表現主義的演奏

三澤洋史 

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読響のダフニスとクロエ
 読響は上手なオケだなあ。それに常任指揮者のシルヴァン・カンブルランとの関係が良好なのが端で見ていても良く分かる。オケ内部の雰囲気も良く、練習に参加していても気持ちが良い。そしてフランスものとくれば、演奏会が悪くなりようがない。
 僕に対しても、というか、新国立劇場合唱団に対しても、カンブルラン氏は、昨年秋のベルリオーズ作曲「ロメオとジュリエット」以来、大きな信頼を寄せてくれているようで、最初のマエストロ練習の日に会うなり、親しく話しかけてきてくれた。僕たちはドイツ語と英語を交ぜながらの会話。カンブルラン氏はドイツ語でしゃべりたがるのだが、僕は「ピーター・グライムズ」以来、英語で会話することに慣れているし、彼も本当は英語の方が得意そうなので、僕の方からはむしろ英語で話しかけていく。

 プログラムは「マ・メール・ロア」全曲と「ダフニスとクロエ」全曲という二つのバレエ曲。その「ダフニスとクロエ」の方に、歌詞のないヴォカリーズの合唱が入る。全曲というと難しいアカペラ合唱があるので、練習はどうしてもそこに時間が取られてしまうけれど、僕が一番こだわるのは、むしろ冒頭と「夜明け」の場面での波打つような合唱のサウンド作りだ。この音色作りに相当時間をかけた。
 深く奥行きのある音。今の新国立劇場合唱団でなければ絶対に出ない音。オーケストラの響きと一体となって溶け込み、合唱としての主張をとことん消しながら、オケの響きを内面から支えることによって本当はめちゃめちゃ主張している状態。世の中の合唱団は、みんなオケに負けないように出すことばかり考えているけれど、僕の欲しいサウンドは、本当に実力のある合唱団でなければ決して到達出来ないのだ。そのために、発声法から始まって口の開け方、母音の開き具合と響きのこもらせ具合、パート間のバランスなど、かなり細かく指導した。
「ダフニスとクロエ」では、合唱もオケの一要素だ。
「へえ、合唱もいたんだ」
と聴衆が後で気が付くというような状態が理想だと考えている。

 本番ではフルートの倉田優さんやクラリネットの藤井洋子さんなどをはじめとする木管奏者達が信じられないほど素晴らしいプレイを繰り広げ、万華鏡のような色彩豊かなラベルを聴かせてくれた。どのセクションにも色があり、味わいがある。ああ、日本のオケもここまで来たんだと思った。
 カンブルラン氏は、とても耳が良い指揮者なだけに、たとえば「夜明け」の冒頭の細かい木管パッセージなどもっとボカしてもいいのになあと思ったが、これもフランス人のもうひとつの特性。
 ソルフェージュが盛んなフランスでは、ピエール・ブーレーズをはじめとして、現代音楽の演奏に向いているような理知的で明晰な演奏をする人が少なくない。フランス音楽というと、「エスプリ」といいながら、ぼんやりと雰囲気に浸っていることを思い浮かべる人が少なくないけれど、それは大きな勘違い。フランス的エスプリは、情緒よりもむしろ知性に結びついているからね。
 たとえば、中間の部分の、速い音楽とゆっくりな音楽とがめまぐるしく交差する個所で、それを鮮やかにキメるだけでなく、クールにおしゃれにキメること。それがフランス的エスプリ!カンブルラン氏が最も力を発揮するのはこうしたエスプリの表出性。彼は、現代における最もフランス的なフランス人巨匠ではないかな。

 サントリー・ホールにおける10月18日の演奏会の後は、20日、改修工事の終わった池袋東京芸術劇場での公演。でも、残念ながら僕は、浜松でロ短調ミサ曲を指揮しなければならないため、アシスタントの冨平恭平君に任せて19日から浜松に行く。

 新国立劇場合唱団のみんな、頑張ってね!この曲では牙を隠して、目立たないように獲物を狙うんだよ。そして知らず知らずのうちに存在感を示し、人知れぬ勝利を獲得したまえ!

浜松バッハ研究会のロ短調ミサ曲
 やっぱりこういうバッハしか自分には出来ないんだと思った。それは結局、最近流行の古楽系のバッハとはかなり違うし、かといって、かつてのカール・リヒターなどの古色蒼然とした演奏とも違う。とはいえ、僕の演奏はそれらの“いいとこどり”から始まっている。
 弦楽器の弓の扱いや躍動感などは、モダン楽器を使っていても、明らかに古楽奏法を取り入れている。その上で、僕の演奏におけるパッションは、カール・リヒターにルーツがあると言い切れるかも知れない。アーティキュレーションやフレージングの処理は古楽から。息の長いライン取りはモダン楽器の特性を借りる。
 演奏会が近づいてくるといろんな演奏をi-Podに入れて、かわりばんこに聴く。それで何を好んで聴いていたのかを考えれば、僕の演奏が誰に似ているのかも分かるというものだ。一番好んで聴いていたのは、実はリフキンの演奏。各パート一人づつの、ある意味僕とは対極的な立場にある演奏だが、その透明感において、僕の理想とする要素がある。ただね、このバランス感覚は実演では無理。弦楽器一人づつの演奏に、高音のトランペットとティンパニを入れてごらんよ。トランペット三本をsempre pianissimoで演奏させることも出来なくはないだろうが、それで本当に生き生きとした演奏になるだろうか?だから、このCDでは、
「音響ミキサーに最大の賛辞を送りたい!」
それと僕のこの言葉が、リフキンの提唱するひとパートひとりという主張への答えでもある。とはいえ、演奏は本当に秀逸。
 カラヤンの演奏は、残念ながらとても最後まで聴けなかった。リヒターもそうだけど、もう決してあのテンポ感では演奏出来ない。不思議だな。何故昔は大丈夫だったんだろう?しかもカラヤンは、途中であんなにアンサンブルが乱れていても平気で録音に残している。駄目だねこの録音は。音楽に対して不誠実だよ。こんなの市場に出すようじゃ、商業主義に堕したと言われても仕方がないんだよね。カラヤンを尊敬しているだけに残念!
 その他、ブリュッヘン、レオンハルト、ヘレヴェッヘなど、みんなそれぞれ魅力的である。いつか時間があったら、最近滞っているi-Pod actuelleに「ロ短調聴き比べ」を載せようと思うが、これを書くということになると、それはそれでまた時間がかかるなあ。
 さて、そうした演奏の中で最も僕の気に入った演奏は何かというと・・・・それは・・・・東京バロック・スコラーズ立ち上げの演奏会の録音だった。
「なあんだ、手前味噌じゃん!」
と言われるが、やっぱり、僕の演奏の基本姿勢はここにあるのだ。テンポや解釈が自分のものだから違和感がないのは当たり前なのだが、そういうことではなくて、自分が最も大切にしている原点がすでにここにあった。

表現主義的演奏
 僕は自分の演奏が何て呼ばれたら嬉しいのだろうか?全然オーセンティックとは思わないし、理知的と呼ばれたらつまらないし、ロマンチックと呼ばれたら嫌だ。きっと、一番嬉しいのは、先週この欄で紹介したように、
「ピナ・バウシュの舞踏のような演奏」
と言われることかも知れない。
 そのピナ・バウシュは“表現主義的”と呼ばれているので、僕も“表現主義的演奏”と呼ばれたい。そして、東京バロック・スコラーズの演奏は、まさにその表現主義的演奏のはしりだったのだ。
 東京バロック・スコラーズの演奏は「とっ散らかっている」。この団にはいろんな変わった人がいて、いろんな想いをそのままぶつけているからいつも問題が起こっている。でも、僕は不思議と、そうした変わった人達を排除しようと思わなかったし、演奏の中に「合わせること」に反対する要素が持ち込まれても、それを排除しようと思わなかった。その理由が、i-Podで演奏を聴くことで初めて分かったのである。僕は表現主義的演奏をめざしていたからである。

 10月20日土曜日。浜松。浜松バッハ研究会のロ短調ミサ曲演奏会当日、最終練習のおわりに、僕は合唱団及びオーケストラみんなにこんな言葉を投げかけた。

  みなさんの演奏には何かが足りないのです。その何かとは、恐らく思いの強さだと思います。たとえば僕は、Qui tollis peccata mundiを演奏していると、とても悲しい気分になります。
みなさんに聞きます。みなさんは、この曲に触れて何を感じるのですか?もし、何かを感じたならば、それを曲に乗せて表現して欲しい。それは、とっても個人的なものでいいのです。客観的にどうとか、人はどうとか考えなくていい。自分勝手でいいのです。
たとえば僕は、この間死んだウチの犬のことを思いながらこの曲を指揮します。それのどこがいけない?
自分を見つめて最も個人的な感情の奥底に到達すれば、それは万人に届きます。何故なら、誰しもが心の奥底に同じ感情を持っているからです。最も個人的なものの中にこそ普遍性があるのです。
みなさんひとりひとりの勝手な思いの詰まったうたが会場に響けば、きっと心を揺さぶる演奏になるはずです。
 この僕の言葉を、浜松バッハ研究会の人達は本当に真摯に受け入れてくれて、まさに1回こっきりのかけがえのない演奏会となった。僕がこれまで無意識のうちにめざしていた表現主義的演奏という意味で、東京バロック・スコラーズの演奏を超えていた。僕は自分の中に、ついにその具体的方法論を見いだした!

 僕は、必要以上に情熱的に振る必要なかった。想いは団員それぞれひとりひとりから来る。僕は、むしろ冷静になって彼等の思いを受け止め、コントロールしたり煽ったりしながら、ひとつの流れを作っていく。すでに練習の中で、自分の基本的方向性は伝えてあるので、あとは、それぞれの想いから最大限の効果を引き出すだけで良いのだ。
 それと、僕は自分の指揮のフォームを、ピナと出遭ってからのこの一週間で徹底的に改善した。全て、表現主義的演奏をするために指揮の動きの焦点を合わせたのだ。どういうことかというと、何の事はない、なるべく自分の想いをクリアーにして、分かり易く振ることにつとめたのである。無駄を徹底的に省き、エッセンスだけを凝縮した。めずらしく鏡に向かって何度も自分の動きを補正した。うーん、学生以来かも知れない。
「曰く言い難し」
という棒はもう振らない。指揮者がひとりで沈潜し、みんながそれに追従していくだけの演奏なんて全く興味がない。僕の指揮は、みんなから出る強い想いを集積し、それを実際のアンサンブルに変換するアダプターであればいいのだ。アダプターはクリアーなほどいい。

演奏、そして待ちに待った打ち上げ
 僕のタクトが振り下ろされ、演奏が始まった。団員それぞれの想いが、僕の棒を中継点として客席に飛んで行く。それは、生まれて初めて体験した、しびれるような感覚。濃密で充実した時間と空間。

もう迷わない!
僕のバッハは、魂を解き放ったひとりひとりが、それぞれのほとばしる想いを世界に向けて発信する群舞だ!

 畑儀文さんのBenedictusにシビれた。彼の演奏は、端正に歌っていながら、どこかに演歌の要素があって、心にググッとくる。ソプラノの國光ともこさんは、僕がバッハの道に引きずり込んだのだが、東京バロック・スコラーズの「マタイ受難曲」以来、またまた進化している。透明で暖かい音色は僕の理想とする響き。コロラトゥーラも子気味良い。アルトの三輪陽子さんのAgnus Deiは、深くしみじみしていたし、初鹿野剛君も端正な歌を披露してくれた。

 子供の頃から合唱団に混じって歌っていた長谷川悠(はせがわ はるか)ちゃんが、ヴァイオリンで愛知県立藝術大学に進学し、コンマス・サイドで立派に弾いてくれた。かつては休み時間になると僕の膝に乗って、
「みさちゃん、大好き!」
と言っていたのに、月日の経つのはなんて早いのだろう!
 打ち上げのマイン・シュロスのヴァイツェン・ビア(小麦ビール)やアルト・ビア(琥珀色のビール)のうまかったこと!
みなさん、お疲れ様でした!


尼崎にいます
 さて、今は尼崎にいる。浜松から大きなスーツ・ケースを持って、大阪フィルハーモニーの練習場に行った。城谷正博君の的確な棒に乗って、「愛の妙薬」のオケ合わせが滞りなく進行する。晩は、城谷君を交えて、音楽スタッフみんなで焼き肉を食べに行く。若い冨平恭平君が死ぬほど肉をたいらげていた。
「愛の妙薬」公演は24日水曜日と25日木曜日。




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