コンピューターなしの生活
北海道に出掛けるために家を出る1時間前、ノートパソコンの電源を入れたら、ACアダプターの線が疲弊して針金がむき出しになって断線していた。あわてて家にあった他のACアダプターをつなごうとしたが、パソコン本体を結ぶコネクターの形状はどれも違っている。僕のノートパソコンは通信販売でしか買えないEPSON DIRECTなので、恐らく札幌のヨドバシカメラあたりで探しても、市販のACアダプターでは合わないだろう。
つまり今回の北海道旅行ではパソコンなしで過ごさなければならないことが決定してしまった。うーん、不便だなあ。
ところが、旅行中全然不便を感じなかった。メールだけは、札幌京王プラザ・ホテルのロビーにあるパソコンでWEB上からひろった。一流ホテルだけあって、パソコンを使うのも15分間100円となかなか良い値段する。とてものんびりネットサーフィンしたり原稿書いたりする気持ちになれない。せめてひろったメールに対して最低限の返事を書くだけ。2日目の夜に200円遣い、3日目の夜に100円遣った。こんな風にディスプレイをほとんど見ていないので、4泊5日の旅が終わる頃には、首のあたりの万年コリがとれたし、気のせいか視力が良くなったように感じられた。パソコンなんて、なければないで生活出来るのさ。
とはいえ、ワーグナー協会の原稿は全く進んでいないので、今週中に集中して仕上げなければならない。それより、僕のノートパソコンはもう10年近く使っているXPだ。これまで壊れなかったのが不思議なくらいな骨董品。ACアダプターを注文して安くないお金をかけてもなあ・・・・もうXPのサポートも終わるし・・・・と、また予想外の出費が目の前にちらついてきた。
ち、近い!スキー場
札幌のホテルに着いたのが11日月曜日の午後5時前。それからすぐに荷物を解いて僕は地下鉄に乗った。大通りで乗り換えて東西線に乗り、3つめの円山公園で降りる。そこからばんけいスキー場行きのバスに乗った。
もうあたりはまっ暗。一面雪に覆われているけれど、道路だけは雪がなく白い湯気が立っている。道路がヒーティングされているのだそうだ。除雪や他の暖房も合わせて北国ではこうした公共費用が馬鹿にならないのだろうな。それより、スキーといえば、これまでは早朝から滑って午後には引き上げるというのが習慣だったから、こんな夕方にスキー場に向かうのが不思議だ。
ばんけいスキー場の山小屋風のロッジには無事スキー板と靴が届いていた。なんとなく素朴なスキー場だが、その当たり前の感じがいい。だって円山公園から20分足らずでもうスキー場だよ。バス代はわずか200円だって。札幌駅から円山公園まで地下鉄で240円だから、ホテルから440円でスキー場に来れるんだ。夢のような話だ。セット・ロッカーは1日300円で、3日間借りても900円。一度鍵を預かったら、その間はいつでも使える。ナイターは22時までやってる。リフト券は18時から借りて、なんと1500円。えーと今晩の出費は、交通費を合わせて2840円。ええっ?安!
ゲレンデはテイネ・スキー場や国際スキー場などのように広大ではないが充分な広さ。雪質はサラサラなパウダースノウ。僕はとても大事なことに気が付いてしまった。スキーというものは、このような雪質のゲレンデで滑るように開発されたものなのだ。スキー板やビンディングやブーツなどが音楽でいえば楽器に相当すれば、ゲレンデの雪質は音楽ホールだな。つまり、どんな素晴らしいストラディヴァリウスを持っていても、3畳の部屋で練習していては、その楽器の特性を充分に引き出せないだろう。良いホールで無理なく豊かに響かせるコツを覚えることで演奏者は上達するわけだ。
滑り始めてただちに滑走感の違いに気が付く。パウダースノウはスキーのわずかな角づけにも微妙に反応してくる。スピード・コントロールするためにズラすときちんとズレる一方で、体を傾けスキーをたわませると、今度はきれいにカーヴィングのシュプールを描くことが出来る。
初日は6時半くらいから滑り始めて9時前くらいまで滑った。その後志保と待ち合わせして、すすき野の「だるま」でジンギスカンを食べてホテルに帰ってきた。
ばんけいのナイター
白夜の話に聞き入る小学生
さて、30人の新国立劇場合唱団を連れて札幌市内の小学校を回る。僕は指揮だけではなく、おしゃべりをしながら曲紹介をしていくが、学校によって子どもたちの反応が全部違う。たいてい校長先生の性格と児童の雰囲気とが似ている。
シベリウスのフィンランディアの曲紹介の時、
「私は一度夏にフィンランドに行ったことがあるんですけど、フィンランドという国ではね、なんと夜が来ないんです。昼間しかないんだよ」
と言うと、たいてい、
「えーっ?」
と目を丸くして驚くのだが、その驚き方でその学校の雰囲気が分かるのだ。そのままふざけ始めちゃって先生が慌て出す学校もあれば、とっても控えめに反応していながら、実は心の深いところでそれを受けとめている学校まで本当に様々だ。
「反対にね、冬になると今度は昼間がないんだよ。真っ暗闇から夜明け前の薄明るい状態まで・・・そのままお日様が出ないでまた暗くなっちゃう」
「ええー?ヤダー!」
そんな時の彼らの輝いている眼を見るのが好きだ。
僕は演奏をするために生まれてきた人間だから、コンサートで演奏をしている最中というのが人生で最も輝いている瞬間だと思うけれど、その中でもこうした子どもたち相手に演奏している瞬間が一番しあわせを感じるのだ。
メシより好きなスキー
2月12日。東札幌小学校のコンサートの後、ホテルに1時半過ぎに帰ってきて、また昨日のように急いで着替えて円山公園に向かう。円山公園のバスターミナルに焼きたてパン屋がある。そこでパンを買ってバスの中で食べる。これが昼食。どんな時でも食事だけはきちんと食べないと気が済まない僕としては、例外中の例外。いよいよスキーがメシより好きという境地になってきたようだ。そして午後3時前から再びばんけいスキー場で滑走。
懇親会
ばんけいから見た札幌
良い指揮者に必要なのは勇気
さて釧路では作曲家の泉史夫君に再会した。彼の車でホテルから彼の家に行って、保育士出身だというやさしそうな奥さんにお会いして、彼の仕事部屋に案内された。僕の部屋よりずっと広くて立派な音楽室。いいなあ、東京ではこういうわけにはいかないなあ。
泉君が一通の手紙を僕に手渡した。
「これ、整理していたら出てきたんですよ。三澤さんがベルリンから僕に送ってくれた手紙です」
「ええっ?見てもいい?」
急いで中身を開く。ベルリン芸術大学の授業が秋から始まって一段落し、年が明けてから妻と二人でハノーファー、ツェレ、ハメルン、ブレーメンに小旅行した後に書いた手紙。授業の様子や、学生達の雰囲気などがかなり細かく書いてある。
「他のドイツ人学生達は、案外たいしたことないです」
なんて生意気なことが書いてある。でも、その時はその時で一生懸命やっていたんだなあと思って、泉君には見せなかったけれど、実はかなりウルウルとなっていたのだ。
約束通りレッスンを開始した。彼は、予想していたよりも(失礼!)ずっとしっかりとしたテクニックで振っていた。毎週釧路交響楽団の練習に通っているということで、オーケストラの機能には慣れている感じがした。
ただ、これは泉君だけではなく、プロも含めてオケを振り慣れている人全てに言えることであるが、オケに分かり易く振ること、あるいはオケとうまくやることをもって良い指揮であるとは限らないという事実がある。
特に「振り分け」に関していうと、「振り分けないでも出来るけれど、あえて振り分けた方が良い」箇所があるのと同じくらい、「振り分けた方が良いように思えるけれど、あえて振り分けない方が良い」箇所がある。この辺の見分け方が難しい。
ある箇所で、泉君が振り分けていたのを見た僕は、こう指摘した。
「そこはオケがズレるんじゃないかと心配になって振り分けてしまいがちな所だけれど、そこを振り分けてしまうと、リタルダンドが自分の意図したよりもかかり過ぎてしまいがちになるよ。リタルダンドの運動だけ明確に示して、あとはオケの中で自分から合わせさせた方が良いよ」
さらにこうも言った。
「指揮者の中に不安があると、オケはそれを敏感に察知してしまうんだ。ここは振り分けないでいくと決心したら、とにかく自分に自信を持って、このテンポ設定の中で合わせさせる。勇気が要るんだ。振り分けない勇気。親切に振り過ぎて、結局自分の思惑から外れてしまうことのないようにする勇気。指揮者にはね、勇気が要るんだよ」
オケと指揮者がとてもうまくいっていると思っていても、そこにとどまっていてはいけない。一度指揮者がその互いの密な関係を断ち切ってでも、もうひとつステージの高いアプローチをすると、オケも確実に変わる。変わらなかったら、変わるように導く。
アマチュアのオケだけに通用する指揮者というのはいるけれど、本当に一流のオケを確実に振れる指揮者の棒にはアマチュアも必ず付いてこれる。いや、付いてこれると信じることだ。そうすれば彼らは「合わせる」ということから飛び立って、音楽の大空に向かって高く飛翔していける。
「これが音楽なんだ!」
と指揮者は楽員達に思わせないといけない。だから、相手がどんなオケであっても、指揮者は一流のオケに通用する指揮をしなければならない。時にはオケを強引に導き、
「へえ、自分たちでもここまで出来るんだ!」
と驚かせないといけない。これこそが指揮者に課せられた義務。
泉君の棒がみるみる変わってくる。なかなか優秀じゃないか。僕は教えながら思った。これまでバトンテクニックはいろんな人から習ったけれど、僕に、こういったサジェスチョンを細かくしてくれる人っていなかったな。このような指揮の神髄のようなことを誰かから教わっていたら良かったな。
たとえば、オケが棒より遅れて入ってきた時に、すでに上がってしまった手をどうするか、なんていうのも、指揮の授業では問題にならないけれど、一度オケの前に立ったらしょっちゅう起こることだ。では、どうすればいいか?うーん・・・ひとことでは言えないのだよ。だったらこうした様々な上級編のノウハウをいつかまとめて原稿にしてみようかな。たとえば夏休みとかに「今日この頃」をちょっとお休みして、まとめて時間を作って作ってみようかな。そして、どこかに売り込みに行って本にしてもらおうかな。
釧路の泉宅
王将のおでんと焼き魚
レッスンの後、タクシーを呼んで再び街に繰り出す。今回行ったのは、釧路の繁華街にある王将というおでんと焼き魚の店。
おでんがおいしかったのは言わずと知れたことだが、釧路名物の「やなぎカレイ」と「こまい」という魚の焼いたものが絶品だった。本州にはこんな魚いないな。普段あまり日本酒を飲まない僕だが、こうなったら日本酒しかないでしょう。二人で指揮について作曲について様々なことを語らいながら、気が付いてみたらかなり日本酒が空いていたぜ。
白糠養護学校
2月15日金曜日。晴天だが風がある。釧路から白糠(しらぬか)に向かう途中の海岸に打ちつける波の高さに驚く。いまにも呑み込まれそうではないか。日本海とはまた全然違う、極寒の北国の海辺の風景。
釧路の海
白糠養護学校にて
いわきの現実
こうして、音楽的にも精神的にも充実し、達成感をもって東京に帰ってきた。すると妻がなんとなく沈んでいる。実は、僕達が北海道に行っている間に、妻はボランティアでいわき市の方に行っていた。そこで、住民達が抱いている閉塞感を目の当たりして、彼らに同化しているのだ。それはこういうことである。
ひとつは、3.11の地震と津波、及び福島第一原発の事故によって被災した人達の間に微妙な温度差が生まれているという。原発から近い大熊町の雇用促進住宅に暮らすある女性は、津波によって家を失った人に、
「大熊町の人は東電から賠償金をもらえるんだから、うらやましいわね」
と嫌味を言われたという。また市内の仮設住宅に止められた高級乗用車7台が、窓ガラスを割られたりペンキをかけられたりしているそうだ。妻もフロントガラスの割られた車を見た。こうした原発被災者に対する風あたりは、ここにきて広がってきて、収まる様子も見せないという。
福島の人達の中に、これまで原発のお陰で生活が成り立っていた人達がいたのは事実だが、その人達は必ずしも加害者というわけではないだろう。むしろ今となっては被害者的側面の方が大きい。さらに、その原発が廃炉になるに際しては、廃炉にするための作業をする人材も必要だ。こうした廃炉に関わる人達に対しても、様々な種類の差別やいじめのようなものが今後ますます起きてくることが予想されるという。
さらに、政府や自治体の対応だ。今、福島第一原発の中間貯蔵施設の候補地などが検討されているが、政府は最終処分場の候補地などをボカしている。「30年後に県外で最終処分したい」などど馬鹿なことを言っているのだ。まず「30年後に」と言っているということは、これから30年間は住めないということだよね。
そのことについては、僕などは最初から分かっていたし、この「今日この頃」でも書いていたけれど、ではどうしてもっとはっきりと言わないのか?また、「県外で最終処分」なんて無理に決まっていることをどうして言うのか?放射性でないガレキの受け容れさえ抵抗があるというのに、いったいどこの県が、使用済み核燃料も含むおびただしい放射性廃棄物を受け容れてくれるというのだろうか?
妻はこうした事実に直面して、
「日本人って本当に情けないわね!」
とため息をもらす。とはいえ、彼女が大熊町と楢葉町で出前カフェのお手伝いをして、被災地の人達と一緒に手芸をしていたことは確実に喜んでもらっているわけであるから、失望と無力感だけ抱いて帰って来たわけではない。勿論彼女にも彼女なりの達成感や充実感はあるのだろう。こうしたボランティア活動に興味のある方は、このホームページにアクセスして下さい。
上神白出前カフェと下矢田鹿島出前カフェの写真の中に、目立たないように妻の姿があります。
僕のやっていることと妻のやっていることは、ふたつ合わさってひとつになるような気がする。音楽の素晴らしさをみんなに与える事に罪悪感を感じる必要はないし、それが価値あることであるのは疑わないが、一方で、苦しんだり悩んだりする人達の苦しみを分かち合う行為こそ、人間として価値あることだと思う。うーん、やっぱり、そっちの方が3倍くらい素晴らしいことのように思える。
妻を見ていたら、なんだか自分だけがハッピーになって帰って来て馬鹿みたいでした。スキーがとても楽しかったことは、ごくごく控えめに妻に伝えました。でもやさしい彼女は、僕のことをとがめることもなく、
「よかったね」
と言ってくれました。