夏の終わり
朝、散歩に出るとここかしこに蝉の死骸がある。道路の真ん中に見つけると、人に踏まれないように羽をつまんでそっと脇にどけておいてあげる。毎年の夏の終わりの風景だ。
蝉は7年間も土の中にもぐっているのに、地上に出るとわずか1週間の命なのだそうだ。その間に存分に鳴き、そして生を終える。地上での短いけれど華々しい生活に比べて、長く暗い土中の生活って辛いんだろうなあと昔は思っていたけれど、最近はそうでもないかも知れないと思う。
僕たちは、現代こそ最も素晴らしい時代だという勝手な思い込みから、たとえばルネッサンス及び宗教改革の前の中世や、鎖国していた江戸時代の日本を、暗黒の時代と位置づけたりする。でも実は、その時代にはその時代しか得られなかった楽しみや、逆に現代の我々にはない良さがあるかも知れない。同じように、蝉の地中での生活だって案外楽しいものかも知れない。地中での生活は牢獄のような辛い日々で、地上に出ることだけを夢見て生きているというのは、我々人間の勝手な思い込みかも知れない。
ともあれ、蝉は地上に出ると、あんな小さい体からよくあんな大きな音が出せるなと思うほど巨大な鳴き声で生を謳歌し、潔く死に、道端に骸(むくろ)を晒(さら)す。これが生というものだ。生きるということは単純なのだ。単純でひたむきなのだ。
「おにころ」が終わってから行き始めた近くの西府プールも、8月いっぱいで終わった。今年は、今まで全く興味を示さなかった長女の志保が、急にスイミングに目覚めて、何度か一緒に行った。屋外だから行く度に日焼けしてどんどん体が黒くなってくる。
親子連れが多く、泳ぐと言うより水遊びをしている人達がほとんどだから、1レーンしかない完泳コースはいつもガラガラ。普段よく行っている柴崎体育館や府中生涯学習センターの屋内プールより、かえってゆったり泳げる。それに自転車で5分もかからない。勉強の合間にちょこっと行って、1000メートルくらい泳いで、帰りに自動販売機でカロリーゼロのポカリスエットを買って、家でグビ飲みしながらまた勉強の残りに取りかかる。これが8月下旬の風景だった。
夏の終わりは淋しい。「おにころ」が終わり、西府プールも終わった。まだまだ暑い日が続いているけれど、秋は確実に一歩一歩近くに迫って来ている。その内また曼珠沙華が咲き始め、稲の丈が伸びて収穫の時を迎え、木々が色づき、青空が爽やかに高くなり、ブラームスが聴きたくなり、夕暮れ時がもの悲しくなり、街に枯れ葉が舞うようになる。
今年は愛犬タンタンがいないまま秋になる。いつもは夏が終わるのをむしろホッとして見守っていた。何故なら、足が短いため道路と胴体との距離が極端に短いタンタンは、夏の間はちょっと歩くだけで道路の熱を受けてしまい、口を大きく開き、ベロを出しっぱなしにしながら「ハアハア」言っていたからだ。
けれども今年は、秋が来るのがなんだか恐い。冬に向かって、ものみな死に向かう季節の寂寥感が体にまとわりついてくるのではと、根拠もないのにおののいている自分がいる。
いや、そうではない!僕が本当に恐れているのは、お散歩が楽しい季節が来るというのに、タンタンがいないのが淋しいからだ。そして同時に・・・・矛盾するようだが・・・・タンタンがいない生活に慣れてしまう自分が恐いのだ。
いつのまにか、家の近くの鎌倉街道の交差点で信号を待ちながら、
「家についてもタンタンはもう出迎えてくれないんだ」
と思って、青になって自転車を漕ぐ足が重くなることもなくなった。こうやってだんだん悲しみがうすれていく。勿論、うすれていってくれないと困るんだけど・・・・昔、タンタンという犬がいたねえ・・・・なんて昔話にはしたくないんだ。
僕のタンタン・・・・忘れないさ・・・・忘れられるわけないじゃないか。
竹島、尖閣諸島、本当のキツネは・・・
竹島を韓国は絶対に手放さないだろうな。こう言う僕を国賊と言うことなかれ。だって、これはもう明らかに作戦負けだからね。
日本の土地だっていうならば、どうしてノービザでパスポート検査もなしにどんどん韓国の観光客が竹島に上陸しているのを今日まで放置してきたのだ?大統領でさえノービザで、出国審査や入国審査なしにスルリと入れちゃったら、そこはもう韓国領だと言われても仕方ないでしょう。
さらに、学校でもどこでも「独島は我が領土」と、愛国心教育と一体となって徹底的に教え込まれている。その間に日本は何をしてきたか?愛国心はなるべく持たないように教育されてきたし、その辺の若者に聞いてみれば分かるけど、みんな竹島なんて関係ないでしょう。
竹島を本当に取り戻したいならば、韓国人と同じように日本人の民間の観光客がどんどん行って、ここが日本の領土であるという既成事実を固め、総理大臣が行き、若者達はみんな街角で、
「竹島は誰が何といっても我が領土!」
と歌いながら踊るようにならないといけない。読者のみなさん、あなた竹島に観光に行きますか?行かないでしょう。竹島踊り、踊らないでしょう。ほらね、竹島に対するモチベーションの高さで、我々は完全に韓国に負けているのですよ。
韓国は実に周到に長期に渡って、竹島に対するモチベーション作りの教育を施し、国民の関心が竹島から離れないように注意を差し向けてきたのだ。その間、日本は何もしなかった。歴史的背景がどうのこうのじゃない。完全に国策の失敗なのだ。政府からだって国民からだって、竹島に対する情熱が全く感じられない。本当はみんなどうでもいいんだろう。あるのはメンツだけか。でももう遅い。もう竹島は諦めた方がいい。
でも、尖閣諸島をめぐる中国は、竹島問題とは全然違う。中国は、韓国のような気の長い知能犯ではない。もっと短絡的で仁義なき国だ。1968年の調査で海洋資源が豊富だと分かった時点からあわてて動き始めたのは明白だ。
僕は北京に行って自分の肌で感じたけれど、中国人をあなどってはいけない。日本が毅然たる態度を取らないと、あの国は、下手したら沖縄くらいまで自分の領土にしてしまいかねない。
中国はね、共産主義体制で宗教がなくなっているだろう。ということは彼らにはモラルがないのだ。現代の日本もそうだけれど、宗教がない国は、エゴイズムだけあって、良識というものが欠如している。日本人はそれでも、元来のお行儀の良さと、平和ぼけでお人好しの面があるのでまだ救われているが、中国人は、同じアジア人でも全然違う民族性を持っている。
あの国では、全てがダメモトで、得られるものはなんでも得る。知らん顔を出来るところは全力でする。こちらが「穏便に」と我慢していても、なんにもいいことはない。逆にどこまでも相手をナメ、どこまでも食い込んでくる。
でも、分かっておかないといけないのは、中国の政治中枢は国内の民衆の半日勢力を決して手放しで喜んではいないこと。それは激化するとただちに反体制勢力に転化する危険性を孕んでいるから。また、中国政府は決して尖閣諸島に公の軍隊は出さないと思う。なぜなら、軍隊を出してしまうと、日米安保条約によって米軍が出てきてしまうから。
石原都知事は日本の政府のことを「腰抜け」と罵倒しているけれど、では、日本政府は何故毅然とした態度をとらないのだろうか?それは経済原理からだ。中国に進出している日本の企業に様々な圧力がかるのを恐れているのだ。
今やどの日本製品だって、各部品の裏を見るとmade in chinaと書いてあるだろう。中国に工場を作り、中国人の労働者を安く雇って製品の低コスト化をはかっているから、日本経済は中国なしでは成り立たないのだ。恐らく石原さんとて、もし総理大臣になったら腰抜けにならざるを得ないのではないかと思う。
それを知っている中国当局は、適当に反日感情を煽りながら、過度にならないように注意し、一方で沖縄やいろんなところに観光客を送り込んで経済的支配力を徐々に高め、日本の土地をどんどん買い占めたりして、狡猾に日本を追い込んでいこうとしている。それが中国政府のしたたかさなのだ。
そして、そうしたアジアの隣国同士のいさかいを誰よりも喜んでいるのは・・・・なんと、アメリカなのだ。
アメリカにとっては、日本と韓国や中国が仲良くなり過ぎては困るのだ。このアジアの国達が手を結ぶようなことになってしまうと、アメリカのアジアにおける覇権の時代が終わってしまうから。だから“攪乱工作をしてでも”これらの国には反目を続けていて欲しいわけよ。
キツネとタヌキの化かし合い。
君は、まさか、
「アメリカが善意から日本を守ってくれている」
などという幻想を、いまだに信じてなんていないよね。
モンポウとひそやかな祈り
まだ頭の中でモンポウの優しい音が鳴り響いている。なつかしい、ひそやかな祈りのような響き。
東京オペラシティ開館15周年記念コンサートで、フェデリコ・モンポウ(1893-1987)の作品を取りあげた。今年はモンポウ没後25周年にあたるという。今をときめくギターの村治佳織さんをはじめそうそうたる出演者達に混じって、我が新国立劇場合唱団も「魂の歌」Cantar del alma と「インプロペリア」Improperiaの2曲でこの企画に参加した。
僕が今年の夏忙しかった理由のひとつに、「おにころ」のオーケストレーションと並んで、このモンポウのピアノ・ヴォーカル・スコアを作成していたということがあった。ソプラノの幸田浩子さんが歌うオケ付き歌曲集「夢の戦い」と、与那城敬さんのバリトンとオケ付き合唱曲の「インプロペリア」には、フルスコアはあったが、ピアノ譜は存在していなかったのだ。
幸田さんの曲のアレンジは、6月中に「おにころ」のオーケストレーションがひとくぎりついた間を見計らって一気に行った。東京バロック・スコラーズ「マタイ受難曲」演奏会の準備と平行しながらだったので、結構大変だった。
「インプロペリア」のアレンジは、北京にノートパソコンと音源モジュール及びキーボードを持ち込んで、滞在中に仕上げる予定になっていた。しかし、北京に滞在して2日目の朝、どうやらホテルの電圧が極端に不安定だったようで、キーボードのACアダプターが突然爆発して使えなくなってしまった。ちょうど同じ時に合唱団員のS君のUSBにつなぐACアダプターも爆発している。
ホテルは当然のように取り合ってくれない。ACアダプターの弁償なんて望むべくもない。その分は泣き寝入り。中国ですもの。僕はすっかり意気消沈してしまい、アレンジが大幅に遅れてしまったのだ。それどころか、携帯電話の充電器や、パソコンのACアダプターなどがいつ爆発するか、北京滞在中は気が気でなかった。
アレンジしていた時は、モンポウの曲がそんなに難しいとは感じなかった。20世紀の作曲家だから音がぶつかっているのは当然だし、むしろシェーンベルクなどよりずっとメロディックで捉え易いのだ。でも、合唱団の練習が始まってみると、和音構成音が複雑だからではなく、それがメロディックな故に難しいのだということが分かった。
モンポウの和音は、鐘のような音がする。話に聞くと、お父さんだかおじいさんだかが教会の鐘の職人で、モンポウは幼い頃から工房に連れられて行って鐘の音を聞き分けていたそうである。その和音構成音には、きっとモンポウが鐘の音の中に聞こえていたであろう複雑な倍音が入っているらしい。
類い希な美しいメロディー。その美しいメロディーを支える複雑な和声。そのコンビネーションが織りなす不思議なサウンドの世界、それがモンポウの醍醐味である。その醍醐味に到達するまでが大変なのである。さらに、曲が仕上がってくると、その中に盛り込まれた作曲家の宗教心というか祈りの境地に目覚めてくる。ああ、そうか、これをきちんと表現しなければ、モンポウを演奏したことにならないのだなと思ったら、途端に自分の目の前のハードルが倍くらいの高さに跳ね上がった。ひそやかな祈りが、曲のここかしこに溢れているのだ。
本番会場でのオケ合わせになった。「魂の歌」は、オルガン独奏に始まり、ソプラノのアカペラのソロに続いてやはりアカペラの合唱が入ってくる。つまりそれぞれがバラバラに演奏するので、練習の時は合唱団は合唱箇所しかやらなかった。不思議な曲だなあと思っていたが、一緒に合わせてやってみると、オルガン独奏の雰囲気を受け継いで幸田さんの歌が変わり、さらに幸田さんの切々たる歌唱に影響されて、アカペラの新国立劇場合唱団の歌が変わった!ぜ、全部つながっているのだ!僕はオペラシティの客席で聴いていて、感動して涙が溢れそうになった。なんという純粋で内面的な信仰心!なんて静謐な音の世界!
モンポウという作曲家は、もっと人々に知られてもいい。でも、音楽界をリードする大輪の花ではなく、野に咲く可憐な花としてね。
ピエタとコルチジャーナ
大島真寿美著の「ピエタ」(ポプラ社)という小説を読んだ。これはまさに女性の女性による女性のための小説だ。女性にしか捉えられない世界観があり、女性にしか感じられない情緒があり、女性にしか描写出来ない風景がある。にもかかわらずというべきか、だからこそというべきか、男の僕はすっかり魅了されてしまった。
高級娼婦とはどんなものか、わたしにはごくささやかな知識しかない。曰く、たんなる娼婦とはちがう。曰く、高い教養と文化的素養のある女たちである。新しい芸術や、外国の事情にも詳しく、男たちと対等の会話をするし、身のこなしも、たいへん洗練されている。上流階級の客のみを相手とし、時には客を選ぶことすらある。容姿は際だって美しく、纏(まと)っているのは、きらびやかな衣装に、高級なアクセサリー。要するに歌劇「椿姫」のヴィオレッタのような女性である。僕の「愛はてしなく」では、回心する前のマグダラのマリアが、ローマ官邸に出入りしていた高級娼婦という設定であった。
さて、話を小説「ピエタ」に戻す。真面目でひたむきなエミーリアが、カーニヴァルの夜に仮面をつけて、ヴェネツィアの人混みの中を駆け抜ける場面が何度も出てくる。その度に僕は、あの夢のようなヴェネツィアの極端に狭い路地や街角、あるいは運河にかかる弓形に反った橋と、一年前にイタリアに滞在した際の、仮面をつけて歩いた娘の杏奈の愛らしい姿を思い浮かべる。
ヴェネツィアVeneziaと仮面mascheraとは、なんて合っているのだろう。エミーリアが想いを寄せる人と最初に出会った時も互いに仮面をつけたままであったし、コルティジャーナのクラウディアと対面した時も、仮面をつけたままであった。人々は仮面をつけることによって、むしろ隠されていた本性をあらわにする。いや、隠すことによって閉ざされていた真実が解放されると、ポジティヴに解釈した方がいいのだろう。
小説「ピエタ」の結末も、豪華な大団円という感じではない。これもやっぱりとても女性らしい。静かにしみじみと胸を打つ。女性が老いるということの、いいようのない哀しさが、背景に基本トーンとなって流れている。特に限りなく美しい女性が老いるということの痛ましさが・・・・そして、ゴンドラ漕ぎの歌が聞こえる・・・・。
うつくしい音ヴェネツィア。稀有なる幻想の街。もういちど行きたい。
そして、
うつくしいむすめたち
空は遙か
光は遙か
むすめたち、よりよく生きよ
むすめたち、よりよく生きよ
束の間の読書
ピエタを読み終わった僕は、追い立てられるように親友の角皆優人(つのかい まさひと)君がホームページで推薦していた高野和明著の「ジェノサイド」を読み始めた。早くも手に汗握るストーリー展開に興奮している。忙しい生活に中断を余儀なくされながら、次が読みたくてたまらない。