デッカーの「ピーター・グライムズ」は凄いぜ

三澤洋史 

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デッカーの「ピーター・グライムズ」は凄いぜ
 ウィリー・デッカーは凄い奴だ!9月17日月曜日に稽古場に現れてから、まだ一週間しか経っていないが、劇場中に猛烈な嵐が吹き荒れているようだ。先週は外でも暴風雨が吹き荒れていたが、まるで彼が連れて来たようだ。それまで演出補のフランス人のフランソワさんが動き自体は一応つけてくれていた。そこにデッカーが魂を吹き込む。だが、その魂のなんと強烈なことか!

 彼の頭の中には確固たるドラマの流れがある。それはもの凄く理想が高いが、彼は全ての出演者に容赦なく突きつける。合唱団は、アンサンブルが極端に難しい所で極端な動きをさせられたり、傾斜のきつい舞台で極端に前屈みさせられたり、全速力で走らされたり、指揮者もモニターも何も見えない向きで歌わせられたり、無理難題が洪水のように押し寄せてくる。それを指揮者のアームストロング氏と僕は、音楽的整合性をつけてひとつひとつ片付けていくわけだが、毎晩稽古が終わるとクタクタ。
 でも、こんな舞台を作れる人なんていない!こんなに強靱な精神を持つ演出家なんていない!どんどん芝居が埋まってきて、どんどんシーンが出来上がっていくのを見ている内に、身が震えるような感動が押し寄せてくる。僕たちは今、最高の演出家と最高の舞台を作っているのだ!

 合唱団も、限界への挑戦という感じで、
「もう駄目!」
と言いながらでも、どこまでも食らいついてゆく。やっぱりプロだね。その根性にはデッカーも驚いている。最後のピアノ付き舞台稽古が終わった時、彼は合唱団に向かって、
「僕は世界中の一流歌劇場で仕事をしてきたけれど、君たちは最高だ!」
と言ってくれた。僕も手前味噌ながらそう思う。デッカーの要求に対しても、ここまで答えられる合唱団は、世界中探してもどこにもないと思う。仮に演劇的にかなえられたとしても、音楽的な水準を持ちながらというのは難しいし、声だけは出るけれど、音楽的にも歌えないし動けないという歌劇場合唱団は世界中に沢山ある。

美しい四重唱
 第2幕の途中で、ピータ・グライムズをやっつけに行こうと、馬車引きのホブソンを先頭にみんなでピーターの家まで行進していく場面がある。そこで一緒について行こうとした女性達がハジかれる。
「ここは男の場だ、女は用なしだ!」
というわけである。
「あたしたち、なんでこんな目に遭わなければならないの?」
と、姪と呼ばれる売春婦の二人が嘆くと、そこにパブの女主人のアーンティが加わる。
「男達を世間のうさから慰めてあげたことで、あたしたちが恥じる必要あるの?」
And shall we be ashamed because
we comfort men from ugliness?
さらに、ピーターを庇ったことでみんなからつまはじきにされているエレンは言う。
「男って、泣いたら子供みたいなのよね。男が戦う時は、あたしたちが母親なのよ」
They are children when they weep.
we are mothers when they strive.
パブの女主人、売春婦達、そしてエレンの4人は、互いに疎外された者としての共感を覚え、四重唱が始まる。僕はここの場面が大好きだ。音楽もとても美しい。

 原作では、ここでつかの間、女性達の間に友情が芽生えてシーンが終わる。だが、デッカーの演出はもうひとつ酷い。4人が手をつなぎ合っている時に、舞台後ろからセドリー婦人と村の女達が忍び寄って来て、彼女達を凝視する。それに気が付いてギクッとする4人の女性達。
アーンティは無意識にエレンから離れようとするが、そのアーンティの手をエレンが強くつかむ。
「お願い、いかないで!」
とエレンの瞳が無言で叫んでいる。アーンティの動きが止まる。だが次の瞬間、アーンティは無情にもエレンの手を振り払い、姪達を連れてエレンの元から去って行く。失意に沈むエレン。それを凝視し続ける村の女達。
 しかしながら、それでもここの場面の美しさは聴衆に深い印象を与えるだろう。人間の悪意とそれがもたらす不条理が、これでもかと徹底的に描かれていくこのオペラにおいて、それだからこそ、このシーンでは人間の善意がひときわ光り輝く。この場面の演出にデッカーはとても時間をかけた。わずか数分の場面なのに。でも、こういうところをハズさないのがデッカーの偉大なところなのだ。

あなたはこれを見るべきだ
 どこまでも手前味噌で恐縮であるが、最近、新国立劇場では、世界広しといえども本当にここでしか見られないと確信出来るプロダクションが増えている。僕は断言するが、この作品は見るべきだ。見ておくべきだ。これを見逃したら、ウィリー・デッカーという演出家の本当の価値をあなたは見逃すことになる。見逃したところで、あなたは何も損することはないと思うかも知れない。でも、あなたが少しでも、
「どうしようかな?」
と迷ったならば、僕は、騙されたと思って劇場に来ることを薦める。

名古屋パルジファル講演会無事終了
 楽しかった。僕は、自分で本当にワーグナーが好きなのだなと思った。講演会も楽しかったのだけれど、何よりも準備に明け暮れたこの一週間が本当に充実していて楽しかったのだ。

 講演会の準備には果てがない。調べれば調べるほど、知らないことが出てくるし、もっと知りたいという欲が出てくる。曖昧に知っていることについては、その知識の出所がどこで、正確な表現はどうなのか、調べないと気が済まなくなる。僕たちの記憶って、案外曖昧で、思い込みや思い違いも多いのだ。

 ワーグナーの生涯を辿っていけばいくほど、この人って、なんてハチャメチャに生きていたんだろうと驚くと同時に、こんな生き方をしながら、よくあれだけの作品を生み出すことが出来たなあと、その並外れたエネルギーと、究極的なプラス指向に驚嘆せずにはいられない。

 自分の作品だけを上演するバイロイト祝祭劇場を建設し、音楽祭をやっと開催したが、「ニーベルングの指環」3チクルス連続上演は、莫大な借金をワーグナーの手元に残した。とても来年以降の再演の見通しは立たない。そこでワーグナーは・・・・・新作を作ろうと思った(ええっ?)。
「そうだ、パルジファルだ!」
というわけで、
「それでは題材を仕入れに、イタリア旅行に出よう!」
そしてワーグナーの家族はまずナポリに行った。ロシア生まれの若い画家パウル・フォン・ジューコフスキーをワーグナーは新作の舞台美術家として任命し、彼を同行させて、公演の背景画になりそうなところがあるとスケッチさせていた。


source: commons.wikimedia.org/wiki/File:Villa_Rufolo_Ravello_20.JPG?uselang=ja#filelinks

 第2幕「花の乙女達」の魔法の園のインスピレーションは、ソレントの南、アマルフィー海岸のそばの高台にあるルフォール邸で生まれ、そのスケッチがそのまま公演の舞台セットになったという。その息を呑むような圧倒的なロケーションは、確かに我々をも魅了する。
 でもさあ、莫大な借金がある中で、よくそんな優雅に、成功するか分からない次作の為に旅行なんかしてられるよなあ。しかも、ワーグナーのあらゆる作品の中でも最もとっつきにくいと言われる「パルジファル」だよ。もしこれも大失敗に終わったらどうするつもりだったのかね。ね、みなさんもそう思うでしょう。
 ところが意外や意外、ワーグナーの死ぬ前の年、すなわち1882年の夏、「パルジファル」はバイロイト音楽祭で初演することが出来、しかもそれはかなり成功し、興行的にも黒字になったというのだ。そしてまたバイロイトを離れて、彼はヴェネツィアに行き、その滞在中に心臓発作で亡くなる。
考えて見ると、やりたいことをやりたい放題やった、悔いのない人生だったといえる。凄いな。天才というのは、やっぱしかなわないな。


source: hr.wikipedia.org/wiki/Datoteka:Ravello_Villa_Rufolo.JPG


聖杯伝説とワーグナー
 ワーグナーと聖杯伝説との結びつきは、調べれば調べるほど興味深い。聖杯伝説のよりどころを、ワーグナーは、12世紀に活躍した詩人ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハの著作「パルツィヴァール」に求めているが、この詩人は、「タンホイザー」では、主人公の友人ヴォルフラムとして登場する。実際にヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハは、テューリンゲン領主のヘルマン1世に仕えていたといわれ、1207年には、ワルター・フォン・デル・フォーゲルヴァイデと共にヴァルトブルグ城で開催された歌合戦に参加したという記録が残っている。
 やはり聖杯の騎士を主人公とする「ローエングリン」と合わせると、彼の全作品の内の3つもの作品が、聖杯ないしは聖杯物語の作者を扱った内容を持っている。つまりワーグナーは、生涯に渡って聖杯伝説に深い興味を持ち続けていたということである。

 以前、ダヴィンチ・コードに関する文章で説明したことがあるが、聖杯とはひとつの象徴だ。ワーグナーの楽劇でもよく言われる。槍や剣は男性器の象徴であり、杯はそれを受ける器。すなわち女性器の象徴である。聖杯が聖なる槍と一対で存在するのは、そこに血筋の継承という裏の事実が隠されているからである。すなわち、聖なる槍とはキリストであり、聖杯とはその血を受け継ぐ器、キリストの妻であったとされる女性マグダラのマリアその人である。そしてマグダラのマリアはキリストの子どもを宿していた。驚くべき事に、ワーグナーはその事実をすでにダヴィンチ・コードより百年以上前に知っていた可能性があるのだ。

第1幕でグルネマンツがパルジファルを聖杯の儀式に参加させる場面がある。そこでパルジファルは無邪気にも訊ねる。
「聖杯って、誰?」Wer ist der Gral?
ところが、この愚かに思われる問いに対し、グルネマンツはパルジファルを嘲笑するどころか、実に不思議な答え方をするのである。
Das sagt sich nicht ;
doch bist du selbst zu ihm erkoren,
bleibt dir die Kunde unverloren.
それは言えない(それは、自らは語らない)。
しかしながら、お前自身が聖杯から選ばれた者であるなならば、
その知らせ(情報)は、お前から失われることなく留まっているであろう。
(かなり直訳的な三澤訳)

 聖杯はSan Graalと呼ばれているが、この裏の意味はSang Real(王の血筋)だという。マグダラのマリアが、キリストの死後、今のフランスであるガリアに逃れたことは、ほぼ史実と言われているが、そこで成長したキリストとマリアとの子どもは、救世主の血を子孫に伝えていく。これがメロヴィング朝と言われて今日まで続いている、ということがダヴィンチ・コードでも語られている。その血筋を守り抜くためにテンプル騎士団やシオン修道会なるものが存在していた。「ローエングリン」や「パルジファル」で語られている聖杯の騎士は、テンプル騎士団であるらしい。
 さらに、シオン修道会の歴代総長の中には、レオナルド・ダヴィンチ、アイザック・ニュートン、ヴィクトル・ユゴー、クロード・ドビュッシー、ジャン・コクトーなどが名を連ねている。そのシオン修道会と関連が深い、南フランスの田舎町レンヌ・ル・シャトーの教会を、「パルジファル」創作のためにワーグナーがわざわざ訪問している。

 このことはすでに以前このホームページでも書いたのだが、その後、いくら調べても、それ以上の情報の進展は見られなかった。「パルジファル」や聖杯にまつわる謎は、ますます深まるばかりだ。

有意義な質問
 さて、講演会の最後の質疑応答がとても面白くかつ有意義だったので、講演会自体が大幅に時間オーバーしてしまった。その中から二つの質問を紹介しよう。

第一の質問
「第2幕でパルジファルがクリングゾルの手から槍を取り戻してから、すぐアンフォルタスの傷を治しに行けばいいものを、1年くらい経っていますよね。これって、何故なんでしょうか?」
ゲッと思った。た、たしかに・・・それはそうだなあ。どう答えようかと思っている内に、ふと僕の頭に浮かんだことがあった。
「それは僕もただちに行った方がいいとは思います。アンフォルタスはその間苦しんでいるのだし。ワーグナーは何を思っていたんでしょうね。(一同沈黙、や、やべー、何か答えないと・・・・)あ、その質問を聞いてひとつ思った事がありました。それはミヒャエル・エンデの『モモ』で、モモがマイスター・ホラーのところへ行くでしょう。時間泥棒の危機が迫っているのに、なんとモモはそこで1年間眠るのです。なにか、この時間の経過に深い意味があるに違いありません」

 こんな答えしか出来ない僕は、学者だったらとっくに失格だね。帰りの新幹線の中で、いろいろ考えていた。するとひとつ大切な事が分かった。それは、アンフォルタスの傷のことだけ考えると、パルジファルは、その槍を持ってすぐにモンサルヴァートに戻った方がいいだろう。だが、クンドリのことを考えると、そういうわけにはいかないのである。
 誘惑者クンドリがクリングゾルの呪縛から解かれたとはいえ、彼女の中で何かが変わり熟成するためにはある期間が必要なのだ。無駄ともいえる月日の中には、「モモ」もそうだけれど、「熟成」というキーワードが隠れているような気がする。
 それに第3幕で、パルジファルは、グルネマンツから洗礼と香油の儀式を受けた後、クンドリに洗礼を施さなければならない。この儀式を通らないでは、安易に聖杯王となることは出来ないのである。ラストシーンの聖杯の奇蹟に辿り着くために、この時間の経過は必要だったのだろう。

第二の質問
「ティトレルが死んでしまったということは、聖杯の血筋はそこで途絶えてしまったということなのでしょうか?それをよそ者であるパルジファルが継ぐということは、先ほどの先生の王の血筋の考え方からするとおかしいのではないでしょうか?」
僕は答える。
「リアルに考えるとこのストーリーは矛盾だらけですが、この場合は、ワーグナーがクンドリにマグダラのマリアを投影させていることを第一に考えるべきだと思います。クンドリは、第3幕で香油をパルジファルの足に塗り、自分の髪の毛でぬぐっています。これは、聖書の中でマグダラのマリアがなした行為です。このことからも、ワーグナーとしては、クンドリはマグダラのマリアなので、クンドリこそが女系としての血の継承者で、それからまた王の血筋が始まってくるのです」
「ローエングリンが自分の父親はパルジファルだと言っていることは、パルジファルはクンドリと結ばれてローエングリンという子どもをもうけるべきだと思うんですが、この作品の最後でクンドリは死んでしまうんですよね。これは一体どういうことなんでしょう?」

 おっと、そうであった。例のentseeltという言葉である。迷惑なのである。現在は使われていないけれど、かつてはentseelenという動詞があったのであろう。entは逸脱、除去を表す接頭語、seelenはSeel魂から派生した動詞で、「魂が抜ける」という意味だ。この過去分詞が形容詞化されて婉曲的に「死んだ」という表現になった。つまり「ローエングリン」のエルザや「愛の死」を歌ったイゾルデのように、法悦状態の中で魂が抜けたから死ぬので、結果的には死因が特定出来ない突然死となるのだ。
 そうだった。クンドリもentseeltしてしまうのだ。ええ?どうしてよ?どうして死ななければならないのだ?変じゃない?ワーグナーって!と、ここで言ってみても仕方ない。何か答えなくては・・・・。
「まあ、この物語は、表向きはリアルな意味での聖杯を継承するという物語なので、パルジファルが聖杯王になればいいのでしょう。王の血筋を赤裸々に描こうという意図はワーグナーにはなかったし、それを描こうとすると、聖なる騎士でありながら、どうやって女性を得て子孫を継承していくのだ、などというというややこしい話になってしまいます。そうでなくても、現に自分で書いていながら、『お父さんはパルジファル』と言っているローエングリンにおいてすでに自己矛盾を起こしています。その点を追求していくときりがありません」

 ふうーっ、これで逃げ切ったとは思わないけれど、なんとかその場だけは乗りきった。それにしてもよう、簡単に登場人物を死なせないで欲しいな。こんなストーリー展開を作りやがって、本当にワーグナーって迷惑な奴だよ。ここで講演会して質疑応答を受ける僕の身にもなってよ。ならねーか・・・・。

 こんな風に、講演会をやると、いろんなことを考えるきっかけとなる。これからまた数日間は、講演会での質疑応答のやりとりをオカズに、あれこれ思索にふけることが出来る。実に知的興奮の日々を送っている今日この頃であります。



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