者さん達には信仰があるでしょう」
「信仰はあります。でも、だからといってなんでもかんでもその通りにすれば良いわけではありません」
 それと同じです。せっかくバッハが、歌詞の内容に合わせて内声のハーモニーをあれだけ表情豊かにつけているのに、当時の教会の会衆がそうであったからといって、わざとどの曲も同じようなダイナミックとテンポで無表情に歌ってしまったら、僕としてはかえってバッハに申し訳ないような気がする。

 通常、オペラなどでは主人公が死んでしまったら、そこで終わってしまう。でも「マタイ受難曲」では、イエスの死から終曲まで、バスのアリアがあったり、合唱曲があったりでなかなか終わらない。礒山氏に言わせると、まさにフラット系に変わってからがバッハの真意が発揮されていて、充実した内容を持つ部分であるという。
 その中でも特に、百人隊長たちの言った「まことにこの人は神の子であった」という言葉につけられた音楽は、バッハの自筆楽譜でも十字架の形で書かれていて、内容的には主人公の死後にもかかわらず「マタイ受難曲」のクライマックスであるとも言える。
その礒山氏の考えには、僕も百パーセント賛同する。
「この音楽は、かつてとても遅いテンポで演奏されていました。カール・リヒターやオットー・クレンペラーなどのように。でも、今はそういった演奏は流行りません」
 礒山氏がこう言った途端、聴講していた東京バロック・スコラーズの団員達の間だからクスクスと笑い声がもれる。
「ば、ばか・・・・笑うんじゃないよ!礒山先生にバレるじゃないか・・・」
と思って僕はあわてた。
 何故なら、僕はかつてドイツ系の指揮者がみんなやっていたように、1拍を4つで、つまり16分音符ごとに振っているのである。つまりメチャメチャ遅いのである。遠くからかすかに響いてくるようなピアニッシモから始まり、だんだん近づいてくるようにクレッシェンド。クライマックスがフォルティッシモで、また遠くに離れていくようなディミヌエンド。最後は聴き取れないくらいのピアニッシモで長く伸ばして終わる。
 要するに、礒山氏が、「今はそういった演奏は流行りません」とおっしゃったことを、これ以上強調出来ないほど強調して徹底的にやってます。はい。すいません!

 僕は学生時代カール・リヒターのレコードを擦り切れるほど聴いていて、リヒターの信奉者となることからバッハ体験を初めた人間だ。「マタイ受難曲」のレコードは、本当に擦り切れていて、最近引っ張り出してきて聴いてみたが、シャーという雑音の向こうからぼんやりと演奏が聞こえるほどだ。だから僕の演奏に関して聴衆が随所でリヒター影響を感じ取るのは必至だ。勿論、リヒターと全く違う解釈する個所も沢山あるのだけれど・・・・。
 特にこの個所に関して言うと、何度リヒターのレコードを聴きながら泣いたことか。このテンポで演奏されると、あたかも天が開けてまばゆい光の中を天使が登り降りするような圧倒的なイメージを受ける。だからもう他のアプローチなど、とても考えられない。ここで僕もお客様に泣いてもらいたいし、少なくとも「マタイ受難曲」の中で最も感動したと思ってもらいたいのである。

 とはいえ、礒山氏の強引ともいえる思い入れの強さが僕は好きだ。バッハを本当に愛していることがひしひしと伝わってくる。学者といえども、このくらい熱くなくちゃ!
「イエスの死後のバスのアリアの最後の歌詞である『世よ、去れ、(その去ったところに)イエスを入れさせろ!』のところは、是非思い入れを入れて演奏してもらいたい!」
などと一般会衆に向かっておっしゃっているけれど、どうも僕には、自分に向かって注文しているとも脅迫しているとも思えて仕方がない(笑)。

 7月1日の演奏会には、礒山氏もいらして下さるそうだ。嬉しいような恐いような・・・・とにかく、何やってんだ!と怒られないようにだけはしなければ。

偽書
 さて、最近僕が読んでいた本を紹介しよう。とはいっても、この本をみなさんが買うことを薦めるわけではない。買う必要はない・・・あるいは、買わない方がいいと思う。特にクリスチャンの人達は絶対に買わないで下さい!なんだ、なんだあ?気になるなあ・・・・買っちゃおうかなあ、なんて思われると困るなあ・・・・。

 その本のタイトルは、「キリスト教の創造~容認された偽造文書」(柏書房)。著者は聖書学の権威であり、ノース・カロライナ大学教授のバート・D・アーマン。同じアーマン氏の著作に「キリスト教成立の謎を解く~改竄された新約聖書」(柏書房)があって、以前このページでも紹介した。でも今回紹介する本は、よりシビアな語り口で、聖書やキリスト教外典に含まれている数々の偽造文書と、その作成の動機や目的について書かれている。
 以前説明したが、現代において聖書学というのは、もの凄くシビアな学問と化している。考古学的なアプローチや文体の分析、記述されている内容の吟味など、あらゆる方面から精力的に研究が進められ、聖書という、かつては信仰の対象とする目的以外には近づくことを許されないアンタッチャブルであり聖域であった書物が、今では身ぐるみはがされて晒し者にされている感がある。
 それを逐一みなさんに告げて、僕はみなさんの信仰心を揺さぶろうとしているわけではない。でもひとつだけ、みなさんに知らせておきたいことがある。それは、僕にとってずっと気になっていた、教会における女性の立場に関する記述が、実はパウロが書いたものでなかったことなのだ。

婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子を産むことによって救われます。
  (テモテへの手紙第2章11-15節)
 この言葉をパウロが述べたと信じられていたことから、教会では徹底的に女性は差別されていた。僕は、はっきり言って、この箇所が嫌いだった。最後の「子を産むことによって救われる」というくだりが特に嫌いだった。だって変ではないか。パウロは、たとえばガラテヤの信徒への手紙では、こう言っているのだ。
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼(バプテスマ)を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。
  (ガラテヤの信徒への手紙第3章26-28節)
 一方では、徹底して平等主義を貫いていて、我々は「イエスを信じることによって」救われ、その点に置いては男も女もないと言い切っているパウロが、もう一方では、女は「子を産むことによって」救われるなどと、矛盾することを言っている。じゃあ、どんなにキリストを信じても、子供を産まない女性は救われないのかということになってしまう。男から見ても、
「そりゃあねーだろ!」
と思う。でも、この女性差別の文章を書いた作者がパウロでないとは、なんという朗報だろう!そうだ、そうだ、パウロがそんなこと言うわけないのさ!

 このテモテへの手紙が偽書であるという理由に関しては、主張している内容がパウロらしくないという矛盾もさることながら、この手紙が書かれたのがパウロの時代よりもずっと後の時代だと思われている事による。何故なら、パウロの生きていた時代には、パウロが先頭を切って各地で宣教していたのであり、まだそれぞれの地で教会というものが大きな組織になっているはずがないのだ。だからこの手紙のように、長老たちに向かって教会の運営のあり方などを指摘する必要性もまだ生じていないのである。
 パウロは常に身の危険を感じながら異国の地で宣教を行っていく。落ち着いて結婚するどころか、いつ死んでもいいという心境だったから、当然独身を貫いた。他の信者たちにもむしろ、
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。
  (コリントの信徒への手紙第7章7節)
と言っている。先ほどの、夫婦の道を懇々と説く手紙を書く心境ではないのである。
 きっとキリストやキリストの直接の弟子達を知らない世代になると、教会組織はどんどん大きくなって長老がそれを仕切り、教会内で男性と女性が対立したり、いろいろ具体的な問題が起こってきたのだろう。だから必要に迫られてこうした文書が生まれたのだと思われるが、それをパウロが言ったことにするとは、たとえ善意からであったとしてもひどいと思いませんか。アーマン氏は、信者たちに言うことを聞いてもらいたいために、「パウロが書いた」という権威、すなわちお墨付きが欲しかったのだと主張する。

 あっさり言ってしまうと、パウロの書いたとされている14の書簡の中で、現代の聖書学の学者達が全員、本当にパウロが書いたと認めている書物は、わずか7つだけである。すなわち、
「ローマの信徒への手紙」
「コリントの信徒への手紙1」「コリントの信徒への手紙2」
「ガラテヤの信徒への手紙」
「フィリピの信徒への手紙」
「テサロニケの信徒への手紙1」
「フィレモンへの手紙」
である。これらの書物の中で述べられているパウロの思想は一貫しており、決してブレていない。そしてまた、そうだからこそ、偽書が偽書であることがたやすく見破られたわけである。

 でも、男女のあり方に関して言うと、次の文章も、偽書であるのが分かっていながら、フェミニストの僕としては賛同したい。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。(中略)そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。
  (エフェソの信徒への手紙第5章25節及び28-32節)
 仮にパウロが書いたものでなくても、これは信者として夫婦のあり方を指し示す貴重な文章だと思う。こういうのだったらいいな。
 でもねえ、こういうこと言っていると、聖書の中で自分の信じたいものだけを信じ、自分の従いたいものだけに従うという誤った行動に陥りやすい。そういう条件付きの信仰態度って、やっぱりよくないよね。うーん、素朴に全てを信じ切っている信者でいる方がしあわせなのかも知れない。



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