ピータ・グライムズ初日前夜

三澤洋史 

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ピータ・グライムズ初日前夜
 ゲネプロを観た人達はみんな絶賛してくれた。特にウィリー・デッカーの演出が素晴らしいと口を揃えて言ってくれる。舞台の構図や登場人物のフォーメイション、それにライティングもそつがなく、玄人を喜ばせるが、何といっても、ソリストにしても合唱にしても、細かい部分まできちんと演技が付けられているのにみんな驚く。
 ピーター役のスチュアート・スケルトンの圧倒的な演技と、フローリアン・フォークトをも彷彿とさせるコントロールの利いたきめ細かい歌唱は必聴。彼の「ローエングリン」も聴いてみたい。文句なしに当代一のピーター・グライムズだ。
 一方、スーザン・グリットンの清楚な歌唱は、慈善的精神に溢れたエレンの切なさをストレートに伝えて聴く者の胸を打つ。彼女は今シーズンのスカラ座でもエレンを歌う。声量がある方ではないけれど、こういう知的で同時に情感にも溢れた歌唱の出来る歌手は貴重だ。僕の大好きなタイプ。出来ればバッハを一緒にやってみたい。
 最前列以外のお客さんは是非オペラグラス持参をお薦めする。キレる瞬間のピーターはマジ恐えーし、アーンティ役のキャサリン・ウィン=ロジャースの戸惑う表情とか、バルストロード船長役のジョナサン・サマーズの渋い演技とかは、是非近くで見て欲しいんだ。また、激しく動き回る合唱団員のひとりひとりの表情を味わうのは、オタッキーな楽しみ方というもの。
 加納悦子さんが演じるセドリー夫人が面白い。
「パブなんて下品なところには行かないわよ!」
と気取っているくせに、実はドラッグ中毒で、噂話が大好きで、とくに犯罪の話題が飯より好き。居るよなあ、こんな人、と思わせる超変なおばさんの役を好演している。見る度に思わずにんまりしてしまう。
 10月2日火曜日から14日日曜日まで5回公演。こんなに秀逸なプロダクションなのに、曲が有名じゃないので、まだ切符は売り切れてないらしい。だから今からでも充分間に合うよ。騙されたと思って来てください。絶対後悔しないから。

台風と聖杯伝説
 9月30日日曜日は、浜松バッハ研究会の練習のはずであった。10月20日土曜日に行われるバッハ作曲「ロ短調ミサ曲」演奏会のために、朝から出掛けていって、お昼に鰻を食べ、午後は合唱練習、そして夜はオーケストラが入って合唱と合同練習の予定であった。ところが、台風のために中止になってしまった。残念!

 多忙のはずの日曜日が丸一日ぽんと空いてしまった。勿論やることはいくらでもあるのだが、こんな日は急に気が抜けてしまう。仕事モードに突入するのをやめて、午前中から午後にかけて半日、ベッドにクッションを持ち込んでのんびり読書をする。これがなかなか至福の時であった。
 本の名前は長い。「シオン修道会が明かすレンヌ=ル=シャトーの真実」。副題が「秘密結社の地下水脈からイエス・キリストの血脈まで」。著者はロバート・ハウエルズで訳者は山川詩津夫。出版元はKKベストセラーズ。

 実は、似たような本を持っていた。それは、先日の「パルジファル」講演会の情報の出所にもなっていた「レンヌ=ル=シャトーの謎」(柏書房)という本。名古屋でみんなに紹介したのは、こちらの「謎」の方の本。

 僕は、本屋に行くと必ず宗教本のコーナーに行く。先日ふらっと寄ったら「謎」ではなくてレンヌ=ル=シャトーの「真実」の方の本があった。僕は勘違いして、これは「謎」の本が表紙の装丁だけ変わって再発行したのかと思った。でも、よく見たら違う。そこで宗教オタクの僕は、やっぱり買ってしまった。
 二つの本は、同じ情報がかなりダブっている。両方とも「ダヴィンチ・コード」で話題になった聖杯伝説に関連した本。でも「真実」の方が「謎」よりも一歩踏み込んでいて面白い。どちらかを買うか迷っている人がいたら、こちらを薦める。名古屋の皆さんも、これから買うなら「真実」の方を買った方がいいです。ただし、一歩踏み込んでいる分だけ、作者の個人的見解に賛同しきれない部分も出てくるから、全てを鵜呑みにしない方がいい。

 南フランスにレンヌ・ル・シャトーという小さな村がある。その村の古ぼけた聖マグダラのマリア教会に1885年フランソワ・ベランジェ・ソニエール神父が司祭として赴任してきた。教会は荒廃していて修復が必要だったので、ソニエール神父は借金をして改修工事をはじめた。すると、はがした板石の下から金貨と聖杯の入った袋が見つかった。さらに一枚の羊皮紙の入ったガラスの小瓶が発見された。それらの意味を理解しかねた神父は、しかるべき人達に相談し、パリのサン・シュルピス教会を訪ねる。
 その時からである、ソニエール神父の行動がおかしくなったのは。彼は、司祭のわずかな収入ではとうてい不可能であると思われる散財を始める。いきなり多くの像やフレスコ画をどんどん注文し、教会の全面改修に着手する。チェス盤模様の床や、悪魔の像のついた聖水盤など、不可思議で異教的なものが小さな教会をごてごてと飾り始める。
 さらに彼は付近の土地を買って所有地を広げる。遊歩道のある庭園を丘の上に作り、遊歩道の端にはマグダラ塔と呼ばれるゴシック様式の石の塔などを建てた。また、ベタニア荘と呼ばれる豪華な別荘や、オレンジ園や動物園、見事な図書館などを次々と建設し、珍しい陶磁器や貴重な織物、時代物の大理石などを収集していく。いぶかって噂話を始める村人達には、宝石をプレゼントしたり、豪華な食事に誘って口封じをする。
 ついにソニエール神父は、地元の司教に呼び出されて、財源と行動についての説明を求められるが、その尋問への協力を激しく拒んだため、司祭の職を解かれてしまう。しかし神父はバチカンに直訴して復帰する。そして・・・・。

 と、この謎めいた物語は始まる。レンヌ・ル・シャトーについてはミステリーがミステリーを呼ぶのであるが、要するにこれが、先週も触れたマグダラのマリアという、イエスの血筋を受ける“聖なる杯”の伝説につながるのである。さらに、「パルジファル」を書く前に、ワーグナーがこの村をわざわざ訪れているというのだから、我々音楽に関わる者達にとっても、他人事ではないわけだ。

 推理小説ではないのでネタバレしてしまって差し支えないと思うが、作者の主張していることはこうだ。イエスとマグダラのマリアとの間に生まれた王の血脈Sang Realは、代々受け継がれてきた。その家系はメロヴィング朝と呼ばれ、テンプル騎士団によって見守られてきた。カトリック教会は、その件に対し、基本的には放置ないしは黙認の姿勢をとっていたが、あまり活動が目立ちすぎると異端として退けようとしてきた。1307年に、教会はテンプル騎士達を逮捕する。間もなく拷問、処刑などにより、テンプル騎士団は事実上消滅させられてしまった。
 しかしながら、名前こそ滅んだが、テンプル騎士団の精神はシオン修道会となって受け継がれたという。シオン修道会は、フリーメーソンや薔薇十字団などと同じ秘密を共有し、互いに関係を保ちながら今日に至っている。秘密組織でいるのは、テンプル騎士団の二の舞にならないための配慮である。
 レンヌ・ル・シャトーは、その昔、テンプル騎士団が南フランスに再創造しようとしていた新エルサレムであるらしい。マグダラのマリアはこの地で亡くなり、彼女の遺体は、そこで眠っているという。さらに作者は、イエス・キリストその人の遺体もあると言っているが、僕自身はこれには納得しかねる。
 それを偶然にも再発見したソニエール神父は、その筋からの財源を元に、教会の再建を成し遂げたというわけだ。あるいはその事実を知ってしまったがために、抜けられなかったというべきか?
 そして作者は最後に主張する。世界が「ヨハネの黙示録」的な危機的状況にさらされた後、この新エルサレムにおいて新しい救世主が再臨するのであると。それをシオン修道会が見守っているのであると・・・・。

 うーん、ここまでくると・・・・どうなんだろうな・・・・面白いけどな。って、ゆーか、このハウエルズさんは、こんな研究のために20年も費やしているというんだ。いいなあ、こういうロマンに満ちた人生!これが事実かどうかは、どーでもいいや。まあ、楽しかったよ。浜松には行けなかったけど、台風ありがとう!

不気味な曼珠沙華
 彼岸花なのにお彼岸に間に合わなくて、やっと最近になって曼珠沙華が咲き始めた。僕は曼珠沙華が大好きなので、この「今日この頃」でも毎年取りあげている。一昨年頃までは、どんなに夏が暑くても寒くても、9月の天気がどうであっても、必ず同じ時期に咲いていたので、自然って凄いなという感想を書いていた。それが、昨年くらいから大幅に遅れてきて、もう2年もお彼岸に間に合っていない。
 曼珠沙華が何故好きなのかというと、神秘的だからだ。この花には、なにかあの世に通じているものがあって、特に、この世とあの世との境界線が曖昧になるお彼岸の時期に群れをなして咲いていると、危ういほど夢幻的で、僕の意識も此岸と彼岸との境界線を越えてしまうのだ。
 でも、お彼岸を過ぎた曼珠沙華は、神秘的を通り越して、僕にはまるで妖怪のように不気味に感じられる。曼珠沙華の不気味さは僕達に告げているようだ。世界がいよいよバランスを失って来ているということを・・・・。宗教的とかそういう観点からではなくて、ごく当たり前の科学的発想からしても、自らの欲望の達成のために、自分たちの住んでいる環境をこんなに破壊し、生態系を壊してきた人類が、いよいよ自然から仕返しを受ける時が来たように感じられる。つまり自然淘汰だ。恐竜が絶滅したように、極めて客観的な自然の法則によって、人類が淘汰される側に回るなんてことになったら恐ろしいな。曼珠沙華の開花の遅さの裏に、こうした危機感を感じるのは僕だけなんだろうか?

秋の夜半
 先週は、火曜日から妻が福島県いわき市に手芸のボランティアに行って2晩留守であった。僕と娘の志保は、お互い仕事をしつつ留守宅を守ったわけであるが、愛犬タンタンのことを心配しなくていいのが楽な一方で、その心配しなくていい状況がかえって淋しかった。
 最初の晩は、僕も志保も二人共夜9時まで仕事だったので、新宿で待ち合わせして一緒に帰り、府中駅の近くの居酒屋でおでんやゴーヤチャンプルを食べながら焼酎を飲んだ。次の晩は、志保は夕方から空いていたので、彼女が料理を作った。メインは豚肉のソテー。同じ皿にラタトゥユと、ポテトの上にチーズを乗せてラクレットのようにオーブンで焼いたグラタンを添えた。僕は仕事の後、新宿駅まで歩き、やまやで赤ワインを買って帰る。どこまでも飲んべえな家族である。

 木曜の晩、妻が帰ってきた。で、またまた帰宅祝いのパーティーである。鉄板を出してきて、肉やタンやウィンナと共に、もやし、キャベツ、エリンギ、にんじん、たまねぎを焼く。妻の土産話を聞き、ビールや焼酎が回ってみんなで良い気持ちになってきたら、いつの間にかタンタンの話になった。
「そういえば、最近またタンタンのことよく考えるよね」
「秋が来て涼しくなってきたら、また淋しくなってきたよね」
「ママの留守中、家を空けても早く帰ろうとあせらなくてもいいというのが逆に淋しかったよね」
「あのつるんとした毛並みの感触や、お腹の妙な温かさや、ベロベロ舐めてきた時の臭さがなつかしいよね」
なんて話していたら、どんどん悲しくなってきた。気が付いてみたら、志保が酔っ払ったせいもあって目に一杯涙をためて泣いている。
「うわーん、タンタンに逢いたーい!」
僕ももらい泣きしてしまった。急に寒くなった秋の夜のしじまに志保のすすり泣きが溶け込んでいく。ひたぶるにうら悲し。

Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
Monotone.

秋の日のヴィオロンのためいきの身にしみて
ひたぶるに うら悲し
(上田敏訳)

秋のヴァイオリンの長いすすり泣きは
モノトーンにけだるい僕の心を傷つける
「今日この頃」2004年11月28日三澤洋史による直訳
こんな詩が似合うようになってきた今日この頃である。うーん、上田敏の訳は、文法的にも単語の意味も違っているんだけど、やっぱ、こっちの方がいいな。

水泳と体の矯正
 最近一生懸命水泳に通っている。先週は4日も行った。やっと涼しくなったので自転車で初台まで出掛けたいところであるが、どうも天気が思わしくない。曇りがちだったり、いきなりどしゃ降りになったり、とても自転車で遠出出来る雰囲気ではない。そんな時に水泳は便利である。カバンに水着さえ詰めておけば、いつでも行ける。

 泳いでいると、なんとなくまだ体勢的にロスがあるような気がする。そこで自分のフォームを見つめ直してみた。「伏し浮き」というものが、どの本にも最初に書いてある。水の中で体を水平に保ちつつプカッと浮いているだけのこと。ちっとも難しくなさそうであるが、やってみたら意外とそうでもない。だんだん足が沈んできてしまう。
 長女の志保が最近水泳にハマッているので、一緒に芝崎体育館に行った時やらせてみた。すると何の苦もなく出来る。
「どこが難しいの?」
本を読むと、女性の方が皮下脂肪があるので伏し浮きはやりやすいと書いてある。男性は、重い筋肉が足に集まっているので、足が沈みやすいらしい。畜生!悔しいな!

 そこで・・・・・うふふ、僕にはとっておきの助けの神様がいるのだ。それは・・・・この「今日この頃」でもよく登場する親友の角皆優人(つのかい まさひと)君である。角皆君はプロスキーヤーであるが、水泳の本を2冊も書いている。メールを書いたら、その日のうちに返事が来た。
「三澤君がうまく伏し浮きが出来ない理由は『肩関節の柔軟性』でしょう」
と、超シンプルに一刀両断!
「肩関節が十分に柔らかくないと、伏し浮きで良い姿勢を作れないのです。ストリームライン姿勢で、肩関節が数度で良いから逆方向に曲がるくらいの柔軟性が大切です。たとえば壁に背中を付けてまっすぐに立ち、ヒジ関節をしっかり伸ばして両腕を上に挙げ、手のひらを重ねます。この状態で、背中全部と後頭部、腕の全部が壁に付くくらいの柔軟性が必要になります」
 そこで、壁に背中をつけて両手を挙げてみた。ゲッ、こんなに反るんか!知らなかった!って、ゆーか、出来なくはないんだけど、結構キツい。肩と尻は付くんだけど、背中が反っている。妻が面白がってやってみたら、背中全部がピタッと付くぜ。ちぇっ、彼女は泳がないのに僕より肩関節は柔らかいんだ。
 それでもね、次の日プールに行って試してみたら、あらら・・・足が上がって来たよ!腕を挙げれば足が浮く。肩を下げるようにすればいいんだ。多少背筋も使うんだね。この伏し浮きをやってから平泳ぎをやってみたら、おおっ!キックしてから水に入った体勢が、完全に水平になって、さらに腕で掻き始める時に足が下がらなくなった。これまでとは見違えるように、進む!進む!クロールの進み方も違う。やはり何でも基本が大切なんだね。

 こんな風に、スポーツを基本からきちんとやると自分の姿勢の矯正になる。あらゆるスポーツには、それにふさわしい基本フォームがあり、それは人間の美しく正しい姿勢が元になっている。それは指揮のフォームとも共通するし、歌唱や楽器奏者のフォームとも共通する。
 僕は長い間、がに股O脚で猫背だった。猫背は、すでに水泳でかなり改善されているが、この「伏し浮き」でさらなる改善をめざそうと思う。がに股O脚は、今となってはあまり直らないだろうけれど、散歩する時に、道路と歩道の間にある縁石の上を平均台のように歩いている。
「子供みたい!」
と妻は馬鹿にするんだけど、これが結構矯正になるのだ。“土踏まず”がなくなって扁平足になったイメージを持ちながら、つま先を真っ直ぐ前に向けて、足のひらの上に全体重が乗るようにすると、安定性が得られる。
 何故僕がこれをやるかというと、実はスキーのため。前のシーズン、僕は初めて自分の足がスキー板の上に乗っているという実感を持った。そして、これがスキーの基本なのだと知った。その時の感覚を、僕は縁石の上で確認するのだ。
 
 姿勢を矯正出来ると、いろんな意味で健康に良いような気がする。血流が滞ることなく、あらゆる内臓にも良い影響を与え、変な病気にもかからないような気がしてくる。僕は、そんなに長生きしたいとも思わないけれど、人生の終わりまで元気でいたい。スキーなんかは、なるべく歳を取っても出来る体でいたい。
 良い姿勢から全てが始まるような気がする。運も引き寄せるような気がするが、それは気のせいだろうか?それより、そんな“棚からぼた餅”的発想にとらわれないで、まず“生きる姿勢”から矯正した方がいいのかも知れない。



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