21世紀のバッハがやっと出来た!

三澤洋史 

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マタイ受難曲二回通し
 よく言われる。
「マタイ受難曲のような、あんな長い曲をやるなんて考えられません。とても体力が必要なんでしょうね」
でもね、僕たちは、演奏会の日の朝に一度ゲネプロ(総練習)でほとんど通しているのだ。つまり、あんな長い曲を1日に2回もやったわけだ。
 大部分の人はマラソンの42.195kmを一生のうちに一度も走ることはないであろう。それどころか、それを走ると思っただけで、気が遠くなるだろう。でも、マラソン選手は、42.195kmをマラソンの日だけ走るわけではないのだ。それと同じなのである。

 以前は、演奏会前の日の練習で通し稽古をやり、当日のゲネプロは、中身を飛ばしながら短時間で切り上げたものだった。でも、それではどうしても、長いレシタティーヴォの後で突然来る激しい群衆合唱などで、連結がうまくいかないまま演奏会を迎えてしまうことになる。
 つまり、乗り切れないオケのプレイヤーなどが、
「おっとっと!」
と思っている間にもう曲が終わってしまって、気が付いてみると次のレシタティーヴォに入っているなんてことになってしまうのである。特にマタイ受難曲では、ひとつひとつの群衆合唱がヨハネ受難曲ほど長くないし、あちこちに点在しているので、その危険性が高いのだ。そうすると聴いている聴衆も、緊張感が途切れてしまって、ストーリーの中にのめり込めないのである。

 だからやっぱり、全員が揃った通し稽古は1回でも多くやるべきなのだ。本番当日のゲネプロも、最後の最後まで流れを最大限に重視した。福音史家のレシタティーヴォはフル・サイズでやった。福音史家の畑儀文(はた よしふみ)さんには、
「フル・ヴォイスで歌わなくて良いからね。いざとなったら僕が代わりに歌ってあげるよ」
と言ったのに、タフな畑さんは、ほとんどフル・ヴォイスでゲネプロも歌い通した。
 群衆合唱やコラールも全てノーカットでやった。カットしたのはABAの三部形式アリアのダカーポ後くらいだった。そんなわけで、ゲネプロは朝の10時から始めて1時半近くまでかかった。
 みんな最後の方は、
「ゲッ、この後、もう1回最初からやるんだよね。今死んだイエスがまた出てきて、過ぎ越し祭に自分が十字架に架けられる予告から始まるんだよね」
と思っていたことだろう。
 僕もね、本当は気を遣ってあげたかったんだよ。ごめんねみんな。よく過酷なスケジュールに耐えてくれたね!ちなみに曲が長いのは僕のせいではないので、クレームはバッハの方にどうぞ・・・・なんちゃって。

 でも、ここからは声を大にして言いたい。だからこそ、昨日のマタイ受難曲は、あれだけ統一の取れた演奏が出来たのである。オケもソリストも合唱もひとつになって、首尾一貫した演奏が可能となったのである。

身体、頭脳、ハート
 演奏会が終わってからみんなが心配してくれる。
「あれだけエネルギッシュに動いて、さぞやお疲れになったでしょう」
いやいや、元気なのである。いろいろ運動するようになってから、演奏会に費やすエネルギーも、日常の範囲を大きく越えた特別なものではなくなった。
 たとえば、僕にとって本番で指揮をする時の疲労度は、ほぼ自転車に乗っている疲労度と一緒くらいだ。自宅から新国立劇場までマウンテンバイクに乗って片道約1時間半かかるが、マタイ受難曲第2部の疲労度もほぼそのくらい。 
 そうすると、ペテロがイエスを裏切るのは東八道路のびっくりドンキーを過ぎたあたりで、十字架の道行きは、高井戸料金所か環八くらい。イエスが死ぬのは明大前くらいか。あはははは。
 先週は本番に向かって身体をチューンアップした。月曜日、火曜日、それに木曜日金曜日とプールに行き、土曜日のオケ合わせは、大久保の東響クラシック・スペース練習場まで、やはり片道約1時間40分かけて自転車で往復した。団員達に僕の新しいマウンテンバイクを見せびらかしたかったこともあるな。
 新しい道を開拓するのは楽しい。東八道路から人見街道に入り、久我山駅を通って、環八から五日市街道に入る。それから丸ノ内線新高円寺近辺から青梅街道に合流。中野坂上を通り過ぎ、鳴子坂下から、今は広くなって素晴らしくなった昔の職安通りを通って大久保駅にまで辿り着いた。
 体のチューンアップは、なにも体のためだけではない。僕の場合、運動によって体調が良くなるだけではなく、なんと頭脳も冴えるのである。極端な話、スコアを開いておとなしく勉強するよりも、その時間泳いでいた方が効果的な場合もあるのだ。

 そんなわけで、演奏会が終了したら全力を出し切って放心状態で、もう起きることも出来ないという感じではない。それどころか、必要とあらば、もう一回最初から通すことだって出来なくはない。
 でも、それは体力的にはという話で、勿論内容的には演奏会で全てを出し切っている。一番疲れるのは神経だ。バッハの音楽を指揮することは、ヴェルディやワーグナーのように大振りする必要はないが、音楽が異常に緻密なので、全体を演奏中常に掌握し続け、必要に応じて様々なコントロールをかけることは並大抵のことではない。
 特に今回はチェンバロを弾きながらの指揮だったので、普段使わない神経を使った。演奏中あまり指揮に夢中になると、次にチェンバロを弾くレシタティーヴォまでに手が鍵盤に戻ってこない恐れがある。
 それに、みなさん気が付いていたかも知れないが、チェンバロはピアノと違ってタッチで強弱を出せないので、次のシーンをフォルテで弾き始めるとすると、それにふさわしいフォルテ用のストップに切り替えておかなければならない。コラールを指揮しながら、開いている方の手でそっとストップを切り替えたりしていたのである。
 このように常に冷静でいなければならない一方で、鳴り響いている音楽の中に熱気を投入し続けなければならない。クールとホットの同居、あるいは頭脳とハートの共存こそが最も難しい点である。

物語の流れが良かった秘密
 合唱団は、普段の練習でも、いつもレシタティーヴォから入っていた。コラールでさえも、前の福音史家の聖句の意味を受けて作られているので、その連結を伴って入るのが不可欠なのである。そのレシタティーヴォはいつも僕が自分で歌っていた。
 その僕の練習時の歌と、実際の福音史家の畑儀文さんの表情は、基本的にほぼ一致していた。何故なら僕たちは、以前、ガーデンプレイス・クワイヤーのマタイ受難曲演奏会で一緒に演奏しており、その事前の合わせですでにかなりの意見の一致を見ていたのだ。そして、当時の演奏会の時も、僕はチェンバロで伴奏していた。
 そもそも僕と畑さんの音楽観や、ストーリーの流れに対する感性は非常に似ている。練習時に僕の方から注文を出したり、お願いしたりすることもあったが、畑さんは恐らく僕がそれを言い出す前にほとんど分かっていたようで、即座に反応してくれるのだ。僕達は多くを語る必要もなかったし、ましてや議論を要するような状態になることもなかった。それにしても、彼の声楽的コントロールの力と柔軟な表現力には、いつも畏敬の念を覚える。こんな人は日本にはいない。
 だから、本番近くになって、合唱に畑さんが加わってきても、合唱団員は何の違和感を感じることもなく、自分たちのアインザッツのテンポ感を掴むことが出来、群衆の表情を準備することが出来たのだ。福音史家から群衆合唱への流れ、これがマタイ受難曲全体の統一感を決定する。その中心に畑さんがいたのである。

何故準備に時間が必要か?
 今回のマタイ受難曲の準備にはとても時間をかけた。東京バロック・スコラーズは、「バッハとコラール」演奏会終了後からたっぷり1年4ヶ月あった。そして、その間に4回に渡る講演会を開いて勉強を重ね、突き詰めて突き詰めてこの日まで辿り着いた。
 団員の中には、1年4ヶ月前に、すでにすぐにでも全曲歌えた人が少なくない。僕の棒で、名古屋や浜松で何度もマタイ受難曲を歌っていて、僕がどういうテンポで指揮するか熟知していた団員もいる。けしかければ、1年前の7月1日に演奏会をすることさえ出来たかも知れない。にもかかわらず、僕は何故これだけ時間をかけたか?何故4回の講演会などやって回りくどいやり方でアプローチしたか?

まさにそこに、僕が東京バロック・スコラーズという団体を作った本当の理由が隠されているのだ。

 結論を言うと、僕はひとりひとりの“想い”を熟成させたかったのである。せっかくこれだけの偉大な作品に向かい合うのならば、隅々まで味わいつくし、個々のテキストを吟味し、ひとりひとりが何にどのように共感しているのかを自ら探り、指揮者がどうしたいかではなく、自分がどのように表現していくべきか“自分の問題として”悩み、熟考していく間に、それぞれの団員から発酵の泡がふつふつと湧き出でてきて、しだいに形を成していくような、そんな状態で演奏会を迎えたかったのである。
 そして、それぞれの団員の想いが、堰き止めようとしても溢れ出る“うた”となって会場に広がっていくような、そんな演奏会にしたかったのである。

 考えてみると、我が国のあらゆる文化は、特に戦後欧米を手本にしながら追いつけ追い越せという勢いで発展してきた。その中で音楽に携わる人達も、「クオリティを上げて」ということをモットーに努力してきた。
 もともと日本人は優秀だから、西洋人よりずっと能率良くいろんなものをこなす能力に長けている。この期間で仕上げろと言われれば、全力で立ち向かい、短期間で見事なものを作り出すことが出来る。さらに、そうした器用な人材が重宝がられ、時間がかかる人や、すぐに要領良く飲み込めない人ははじかれるような社会がしだいに構成されてきたのではないだろうか。
 でも時折、そうした社会で勝者となっている人達に決定的に欠けている要素を、僕は発見していた。それは、なんでもこなすけれど、自分が今関わっているそのものに対するモチベーションが低い人達である。つまり彼等にとって一番大事なことは即座に“評価されること”であり、そのための題材に関しては要するに何でも良いし、10年後に結果が現れるような事には、何にも興味を示さないのである。
 ビジネスの世界ではそれでも良いかも知れない。でも芸術の世界でも、そういう人達が少なくないのは深刻である。見事な仕上がりを見せる演奏は沢山あるけれど、その辺のCDと変わらず、今日聴いた演奏を明日になればもう忘れてしまうような演奏が街に氾濫していないだろうか?演奏している本人も、明日になれば忘れてしまうのではないかと思わせるような音楽家に出遭うと、僕はがっかりするのを通り越して絶望的になってしまうのである。

 それは、僕が若い時から求めていた音楽との関わり方と本質的に違うものなのである。では、僕の求めていた音楽とは、どんな音楽か?それは、分かり易く言うと、その音楽を聴いた人が、それを人生におけるひとつの“体験”として捉えられるような「かけがえのない演奏」である。では、そのかけがえのない演奏をするにはどうしたらいいのか?それは自分が演奏する曲を大切に想うことであり、月並みな言い方になるが、その曲を「より深く愛する」ことである。そのためには、どうしたらいいか?それは、その曲と過ごす時間を作ることなのだ。まさに「星の王子さま」でキツネが言っているセリフなのだ。

C'est le temps que tu as perdu pour ta rose qui fait ta rose si importante.
君が君の薔薇のために費やした時間こそが、まさにその薔薇をかけがえのないものにする。
(筆者訳)
 だから時間をかけ、いろんなアプローチをして、曲に様々な方法で関わり、それぞれのメンバーにとって、どこにでもあるマタイ受難曲から、世界にたったひとつしかないマタイ受難曲になるよう導きたかったわけである。
 こうしたことは、芸術の世界では当たり前のことのように思われるけれど、物質主義や効率主義の蔓延した20世紀では、まさにこの部分がないがしろにされ、忘れ去られてきたのだ。だから僕はオーバーかも知れないけれど、21世紀のバッハというプロジェクトを立ち上げたわけである。

それぞれが自分の言葉で
 マタイ受難曲演奏会では、合唱団のみんな僕のテンポや解釈には従っているのだが、決して盲従しているのではなく、それぞれの場面でそれぞれの人達が自分の想いを素直に出していた。それがひとつのうねりとなって溢れ出るような表情が出ていた。決して判で押したような一色ではなく、まさに玉虫色の複雑でデリケートな色合い。僕は振りながら思っていた。
「こういう合唱団を作りたかったんだ!やっと出来たんだ!これこそ21世紀のバッハだ!あたらしい合唱団だ!」

 一場面、一場面、大切に大切に表現しながら、マタイ受難曲のドラマが進行していく。浦野智行(うらの ちゆき)君が、神々しくも苦悩と慈愛に満ちたイエスを描き出してゆく。アルトの高橋ちはるちゃんの「憐れんでください」のアリアは、コンサート・マスターの近藤薫(こんどう かおる)君の素晴らしいフォローと相まって、ペテロのいきどころのない悔恨の気持ちを切々と語ってくれた。そうかと思うと、「この頬の涙が何の助けにもならぬなら」では激しい怒りをぶつける。「ご覧なさい、イエスが手を広げて、私たちを抱こうとするのを」では、まさに受難の悲惨さを突き抜けた希望の“うた”を奏でてくれた。
 一方、ソプラノの國光(くにみつ)ともこさんの「愛の御心から救い主は死のうとされます」の絶唱に胸を打たれなかった者はいないであろう。でも僕は、第1部の「この心をあなたに捧げましょう」での彼女のきびきびしたコロラトゥーラも大好きだ。
 バスの薮内俊弥(やぶうち としや)君は、芸大の在学中からよく知っていたが、良い歌手に成長してくれて本当に嬉しい。「私のイエスを返してくれ」では、第2オケをたばねてくれたトップ奏者の吉岡麻貴子(よしおか まきこ)さんの輝くようなヴァイオリンとのエネルギッシュなコラボが最高。また、それとは対照的に、「来るのだ、甘い十字架よ」では、櫻井茂(さくらい しげる)さんのヴィオラ・ダ・ガンバと相まってしみじみとした絶妙なアンサンブルを繰り広げたし、「わたしの心よ、おのれを浄めよ」ではオケの作り出すうねりと一体となって暖かい慰めの音楽が会場に広がっていった。

 みんなみんなひとつの大きな流れの中で自らの置かれた立場や、自らが果たすべき役目を把握し、それぞれが自分の言葉で受難の真実を語りながら、揺るぎないチームワークを形成してくれた。僕は、これまでに何度もマタイ受難曲を演奏してきたけれど、間違いなく僕の生涯最高のマタイ受難曲であった。みんな、本当にありがとう!

まだまだこれから
 でも終わってから、演奏会の事をとても評価して下さった礒山雅(いそやま ただし)先生の、
「これ、ここまで辿り着いてしまったら、あとが大変だよ」
という意見には反論したい(失礼!)。
 多分、次のマタイ受難曲は、また全然違う演奏になるであろうし、僕はまだまだ体力も気力もある。これが頂点で、これからは下り坂という気持ちは毛頭ない。だから礒山先生の懸念を良い意味で裏切り続けたい。

 みなさん、見ていて下さい。僕はまだまだ止まりませんよう!水泳をして自転車に乗って、冬にはスキーをして、体を健康に保って、頭脳を明晰に保って、ますます精進してまいります!

 東京バロック・スコラーズも、まだまだ進化します。21世紀のバッハについて来てくださる人を、僕は予想も出来ないところに連れて行ってあげましょう。そうして22世紀のバッハの先駆けを作ろうと(これは聖書学者佐藤研先生がお礼メールで提案して下さった言葉です)強く強く思っています。まだまだこれからです!



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