中村健先生と僕の青春

三澤洋史 

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中村健先生と僕の青春
 僕は、声楽科に在籍しながら、指揮や作曲のプライベート・レッスンに通い、まるめろ座、創作オペラ研究会といったサークルで指揮をしたり、自分で組織したオーケストラで学内演奏会を開いたりしていた。
 さらに僕は、最初の指揮の先生である国立音大作曲科教授増田宏三先生のオーケストレーションや和声学の授業に自由に出入りすることを許してもらえた。お陰で作曲科の同級生はみんな僕のことを3年生から編入してきた作曲科学生だと思っていた。最近までそれを信じていた同級生がいて、
「えっ?作曲科じゃなかったの?」
「えっ?作曲科と思ってたの?」
と双方びっくりしたなんてこともある。

 とはいえ、僕はそのまま声楽科に在籍していたので、こちらの単位もきちんととらないと卒業が出来ない。そこで恩師の中村健(なかむら たけし)先生に相談した。健先生は親身になって相談に乗ってくれた。
「分かった。でも、レッスンに顔を出さないことには、単位はやるわけにいかないよ」
「はい。分かってます。でも・・・曲を勉強する時間がないんです。スコア・リーディングや和声学や・・・・」
「黙って人の話を最後まで聞きなさい」
「は、はい・・・・」
「毎週レッスンに顔だけ出しなさい。顔を出せばそれでいいから」
ということで、僕は何も勉強しないまま健先生のレッスンに顔を出す。
「どうだ?勉強は進んでいるのか?」
「はい。島岡譲先生のところで和声学を最初からやり直しています」
「そうか・・・じゃあ、帰ってよろしい。頑張れよ!」
「失礼します」
なんて寛容な先生!
健先生のお陰で、僕は学年末の試験曲と卒業試験の曲だけを勉強して、なんとか声楽科を卒業出来たのだ。

 国立音大の中村健クラスでは、生徒同士がみんな仲が良い。その原因のひとつに、春には遠足をし、夏には北軽井沢で合宿したり、なにかと交流の場が多いのだ。そうしたところでは、先生はいつも超寒いダジャレを連発したり、おかしな小話を話したりして、ただの変なおじさんになる。
「天井にあって床にないもの、なーんだ?」
1年生の春の遠足。こんな質問が先生から出た。
「分かった人は、それを使って新しく問題を作ること」
先輩達がどんどん答える。
「テレビにあってステレオにないもの」
ええっ、何だそりゃ?全然分かんねーぞ!
「絵画にあって絵にないもの」
「声楽にあって歌にないもの」
ますます分からない!1年生はみんなパニック!そのうち先輩達がだんだんいらだってきて、
「まだ分からないの?あんたたち、健クラスの資格ないわよ」
そ、そんなあ・・・・これ分からないと健クラスにいられないのか?困ったなあ・・・・。
「もう、じゃあ、わざと分かるように出すからね。いい?馬鹿にあって墓にないもの。ババアにあって母にないもの。濁点にあって句読点にないもの」
僕もみなさんにもうこれ以上言わない。これが分かった人は、今度僕に会ったら、“その法則”に従って何か問題を作って僕に言って下さい。

 夏の北軽井沢の合宿所の爽やかな風と、先輩達や後輩達との語らいの楽しさ、みんなと雑魚寝したことなどは、今でも生き生きと思い出す。合宿では、グループに分かれてあらかじめ用意した重唱を披露する。1年生の頃、僕は「魔笛」の5重唱でパパゲーノを歌ったりしていたが、先輩達はヴェルディやヴェリズモ・オペラなどの重唱をダイナミックに歌っていた。凄いなあ、あんな風になれるかなあ、と羨望の眼差しを送りながら聴いていた。
 健クラスの同級生にMさんというソプラノの子がいた。ちょっと恥じらいがちの可憐な顔立ちをしていながら、都会的な華やかさもある。僕は彼女にすっかり参ってしまった。彼女を誘って、ヤマハ・ホールにカラヤンの「薔薇の騎士」の映画を一緒に観に行ったりしたが、こちらは東京に出てきたばかりの群馬の山猿。彼女をエスコートする何のセンスも持ち合わせしていないし、態度もぎこちなく、話をするごとに自分が田舎っぺ丸出しなのを思い知らされる。淡い恋心は何の実りも結ばず、僕は、六畳一間の薄暗いアパートでひとり傷心を舐めていた。もう37年も前の話。

こんな風に、中村健クラスは僕の青春の思い出。甘酸っぱくて苦い若き日の想い出。

 中村健先生の門下生の会は萌(もえ)の会という。指揮者に転向してしまった僕は、当然萌の会に出たことはないが、8月の「おにころ」の公演に、なんと健先生がわざわざ群馬まで観に来てくれて、
「80歳になるんでね、萌の会で特別演奏会を開くんだ。よかったら招待状を送るから来てくれよ」
と言うではないか。
 実は、演奏会のある10月6日土曜日には、浜松バッハ研究会の土日2日続きの練習が入っていた。でも健先生がご自分でおっしゃるんだもの、行かないわけにはいきませんよね。そこで、バッハ研の練習を日曜日だけにしてもらって萌の会に行くことに決めた。その代わり、演奏会終了後そのまま新幹線に乗って浜松に行って泊まり、翌朝は10時から夜まで1日中ロ短調ミサ曲の練習をすることにした。

 門下生の会とは言っても、80歳になる先生が長年に渡って教えた弟子達の中から選りすぐりの人材を集めた特別演奏会である。みんな音楽界の中核で大活躍している人達なので、とても発表会という雰囲気ではない。それ自体が、何処に出しても恥ずかしくない立派なガラ・コンサートの体裁を持っているのだ。

 それにしても、中村健門下というのは、なんていろんな方向性を持った歌手達がいるのだろう。カウンター・テノールの彌勒忠史君が「ポッペアの戴冠」のアリアをジャズっぽく歌えば、「わたしのお墓の前で」で有名になった秋川雅史さんが「荒城の月」を情熱的に歌う。フランス近代音楽に傾倒する安冨泰一郎さんのプーランクや、イギリス音楽に造詣の深い辻裕久さんの「グリーン・スリーヴズ」など、それぞれがそれぞれの得意分野を自分で開拓し、一家を為している。その一方で、小林厚子さんや成田博之君のように、堂々とした美声の正統的オペラ歌手もいる。実に包容力があるといえば聞こえがいいが、要するに健先生自身は僕たちに何も押しつけはしなかったのだ。
 さらに、その方向性のとっ散らかり方は、声楽家の範囲に留まってはいない。帰り際、藤原歌劇団を中心に長年合唱指揮者として活躍されてきた及川貢さんにバッタリ会った。な、なんと、及川さんも中村健先生の門下生だというのだ。
「だって、あんまり年変わらないでしょう」
と言うと、
「そうなんだけど、健さんは若くしてコンクールで1番になって、テレビなんかにもどんどん出演していたもんで、ものは試しと弟子になったのだ。粟国安彦(藤原歌劇団で活躍した我が国のオペラ演出家の草分け。粟国淳さんのお父さん)だってそうだよ。師弟関係というより友達みたいだったな」
と言う。僕も含めてオペラ界で活動する二人の合唱指揮者が両方とも中村健門下生だなんて!

 トリを飾った岩森美里、井ノ上了吏、山口道子の3人は、例の遠足や合宿などで仲良くしていた直接の後輩なので、昔から彼等を呼び捨てにしている。その3人が3人とも、かけがえのない歌を歌ってくれた。特に美里の歌う落葉松には、溢れ出てくる涙を抑えることが出来なかった。井ノ上の「フェデリーコの嘆き」も、山口の「ヴィリアの歌」も、卒業してから長い人生を生きてきた彼等の年輪が感じられて、深い感動が僕を包んだ。

 その感動がさめる間もなく、最後に中村健先生が登場した。そして歌った曲はなんと「いぬのおまわりさん」「さっちゃん」などの大中恩の童謡。会場には大中恩氏本人がいらしていた。健先生のとぼけたスピーチとユーモラスな歌いぶりに、津田ホールの超満員の聴衆は大いに湧いた。なんと愛すべき人物!それぞれの分野に羽ばたいていった弟子達が、こうしていまだに健先生を慕って集まってくるのは、まさにその人柄ゆえ。

プログラムの巻頭のごあいさつ

みなさま、本日はようこそお出かけ下さいました。
私が活動の場としてまいりました二期会は今年で創立60周年を迎え、私は80歳になりました。幸い、才能・可能性を秘めた生徒に恵まれ、生徒たちは声楽以外でも、指揮、作曲、演出、教育と多方面で活躍しております。
今年5月に亡くなられた我が師、畑中良輔先生は生前「生徒に超えられる先生はアホだ。先生を超えられない生徒もアホだ・・・・」とおっしゃいました。
アホではない畑中先生とアホではない生徒達に恵まれて私の人生80年は幸せです。 中村健
 生徒の成長を心から喜んでくれる健先生。その背景には温かさと包容力と謙虚さがある。ずっと変わらないなあ!たけし先生!ありがとうございます!先生のお陰で今の僕がいます。いつまでもいつまでもお元気でいて下さいね!

詭弁
 この詭弁をどうしてくれよう。原子力規制委員会は、「停止している全国の原発について再稼働の判断にはかかわらない」との見解を出した。一方政府は、規制委員会が安全だと判断した原発については、「政府としての判断は差し挟まないで」そのまま再稼働していく方針を示した。前原氏は、「独立性の高い規制委が安全だと決めたものをまた国で判断するのは論理矛盾」と言っている(10月5日朝日新聞朝刊より)。
 これで、次にどこかで福島第一原発のような事故が起きた時に双方の持ち出すコメントは決まったね。まず規制委員会は、「私たちは再稼働には関わっていない。それを判断したのは政府だ。私たちは責任を持つ必要はない」と言い張るだろう。それに対して政府は、「規制委員会が安全だと言ったので動かしたのだ。悪いのは規制委員会だ」と逃げ切るつもりだ。恐らく結末は、政府が原子力規制委員会に対し、かつて原子力安全・保安院を廃止したように廃止することで責任をうやむやにするのだろう。つまり双方にとっての逃げ道が、これで見事に構築されたわけである。

 もっとトリッキーなのは、「政府としての判断は差し挟まないで」という言葉である。騙されてはいけない。大事なのはその次の言葉なのだ。「そのまま再稼働していく方針」。実はこれこそが「政府としての判断」なのだ。差し挟まないだろう。だって、「安全」と決めるやいなや、どんどん再稼働していきたいわけだもの。
「安全!」
「よっしゃっ!」
と即決でバンバンいきたいわけだろう!

 野田総理が「2030年代に原発を全廃」を掲げた目標が実現すると仮定しても、考えられる状況はこうだ。その原発を全廃する日まで、今止まっている原発を最大限再稼働させ、建設中の原発は新しく稼働させ、フル稼働状態になっている状態のまま、ある日突然日本全国の原発がいっせいに止まるわけだね。そうすると、使用済み核燃料が日本全国に高温のままおびただしくあるので、それを冷却するために、おびただしい電力が必要になるわけだね。その電力は一体どうするつもりなのだろうか?いいかい、原発は普通の施設のようにスイッチを切ったらそれで終了するようなものではないのだ。
要するに早い話、政府は原発を止めるつもりはこれっぽっちもないということだ。10月6日朝日新聞朝刊では、このような文章が見られる。

野田政権は9月にまとめた革新的エネルギー・環境戦略で「2030年代の原発稼働ゼロ」を目指すことを決め、「原発の新増設はしない」との方針を打ち出した。
枝野幸男経済産業相も5日の記者会見で、建設を認めない考えを示した。ただ、原発ゼロを懸念する米国や経済界、地元自治体への配慮などから新エネルギー戦略は閣議決定には至らなかった。政権交代などで政府の方針が変わる可能性は残されている。
 今の日本の状況を、この言葉は本当に良く表現している。要するに日本国の総理大臣がある価値観の元にある決断を出しても、総理大臣よりももっと偉い存在があってそっちに決定権があるということだね。それは米国であり国内の経済原理であるということだね。民意などというものは簡単に無視されるんだね。つまり日本は民主主義の国でもなんでもなくて、バール(お金の神)による独裁政治の国なんだね。この国では、人はパンのみにて生きるのだね。福島第一原発の事故が起きて日本は世界中からあきれられているのに、なんにも懲りてないんだね。

尾を引く聖杯伝説とワーグナー
 レンヌ・ル・シャトーに行ってみたくてたまらない。グーグル・マップやグーグル・アースで場所を確認し、ストリート・ビューで矢印に従って進みながら、村の中を散歩した気分になっている。フランスの南の国境近く、トゥールーズの南東、ピレネー山脈を背後にひかえた中世の面影の残る石造りの村。アッシジを彷彿とさせる。電車とか公共機関を使って行くと、めちゃめちゃ不便そうだなあ。


マグダラのマリア教会

 例のソニエール神父がこの村の聖マグダラのマリア教会に赴任してきたのは1885年なんだよね。ワーグナーが死んだのは1883年だから、彼がこの村を訪問したのは、なんと聖杯や羊皮紙が発見される前なのだ。それなのに、どうしてワーグナーはこの教会のことを知っていたんだろう?ソニエール神父が来るまでは、ある意味、見棄てられ忘れ去られていた教会のようなのに・・・・。
 勿論、ワーグナーは若い時に「ローエングリン」を書いたりして、聖杯オタクとすれば筋金入りなんだろうけれど、どこかの秘密セクトと交流があったのだろうか?

 秘密セクトといえば、ワーグナーはフリーメーソンに入会したくて何度も申し込んでいるのだけれど、二つの理由で入会を拒否されている。ひとつは、ルートヴィッヒⅡ世とホモセクシュアルを疑われていたこと。もうひとつは、一度離婚していることと合わせて、女性関係に関してあまり良い評判が立っていなかったこと。なんとも恥ずかしい話だが、入れてはもらえなかったかも知れないけれど、メンバーと個人的に交際していろいろな情報を聞き出していた可能性はある。昔から、フリーメーソンに入りながらシオン修道会にも属していたというように、いくつものセクトをかけもちしていた人も少なくないというから、情報は我々が想像しているより豊富だったのかも知れない。

 また、そもそもレンヌ・ル・シャトーの教会は、その筋の人達の間では聖杯教会として、フランスだけでなくドイツも含めて広く有名だった可能性もある。ソニエール神父は、たまたまそこに赴任してきて、たまたま聖杯や羊皮紙を発見したのではなく、シオン修道会から秘密裏に派遣されてきて、教会を中心にその村全体を新エルサレム化することに貢献したのかも知れない。そう考えると、すべてが符合する。
 ソニエール神父が、羊皮紙に書かれた内容の意味を知るためにパリに行った際、ドビュッシーと会っているという。ドビュッシーといえば、シオン修道会の総長であるし、元来は熱心なワグネリアンであった。このドビュッシーとワーグナーとの間には、なんらかの精神的交流というものはあったのだろうか?親しい付き合いをしたという記録は残っていないし、ある時からドビュッシーはワーグナーと「袂を分かつ」宣言をし、独自の作風を展開していったわけだが・・・・。

でも、お互いの作品の中では、ひとつの大きな共通点があることに気づいている人はいるだろうか。

「パルジファル」第1幕で、グルネマンツはこう言う。

Hoch steht die Sonne:
nun lass zum frommen Mahle mich dich geleiten.
陽は高く昇った
さあ、お前を聖餐式に連れて行ってあげよう

また、第3幕で聖金曜日の奇蹟が起こり、神聖な雰囲気にあたりが包まれている中、グルネマンツは、またしても言う。

Mittag.
Die Stund' ist da.
Gestatte, Herr, dass dein Knecht dich geleite!
正午です
時が来ました
いまやあなたの従者となった私が、
あなたのお供をさせていただきたい

「パルジファル」の中では、聖餐式はいつも正午に行われている。


一方、ドビュッシーの唯一のオペラ「ペレアスとメリザンド」の中でも、「正午」というのは重要なキーポイントとなっている。メリザンドは歌う。

je suis né un dimanche,
un dimanche à midi
あたしは日曜日に生まれたの
日曜日の正午に

 そして、この物語の転換点となるのが、やはり正午である。メリザンドは、ペレアスと一緒に、海と同じくらい深いといわれる奇蹟の泉のほとりにいる。彼女はゴローからもらった指環を水の上で弄んでいる内に落としてしまう。その瞬間に正午の鐘がなる。一方、狩りをしていたゴローは、その正午の鐘がなった瞬間、落馬してしまうのだ。
 この第2幕第1場と、第3幕第3場という二つの昼間の場面は、共に正午なのである。

 正午は、フリーメーソンでは、とても大事な時である。フリーメーソンでは、高位の階級の全ての会合や儀式が正午に始まるといわれる。その理由のひとつとして、偉大なる錬金術師と言われるニコラ・フラメルの、最初の錬金術の変容が起こったのが、1382年1月17日の正午であったからだと言われている。そのことは、先週紹介した「レンヌ・ル・シャトーの真実」の中で詳しく語られている。正午を特別な時であるとする考え方は、シオン修道会でも同じだという。「パルジファル」と「ペレアスとメリザンド」という二つの作品は、正午にこだわり、正午で内的につながっているのだ。

もしかして、ワーグナーは、シオン修道会と関係していた?


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