富山での全国大会

三澤洋史 

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富山での全国大会
 白銀に輝く朝の立山連峰がハッとするほど美しい。あの向こうに白馬がある。白馬五竜スキー場も、上の方のアルプス平は降雪があったので、もうオープンしているという。早く行きたいな・・・・おっとっとっと・・・こんにちは!僕は今、富山に来ているんだ。
 富山は背後にかかえる立山連峰が3千メートル級で、その傾斜がそのまま富山湾になだれ込んでいて、富山湾はなんと千メートルの深さなのだそうだ。だから、ここしかいない白エビをはじめとして、ホタルイカやいろんな種類の魚が豊かに生息していて、米は美味しい水も美味しい、したがって酒はおいしいし、肴もおいしいときている・・・もう言うことない!と富山の人は誰でも自慢げに言うのだ。

 先月の鹿児島に引き続き、富山市芸術文化ホール・オーバード・ホールで全日本合唱連盟及び朝日新聞主催のコンクール全国大会が開催され、僕は審査員としてこの週末富山を訪れた。朝から晩まで働きっぱなしなので、とても富山の自然を堪能する暇はないのだけれどね。
 今回は、大学、職場、一般部門。結構楽しかった。それぞれの団体がそれぞれ特色を出し、表現の幅は中学生や高校生にくらべて格段に広がっているから、審査員というより聴衆として楽しめた。それだけに、いざ採点するという立場になると、また別の難しさがあるのだけど・・・・。
 審査中、困ったことが時々起きた。もうほとんど治った僕の風邪の生き残り軍が、肺だか気管支だかの隅っこに立て籠もって、望みなき最後の戦いを僕に挑んでいる。それが審査している僕を、たまに思い出したように咳こませるのだ。特にアカペラの静かなところで、
「こんなところで咳なんか出たら嫌だな」
と思い始めると出てくる。僕は、映画を観に行っても、一番良い場面でトイレに行きたくなってしまうような自己暗示にかかりやすい人間なので、何でもない時は本当に何でもないのだが、意識し始めるととたんに咳き込み始める。
 すると係の人があわてて、飴を持ってきてくれるが、飴ならポケットにごっそり入っている。そんなわけで、周りのみなさんには、ご心配とご迷惑をおかけしました。

 1日目の11月24日土曜日は、大学と一般部門Aグループ。この日の審査が終わってから、審査員の一人である本山秀毅氏と、1月に発行する合唱雑誌「ハーモニー」のために座談会をする。勿論コンクールの講評のことで、その日審査した全ての団体について1団体ずつコメントを言い合うのだ。
 本山氏は、びわ湖ホール専任指揮者だった僕の後任者で、現在も専任指揮者をしている。それに、僕が親しくしているバイロイト音楽祭の合唱指揮者でベルリン国立歌劇場合唱指揮者でもあるエバハルト・フリードリヒや大谷研二氏と一緒に、かつてはヘルムート・リリンクに師事していた経歴を持っている。
 もうコンクールや座談会に慣れている本山氏と違って、僕はこうしたことには初めてなので緊張した。しかも、丸1日審査した後そのまま引き続きお弁当を食べながら行い、終わってみたら午後11時40分を回っていたので、くたくたであった。

 でも、僕は嬉しかった。それは、点数や順位をつけっぱなしではなく、公の立場でそれぞれの団体に対して自分の意見を述べることが出来たからだ。たとえば、僕がとても評価して1位をつけたけれど、他の審査員と評価が割れて、結果として銅賞に終わってしまっていた栃木県のルックス・エテルナという団体について、本山氏が僕と同じように上位に選んでくれていて、同じような感想を持っていてくれたことは、我が意を得たりであった。
 このグループは、指揮者を置かずに課題曲のパレストリーナを始めた。お互いに呼吸を探り合い、お互いにオーラを出し合って、指揮者がいては決して出来ないような緻密でデリケートなアンサンブルを繰り広げていた。何より良かったのは、みんな縦の線を合わせることに終始していたパレストリーナにおいて、初めて、呼吸する伸びやかなフレージングや、重層的ハーモニー感覚が聴かれたのである。
 続くデュファイ作曲Ave Regina Coelorumにおいても、高速の変拍子が続く超絶技巧的楽曲を、やはり指揮者なしでクールにこなしていく。ほとんど信じ難いほどの歌唱であった。それでいて彼等の歌には、歌うことの楽しさが溢れていたのだ。僕は迷うことなく最高得点を付けた。
 本山氏は、最高点でこそなかったが、かなり上位に位置づけていた。そして、やはりこうしたアンサンブルこそ、コンクールではきちんと認めてあげなければいけない、と座談会でも強く言っておられた。他にハンガリーから参加した合唱指揮者Erdei Peterエルデイ・ペーテル氏も高く評価されていた。

 それでは、どうして他の審査員達は、ただ高く評価しなかっただけでなく、かなり最下位に近い評価をされたのだろうか?考えられることは3点ある。ひとつは、32名以下のAグループの中でも16名のルックス・エテルナが、ボリュームの点で聞き劣りがしたこと。他の団体はたいてい32名ギリギリで登場するのだ。確かに人数の多さは七難隠すからな。
 2点目は、指揮者を置かないニュアンスに富んだ柔軟なアンサンブルが、脆弱性と映ったこと。彼等は、バラける恐れよりも流れを重視していたのに、縦の線ばかりピシッと合っているアンサンブルに慣れてしまうと、それをすきま風のように感じられてしまったかも知れない。
 3点目は、指揮者がいないものだから、彼等は体を揺らせながらアンサンブルをしていた。それが、何か浮かれて曲に酔っているように見えたかも知れない。でも僕は断言する。彼等は酔ってなどいない。それどころか僕は思うのだ。動けばいいということではないけれど、たとえ指揮者が前にいても、アンサンブルはあのように自主的にしなければいけないのだ。

 もし、ルックス・エテルナの関係者や知り合いの方がこの記事を読んでいたら、みんなに伝えてあげてね。あなたたちの高度なアンサンブル能力をきちんと評価している人がここにいるからね。銅賞を取ってもガッカリしないで、勇気を持って活動を続けて下さい。まあ、ここで言わなくても、1月には雑誌「ハーモニー」に載るんだけどね。

 その他、コンクールの細かいことが思い浮かんだとしても、来週に先送りする。これ以上細かく書き始めると、また月曜日更新では間に合わなくなるので、みなさんに迷惑をかけてしまうからだ。それに、追い立てられるようにして書きたくないのだ。
 ひとつだけ・・・昔、東京大会の審査員をやった時、僕が1位に押したけど審査員達の点数が伸びなかった男声合唱団「お江戸コラリアーず」が、Bグループの全国第1位になったよ。これも男声合唱出身の僕とすればかなり嬉しい。
 
 とにかく今回は、演奏も楽しかったし、本山氏とのお話も充実感があったので、ちょっと良い気持ちで東京に帰ってきました。あっ、そうそう、最後の晩にひとりで居酒屋に行って、ズワイガニと、白エビのかき揚げと、ホタルイカの沖漬けとお寿司を食べたんだ。それに、僕は通常あまり日本酒は飲まないんだけど、特別に美味しい冷酒を飲んだよ。名前は・・・忘れちゃった!

富山大好き!また来るよ!  

中高年のためのシケタンの使い方
 今、僕がいつもカバンに入れて覚えながら愛読している本って知ってるかい?それは、なんと「試験に出る英単語」(青春出版社)だ。かつて受験生のバイブルとして一世を風靡した本。僕の高校は高崎高校で群馬県一の進学校だったから、みんな持っていた。僕達は、それをシケタンと呼んでいた。
 ある時ふと思い出し、シケタンってまだあるのかなと思って本屋で探したら、あったあった!それも、立派な2色刷になっていた。CD付きのもある。著者の森一郎氏は、すでに1991年に亡くなっていて、次男の森基雄氏が、この2色刷デラックス版のためのデータ検証にあたっている。初版が1967年10月というから、1970年に高校1年生になった僕達の時代は、まさに大フィーバーの真っ盛りだったのだ。

 この本、今の自分が見ると実に面白い。冒頭の方で著者はこんなことを書いている。

われわれにとって最重要単語というのは、使用頻度の多いものではなくて、たとえ、そんなにもしばしば使用されないものであっても、その1語の意味を知らな いと、その文全体の意味が把握しにくくなるような知的・抽象的な単語である。
 僕は仕事柄よく外国人と話をする。それも、社交辞令だけではなくもう少し突っ込んだ内容の話をすることが多い。ドイツ人だとドイツ語で、イタリア人だとイタリア語で話すが、それ以外の国民とは、なんといっても英語だ。その場合に、まさに「試験に出る英単語」に載っているような「知的・抽象的な単語」が使えるのと使えないのとでは、話の幅が大きく違ってくるのだ。

intellect 知性 
conscience 良心 
tradition 伝統 
patriotism 愛国心 
instinct 本能 
tendency 傾向 
rational 合理的な 
coservative 保守的な 
radical 革新的な、急進的な 
flexible しなやかな、融通のきく 
arrogant 尊大な、傲慢な 

 どうです、みなさん、今僕のような年齢で僕のような立場にある人は、アッと思うのではないかな。これらの単語を日常的に使っているでしょう。極端な話、発音が悪くても、もっと日常的な社交辞令がスマートに言えなくても、そんなことはお構いなく、これらの単語が使えたら、一足飛びに欧米人と知的な会話に入っていけるでしょう。

 とはいえ、僕自身、高校生当時このシケタンを一生懸命勉強したわけではない。持ってはいたが、音大志望だったから、そんなに難しい長文を訳すような立場に追い込まれることはなかったのだ。
 それに僕は、受験英語に対してはずっと否定的であった。英語は好きだったし、英会話も必要だと思っていたのだが、一流大学の入試予想問題などを見て、
「こんなの訳すよりも、日常会話でいいから外国人と普通に話せるようにならないとダメじゃないか」
と思っていた。
 最近までその思いは変わらなかったのだが、今回「試験に出る英単語」を読み返してみて、「遠い将来を見据えて勉強をし続ける」という条件下でなら、受験英語もまるで無用なものではないのかなと思えるようになった。
 ただし、現実を見ると、大抵の大学生は、入学当時が一番英語力が高いという残念な状態にあることは否定出来ない。シケタンだって、大学卒業10年後に何人がしっかり覚えているのだろう。

 シケタンは、受験だけのために作られた単語集だから、問題点があるとすると、それはそのまま受験英語の問題点である。一読してまず感じる事は、別なもっと頻繁に使われている易しい言葉があるのに、何故この言葉を覚えなければいけないのか、ということだ。
 たとえばfatigue「疲労」などという単語がかなり上位にあげられている。このフランス語オリジンの単語を、僕はフランス語では形容詞fatigue「疲れている」としてしょっちゅう使うけれど、英会話においてわざわざ使ったことはないし、欧米人が僕に向かって言うのを聞いたことがない。たいていはbe tiredあるいはfeel tired という言い方で間に合わせてしまう。考えて見たら、日常会話では何語においても「疲労」と名詞で言うことって少ないのだよね。
 入試では、“自分から”積極的にこうした種類の単語を使っていく機会は決してない。むしろ、与えられた文章を辞書なしで訳す時に必要となるので、覚えておかなくてはいけないのだ。僕はフランス語で知っているから「へえっ」と思うが、こんな入試のためだけに必要な単語を覚えさせられる受験生も可哀想だなあ。
 あらためて辞書を引いてみたら、英語で「疲労」という名詞は確かにfatigueしかないのだね。ドイツ語ではmude 「疲れた」の名詞形はMüdigkeitと知っていたけど、使ったことないな。イタリア語はstancoに対してstanchezza・・・・ええと・・・最近使ったぞ。あっ、そうだ。「ランメルモールのルチア」冒頭の家臣の合唱に出てきた。
Come vinti da stanchezza,
Noi posammo.
疲労というものに勝利されてしまったように(とっても疲れて)、
我々は休息を取りました。
 まあ、こんな言い方は文学の中にしか出て来ない。僕がもしイタリア人に向かって言ったら、ロクにしゃべれないのに知ったかぶりしてと、かえって馬鹿にされてしまうのがオチだ。要するにシケタンで覚えた単語のある種のものは、その後も会話では使わないのだ。

外来単語集
 fatigueもそうだけれど、僕が今シケタンを興味深いと思う理由のひとつに、この単語集が“外来単語集”であるという点が挙げられる。英語という言語は、元来ゲルマン語であるが、1066年、英国がフランス北部にいたノルマン人に征服されると(ノルマン・コンクエスト)、支配階級のフランス人が英国に移住し、大量のフランス語がこの国に流入してきた。それ以来今日に至るまで、フランス語経由のラテン語の語彙が英語の中に大量に見られる。
 だから、英語とは二つの国語が混じり合った言語なのである。たとえば牛はcowであるが、食べる時にはbeefと呼ぶ。ノルマン人に支配された当時、牛を飼育するのはイギリス農民であり、食べるのは支配階級であるフランス人だったからである。オーバーに言えば、英語には、他の国の言葉に対して2倍語彙があるのだ。
 我々日本人も、たとえば「やさしいひと」という大和言葉より、「柔和な人物」と言ったり、「とってもおなかがすいた」と言うより、「大変空腹である」と漢語的表現で言う方が、なんとなく知的な感じがするだろう。漢字も、日本に入ってきた当時は、知識人を中心に広まっていった歴史があるから、やまとことばより意識的でお高い言葉なのだ。同じように、イギリス人だけでなく、今日のヨーロッパ人にとっても、母国語で言うより、ラテン語ギリシャ語オリジンの言葉で言った方が、よりフォーマルで知的な感じがする。

intention 意向 
interpretation 解釈 
evolution 進化、発展 
revolution 革命 
solution 解決 

phenomenon 現象 
physical 物理的な、物質の、肉体の 
psychological 心理学的な(たいていは“心理的に”という意味で使う)
hypocrisy 偽善 
hypothesis 仮説 
catastrophe 破局、悲劇的結末 

 ちなみに、tionで終わる単語は全てラテン語オリジン。一方、ph、phy、psy、hyなどを見たらギリシャ語オリジンだと思えばいい。yはイタリア語でi-grecoあるいはi-grecaと言い、ギリシャのiという意味。kyrie eleisonもそうだけど、yが入っている単語はギリシャ語オリジンを疑った方がいい。古代ギリシャは哲学の国なので、philosophy「哲学」をはじめとして、哲学的用語はあまねくヨーロッパ全体に広がっている。ラテン語も、古代ローマ帝国の遺産として各国語に溶け込んでいるのだ。

 僕はこのような単語をどこで覚えたのかというと、勿論シケタンではなく、実はドイツ語としてドイツで覚えたのだ。しかも、ドイツにしばらく住んで、いろいろ他の学生達と議論をしなければならなくなって必死で覚えたのである。これらの言葉は一度覚えると便利である。つまり欧米ではこれらの単語に国境がないのだ。知的な人達は、何処の国の人であっても、みんなこれらの単語を共有して使っているから、それぞれの国語風に当てずっぽうでも良いから発音して言ってみれば通じるのだ。
 たとえば、intentionをインテンションと発音すれば英語だけれど、インテンツィオーンとかなり子音をきつく発音するとドイツ語になる。また、アンタンスィオンと気分を出して言ってみれば、もう立派なフランス語だ。さらに、インテンツィオーネとoを高く言ってneに向かって下方のポルタメントをかけて発音したらイタリア語になる。いやいや冗談ではなく本当なんだってば。で、それぞれ、

I have intention of 動詞+ing
Ich habe Intention zu 動詞不定形
J'ai l'intention de 動詞不定形
Ho intenzione di 動詞不定形
と言えば、「私は~する意向がある」となって、「僕~したい」よりお上品な言い方になるわけだ。

 こんな風にして、僕はミラノにいた時、まだロクにイタリア語をしゃべれないくせに、何の苦もなくイタリア人達とこのような単語を使って、ドイツ人相手にしていたのと同じような知的議論が出来ちゃったわけである。だから、日常会話にいつまでもこだわっているよりも、シケタンの単語を活用した方が結果的には便利なのである。

 そのような単語はどんどん覚えてもらっていいのであるが、その反面、受験生にとって可哀想だと思うのは、たとえば次のような単語。

moderate 適度の、中くらいの 
tranquil 静かな  
similar 類似の 
sole 唯一の 

 これって、要するにイタリア語じゃん。これらはイタリア語を習う時に覚えればいいんであって、いくら外来語が多い英語といっても、こういう言葉ばかりを“英語として”出題する入試問題ってどうよ。
 まあ、英語というのがそういう言語であるので、最初に英語をやっておけば、後で何語に行っても楽ですよ、と言いたいのであれば、あえて反対はしないけどね。一方、イタリア語には、逆に外来語がとても少ないので、同じ意味の単語を何種類も覚えなくていいんだ。

画期的な語源情報
 こうした功罪がいろいろある中で、今回新たに気付いたシケタンの圧倒的に優れている点を挙げよう。この本の中には、各単語に対して、接頭語や語幹の語源が詳しく書いてあるのだ。これは画期的である!
 著者は、これを手がかりにして単語を覚えてもらいたくて列挙しているのだろうが、ラテン語、イタリア語を勉強した今となっては、僕はこれらの語源にとても親しんでいるので、そのうんちくをここで見出すとは思えなかった。

 たとえばindividual(名)「個人」(形)「個人の、個人的な」では、in=not, divid=分割する, ual=形・名・尾「もうこれ以上分割できないもの」という注釈が載っている。イタリア語では、dividereは「分ける」という意味で普通に使われているし、音楽でも、divisi(パート内で分かれる)は、dividereの過去分詞divisoの複数形だ。それで、ある時、イタリア人がindividualeと言った時、僕は、
「あ、そうか」
とラテン語が組み合わさって出来上がっている事が突然理解出来た。それがシケタンに書いてあるのだ。うーん、受験生にはもったいないくらいだ。

 alarmアラームもそう。(他)「びっくりさせる」(名)「驚き、警報」とあり、その説明として、To the arms!「(武器を取れ)の意から」と書いてあって驚いた。これも元来はラテン語オリジンarma。現代イタリア語では、「武器を取れ!」はAll'armi!。ヴェルディの「イル・トロヴァトーレ」など、オペラの戦闘シーンでよく出てくる歌詞だ。これとアラームが結びつくとは気が付かなかった。
 さらに、接頭語、語幹、接尾語などがアルファベット順に並んでいる項目があり、これを眺めているだけで興味は尽きない。もう至れり尽くせりで、こんな親切な本は見たことがないほどである。森一郎氏を僕はとても尊敬する。


1単語1訳語
 1単語1訳語というコンセプトも潔くて良い。たとえば、issueという単語について、著者は書いている。この単語をどの辞書あるいは単語集で調べても、名詞として「発出、はけ口、発行、結果、版、論争、問題」、動詞として「発行する、出てくる、由来する」と沢山出ている。でも著者は、過去20年近くの大学入試問題を調べて、この単語がpolitical issue(政治問題)のように、「問題」という意味以外に用いられた例がほとんどないと気付き、もうissueは「問題」とだけ覚えておけばよいという結論を出した。
 するとある観光会社の外国向け宣伝部に勤めている人から、
「私の知っている限りでは、issueは“発行する”という意味以外に用いられないはずである」
という批難の投書をもらったという。
 実は、僕もこのissueという単語を扱いかねていた。だって、辞書引いたっていっぱい出ているからね。でも、この文章を読んではっきり分かった。要するに、issueは「問題」と「発行する」とだけ覚えておけばよいのだ。それで分からなかったら、初めて辞書を引いて、当てはまる意味を探せばいいのだ。

 ちょっと脱線するが、いろんな国の言葉を習って、どの国語でも一番難しいのが「問題」という日本語を当てはめることだ。つまり、一番「問題」なのは、日本語の「問題」という単語なのだ。
 問題というとみんなquestionを思い浮かべるかも知れないが、実際にquestionとして使うことは、練習問題やテストをする時以外にはほとんどない。ではproblemかというと、problemを使う時は、何か困った「問題」に限られる。たいていは、会話する時の“話題”程度の意味なので、さっき出てきたissueであったり、subjectであったり、themeだったりtopicだったりするのだ。

 1単語1訳語はいいのだけれど、たとえばinstrumentには「器具、手段」としか出ておらず、僕が聞いて当然真っ先に思い浮かべる「楽器」がないのは淋しい限りであるが、まあ東大入試問題にinstrumentが出た場合、楽器という意味で使うことはあまりないだろうから仕方がない。論文の中であえて使う時には、musical instrumentと書くだろうしね。

 こんな風に「試験に出る英単語」では、実にいろんな事を考えさせられる。とても刺激的な本だ。中高年のみなさん、是非この本を読み直し、気に入ったらいつもカバンに入れて持ち歩いて下さい!受験生用なので千円もしないんだよ!



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