「最後の手紙」演奏会

三澤洋史 

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おにころキャスト変更
 おにころ役に予定していた泉良平君が、渋谷に先日オープンしたヒカリエ・ホールのオープニング・コンサートのゲネプロ中に転倒して足首を骨折してしまった。走ったり踊ったりする「おにころ」の練習に出たり公演に出演するのはとても無理なので、急遽代役を探さなくてはならなくなった。
 いろいろ考えた末、もう一ヶ月後に迫った公演に今から全く「おにころ」を知らないキャストを探すより、内容を知っている人の方がいいという判断から、庄屋役に出演予定の大森いちえいさんにお願いして、おにころ役に代わってもらった。そして庄屋役は、なんと初代のおにころ役である松本進さんにお願いした。

 僕はここのところ毎週群馬に帰って「おにころ」の練習に出ているが、大森さんは、頼んで数日後に群馬に現れ、きすけ役の田中誠さんとうめ役内田もと海さん相手に台本読みから始めたが、どうしてどうして、もう立派におにころに成り切っていた。
 そしてそこから一週間後の7月22日の日曜日には、新しい庄屋役の松本進さんも現れ、ほぼフルキャストで、小返し稽古をしながらおにころ全体を通していった。かつては鬼の子供のおにころ役を4回も演じてくれた松本さんに脇役の庄屋の役をお願いして気を悪くされないかと心配したが、僕と同じ歳の松本さんは、むしろ実年齢に近い庄屋の役を気に入っていて、実に堂々と演じている。後で本人と話しても、今の自分には庄屋の方がしっくりすると言ってくれた。
 大森さんも松本さんもミュージカルの内容には熟知しているので、カーテンコールまで一気に通った!団員達も、かつてのおにころ役である松本進さんに再会出来て喜んでいる。第6回目の再演となる「おにころ」公演。危機を逆点して、とても良い本番を迎える予感!今年の夏もまた熱い夏になりそう!

モーストリー・クラシックに載ってます
 7月20日に刊行されたモーストリー・クラシック9月号の特集は「オペラの巨人ワーグナーとリング」。これに僕のインタビュー記事が載っている。内容は、僕の合唱指揮者としてのワーグナーへのアプローチが、バイロイト音楽祭で合唱指導スタッフの一員として働いたことが基本になっているということや、先日の「ローエングリン」の成功の秘密は、クラウス・フローリアン・フォークトを中心とした、ソリストや合唱との音楽的コラボレーションと、全体を支える指揮者ペーター・シュナイダーのサポートによるということ・・・・つまりは、このホームページですでにもっと詳細に語っている事ばかりなので、別に買わないでも立ち読みで充分・・・なんてことを言うと、モーストリー・クラシックに怒られそうなので、みなさん出来たら買って読んで下さいね。
 ちなみに写真は新国立劇場の前で撮ったんだよ。このショットを撮るために、30ものポーズを初台ドトール前で撮って、通行人がジロジロ見ながら通り過ぎていくのが、ちょっと恥ずかしかったのを覚えている。腕を組んで偉そうにしているのは、僕がそうしたかったからではないからね。

志保のイタリア語学研修
 7月20日金曜日。長女の志保がイタリアに出掛けていった。早朝から、階下でいろいろ物音がしたり、妻と志保との会話が耳に入ってきて目覚めてしまったので、起きて階段を降りていった。
 別に頼まれたわけでもないのに、スーツケースを二階の志保の部屋から下ろして妻の車に積んであげる。家から車で10分足らずの聖蹟桜ヶ丘から成田空港行きリムジンバスが運行しているのを知ったのは割と最近だが、これは便利だ。特に用もないのに、妻の車に一緒に乗って聖蹟桜ヶ丘まで見送りに行く。そして車からスーツケースを出してあげる。別に長旅に出るわけでもないのに・・・・“親”という人種のこうした行動は実に不思議だ。何の得にもならない行動を、特に意識するわけでもないし、特に深く感謝されるわけでもないのに、ほとんど無意識的に行っている。
 ちょうど一ヶ月間の旅。志保は、パルマの語学学校で3週間の語学研修をして、最後の数日間は、妹のいるパリに寄って帰ってくる。この語学研修は、僕がけしかけたとも言える。オペラの伴奏者として仕事をしている彼女は、僕と同じイタリア人の個人教授に習ってイタリア語を勉強しているが、やはり一度は実際に現地に行ってガッツリ勉強した方がいいと僕は常日頃言っていた。
 今回の短期留学費用は、自分がオペラで稼いだお金で・・・というわけになっている・・・・だが・・・・本当に大丈夫かな?まあ・・・最後まで親に頼らないで帰ってきたら、少しは誉めてあげよう。

 パリ経由のエール・フランスでイタリアに入国するのは、ミラノのリナーテ空港だ。ミラノ中央駅近辺のホテルに一泊してから、次の日、電車でパルマに向かうという。おおっ!なつかしのミラノ!ローマやアッシジと違って、ミラノには家族を連れて行ったことはないので、志保にとっては初めて。
「せめて、ドゥオモやスカラ座やアーケードに挨拶してから行きなさい」

 出発の前の晩、パリにいる杏奈がメールを送ってきた。杏奈は、最近、パリコレのアシスタントをしたりして張り切っている。親にとっては見当も付かない世界に足を踏み入れている。クラリネットをやめた時は少なからず心配したけれど、今は人生充実しているようだ。
「パルマハム!パルマハム!パルマハム!月末に時間が出来たから、パリからそっちに飛ぶからね」
 昨年ミラノにも乗って来た超格安航空会社で、ベルガモ空港に降り立つやつね。手荷物以外にスーツケースなどを預けると超過料金がかかり、席は自由席で早いもの勝ちだという。運賃よりも、下手すると降りてから乗るリムジンバスの方が高いくらいなんだ。

 僕は昨年の語学三昧の日々を思い出している。志保にはこう忠告する。
「どんなに集中的に勉強しようと思っても、1日3時間以上のコースを取ってもあまり意味はないからね。それより、予習復習や先生が出してくれる宿題をしっかり時間かけてやる方がいい。それだけだって、3時間の授業の内容を反芻し咀嚼して自分のものにするのは決して楽ではないからね。真面目に勉強すれば、3週間でもかなり上達するはずだよ」
 志保にアドヴァイスしながら、僕は自分がとても語学が好きなことにあらためて気が付いた。昨年、ミラノでの語学生活はなんてしあわせだったのだろう。コモ湖に行こうと計画していた週末だって、宿題に夢中になってグズグズしている間に行きそびれたりしていたもの。小旅行の途中の電車の中でも、辞書を片手にテキストを読んでいた。イタリア語の文法の奥深さに、勉強すればするほどのめり込んでいったのだ。

 21日土曜日の早朝。電話が鳴る。妻が出る。志保だ!
「あのさあ!イタリアってヤバイよ!中央駅に着いてホテルに入ってからピッツェリアに行ったんだ。そしたらね、あたしのためにお兄さんが特別ハート型のピザを作ってくれたよ。もう、ノリが違うね!一気にテンション上がった!」
妻は嬉しそうに、
「あの子って本当にラテン系ね!」
と言っている。そうそう、そのラテン系のノリが僕も大好きなんだ。僕も前世イタリア人だからね。いいなあ、畜生!イタリア行きてえ!

「最後の手紙」演奏会
 7月18日水曜日。六本木男声合唱団倶楽部の定期演奏会。曲は、団長である三枝成彰(さえぐさ しげあき)氏の「最後の手紙」The Last Messege。これは、第二次世界大戦の間に亡くなった世界中の人達が残した手紙の中から13篇を選んで組曲としたもの。最後に14曲目として、Dona nobis pacem(私たちに平和をお与え下さい)を様々な言語で静かに歌って終わる。
 伴奏は東京交響楽団。指揮は大友直人氏。ソリストもいないで、ひたすら男声合唱で、シビアな兵士達の独白が続く。休憩なしの1時間30分。

 一週間前にオケ合わせに同席した。その時に三枝氏が僕の所に来ていろいろ話す。
「このDona nobis pacemはねえ、なんか遠い彼方からかすかに聞こえてくるようにしたいんだよねえ・・・・」
三枝氏の言い方は、作曲家が指導者に対してする注文というよりは、なんだか気弱なつぶやきのよう・・・・作曲家なんだから、もっと堂々と直接マエストロである大友さんに注文すればいいのに・・・・でも僕には分かるんだなあ。案外、作曲家ってそんなものなのだ。自分の作品を音にしてもらえるだけで有り難いと思わなければみたいな遠慮のようなものがある。
 でも僕は、三枝氏のその言葉を聞いた瞬間、パアーッと目の前が開けたようにイメージが広がった。そうか、この終曲は、声にならない声、あるいは世界に充満する言葉にならない祈りのようなものでなければならないに違いない。そして決心した。この三枝氏の気持ちを、合唱指揮者としてはなんとか実現してあげなければ。

 その2日後、僕は本番前の最後の指導に行く。その時にいろいろ試してみた。三枝氏自身は「遠い彼方からかすかに」と言っているが、実際の楽譜には、クレッシェンドもあればフォルテもある。だから、彼の言うことを“文字通り”聞くわけにはいかない。「遠い彼方」はあくまでイデーであって、その実現方法に関しては試行錯誤しなくてはならない。いろいろやった。そしてどうにかこれでいけるのでは、と思われる状態まで持ってはいけた。ただ、最後まで確証はない。
 この後、あと1回だけ、日曜日に副指揮の初谷敬史(はつがい たかし)君が練習をする。僕は「おにころ」の練習が群馬であるため出られない。って、ゆーか、本当は初谷君も、僕のミュージカルで伝平という役で出演するため、むしろ群馬の練習に出て欲しいのだが、ロクダンの方がどう考えても切羽詰まっているので、当然ロクダンを優先せざるを得ない。僕は彼にくれぐれも終曲の処理をよろしく頼んで、ロクダンの練習場を後にした。

 さて、演奏会当日。あまり期待しないでサントリー・ホールに向かったが、ロクダンは奇跡的に驚くべき演奏をしてくれた。いつも、実力からすると本番だけ奇跡的な仕上がりを見せるロクダンではある。だがこの晩は、そういった火事場の馬鹿力的ハッタリかましの演奏ではなく、彼等は本当に心を込めて丁寧に曲に取り組んでいたのである。そうすると、三枝氏が曲に込めようとした想いがひしひしとつながってくる。

 たとえば第1曲目は、フランス人のレジスタント戦士として16歳でブザンソンにて処刑されたアンリ・フェルテが、処刑直前に家族に送った手紙だ。

ささやかな蔵書は、お父さんに。
思い出のコレクションは、お母さんに。
一生けんめい勉強した教科書は、弟に。
たいせつな日記は、愛しいジャンヌにおくります。
と、家族を思いやって遺品の行く先を指示し、
  フランスが、平和と正義の国になりますように。
と、国の将来を案じながら、アンリは死んでいった。

 第2曲目は、戦地にいて妻のことを想ってルソン島から書き綴った日本人の手紙。僕の大好きな曲。書いている内に想いが溢れて、自分でも抑えきれなくなっていくのが痛々しい。
日曜日の朝思うのは、おまえのこと。
と始まり、
出征で東京をたつとき薄化粧で床にすわって、
あの時おまえは、涙をこらえ笑ってくれた。
むしろさわやかに。
おまえは笑うと美しい。
このへんから急に想いが込み上げてくる。
歯が特別きれいだ。
肌は、きめこまかくしまっている。
豊かな乳房をもっている。
広い広い母さんの胸だ。
僕はおまえの胸の中で、子どものように眠りたいと、
何度も考えたことがある。
こうなると、もう情熱は止まらない。手紙の最後には、自分が帰国する時に想いを馳せ、
その時あの広い胸で温かく僕を抱いてくれ。
待っていてくれ、八重子。
と書いて終わっている。

 こんな文章は、創作では決して書けない!人に見せようと思って書いていないからこそ、真実の発露がダイレクトに胸を打つのである。同時に思う。数で見ると大勢の戦死者の内のたったひとりでしかないかも知れないが、そのひとりひとりにはかけがえのない人生があり、その人の帰りを待っている大切なひとがいる。その人達の間には熱い熱い愛情が流れている。そうした絆を断ち切る権利は、何人たりともないはずだ。
 でも戦争は、それを無残にも引き裂く。それが戦争というものだ。一度戦争が始まってしまえば、そこにおいては、どんな非人間的行為も、どんな愚行も、どんな不条理もどんな残虐行為も、ごく普通に起こり得るのだ。だからこそ、戦争は起こしてはいけないのだ。
 こうした真実に対しては、いかなる立派なスローガンを掲げるより、生身の人間のひとつひとつの偽らざる真実の叫びに耳を傾ける方がいい。

 手紙は、次から次へと13篇も続く。様々な国の様々な立場からの様々な描写が見られる。そうして終曲が来る。オーケストラの前奏に続いて合唱が入ってきた。合唱は・・・・遠くから聞こえてきた。祈るように・・・・たゆたうように・・・・それは地から湧き出てくるようにも聞こえ、雲の彼方から降り注いでくるようにも聞こえた。故郷へ帰りたかった兵士達の・・・愛するもののところへ戻りたかった戦士達の・・・いいようのない想い・・・それらの想念が集合し・・・大気に満ち・・・音楽を超えた音楽となって響き渡っていた。僕の胸に熱いものが込み上げてきた。

 やったね。三枝氏の想いは叶ったのではないか。初谷君!ありがとう!練習では、半分の団員にハミングで歌わせたり、いろいろまた試行錯誤していたそうだけど、そういう風にみんなで悩みながら作り上げるというプロセスこそが大事なんだ。それだけ、今関わっている曲を大切に想っているのだということを、伝え、共に確認し合いながら練習する態度こそが、感動する演奏会を作り上げる唯一の道なんだ。
 どんなに努力しても、人の胸を打つ演奏会にはならない可能性はある。でも逆に言えば、人が感動する演奏会があったとすれば、それがたまたま成就したということは決してあり得ない。必ず誰かが、その演奏会の事を特別に大切に思い、採算の合わない、一見愚かとも思えるような人知れぬ努力を重ねているはずなのだ。僕はね、いつもそんな合唱指揮者でありたいし、自分の後に続く若い人達にもそうであって欲しいのだ。

 演奏会が終わった後の打ち上げで、僕は、挨拶などするつもりもなかったのだが、どうしてもしゃべりたくなって、自分からお願いしてマイクを渡してもらい、ロクダンの成長と、今晩の演奏会が本当に心のこもった感動的なものであったことを団員達の前で述べた。
 兵士達の手紙が、最初は落ち着いて書き始めても、途中からそれぞれ自分の気持ちを抑えきれなくなってアンバランスになるように、僕の挨拶も途中から興奮してまとまりのないものだったが、今晩はこれでいいんだと思った。ここで必要なのは、秩序などではなく、秩序を乱すほどの熱い想いなのだ。表面を整えることではなく、まごころを伝えることなのだ。

 もしかして、芸術家が自分の創り出すものを本物にしたかったならば、ギリギリまで職人芸を積み上げ、しかるに、最後の最後で理性を解き放ち、情熱の炎に任せるべきなのかも知れないと思っている今日この頃である。



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