この世からの訣別~アイーダ無事終了

三澤洋史 

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桜!
 冬が舞い戻ったような凍り付く日々が続いたお陰で、桜が満開のまま一週間もった。こんなことも初めてだ。でも寒いので、桜は散らないでいたとしても、戸外に出てのほほんとお花見の気分でもないんだよね。それに、桜のほんのりピンクな艶やかさは、なんといっても抜けるような青空の下でこそ際立つというのに、ずっと灰色の雲の下でピントの合わないファインダーを覗いているようなもどかしさがあった。

 これを書いている4月1日月曜日の朝は、久し振りに快晴。早朝散歩ではらはらと散りゆく桜の中を歩く。晴れたら晴れたで、今日一日でどんどん散っていくのだろうな。なんてデリケートな花!その美しさと隣り合わせになったはかなさを味わうために、全国至る所に、他に何の役にもたたない桜の木を植えまくる日本人の感性よ!でも、今年はそんな日本人に対して、自然がさりげなく意地悪な気がする。

 あと何回桜が見れるのだろう?と毎年思う。この世の中なんて、僕達が本来帰る世界から比べて決して良い世界であるとも思えないのだが、花見にまつわる淫靡ともいえる耽美的感覚は、諸行無常の世界の中でこそ味わえるものだ。あの世にも桜くらいあるだろうが、この花だけは、永遠性の中では逆に何の価値もなくなってしまうものなのだ。

時よ止まれ!君は美しい!

これこそ現世に生きている証(あかし)!  


この世からの訣別~アイーダ無事終了
 「アイーダ」第4幕で、祖国を裏切ったラダメスを糾弾する神官達の合唱を、客席後方の監督室から懐中電灯で指揮していた時、僕の横にいた舞台監督のOさんがポツリと言った。
「なんで最後の方になるとこんなにフラットが多いんでしょうね?」
第4幕はフラット2つのト短調で始まるけれど、すぐにフラット6つの変ホ短調になる。それからいろいろ転調して、終幕ではやはりフラット6つの変ト長調で終わるのだ。

 僕は、ちょっと考えてからこう言った。
「あの世でしょうね・・・」
Oさんはびっくりして、
「えっ?」
と聞き返す。僕はさらに続ける。
「変ト長調は嬰ヘ長調でもあって、フラットもシャープも共に6つです。真昼の明るさを持つハ長調から最も遠い調性です。つまり現世から一番離れた調性であって、要するにそれは彼岸の調性です。ここでヴェルディは『あの世』を表現したかったのでしょう」
「・・・・。」

 この頃のヴェルディの作品の中に、僕は「この世からの訣別」と「死への接近」を強烈に感じる。それは「ドン・カルロ」のフィリッポのアリア「一人淋しく眠ろう」などにも現れているが、なんといっても「アイーダ」終幕にその色は濃厚なのだ。この最後のラダメスとアイーダの2重唱のメロディーの非凡さよ(譜例)。


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Aida音源


 移動ドで読むとドシドといきなり長7度の跳躍で始まり、その後ソドファ#ラと増4度の音程をまじえながら進行する。こんな不思議なメロディーは、ヴェルディの他のオペラにはない。また、ストーリー的にも、地下牢に閉じ込められた恋人達の静かな死などというものは、これまでのヴェルディのオペラの結末には決してないものであった。
 敵同士の祖国を背負い、今生では決して結ばれることの赦されないアイーダとラダメスの二人は、死を自主的に希求する。ラダメスは、自分の命を救おうとするアムネリスの要求を断って自ら死刑の宣告を受け容れ、アイーダはラダメスの入る地下牢に潜んでいる。二人の希望は来世に・・・・変ト長調のメロディーには彼岸の響きが鳴り響いている。
O terra, addio; addio valle di pianti...
Sogno di gaudio che in dolor svanì...
A noi si schiude il ciel e l'alme erranti
Volano al raggio dell'eterno dì.
おお、地上よ、さようなら
涙の谷よさようなら
苦悩の中に消え去った悦楽の夢よ
僕達には天の扉が開き
解き放たれた魂は
永遠の日が発する光に向かって飛翔していく
(三澤洋史 訳)
 「アイーダ」は、絢爛豪華なスペクタクル・オペラという面を持ちながら、実は、死の匂いのする稀有なる作品なのだ。それを強調するように、ゼッフィレッリの演出では、ラスト・シーンにロウソクの火を使い、最後の和音が終わってからも暗闇に明かりが余韻を残している。素晴らしい舞台処理だと思う。
 こういうソツのない成熟した舞台を見てしまうと、最近流行の「読み替え」だの「設定変え」だのの舞台が小手先だけのチャチいものに思えてきてしまう。頭で考えて、「あっ、そうか!」ではなくて、もっと本質的なものに僕達を連れて行ってくれるものでなければ、芸術って価値がないのではないか。
 あの象形文字に溢れた柱や、数々の像や、古代エジプトの衣装などが、そのままで僕達に「永遠性」を感じさせてくれるからこそ、聴衆は高いお金を払ってでもオペラを観に来てくれるし、僕達音楽家の存在意義もあるのだ。
 僕達は常に「贅沢」や「無駄遣い」という言葉を背中に背負い、これに対峙するものを打ち出していかなければ、芸術は現実主義につぶされてしまうのだ。

 新国立劇場の「アイーダ」公演無事終了。僕の魂にとって充実した日々であった。さあ、今晩からNHK交響楽団定期のためのヴェルディ「レクィエム」の合唱練習が始まる!
指揮はセミョーン・ビシュコフ。
4月19日金曜日19:00と20日15:00。
NHKホール。
 「レクィエム」も「アイーダ」の後に書かれた作品であって、同じような匂いがする。しかもこれは「レクィエム」というくらいだから、まさに死をテーマにした曲だ。昨年、志木第九の会の演奏会で指揮するために、愛犬タンタンが死んだ直後にスコアの勉強をしていたのを、昨日のことのように思い出す。この曲の彼岸の響きに魂が同調してしまって、ヤバい感じだったのだ。
 もう1年近く経っているので、そうはならないとは思うけれど・・・・大丈夫かな?練習していながら悲しくなって泣いちゃったりしないかな?あるいは、魂があっちの方にイッちゃったりしないかな?

ちょっと心配です・・・・。

翻訳の限界~話せば分かる?
 先週に引き続いて、太田達也著「ドイツ語おもしろ翻訳教室」(NHK出版)からの話題。ドイツ語は、「生き物でないもの」が主語になることが多い言語だ。この本の中でタカシ君が、
「風邪じゃないんですけど、なんかこう、天気もぱっとしないし、体調がいまいちです」というと、O先生は、
「Das Wetter macht dich krank.ってわけか」
と言う。つまり(天気が君を病気にする)ということである。
タカシ君はあわてて、
「いや、そんなに天気を悪者にしたつもりはないんですけど・・・・」
と言うが、ドイツ語ではこういう言い方をすることがとても多い。相手が生きているわけではないので、どんどん悪者にしてしまえるわけだ。

Sein Verhalten ärgert mich.(彼の態度は私を怒らせる)
この文章はいかにもドイツ語的だ。日本人だったら、
「ヤツの態度にはアタマに来るぜ」
と言うだろう。
「アタマに来る」という言葉は不思議な言い回しだ。だいたい主語がないぞ。何がアタマに来るのだ?うーん・・・・あっ、そうか。「怒り心頭に発す」というくらいだから、怒りがアタマに来るのかな。でも、
「俺はアタマに来たぜ」
とも言うから、自分か?いずれにしても文章として不完全だなあ。
その点、ドイツ語は論理的だ。sein Verhaltenつまり「彼の態度」が主語となって、自分の神経を刺激し怒らせるわけだから、原因も行為の及ぶ先もはっきりしている。

Dein Besuch hat mich sehr gefreut.(君の訪問は僕をとても喜ばせた)
は、日本語的には、
「来てくれてとてもうれしかったよ」
で良いわけだ。この日本語では、文章だけ読んだら、「誰が来て、誰が喜んでいるか」ちっとも分からないが、来てくれた相手に対して、自分が面と向かって言う場合には、これで充分なのだ。
 でも、もし主語やその相手が変わったら、日本語の場合文章全体を変えないといけない。ドイツ語だったらそのままの文章に人称代名詞をあてはめるだけで事足りるのに・・・。
Sein Besuch hat sie sehr gefreut.(彼の訪問は彼女をとても喜ばせた)
ほら、文章そのものは全く同じでしょう。一方、日本語になるとこんな風に変わる。
「あいつが訪ねて行ったことで、あの娘すごく喜んでいたよ」
この場合には「あの娘うれしかったよ」は使えない。「うれしがっていたよ」は使えないことはないけれど、なにか失礼な感じだ。やはり「喜んでいたよ」だろう。こうした変化を余儀なくされるということは、外国人にとって日本語のハードルがとても高いことを意味する。

 ドイツ語の無生物の主語は、最初とっつきにくいが、一度使い方を覚えてしまうと結構いろんなシチュエーションで使えるので便利だ。
Eine wichtige Familienangelegenheit hat mich davon abgehalten, Ihnen eher zu antworten.
(ある重要な家族の問題が、私があなたにもっと早く返事をするのを妨げたのです~三澤 直訳)
こう言うと、連絡が遅くなったのはひとえに重要な家族の問題であって、「私が悪いのでごめんなさい」というニュアンスはこれっぽっちもないね。こんな時、日本語ではどう言うのかな。
「のっぴきならない家庭の事情により、ご連絡が遅くなってしまいました」
こう言うと、なんとなく申し訳ないという雰囲気が漂っているだろう。それでいて「のっぴきならない」という表現が、事情の深刻さを表現していて、二重に同情的ではないかな。これが日本の文化なのだ。
 でもさあ、ここまで日本語的にこなれて訳してしまうと、その気の遣い方は、もはやドイツ語のオリジナルから離れすぎてしまう。やっぱり、「返事を書くのを妨げたのは家族の問題なのだ」としゃあしゃあと語り、「だから自分は悪くないのだ」と自己チューの態度を崩さないのがドイツ人らしいのだ。
 それは、深刻な事態が起きたら絶対に「アイム・ソーリー」を言わない英語圏の人達と一緒で、そうした文化が無生物の主語を作り出したのだともいえる。だとしたら、それも併せて表現しないと、ドイツ人のあるがままの姿を伝えることにはならないのではないか。

 ま、そんなこと言ってると、永久に翻訳なんて出来ないね。うーん、やっぱりメンタリティが違いすぎるんだ!日本人とドイツ人。この翻訳の攻略本を読めば読むほど僕は分かっちゃったんだ。翻訳の限界!
「異民族は分かり合えない」
という結論を導き出すつもりはないけれど、
「話せば分かる」
と楽観するのも安易のような気がしている今日この頃です。



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