シラグーザのネモリーノは凄いぜ!

三澤洋史 

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太陽~健康~感謝~祈り
 朝6時半過ぎ。寒いのでベッドから出るのにちょっと勇気が要る。ヒートテックの下着を隙間なく着込み、スキー帽をかぶり、ジャンバーの襟を立てて戸外に出る。頬にあたる風が痛い。息が白い。ハーッて吹くとゴジラの炎のよう。
 あちらこちら、先日の雪の名残が硬い氷となって道路の隅に残っている。降った時は天使のような純白の美で街全体を清めてくれたのに、今では落ちぶれて薄汚れて卑屈になって、うっかり上を歩く人が足を滑らすのを自虐的に待ち構えている。
 公園の中を歩くと、霜柱がジャリジャリと音を立てて靴の下でつぶれていく。冬の散歩は一種の行(ぎょう)という色合いを帯びている。

 東に向かって歩いている。するといつも突然、まるで当然のような顔をして大きな大きな朝陽が昇ってくる。その瞬間世界が一変する。光が生まれる。全てがぐるんと回り出す。ものみな生に向かって積極的な営みを始める。
 太陽に向かって歩く。陽の光を全身に浴びる。その時いつも思い出す。
「太陽を見よ!」
というシェーンベルク作曲「グレの歌」の最終合唱の歌詞を。
亡霊の合唱などに脅かされる真夜中のひ弱な生。それが圧倒的な太陽の輝きによって生まれ変わる。闇・・・そして光。破滅・・・そして再生。衰退・・・そして生成と発展。この地上に生きとし生きるものが絶えず繰りかえす営み。そのリズムを創りだしているのが太陽だ。
 また、僕の洗礼名の聖フランシスコのbrother sun, sister moon!という言葉も脳裏に浮かぶ。「兄弟なる太陽よ、姉妹なる月よ!」か・・・・・。神様によって共に創られた兄弟姉妹という意味なんだろうけど、なんという偉大な兄弟姉妹だろう。
 キリスト教的世界観からすると、人類こそが神が創った被造物の中で最も高次なものであり、自然はその下に位置するように解釈されるが、こうして太陽を拝みながら歩いていると、人類の方が太陽より偉いなんてとてもとても思えない。対等でもない。あっちの方がどう見たって偉いに決まってる。
 太陽はその圧倒的な熱と光を放出し、そのお陰で、人類を含むこの地上の全ての被造物が生きることを許されているのだ。その無償の愛の姿は我々人類の生き方の模範ともいえる。それを考えると、これはむしろ信仰の対象となるべきものではないか。朝晩大地に両手をついて拝みたい気持ちにだってなるさ。僕も時々歩きながら太陽に向かって両手を大きく広げる。すると道行く人が変な目で見るので、広げた手をただちに折り曲げて、ストレッチしているフリをするんだ。

 風邪がようやく完治して、また散歩が再会出来て嬉しい。生きることがこれほど晴れやかで喜ばしく感じられるとは・・・朝の太陽がこれほど僕の内面に力を与えるとは・・・・。同時に、僕が健康でいる今まさにこの時、様々な病気で苦しんでいる人達が世界に溢れていることに想いを馳せる。
 あの、風邪がなかなか治らなかった時のあせりや、このままもっと悪くなったらどうしようという懸念や、もし仕事も出来なくなったら経済的にどうなるのだろうという不安などを経験して、僕は、病気の中にいる人達の様々な種類の痛みが前よりも少しだけ理解出来た気がする。
 だから僕はそれら全ての人達のために祈りたいと思った。太陽を見ながら思ったのだ。でも、一体どのように祈ったらいいのであろうか?釈迦の説いた「生老病死」という4つの苦は、この世に産み落とされた我々人類にとって避けられないものだ。これは運命なのだ。どんなに受け容れがたくとも、受け容れるしか仕方がない。
 どんな聖人でも、あるいはどれだけお金を積んでも、人は自分の寿命を1秒たりとも延ばすことは出来ない。あるいは医学がどんなに進歩しても、病気がこの世からなくなることはないし、病気の苦しみがなくなることもない。死にゆく者を止めることも出来ない。
 その峻厳なる事実の前に、僕達のどんな祈りが可能なのだろうか?病気をなくしてくださいと祈ることだろうか?痛みをなくしてくださいと祈ることだろうか?命を長らえて下さいと祈ることだろうか?
 分からない。ただ言えることがある。それは、恐らく僕達の一瞬一瞬の命は、「与えられているもの」だということだ。そこに関しては受け身でいるしか方法がない。けれどその一方で、与えられている命は偶然ではないような気もする。もしそうだったら、与えられた命の中で起こることは全て、僕達が「本来的なもの」に目覚めるための比喩なのではないか。

 たとえば僕の場合、今回の風邪を通して、少なくとも病気の人達に対する大きなシンパシーを持ったことは、僕の魂にとって収穫ではなかったか?このように、それぞれの現象を通して、そこから何らかの覚醒を得ることが出来るとしたら、病気とて単なる災難というネガティヴなものではないのではないか。
 まあ・・・人生に起こることを単に偶然の集合だと思っている人にはこの考えは伝わらないかも知れない。また、苦しんで苦しんでその末に・・・その苦しみに耐えたご褒美をもらえるどころか、むしろ死にゆく事しか残されていない人に“希望”を説くのは、かえって侮辱するようであるかも知れない。
 でもやっぱり僕は人生に“意味”を求める。それに人生がこの世だけのものではないと信じている。だから祈りが必要であり、どんな絶望的状況にあっても、「信仰」「希望」「愛」だけは失いたくないと思っている。

 ベートーヴェンも、弦楽四重奏曲第15番イ短調の第3楽章で、Heiliger Dankgesang eines Genesenen an die Gottheit(病気から癒えた者の、神に対する聖なる感謝のうた)として、深いしみじみとした情感を歌っている。
 病から癒えた者には、ある特別な感謝の気持ちが宿るものだ。今、太陽の光さえこれほどいとおしく感じられるこの気持ちを、健康の最中にも、僕は決して忘れるべきではないのだ。

外国人には難しい大通公園?
 毎週金曜日はイタリア語のレッスンに行っている。国立市在住のイタリア人女性Rさんの家で、基本的には個人教授だが、何人で受けても1時間5千円というのは変わらないので、イタリア留学経験のある新国立劇場合唱団バス団員のK君と一緒に受けて、レッスン代をシェアーしている。
 レッスンはフリー・カンヴァセーションで、1時間好きな話題で自由に会話して帰ってくるだけ。だからひとりで受けるよりもふたりの方が持ち込む話題の幅が広がって有意義なのだ。まあ、そうでなくてもイタリア人女性のことだから、しゃべりだしたら止まらない。僕達のレッスンのはずなのに、気が付いたら彼女ひとりでしゃべりまくっていることが多い。だいたい彼女は文法など全く教える気がない。それでいてたまに間違えると、
「それ違うわよ。何やってんの!」
とくるから、うかうかしていられない。

 先日のレッスンでのこと。どういう経路からそうなったか忘れたが、クリスマスの話題になった。日本では、12月25日を過ぎるともみの木を片付けて松飾りの用意をするけれども、ヨーロッパでは、クリスマス・シーズンは1月6日の公現節(顕現節ともいう)まで続いていて、もみの木もその時まで飾る。公現節とは、キリストの誕生を見届けた東方の三人の博士達を記念する日。
 その公現節の日に(フランスが発祥だと思うが)ヨーロッパではある習慣がある。ケーキを焼いて、その中にコインを忍び込ませ、切り分けて食べた時にコインを発見した人のところに幸運が訪れるというものだ。
 Rさんは言う。
「国立のパン屋さんで、それをやっているところがあったのよ。ただコインではなくてセラミックで作ったものをケーキに仕込ませていて、『幸運を運ぶケーキ』として売っていたわ」
「へえ、それってどこのパン屋?」
「ええと・・・言えない・・・」
「ええっ?言えない?」
「piccola stanza・・・・」
「はあっ?小部屋・・・・」
「それそれ!」
「小部屋・・・Kobeya・・・ああっ!もしかして神戸屋キッチンのこと?」
「そう、それがどうしてもうまく発音出来ないの」
「なんで?koを伸ばすだけでいいんじゃない?」
「いやいや、日本語はそんなに簡単ではないのよ。イントネーションも決まっているでしょう。その通りに発音しないと分かってもらえないの」
「ふうん、そうなんだ・・・」
「もっと難しいのがあるわよ。札幌の街の中央にある大きな通り」
「大通公園?」
「そうそう。それをあたしが発音すると『踊り子園』になっちゃう。教わるとその時はいいんだけど、次にまた忘れてしまってうまく言えたためしがない」
「そうかあ。Odorikouenだけだと、どの母音をどれだけ伸ばして、どこにアクセントを置いて、どんなイントネーションで発音して良いか、外国人には分からないわけか」
「特にイントネーションは、書いてある文字からは何の情報ももらえない。でもそれをきちんと言わないと通じない。日本語って、とっても不親切で不便」
 なるほど。大通公園はきちんとしたイントネーションとリズムが要求される。外国人には特にハードルが高いのだろう。譜面で書くとこんな風か。

でも、ふたつ並んだ「おお」はただ伸ばすだけだし、「こうえん」の「う」は実際には「こーえん」のように発音するので、より近いのはこちらの方だ。

 うーん、日本人にはあまりに当たり前で、僕達意識したことなんかないな。でもそういえば、地方に行ってイントネーションが違うので驚く事って少なくない。
「ありがとう」を関東では次のように言うが、

京都とかに行くと、「とう」がとても高く発音され、アクセントもあり、みんなこう言っている。
 
でも名古屋では、むしろ「が」にアクセントが来てこうなる。

 そして、当然のごとく、文字で書けばみんな「ありがとう」にしか過ぎず、外国人は何の手がかりも文字からは得られないわけだ。こんな風に、日本で日本人の中だけで生きていると分からないようなことが、外国人と接していると沢山得られる。それだけでもこうしたレッスンは有意義なのだ。

 今年は、ミラノからスカラ座が来日する。合唱指揮者のブルーノ・カゾーニ氏をはじめとして沢山のなつかしい知り合い達と日本で再会するだろう。だから夏に向かってまたイタリア語の会話力を高めていかないといけない。  


シラグーザのネモリーノは凄いぜ!
 まだ「タンホイザー」の初演の幕も開いていないのに、次のオペラの話をするのも恐縮だが、新国立劇場内では平行して「愛の妙薬」の立ち稽古が開始している。「タンホイザー」のオケ付き舞台稽古とゲネプロの間の1月19日土曜日は、合唱団にとって「愛の妙薬」初回の立ち稽古。今回の目玉はなんといっても「セヴィリアの理髪師」「チェネレントラ」に続いて3度目の来日であるアントニーノ・シラグーザだ。
 「愛の妙薬」のネモリーノは、ロッシーニの主役テノールよりもややリリックなので、ロッシーニほどは魅力が発散出来ないのではないかと勝手に懸念していたけれど、シラグーザの声を一声聴いて、僕は自分の愚かさを恥じたね。
 まず楽器が良い。まるでストラディヴァリウスだ。レッジェーロ(軽い)と言っても、薄っぺらいところはこれっぽっちもなく、豊かで幅広い響きで埋め尽くされ、その音色の美しいこと!また、フレージングや言葉さばき、音楽的説得力の素晴らしさ!限りなく知的だけれど、勿論知性の冷たさなど感じさせるはずもない。そして当然のごとく、コロラトゥーラのテクニックは完璧。どこが難しいの?という感じで、爽やかこのうえない。

 うわあ、これを聴くだけで、オーバーに言えば「生きてて良かった!」と思えるよ。イタリア・オペラは声の芸術というが、本当にそうだなあ!これぞ人間国宝!生ける世界遺産!
 みなさん!シラグーザを聴くためだったら、いくら払っても惜しくはありません!仕事のスケジュールを突然変更して、得意先に恨まれて、みんなから大ひんしゅくをかっても惜しくはありません。一生に一度は聴くべきです。うたの力というものは馬鹿に出来ないのです。
「愛の妙薬」は、新国立劇場で1月31日から2月12日まで5回公演。  


タンホイザーの突っ込み処と本質
 なんでローマ法王はヴェーヌスベルクに行ったタンホイザーを赦さなかったのだ?カトリック信者のはしくれとして言い訳しますが、現実には、わざわざ自分から罪の赦免を求めてローマまで巡礼に行った信者を、ローマ法王といえども、「赦さない!」と決定する権限はないのだ。赦す赦さないということが出来るのは神のみだ。
 まあ、これは、ワーグナーの創作なので、目くじらを立てることではないのだが、そのことでカトリック教会を悪く言われるとしたら、その誤解だけは解かねばなるまい。

 って、ゆーか、僕は僕で、このストーリー展開に自分の想像力を加えてしまうんだ。おそらくこのローマ法王もヴェーヌスベルクを知っていたに違いない。でも神の裁きが恐くて行けなかったに違いない。本当は行きたくて仕方がなかったに違いない。だからタンホイザーが妬ましかったのではないか?でなければ、こんな過剰反応をするわけがない。

「ナヌ?お前、ヴェーヌスベルクへ行っていたのか?懺悔を聞いてやるから詳しく説明しなさい・・・・なになに?酒池肉林・・・・畜生!・・・何?ヴェーヌスってそんなに美人なのか・・・エレナ・ツィトコワたんみたいで・・・・それでそれで?・・・・何?そんなことをしていたんか・・・・(だんだん興奮してきて)・・・・この野郎・・・・」
「へっ?」
「お前、ヴェーヌスベルクでそんないい思いをして、その上さらに神の祝福も得たいだと?ふざけんな!厚かましい奴め!ゼッテー赦さねー!赦すもんか!帰れ帰れ!」
「お願いです!せっかくローマまで来たのに・・・・・」
「他のことはみんな赦されるのだ。でもなあ、ヴェーヌスベルクだけはいけねえ。赦されるワケねーだろうがそんなイイところ!あ、いや・・・そんな神に呪われたところに行って!」
「深く反省しています。もう二度と行きません・・・・それで・・・なんとか赦される方法はないのですか?絶対に駄目なのですか?」
「ホレ、この杖をやらあ!この枯れ木にもし緑の新芽が生えたら赦してやろう・・・・(ケケケ、そんなこと起こるハズねーし)」

と、なんとも性格の悪いローマ法王だね。それでタンホイザーの杖に新芽が生えたことを後で知ったローマ法王は、こう思うのだ。
「何?老木の杖に新芽が生えたあ?ウッソー!なあんだ、ヴェーヌスベルクに行っても神に赦されるんじゃねーか。我慢してソンした。俺も行こう!ツィトコワたん!ツィトコワたん!」

 ところで、ワーグナーの作品に登場する女性には、エルザといいイゾルデといい、不可解な突然死をする人が少なくないのであるが、エリーザベトほど不可解なヒロインはいないんじゃないか。
「祈って祈って・・・そして・・・死にました」
ええっ?て感じだ。何?「祈り死に」?
 そしてエリーザベトの祈りによってタンホイザーは救われる。なんと奇特な女性!もうエリーザベト一筋になったのだから絶対にヴェーヌスのところになんか行かないというのならともかく、歌合戦で群衆の前で(もちろんエリーザベトの前で)ヴェーヌス讃歌を歌ってしまう裏切り男タンホイザーを庇い、さらに救われる直前にもヤケになってまたヴェーヌスを呼んでしまうダメ男のために死ぬのだ。そこまでする必要あるのか?こんな奴をまんまと救わせてしまっていいのか?エリーザベトの自己犠牲は本当にタンホイザーのためになるのか?むしろ犬死にではないのか?こんな風にこれだけワーグナーに傾倒しているワグネリアンの僕でさえ、実際に舞台上で観ていると、タンホイザーという人物像にシンパシーを感じる事は難しい・・・・。

 では、タンホイザーのストーリーは文学的に駄作なのかという事だが、それについては別の角度から言いたいことが二つほどある。実はここからが本日の本題だ!まずひとつは、ワーグナーの全ての作品に当てはまることだが、台本と音楽は切り離して考えられないということだ。台本と音楽の両方から成るワーグナーの作品は、両者合体した形で味わうべきである。
 その上で言いたいもうひとつのことは、この作品をワーグナーは最初「ヴェーヌスベルク」というタイトルにしようと思っていたことだ。つまりテーマは、芸術とエロスとの関係なのだ。それ故に、芸術家は社会の因習から抜け出していなければならないし、エロスと近いところにいて創造の火花を弄び、そこから作品をこの世に生み出していかなければならないとワーグナーは言いたいのだ。たとえその火花によって焼かれるリスクを負ってでも・・・・。そのエロスの火花がヴェーヌスに象徴されるのである。
 それでいて芸術家は清らかなものにも同じようにあこがれる。その清らかなものの象徴がエリーザベトである。「パルジファル」のクンドリがそうであるように、ワーグナーに登場する人物にヴェルディのようなリアリティを求めてはいけない。ヴェーヌスとエリーザベトを“女性の持つ二面性”という風に解釈することも出来るかも知れないが、僕はむしろそれよりも、この二人を“芸術家が追いかけるべき二つの異なった世界”というように解釈したい。

 「タンホイザー」という作品が持つ哲学的背景を知らないで、ストーリー展開だけ追っていくならば、この作品は隙だらけの陳腐なものとしか映らないであろう。だが、この作品こそ、実はワーグナー・ワールドの神髄に最も近い「宇宙の秘密」を含んでいるのだ。だからこそ、ワーグナーの中で「タンホイザー」は最後まで完成されなかったのだ。テーマが大きすぎて作曲家といえども扱いきれなかったのである。おそらくそのテーマは何人なりとも扱いきれないものなのだ。
 つまりワーグナーはパンドラの箱を開けてしまったのだ。それから比べると、その後の全ての作品において、ワーグナーは、世界における一面的な真実のみを掘り下げて表現することで、作品の完成度を高めることに成功しているのだ。

最後にもうひとつだけ言おう。

神の創造とエロスはとても近いところにあり、天地創造はエロスの持つ“戯れの精神”によって成されたのである。「タンホイザー」はその創造の秘密に迫ろうとした、なんとも向こう見ずな稀有なる作品である。



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