札幌
今年の秋は旅が多い。先週は、月曜日から木曜日まで北海道にいた。文化庁主催のスクールコンサートで2月に新国立劇場合唱団が北海道の小学校を4個所回って演奏会をするが、その前に、4人の歌手と僕とピアニスト(娘の志保)で、それぞれの学校に先乗りしてワークショップをやったのだ。
2月の演奏会の時に、後半で校歌と愛唱曲を児童達と一緒に歌うコーナーがある。それに先駆けて、ワークショップでは児童達に校歌を歌ってもらい、それに対して我々が、歌を歌う時に気をつけるべき良い姿勢や呼吸法など、いくつかのポイントを呈示する。また、女声の高い声を何と呼ぶかとか、合唱に関する基本的な知識を教えたりもする。そうして児童達が2月を心待ちにしながら、校歌ともう一曲の愛唱歌を練習しておいてくれるのが、今回のワークショップのねらいである。司会進行は僕が受け持つが、必要に応じて各歌手達にマイクを向けてアドバイスをもらう。
今回は札幌市内の小学校3校と釧路近郊の白糠(しらぬか)養護学校。12月3日月曜日の午後、新国立劇場で「タンホイザー」合唱音楽練習をやった後、僕たちは19:00羽田発の飛行機で札幌千歳空港に向かった。ホテルに着いたのはなんだかんだで10時を回っていたが、たくましい声楽家達はそれからジンギスカンを求めてすすき野に繰り出す。
タクシーで行った先は 「だるま」というジンギスカン専門の店。
店に入ると、人数を見るなりおばさんが有無を言わせずジンギスカン鍋に野菜を盛って火を付けた。勿論料理はジンギスカンしか置いてないので、他の選択肢はない。人数分のタレの入れ物が配られ、おばさんは飲み物を訊ねる。それから肉の皿をお好みの分量だけ注文する。きわめてシンプル。
釧路と泉君との再会
5日水曜日。午前中に二十四軒小学校でワークショップをした後、釧路に向かう。今回の僕たちの全行程はワゴンタクシーを借り切っての移動。この行程は、そのまま2月の公演のための実験台になっている。すなわち、札幌から釧路までの車移動はどのくらい大変か?それよりは電車移動の方がいいのか否か?で、結論から言うと、やはり電車移動にしようということになった。
いやはや、北海道というのはでっかいのだね。ずっと高速道路を走り続けて行ったのに、なんと6時間以上もかかった。本州だったら、東京から関西までだって行けちゃう。それでも、まだ12月初めなので雪も少ないし、道路状況も悪くないので、運転手さん曰く、相当スムースにいった方なのだそうだ。
2月の場合はバス移動なので、こんな風にスムースに行くわけはないし、途中の山越えではかなりの積雪量が見込まれるという。うーん、ドアツードアの快適さを犠牲にしても、30人がスーツケースを持って電車に乗り込む煩わしさを考慮に入れたとしても、約4時間あまりで行く電車にしようというのが、みんなの一致した意見。
釧路ではなつかしい旧友と出会った。それは作曲家であり、釧路交響楽団を指揮したりしながら釧路を拠点に精力的に活動している泉史夫(いずみ ふみお)君である。卒業以来初めてなので、なんと30年ぶりの再会である。
僕は、国立音楽大学声楽科に在籍していたが、3年生になる時に、指揮者になろうと決心した。そしてまず増田宏三(ますだ こうぞう)教授に指揮と作曲及びパレストリーナ対位法を習った。増田先生は、声楽家でありながら指揮者になりたいという僕に興味を持ってくれて、親切にも、自分の管弦楽法の授業などにいつでも聴講に来て良いよと言ってくれたので、僕は作曲科の授業に自由に出入りしていた。また、管弦楽法の授業の発表会になると、作曲科の学生がオーケストレーションした曲を、学内オケを使って増田先生と交代で指揮させてもらえた。
そんな関係から、同級生や後輩の作曲科の生徒達と、僕は進んで交流を持つようになった。作曲家の友達の中には、ごく最近まで、僕のことを3年生から編入してきた作曲科学生だと思い込んでいた奴もいる。
和声学は、その道の大家で著書も出している有名な島岡譲(しまおか ゆずる)先生に個人的に師事し、ホームレッスンに通った。島岡先生には、
「君は、声楽科出身だからかも知れないけど、バス課題の上にきれいな旋律を作るのがうまいね」
と褒めていただいた。
さて、泉君のことであるが、泉君は僕より学年が二つ下で、国立音大作曲科島岡譲クラスにいた。同じクラスに、やはり僕が在学時代にとても親しくしていた岩河智子(いわかわ ともこ)さんがいた。岩河さんは、合唱曲をよく作っていた有名な作曲家岩河三郎氏の娘さんである。
泉君は、僕が所属していた創作オペラのサークル「まるめろ座」の後輩でもあり、岩河さんは、増田宏三先生の作った「創作オペラ研究会」でオペラを書いていた。僕は両方のサークルの指揮者を兼任していた。
泉君の卒業試験では、作品の「弦楽八重奏のための一章」を僕が指揮し、それが優秀者の中に選ばれると、昔新宿駅前にあった朝日ホール(だと記憶しているけれど)でも指揮をした。また、これは後で知ったことであるが、群馬出身のバリトン歌手で、僕の「おにころ」でも主役を演じてくれた泉良平(いずみ りょうへい)君は、彼のいとこだそうである。こんな風に、いろんな見えない糸でつながってもいる。
泉君と釧路東急インのロビーで感動の再会を果たした後、僕達は駅の近くの「やん衆居酒屋釧路食堂」という店に行った。
泉君に事前にメールで、
「釧路らしいものが食べられる所に連れて行ってよ。全然高級な所でなくていいからね」とお願いしておいたのだ。夕食には新国立劇場プロデューサーのTさんも同席した。お通しで、いきなり毛ガニ半身がひとりづつ出てきたのにまずびっくりした。それから、どの料理も素晴らしいのひとことにつきる。僕は特に、シメサバと、七輪で焼いたツブ貝とイカの一夜干しが忘れられない。
泉君は、勿論あの頃のような若者のままではなく、それなりに年齢を重ねていたけれど、昔と全然変わっていなかった。相変わらずまっすぐ人を見つめる純粋な眼をしているし、何のてらいもないけれど音楽に対する一途な想いがぐんぐん伝わってくる話し方をする。
彼が僕にくれたパンフレットの中に書いてある彼の経歴に、「指揮法を三澤洋史に師事」という言葉を見つけた僕は、
「おいおい、僕は君にあらたまって指揮法教えた覚えねーぞ」
と言った。すると彼は、急に怯えたような顔をして、
「いえ・・・端で見ていていろいろ教わったんです」
とモゴモゴ言う。
あの頃の僕は、ベルリン芸術大学指揮科に入る前で、まだ自分の指揮法にも自信がなく、指揮者として食っていけるかどうかも全然分からなかったので、偉そうにレッスンを誰かに施した覚えは全くない。でも、そういえば泉君は、僕が管弦楽法の授業や学内演奏会などで指揮をしているのを、例のまっすぐな眼でじっと見ていて、何かある毎に細かく、
「それはどうしてそうするのですか?」
とか、
「こういう時はどうしたらいいんですか?」
とか訊ねていたな。
ふと見ると、泉君はおあずけをくった犬のような顔をしている。彼が勝手に僕に師事と経歴に書いたことに対して、僕が不機嫌になってるかと心配しているのかも知れない。
「まあ、どっちでもいいや。泉君が教わったと思ったら教えたんでしょう」
と言ったら、ほっと安心した顔をした。
それを見て、僕は逆に感動したんだ。何故って、僕は、声楽科にいながら指揮者を志し、まだなんにもキャリアもない中で、必死で自分の可能性を探っていただろう。周りに自分がどういう風に映っているとかなんて考える余裕もなかった。でもね、わずか二年先輩の僕の生き方をじっと見ていてくれて、そして何らかしらの刺激や影響のようなものを僕から受けていた後輩がいたんだな。人って、こんな風に自分の生き様を見られているし、影響し合って生きているんだね。
そういえば、僕だって、ここまで来る間にいろんな人と出会って、それらの人に対して勝手にいろんなことを感じていた。
「カッコいいなあ」
とか、
「あんな風に生きたいなあ」
とかあこがれたり、反対に、
「尊敬していたけど、見損なったぜ」
とか、
「もうついていけないなあ」
とか幻滅したりしている。誰がどこで見ているか分からないんだ。いつもきちんと生きていなければならないな。
そういえば、僕だって泉君や岩河さん達からいろんな影響を受けている。ピアノの上手な泉君が、コープランドのソナタを見事に弾くのを聴いて、僕も楽譜を入手してアナリーゼしたり、岩河さんの書いた自由な無調のオペラにショックを受けて、
「畜生め、どうやったらこんな曲を書けるんだ!」
と必死で作曲の過程を辿ってみたりもした。遠い有名人でなくて、身近で普段冗談とか言い合っている仲だからこそ、直接に影響を受け合うのかも知れない。
その晩、僕は泉君にご馳走しようと思っていたのに、逆におごられてしまった。今度2月にまた会おうと言って別れたので、その時は必ずこっちが払うからね。
僕達の変わらぬ友情と再会に乾杯!
菩薩行に導く天使達
さて、ワークショップ最終日の6日木曜日。釧路は雪と強風で大荒れだった。でも、白糠(しらぬか)養護学校でのワークショップをして、僕の心は何とも言えない平和で暖かいものに満たされていた。そういえば、最初に新国立劇場合唱団のメンバーと鳥取、島根などの演奏旅行に行った時は、養護学校や特別支援学校というと、自分の中でどこか身構えていた部分があったが、今回はそれが全くない。
僕は、ごく自然に、いろんな困難を持っている子どもたちは、神様から頼まれて、いわゆる菩薩行(ぼさつぎょう)を人にさせるためにこの世に降りてきている天使だと信じている。ずっと付きっきりでいないと立つことも出来ない子供がいる。その子を支えている人は、その子の面倒を見るという菩薩行をすることによって、聖書的に言えば、「天に宝を積んでいる」のである。逆説的なようであるが、天の価値観においては、「与える者が得、奪う者は失う」のである。
そんな難しい理屈は抜きにしても、いつも思うんだけど、養護学校や特別支援学校の子ども達って、普通の子ども達よりずっとすれていなくて純粋なんだ。演奏している最中に、確かに突然大声を出したり、体を揺らしてカタカタ音を出したりするけれど、みんな体で表現しているのだ。彼らは表現していることで自分が生きていることを主張している。でも、本当は僕達だってそうさ。みんな、それぞれの形で生を謳歌しているし、その権利があるのだ。
これで30人の合唱団が来て大声を出したら、彼らもまた負けずに大声を出したりカタカタさせたりするのだろうけれど、先生達、気を遣わなくてもいいですからね。僕達はみんな分かっていますからね。僕は、前回の旅の時、訪問する全ての学校が特別支援学校でもいいとさえ思ったほど、彼らのところで演奏をするのが好きなのだ。
スパカツと爆弾低気圧
さて、ワークショップが終わった後、例のワゴンタクシーで釧路空港まで移動するが、途中海岸線を走る道路で、海から吹き付ける強烈な風に煽られ、横転するのではと本気で心配した。こんなんで今日飛行機が本当に飛ぶのだろうか?と誰しもが思う。なにせ最近流行の爆弾低気圧なのだ!
その風雨の中、道沿いのドライブインで昼食をとる。レストランの窓からすぐそばに砕け散る海岸線の波が見え、今にもこの店を呑み込みそう。今ここに大地震が起きて津波が襲ったらひとたまりもないな。
さて、釧路には、新鮮な魚介類の他に、有名なB級グルメがある。それはスパカツと言われるもの。スパゲティの上にとんかつが乗っていて、その上からドロドロとミートソースがかかっている。見た瞬間、
「うわっ!」
と思うが、味は見た目よりはさっぱりしていておいしい。
そのレストランでは、他に分厚い肉が何枚も乗っている豚丼もあって、そっちを食べている人もいたが、僕は定番のスパカツを食べました。これ、どう考えてもカロリー・オーバーです。
空港に着いた。いちおうチェックインは出来て、荷物は預けられたが、とりあえず出発は1時間遅れで、羽田から来る飛行機が釧路に着陸出来ない場合、飛ぶ飛行機がないので欠航になる可能性があると告げられた。
どうしよう。まあ、僕は、次の日の午後の「タンホイザー」と夜の「アイーダ」の練習に間に合いさえすればいいので、明日の朝にさえ飛べば仕事には支障ないが、志保は明日は本番でピアノを弾かなければならない。みんなそれぞれに困るなあと言っているが、もの凄く困っている顔をしている者はいない。
その内に誰かが、
「こうしているのもなんだから、売店でサッポロ・クラシックを買ってきてみんなで飲もう!」
と言い出して、僕もうまそうなチーズを買って、みんなでつまみを分け合って、プチ宴会が始まった。このまま飛行機が飛ばなかったら、夜まで続きそうなこの宴会。でも、しだいにまったりしてきて、僕もいつしか眠り込んでしまった。
夢の中に突然大きないびきの音が乱入してきた。びっくりして起きたら、自分のいびきだった。突然の大きないびきとそれに反応している僕の態度との両方が面白くて、みんな大笑いしている。嫌だなあ。恥ずかしい!
「ただ今、羽田からの飛行機が到着しました!」
という声が、まるでガブリエルの吹き鳴らずラッパのように、空港中に響き渡った。やったあ!東京に帰れるぞ!
途中揺れることを覚悟していたけれど、ほとんど揺れることなく、いつもよりもずっと静かで快適なフライトだった。東京に着いたら、釧路の悪天候など夢だったでしょうといわんばかりに、穏やかな天気。まるで竜宮城から帰った浦島太郎のよう。
なんだかんだで、実りのある楽しい旅だった。また2月に行くんだ、北海道!