「タンホイザー」に明け暮れた先週

三澤洋史 

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また風邪を引きました
 京都ヴェルディ協会「ファルスタッフ」講演会の後、新年会をして御所の前のパレスサイド・ホテルに泊まり、朝起きたら喉が痛かった。「あっ、また風邪か」と思って、東京駅のドラッグストアで市販の風邪薬を買った。すぐ治るだろうと楽観していたが、全然治らない。市販の風邪薬を使い切ってしまうことなど初めてだった。

 おかしい。これまでの僕だったら、扁桃腺の炎症から始まった風邪なら、ガッと熱が出たりはするけれどだいたい数日で完治する。こんな蛇の生殺しのような状態で引き延ばされるようなことは決してなかった。今回は、それどころかゆるやかにしかも確実に悪化してくる。それは僕にとてつもない恐怖感を与えた。まるで見えない敵に四方からじりじりと包囲されているようだ。
 思いがけなく「タンホイザー」の練習がトリとなり、一日自由になった1月11日金曜日の午後、病院に行った。その日が風邪のピークだったが、今はそこでもらった抗生物質のお陰で症状はおさまっている。
 やっぱりおかしい。そして、(昨年の11月の風邪もそうだったが)抗生物質やステロイドの世話にならないと治らないというのが悔しい。何故なら、自分の中の自然治癒力というものが確実に落ちているのを感じるからだ。
 それが歳なのだと言ってしまえばそれまでだが、それだけではないような気がする。
「タンタンが死んでから、どうも生命力が落ちたような気がする」
と家族に冗談半分に言ったら、妻が真顔で、
「そうなんじゃない?」
と同意した。ヤだなあ。本気にしないでよ。それとも放射能のせいで抵抗力が落ちた?それともアセンションが始まっていて、高次の世界に引き上げてもらう方ではなく、淘汰される側に回ってしまった?いずれにしても、なんだか情けない気がするんだよ。

 その一方で、薬学の進歩に驚くと同時に感謝する。人類はだてに進歩しているわけではないんだね。病院で指示された薬を指示されたように飲んでいれば治る確信があるもの。今飲んでいる薬のひとつはジスロマックという抗生物質。3日間飲み続けると7日間効くというもの。こうした抗生物質は、中途半端に飲むとかえって病原菌が抵抗力を備えてしまうので、与えられた薬は飲みきるように言われている。これを病原菌における薬剤耐性の獲得という。なので、完全に死滅させないと人類のためにならないのだ。おお!僕の飲み方が、なんと人類全体に影響を与えるのか!
 風邪を引いたらペニシリン、熱や頭痛にはアスピリンという時代からなんと隔たっていることか。もうベラ・チャスラフスカの技ではオリンピックには勝てないのと一緒だ・・・・って、話が随分古い!ともあれ、薬学もここに至るまで沢山の試行錯誤と実験とが繰りかえされてきたに違いない。科学の進歩万歳!
 それと僕が驚くのはね、様々な症状に対する様々な物質から抽出し構成した薬物を、全てあの錠剤やカプセルという形式に閉じ込める技術が凄いね。しかも「錠剤20個飲め!」ではなく、子供は1錠、大人は2錠とちょうど飲みやすい状態にまで凝縮してあるわけだろう。漢方薬でさえ、「根っこを一本かじれ」ではなく、すっきりと袋に入った顆粒状になっているじゃないか。ここにだって人知れぬ努力があったと思う。

さあ、今週はもう新たに行動を開始しないといけない!風邪を引いている場合ではないんだ。頑張ろう!

ワーグナー・ヴェルディイヤー2013年の幕開け
 歴史というものは面白いもので、バロック期における2大巨匠であるバッハとヘンデルが、共に1685年に生まれているかと思うと、ヨーロッパのオペラ史を飾るドイツとイタリアの二人の巨匠ワーグナーとヴェルディが、共に1813年に生まれている。そして今年はその生誕200年を記念して各地でワーグナー及びヴェルディの催し物が目白押しである。
 この二人の作品は共にその規模も内容もとてもヘビーであるので、おいそれと上演するわけにはいかないのであるが、我が新国立劇場でも「タンホイザー」に続いて例のゼッフィレッリ演出の絢爛豪華な「アイーダ」公演が待っている。テレビをつけると、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の「ニーベルングの指環」が放映されている。
 メトのリングは楽しいな。変な読み替えがないストレート・プレイの演出だけれど、物語の本質は決してハズさないで伝えているし、なによりワーグナーの音楽を殺さないでハイテクを使った良い意味での極上のエンターテイメントとなっている。これがディズニーやハリウッド映画を初めとするアメリカ文化の良い面だ。ドイツなんかもさあ、もう不自然な読み替え演出やめようよ。何の実りも生み出さないものが多すぎるよ。

 京都ヴェルディ協会では、昨年までオペラ研究家の永竹由幸(ながたけ よしゆき)氏が理事を務められていたが、残念ながら急逝してしまった。そこでなんと僕の所に永竹氏の後をついで理事を務めるように要請が来た。
 ええっ?あんなイタリア語ペラペラで何でも知っている永竹氏の後釜なんてとてもとても無理と辞退しかけたが、永竹氏には学者らしくないのでお願いしたのだけれど、その永竹氏が亡くなってしまった今、他に頼みたい人はいないのだそうだ。京都ヴェルディ協会の人達は学者の重箱の隅をつつくような話は嫌いで、僕のような現場の人間にこそ生きたオペラの話を聞きたい・・・etcの話におだてられてすっかり気を良くして、気が付いたら引き受けてしまっていた。
 1月6日の「ファルスタッフ」講演会はその京都ヴェルディ協会理事就任最初の講演会だったので、それにふさわしい内容のものを提供しなければと、何だかとても緊張していた。結果として、まあそれなりの話は出来たし、会場の雰囲気はとても良かったし、これからある程度定期的にヴェルディの音楽について考える機会が与えられたのは自分にとっても嬉しい。その内容についてであるが、予稿集に講演内容をアップしたので、興味のある方はご覧になってね。
さて、その一方のワーグナーに関しては、次の項で触れる。  


「タンホイザー」に明け暮れた先週
 1月7日の朝、京都から東京に戻り、喉の痛みを我慢しながら「タンホイザー」立ち稽古に出る。長年バイロイトで事務局に属しながら音楽祭の演出助手をやっていたシュテファン・ヨーリスと久し振りの再会が嬉しかった。初演時の演出家ハンス=ペーター・レーマン氏の代わりに再演演出家として来日したシュテファンは、二十数年前にバイロイト音楽祭に呼ばれる以前に、レーマン氏の演出助手をしていたそうで、そのレーマン氏は、かつてヴィーラント・ワーグナーの演出助手をしていたということだ。
 指揮者はコンスタンティン・トリンクス君。まだ30台半ばだが、かなりしっかり舵取りをしている。昨年「ラ・ボエーム」以来の再会。今回は合唱が大活躍の作品なので大いに張り切っている。

 手前味噌で恐縮だが、新国立劇場合唱団は、前回よりももう一歩パワーアップしている。昨年の暮れ、第1幕と第3幕の両方の男声合唱(巡礼の合唱)を4つのグループの小合唱に分け、それぞれに自主練習をさせて暗譜で女性達の前で発表をさせた。時にはこうして自分たちで合わせさせるのも効果があるものだ。全体のアンサンブルがより精緻になっただけではなく、立ち稽古になって縦に長い巡礼の列を作る時に、それぞれのグループを生かす配置をしたら、列の前と後ろとでのサウンドのばらつきがなくなった。
 こんな風に合唱指揮者も手を変え品を変えて様々なアプローチをするのだ。どんなに手慣れた演目でも、決してルーティン・ワークに堕してはならない。「ローエングリン」や「ピーター・グライムズ」で一定の成果を上げたら上げたで、聴衆はもっと上を期待してくるに違いないのだからね。僕達の劇場は、日本で唯一の本格的オペラ劇場であるだけではなく、世界に通用するInternational Theatreなのだ。求められるものは限りなく高いのだ。だから、楽しい職場であることは必要だが、決して気楽な職場ではないのだ。
 でも僕は思うな。現在の新国立劇場合唱団のやる気と歌唱能力、身体能力及び演技能力、アンサンブル能力は今や最高だ。欧米の歌劇場がどこも経済難で、合唱団の労働意欲が極端に落ちているこの時勢の中で、一体世界的にどのくらいのレベルにあるのかという事は・・・・僕は知っているが・・・・言わない。言うとゴーマンに聞こえるから。でもゴーマンついでにもうひとつゴーマンかますと・・・・この合唱団はもっともっと良くなりますぜ。

 キャストの中では、領主ヘルマン役クリスティン・ジグムンドソンが、その圧倒的な声と存在感の大きさでトップを行く。またエリーザベト役のミーガン・ミラーの容姿とリリックな声の魅力に惹きつけられる。
 我らがエレナ・ツィトコーワたんのヴェーヌスはキュートそのもの。うーん、僕の思い描くヴェーヌスとはもっとグラマーでムチムチで、淫靡な愛慾生活に明け暮れるという感じだが、かえってこういう可愛いヴェーヌスがいたら、もっと抜け出せないかも知れない。これもアリと思わせる魅力はもとより充分に備えてはいる。

 さて、そんなわけで、先週は「タンホイザー」の立ち稽古に明け暮れた。風邪を引いていても決して目を離せないので、休むわけにはいかなかった。でも正直な話、劇場に行く以外の時間は、他の仕事をストップしてベッドで休んでいたので、いろいろが遅れてしまっている。
 特に残念だったのは、13日の日曜日の名古屋での「パルジファル」の練習を休んでしまった事だ。本当は土曜日の「タンホイザー・オケ合わせ」の後、名古屋に行って泊まり、日曜日の朝からオケ練習と合唱練習の両方をし、さらにソロの花の乙女達が参加するという豪華な一日だったのに、どうしても行ける体力がなかった。くれぐれも残念!

 本当は「タンホイザー」の内容について少し書きたいと思っていたが、風邪で体力がないので、また来週でも書きます。すでに前回の初演時に書いたものが「オペラPlatz」に掲載されているので、こちらの方も読んでみて下さいね。まあ、僕の場合、ワーグナーについて何か言わせたら止まらなくなるので要注意!
 ワーグナーもヴェルディも、オペラの世界にいながらオペラを超えようとした。その二大巨匠がもしこの世に出ていなかったら、表現芸術の世界はなんと寂しかったことであろう。ワーグナーよ、ヴェルディよ、ありがとう!こんな素晴らしい作品達をこの世に残してくれて!



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