ルチアのグラス・ハーモニカ

三澤洋史 

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風邪が治らない
 風邪が異常に長引いている。体は良くなってきたのだが、気管支と喉と声が治らない。二、三日ひとこともしゃべらないで家で休んでいれば治るのだろう。でもそんな余裕はどこを削ってもひねり出せない。この時期には、特に合唱練習が集中しているので、いつもより余計声を使ってしまうのである。
 新国立劇場では、ラファエル・フリューベック・デ・ブルゴス指揮、読売日本交響楽団の演奏会のための、ブラームスの「哀歌」Nanie Op.82、「運命の女神の歌」Gesang der Parzen Op.89、「運命の歌」Schicksalslied Op.54という3つのオケ付き合唱曲の練習が毎日午後入っている。僕はこれらの曲が大好きなので、練習中に気が付くと指揮台から立ち上がって、大声でメロディーを歌っている。で、そのあと声がガラガラになっている。これらの曲については来週あたりまた書くつもり。演奏会は11月29日木曜日がサントリーホール、12月1日土曜日が池袋東京芸術劇場。
 それ以外に、11月14日水曜日夜には六本木男声合唱団倶楽部で三枝成彰作曲「レクィエム」の練習、15日木曜日夜は東大アカデミカ・コールでケルビーニ作曲「レクィエム」の練習。さらに17日土曜日ときたら、午前中、東京バロック・スコラーズで「クリスマス・オラトリオ」及び「モテット」の練習があった後、新国立劇場に行って「トスカ」の本番。そして夜は志木第九の会の練習でメンデルスゾーンの「聖パウロ」と、一日3コマのフルプログラム。次の18日日曜日は、名古屋モーツァルト200合唱団で「パルジファル」合唱練習と、休む暇もない。しかもご覧の通りみんな僕の好きな曲ばかりなのだ。セーブしようと思っていても、つい夢中になってしまってしまうのだ。治るはずがない。

ルチアのグラス・ハーモニカ
 11月12日月曜日は、サントリーホールでワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー歌劇場管弦楽団の演奏会。驚異のコロラトゥーラ歌手ナタリー・デセイNatalie Desseyをタイトルロールに迎えて、ドニゼッティー作曲歌劇「ルチア」全曲に、わが新国立劇場合唱団が参加した。
 マリインスキー歌劇場管弦楽団は、各セクションのアンサンブル能力が素晴らしい。特に金管セクションは、みんなで息を合わせあって揺るぎない結束力。まるでフルバンドのように朝顔の部分を動かして合わせ合っている。でも、弦楽器の結束力も負けていない。コンサート・マスターの身振りは決して大きくないのに、ヴァイオリンからコントラバスまで弓がよく合っている。また、ハープ奏者のクォリティの高さは信じ難い。

 でも、なんといっても今回の公演の呼び物はグラス・ハーモニカだ。この楽器は、元はと言えば、ワイングラスのようなものに水をためてピッチを規定し、そのグラスの縁を濡れた指でこすって音を出していたが、それを改良して楽器らしくした。モーツアルトが彼の死の年である1791年にグラス・ハーモニカのためのアダージョKV356(KV617a)という隠れた大傑作を作っているので、CDで音だけは知っていた。でも見るのは初めて。
 「ルチア」と言えば、あの「狂乱の場」が有名だが、通常そこではソプラノと共にフルートが大活躍する。でもオリジナルではグラス・ハーモニカとのデュエットだったという。今回はソプラノのナタリー・デセイのこだわりで、このコラボレーションが実現した。今回の演奏者は自分でこの楽器を作ったのだそうだ。実際にはワイングラスからはほど遠く、透明なオルガンのパイプが縦に並んでいる感じ。でも、指を濡らして上の縁をこする奏法は変わらない。
 演奏会でのこの狂乱のアリアは、グラス・ハーモニカのお陰で素晴らしいものになった。グラス・ハーモニカは、予想していたよりもずっと大きく豊かな音が出るので、決してソプラノに負けてはいない。デセイのソプラノと最速のパッセージに至るまで対等に絡み合う。信じられない芸当だ!それでいて、音色は透明感に溢れ、まるで夢見ているようなのだ。聴いていると、意識が彼岸に行く感じになる。
 これまで僕は、狂乱のアリアを聴く度に、
「狂乱にしては曲が単純であっさりしているなあ、ドミソの三和音ばかりでワーグナーみたいに凝ってないなあ」
と思っていたが、グラス・ハーモニカの音色と一緒に聴いて、はじめて分かった。ルチアの意識は現実から飛びだして、もう解き放たれてしまったのだ。だから、ある意味澄み切った境地でないといけない。その境地に、グラス・ハーモニカとのデュエットがぴったりなのだ。
 そういえば、グラス・ハーモニカはかつて大流行したのだが。その後、聴く者の中に精神に異常をきたす者が出るという噂が広まって、ヨーロッパで禁止され、すたれていったと聞く。その真偽のほどは分からないが、かなり“あの世的な音がする”ことは間違いない。今日、僕は生まれて初めて狂乱のアリアの神髄に触れた気がした。

世界から猫が消えたなら
 風邪を引きながらだけれど、一冊だけ読書をした。字が大きく読みやすい本。でも、とても感動した。タイトルは「世界から猫が消えたなら」。川村元気著、マガジンハウス。この著者、映画プロデューサーなんだ。
 余命あとわずかの主人公のところに悪魔が現れて、この世からなにかを消すと、その代わりに一日だけ命を伸ばす事が出来るという。主人公は悪魔と相談してひとつひとつ世界から消していく。
 途中で、飼っている猫がいきなりしゃべりだすくだりが楽しい。この猫、
「いつまで寝ているで、ござるか」
と時代劇のような言葉をしゃべる。そして主人公のことを、
「お代官様」
と呼ぶ。

「そうでがす。いつも猫の気持ちが分かっている風情でいらっしゃるのだが、だいたい間違っているのでござるよ。別にさみしくないのに、さみしいのかーとか猫なで声で来られても困るでござる!まあお代官様に限らずほとんどの人間というのはそんなもんでござるが」
読みながら、きっと僕のタンタンへのアプローチもそんなだったかも知れないなと反省した。僕も、この小説の主人公のように、あいつのこと、きっと全然分かってなかったのだと思う。ごめんね、タンタン・・・・。
「拙者が好きなごはんをきちんと作ってくだされよ」
「いつも出しているじゃない。猫まんま」
すると先をテトテト歩いていたキャベツ(猫の名前)がぴたっと止まる。
「どうした?」
どうやら怒りでぷるぷると震えているようだ。
「そのことでござるが・・・・ずっと言わせてもらいたいことがあったのでござる」
「何?なんでも言ってよ」
「猫まんまって、あれはなんでござるか!?」
「え?」
「あれは人間の食べ残しに無理やり名前を付けただけでござる!!!」
 あははははっ!実に面白い。それに、この猫、とっても可愛い。でもそれだけじゃない。この小説はね、とても大切なことを教えてくれるよ。いろいろ考えさせてくれるし、最後にはとても優しい気持ちにさせてくれる。


 もうこれ以上ネタバレしないから、あとは皆さんが自分で本屋さんで手にとってみてね。言っておくけど、すぐ読めてしまうからね。

風邪が治らない本当の理由
 さて、風邪がなかなか治らないのには、もうひとつ大きな理由がある。あることが心にずっと引っ掛かっているからだ。あるコンサートで、とてもやりきれない思いをしたからだ。僕の人生観、音楽観からは決してあり得ない、ある音楽家の生き方。そして、それを取り巻く聴衆と批評家のあり方。
 自分で安からぬお金を払って演奏会に来た一般聴衆は、その演奏会の価値を自ら否定したくはないだろうから仕方がないとしても、ある音楽評論家のブログに辿り着いて、僕は愕然としたのだ。
「全然、気が付いていない!」

 本当にみんなは気が付いていないのだろうか?本当に、あれでいいと思っているのだろうか?日本に、果たして真摯なジャーナリズムはあるのだろうか?それで原稿を書いた。書かずにはいられなかった。その日に起こった事を全てありのままに。良心ある音楽家として許し難い出来事の数々を。
自分でもかなり良い文章が書けたと思う。

 ところがねえ、書き上がって冷静に考えると、この文章をとても発表することは出来ないんだ。電子ファイルの文章というのは、どんな風にでもコピーや転用や掲載が可能だから、この文章がどんな波紋を呼ぶか分からない。意図しない使われ方によって僕が個人的に攻撃されるのはまだいいとしても、いろんな思わぬ所に迷惑がかかってしまう可能性がある。それが分かって・・・とても残念ながら・・・・この文章を発表する事を断念した。今日の「今日この頃」がいつもより短いのはそのため。

 でも、言いたいことを言えないのって辛い。
「私が黙れば、石が叫び出すであろう」
と、かつてイエス・キリストは言った。偉いな。言いたいことを言いきって、十字架に架かって死んでいったイエス。彼がまぶしい。僕には出来なかった。その欲求不満が、体の内部で次から次へと毒素を作りだしている。だから風邪も治らないのだ。

 ま、人生は不条理なものだ。イエス・キリストだけではなく、バッハも報われない人生を彼岸への希望に託した。別に僕自身が不当な扱いを受けたわけではないので、僕は僕で自分の信念に従って淡々と生きていけばいいのだ。もう忘れよう。忘れて前へ進もう。

いずれ時が来たらみなさんに話そう。




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