癒しのヴェルディ・レクィエム

三澤洋史 

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体と心のチューン・アップ
 先週は体調が戻ってきたので、時間をやりくりしてプールに3回行った。水泳というのは、体が本当に健康でないと、そもそもやろうという気が起きないものだけれど、無理矢理にでもプールに体を向かわせて一度でも水の中に入ると、こんなに爽やかな思いが出来るのだったら、もっともっと健康にならなくちゃという意欲が湧き上がってくるから不思議だ。

 生きることに対する意志が消極的になっていると、全てが悪循環し始めるものだけれど、その反対に、一度良い循環が始まると、体も活動的になってくるし、発想もポジティヴになってくる。要は、どうやって悪循環を断ち切り、良い循環を作り出すかなのだ。

 我々の意識は、心のアンテナがどこを向いているかによって、向いている先のものを無限に引きつける。本当は、体全体を大転換するというより、魂の向いている方向をより良い方にちょっと変えるだけでいいのかも知れない。ただね、これは言うのは簡単だけれど、なかなか出来ないのだ。心がふさぎ込んでいる時は、意図的に心のアンテナを下に向けたかったりするものだ。
 でも、アンテナを一度下に向けてしまったら、それだけでは済まなくなる。どんどん暗い想念を引きつけ、厭世的な気分を呼び込み、収拾が付かなくなる。ついに体にも変調をきたす。そのまま癌にでも何にでもなってしまいそうだった。しかも、なってもいいとすら思ってしまう自分がいた。実に恐ろしいことである。

 病気とは“気”から来るのだと実感した。気が病(やまい)になり、体に影響するのである。とはいえ、全ての病気が気の持ちようから来ると言うつもりはない。ただ僕の場合はそうであった。だから、治すためには無理矢理にでも心のアンテナを上に向ける必要があったのだ。先週書いたように、僕の場合は、バッハの音楽がきっかけとなってアンテナの方向転換に成功した。お医者さんから言わせたら、そんな事で治るのだったら苦労は要らないというところだろうが、それはひとつの真実なのだ。
 さらに、逆に運動などで体を健康状態に向けることで、精神に影響を与える場合もあると思う。精神から来る病を、肉体に薬を処方するだけでは治せないのと同じだけ、肉体を使うことによって精神を揺さぶり、健康にしてしまう可能性があるのだ。精神と肉体とは分かち難くつながっているので、気が進まなくてもプールに足を運ぶこともアリなのだ。バッハでつかんだ解決の糸口を、僕は水泳でダメ押しをして、僕は自分で意志で健康になるべく努力して元気になった!

 そしたら神様からご褒美をもらった。ついに愛犬タンタンが僕の夢に登場したのだ。タンタンは僕の眼をしっかりと見て吠えていた。
「ほら、僕だよ!僕、ちゃんと生きているんだよ!」
と言っているようだった。
 嬉しかった。僕達の絆はまだ存在しているのだと信じられた。魂は無限であり永遠である。僕は本当はいつだってタンタンに会えるんだ。また、今このタイミングで夢にタンタンを登場させる配慮をしてくれた神様にも感謝している。暗い想念をかかえたままタンタンに会ったってロクなことがないもの。

癒しのヴェルディ・レクィエム
 さて、精神も体も健康になって迎えた志木第九の会演奏会は、僕の予想していたものと随分違うものとなった。特にメイン・プログラムであるヴェルディのレクィエムでは、指揮をしている最中、生まれて初めての精神状態を体験した。

 そもそも指揮者が演奏会で指揮をするという行為の90パーセント以上は、実に現実的で実務的な行為である。音楽の起伏に合わせて情熱的に振っているように見えるが、頭の中は実に冷静で、淡々と情報を処理していく。それは、まるで複雑な宇宙船などの操縦をしているようだ。
「間もなく第二弾ロケット切り離し。スタンバイ・・・・ゴー!よし、うまくいった。おっとっと、右側の気圧がやや下がっているな、ではリカバリー・・・・オッケー!ややっ、左30度、レーダーに何かが映っているぞ。回避が必要か?」
などというように、細かく発生する様々なアクシデント(聴衆にはアクシデントとは決して映らないほど微細なこと)に繊細に対応していく。

 ただそれでいながら、全く別の次元から信号が入る。それをよく人はインスピレーションと言うが、そんなに大げさなものでもない
 僕の感じでは、インスピレーションとは、演奏が始まると同時につながって、最後の音が終わるまで様々な情報を提供してくれるカーナビのようなものだと思う。地上で普通に運転しながら、カーナビの情報にも従っている・・・そんな感じかな。
 僕の場合、間違いなく言えることは、暗譜で指揮をすると、そのカーナビの感度が比べものにならないくらい上がるということだ。でもだからといって、
「今すぐ反対を向いて走れ!」
というような無茶な要求はしない。
 むしろカーナビは、中空から演奏全体を俯瞰してくれる。今生まれつつある音楽の全体像を上から観せてくれるのだ。まだ演奏していない箇所についての情報も・・・・信じられないかも知れないけれど、とても感度が上がっている時には、2小節先にある奏者が間違えるといった未来の情報が分かる。そしてその通りになる。でもそれは、決して夢うつつの状態とか一種の酩酊状態とかいうものでもない。むしろしっかり覚醒しているのである。
 カーナビを支えているのは、あくまで僕達の地上での通常運転だ。もしカーナビに映し出された道路の画面だけ見て運転したらどうであろうか?他の車にはぶつかるし、人は轢くし危なくて仕方がないのではないだろうか。インスピレーションだけに頼りすぎる演奏者の脆弱性はその点にある。
 僕が暗譜する時は、暗譜するくらいスコアを勉強するわけだから、まず地上的な情報処理能力がとても上がっている。そこにプラスしてカーナビ情報が加わるので、二重の意味で感覚が研ぎ澄まされているのである。

 ヴェルディのレクィエムという曲の中に、死への親近感や強い悲しみの感情が凝縮されているという話は先日書いた。演奏会の前まで、僕は、
「きっと、今回の演奏会では悲しみに押しつぶされそうになりながら指揮するのだろうな」
と予想していた。でも、演奏会を指揮しながら僕の心を支配していた感情は、“悲しみ”ではなく“やすらぎ”であり“癒し”であった。カーナビから僕の心に直接入っていた信号にネガティヴなものは何もなかった。

 演奏している最中には、確かにいろんな感情が去来した。でも不思議なんだ。感情よりももっと頑丈なものに魂が守られていて、どんな感情が襲ってきても、僕の精神はビクともしないのだ。曲が始まってからすぐに、指揮しながら考える。
「ああ、この箇所・・・・タンタンが死んでからすぐに勉強していたけれど、この和音に触れるのが本当に辛かったなあ・・・」
でも、その辛さを今は少しも感じない。むしろそうした過ぎ去った日々を思って胸に込み上げるものを感じる。

 別の個所にさしかかる。
「ああ、この箇所の厭世的な響きに落ち込んだなあ。でも、今はむしろその天国的な調べにあこがれさえ感じる・・・・」
と不思議に思う。自分がこの曲を勉強していた時に抱いた様々なマイナス感情は、今は刻一刻とやすらぎの感情に上書きされていく。

 いよいよラクリモーザに入ってきた。レクィエム中、最もこの世とあの世との境界線が曖昧になっている曲だ。先日特に言及した箇所は今日も彼岸の響きがする。でも驚いた。その彼岸が輝いているのだ。思い切って自分の意識をあちら側に入れてみる。すると、僕の全身を暖かいものが包む。涙が溢れてきた。でもそれは悲しい涙でも喪失感の涙でもなかった。大きなものに包まれている安心感だ。まるで母の胎内にいるようなのだ。

 こうして静かなやすらぎに満ちてレクィエムの演奏は進み、やがて最後のLibera meのハ長調で最後の和音が中空に溶けて消えていった。そして、この一ヶ月、悲しみと共にこの曲と向き合っていた僕の心の歴史は、信仰、希望、愛に彩られて終わった。最も辛い一ヶ月は過ぎ去った。
 タンタンが死んだ時刻に演奏していた名古屋でのAve Verum Corpusの重さといい、今日の演奏といい、自分自身でも気が付かないものを、演奏というものは常に鮮明に映し出す。それにむしろ自分が驚くのだ。演奏は本当に正直であり、性格も生き様もアクチュアルな精神状態も何もかも包み隠さず暴くのである。

 演奏会の前には、僕はもうヴェルディのレクィエムを演奏することは出来ないのではないかと危惧していたが、今は逆だ。むしろこの先何度でもやりたい。この曲に内在するプラスであれマイナスであれ様々なパワーに熟知した僕は、今日この日から、ヴェルディ・レクィエム解釈者としての道を歩み始める。この作品の持つ“癒しの力”を誰よりも表現出来るような気がするから。
 ヴェルディ自身も、この曲でけっしてイケイケやガッツリばかりを狙っていたわけではないのだ。彼独特の聴衆に対するサービス精神はある。それはナブッコなどの初期の作品から最後のファルスタッフまでブレることなく流れている。でも、その合間にヴェルディは沢山の本音を忍ばせている。それこそ彼の作品に対する真意なのである。

 今回の演奏会で特に賛辞を送りたいのは東京ニューシティ管弦楽団だ。初期の歌劇「ナブッコ」ハイライトでは、若々しく躍動感に溢れた演奏をしてくれたし、レクィエムでは、彼等の感性を全開にして僕の想いを受け止めてくれた。その結果、心のこもった素晴らしい演奏を成し遂げてくれたのだ。
 そしてソリストの黒澤明子さん、マキマキこと山下牧子さん、今をときめく樋口達哉さん、そしてナブッコのザッカリアとレクィエムのソロの両方をこなしたタン・ジュンボさん、本当にベスト・メンバーだった。

 勿論、志木第九の会のみなさんの真摯に音楽に向かう姿勢にいつも心打たれる。練習中の僕のいつ果てるとも知らない長話を飽きることなく聞いてくれるし、それを受け止めて自分たちの中で咀嚼し、演奏に反映してくれる。僕が音楽で何を大切にしているのかを分かってくれている。
 僕は、こんな人達と音楽をやりたいのだ。気持ちを通わせ、想いを通わせ、そして人生にも音楽にもひたむきに取り組み、その中から価値のあるものを取り出したい。素晴らしい仲間に出会えて僕は本当にしあわせだと思う。

それにしても、ヴェルディ大好き!
さあ、次はいよいよ「マタイ受難曲」だよ!



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