ピーター・グライムズな9月
ピーター・グライムズの立ち稽古が始まった。ウィリー・デッカーの演出は素晴らしい。合唱団は、最初からメチャメチャ動き回る。この作品自体が、合唱に最大限の演技力を要求しているけれど、デッカーの演出は、さらにそれを強調した感がある。
アウトサイダーであるピーター・グライムズをしだいに追い詰めて行くのは、村の人たちの負のエネルギーだ。それは、個人では無力だが、集団になるとうねりのように結集し、圧倒的なパワーを放つ。そのうねりが視覚的に見事に表現されている。
指揮者のリチャード・アームストロングが素晴らしい!さすがネイティヴのイギリス人!言葉と音楽との両方から、僕達に容赦ない要求を突きつける。合唱団にとっては、遠慮しないでズケズケ言ってくれるのがいい。やっぱり、本物が要求するんだもの、心ゆくまでやってよ、というのが僕らの望みだ。ネイティヴに近づきたい。それは、日本人である僕達には所詮叶わぬ望みだとしても、せっかくやるんだから少なくともブリテンの表現の神髄には到達したい。
マエストロの要求の中心は、英語の発音と、それを表現までつなげる方法論にある。今回気が付いたのだけれど、英語をベルカント唱法に乗せて行うのは、思いの外難しいのだ。まず、英国人がこだわるのは、イの発音だ。pitのような短いイを、日本人はどうしてもpeaceのような長いイと同じように発音してしまう。ところが、これではいけないというのだ。
ピットの短いイは、まるでペットのように口を意図的に開くべきだという。ドイツ語でもイタリア語でもフランス語でも言われたことのない指摘なので、慣れないとどうしても混同してしまう。
また、僕達が曖昧母音と呼んでいる母音の扱いも難しい。ドイツ語のBlumeのeやフランス語のCafé de Parisのdeなどで慣れているはずなのに、英語ではやや勝手が違う。ドイツ語やフランス語では、曖昧母音が使われるのはeの母音と決まっている。でも、英語では、aboutのaであったり、immigrationの2つめのiであったり、memoryのoであったり、a
i oと様々な母音で曖昧母音となるのだ。僕達は、どうしてもアバウトやイミグレイションやメモリーと認識し、はっきり歌ってしまう傾向があるのだ。
さらに難しいのが「アクセントのある曖昧母音」の発音だ。つまりworkのような単語である。閉じすぎるとwalkのようになってしまうし、かといってワークとも違う。ちょっとウェークというような感じで、不真面目な感じで発音するとうまくいく。これらは勿論慣れなので、何度も直していく内に随分それらしくなってきた。
「ピーター・グライムズ」は、やっぱりいい作品だと思う。ワーグナーは、音楽とドラマとの融合の扉を開いたかも知れないが、その具体的な方法論は、なにもワーグナーのライト・モチーフだけにあったわけではない。こういうアプローチもあるのだと納得させてくれる。
先週は、2時から9時まで、マエストロ音楽稽古や立ち稽古でびっしり。でも、それらの練習を通して、しだいにブリテンの世界が解き明かされてくるので、僕たちはとってもしあわせな気分でいる。来日したソリスト達は、みんなキャラクター的にぴったりなので、笑えるほどだ。
楽しい稽古場。この雰囲気ならば、きっと良い舞台が出来るだろう。
今、僕たちは、ピーター・グライムズな9月を過ごしている。
人類という種は・・・
(注:これは高野和明著「ジェノサイド」(角川書店)の感想文です。大事なところでのネタバレはしていないつもりですが、先入観なしでこれから読みたいと思う人は読書後にお読みになることをお薦めします。一方、読んだ人を前提にして書いているわけでもないので、気軽に読んでいただいて結構です)
小説「ジェノサイド」を読んで、
「人類なんて滅べばいいんだ!」
と思った。同時に、こんな人類をいまだに生かしておくなんて、神様ってなんて寛容なのだろうとも思った。
題名のジェノサイドgenocideをジーニアス英和辞典で引くと、「(民族などの)組織的大量虐殺」「集団殺戮」と書いてある。以下、しばらく小説中の文章を引用してみる。
「すべての生物種の中で、人間だけが同種間の大量殺戮(ジェノサイド)を行う唯一の動物だからだ。それがヒトという生き物の定義だよ。人間性とは、残虐性なのさ」こうした人類が築き上げた現代文明のエッセンスが、アメリカ合衆国という国家にある。そして、この小説では、事件が大詰めに近づいてくるにつれ、合衆国大統領の決断に、人類全体の運命がかかってくるようになる。読んでいる僕たちは、これこそ今の世界の現実なのだと思い知らされる。
「南北アメリカ大陸に進出したヨーロッパ人は、戦闘や疫病で先住民の九割を殺した。ほとんどの民族が絶滅させられたのだ。さらにアフリカ大陸では、一千万人の奴隷を狩るためにその何倍もの人間が殺された。同じ生物種であっても、この有様だ」
「いいかね、戦争というのは、形を変えた共食いなんだ。そして人間は、知性を用いて共食いの本能を隠蔽しようとする。政治、宗教、イデオロギー、愛国心といった屁理屈をこねまわしてな。しかし根底にあるのは獣と同じ欲求だ。領土をめぐって人間が殺し合うのと、縄張りを侵されたチンパンジーが怒り狂って暴力をふるうのと、どこが違うのかね?」
「現生人類は、誕生から二十万年を費やしても殺し合いを止められなかった哀れな知的生物だ。殺戮兵器をかき集めて脅し合わなければ共存できない。この現状こそが人間の倫理の限界だったんだ。そろそろ次の存在に、この星を譲ってもいい頃だと思うね」
ホワイトハウスで晩餐会に出席している大統領は、敵の返り血を浴びることも、肉体を破壊された戦友が発する断末魔の叫びを聞くこともない。殺人にまつわる精神的負荷をほとんど被らない環境にいるからこそ、生来の残虐性を解き放つことができるのだ。(中略)僕たちは今、まさにこのような世界に住んでいる。
では、数十万人を殺すことになると分かっていながら戦争を指示する一国の指導者は、その残虐性において普通の人間なのだろうか。
老科学者は、大統領を見据えて言った。
「恐ろしいのは知力ではなく、ましてや武器でもない。この世でもっとも恐ろしいのは、それを使う人格なんです」
「それならば、利他的な行為をどう見ます?我々が善行と呼ぶもの、それを為す人間もいるでしょう」ここからが僕の言いたいところだが、では人間には何故善行を美徳とし、それを賞賛しようという感情があるのか?そこに、人間が他の動物と違って、「ジェノサイドすらも行えるような広大な自由意志」を与えられている本当の理由があるのではないか?
「善なる側面が人間にあるのも否定はしないよ。しかし善行というものは、ヒトとしての本性に背く行為だからこそ美徳とされるのだ。それが生物学的に当たり前の行動ならば賞賛されることもない」
「では何の見返りもなく、自分の命を危険にさらしてまで他者を救おうとする人間がいたとしたら?駅のホームから転落した外国人を救助しようとしたり、あるいは命懸けで新薬の開発に挑むとか。そういう人間もいるでしょう」さて、話を小説「ジェノサイド」自体に戻そう。僕は、本のたすきに書いてある「超弩級エンタメ小説」という言葉に引っかかるものを感じる。あるいは小島秀夫氏のコメントにある「一級の娯楽作品」という言葉にも・・・・。エンターテインメント小説というジャンルがあるのかどうかも知らなかった僕は、これだけの作品をエンターテインメントという言葉で片付けていいのかという疑問を持つ。
「極めて少数だがな。それも一種の、進化した人類だと言えるんじゃないか?」
「撃墜を許可する」僕はこの瞬間の戦慄を忘れない。近年、読書をしていて、こんなに身の毛がよだつ思いをしたことがない。それだけでこの本を読んだ甲斐があると思った。
ルーベンスは、歴史の転換点に立ち会った気がした。人類社会の危うさが、この一瞬に凝縮されていると思った。政治的指導者に宿る、ほんの一瞬の狂気が、数億人の生命を危機に陥れてしまう。未来に起こり得る核戦争も、たった一人の狂った権力者によって決断され、実行されるのだろう。みんなに、一度は読んで欲しい本だ。でも、結構長くて読み応えはあるよ。